Neetel Inside 文芸新都
表紙

雷帝の遺産
第1章 雷帝、崩御する

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【1】
鈍行列車の窓の隙間から入ってくる冷気に、頬を撫ぜられて若い男は目を覚ました。目に飛び込む雪景色に男は思わず目を輝かせた。彼の故郷と同じ雪景色……。たしかに、この雪は彼の故郷のそれとは違う。しかし、久々に見るその雪は、男の心を故郷への思いに惹きつけた。男は、駅の名前が刻まれた看板を見つめる。そこには、男の目的地の名前が確実に刻まれている。『K駅』と。
望郷の思いに身を馳せながら男は、ここまでの道程を思い起こしていた。新宿から電車を快速、区間準急、鈍行と乗り継ぐこと約三時間。東京の端にあり山梨県に接するこの地に、わざわざ都心部から訪れるようという物好きな人間は、そういない。そんなこの地に、男が訪れたのには訳があった。眠りから覚めたばかりで、少しばかり重い頭を軽く振ると、男は窓際の座席から立ち上がった。
電車を降りると、より強く寒さを感じた。襟足まで伸びた男の髪を冷たい風がかき乱した。身を包むコートしっかりと手繰り寄せながら、男はプラットホームを歩き、改札口へと歩き始めた。田舎の駅であるから、自動改札口なんてものはない。切符は、駅の切符売り場で、おそらく人から買い求めるのであろう。その切符売り場から、一人の老人がゆっくりと出てきた。
 男は、老人が出てくるのを確認すると財布から切符を取り出し、改札に出てきた老人に渡した。老人は、切符を受け取ると鈍行電車が、次の目的地へ向かうために、ホームから滑り出るのをボーっと見送りながら男に問いかけた。
「こんな場所に来るなんてあんたは、変わり者だね」
「はは、よく言われます」
「こんなところに来ても、何もないぞ」
「訳ありでしてね。どうしても、ここに来ないといけなかったんです」
 男の話を聞くと、老人はそりゃ、ご苦労さんと、言って男から切符を受け取った。男は、老人に問いかける。
「あの、轟(とどろき)さんのお屋敷に向かうには、どうすれば?」
 男が老人に聞くと、老人は一瞬体の動きを止めた。男の顔をまじまじと見つめ、ゆっくりとした口調でこう言った。
「あんた……。今、轟さんって言ったか?」
「ええ。たしかにそう申しましたが……」
「すると、あれか?あんた、時田(ときた)弁護士の助手かなんかか?」
「いえ、僕は一介の学生ですよ」
 老人は、訳が分からないというような表情を浮かべ、肩をすくめて見せた。
「あの、轟さんのお屋敷への行き方を教えていただけますか?」
「妙だねぇ……」
 老人は、怪しむような目で男を見つめながら言った。
「何が妙だとおっしゃるんですか?」
 怪訝そうな表情を浮かべる老人を見ながら男はそう聞いた。
「轟さんのところからお迎えが来るんじゃないのか?あれだけの大富豪なのだから」
「いや、その……。僕は、時田弁護士の依頼でこちらに来ているので……。本当だったら、時田弁護士の秘書の方にお迎えに来ていただく予定だったんですがね。生憎、秘書の方が体調を崩してしまわれたみたいでして……」
 老人は、相変わらず怪訝そうな表情を浮かべている。しかし、男の体を隅から隅まで眺めた後、しきりにうなずきながら言った。
「あと、十分もすれば、この駅にバスが来る。そのバスに乗りなさい。そして、終着点で降りれば、轟さんのお屋敷が見えてくるよ。山の中にある、でっかいでっかいお屋敷だ。山の中を三十分も歩き続ければ屋敷に辿り着くだろうよ」
 ぶっきらぼうに、しかしどこか丁寧に老人は男にそう告げた。ありがとうございます、と男は老人に告げた。
「寒いから、バスが来るまで駅の中で待っていたらどうだ?」
 老人は、急に思い直したように言った。男は、にこりと笑うと頷いた。小さなK駅の待合室の古びた椅子に腰かけながら、切符売り場兼駅長室のテレビをガラス越しに眺めていた。
「じじいの食う物だから、こんな物しかないが、良かったら食うか?」
 切符売り場兼駅長室と待合室とを隔てるガラス戸を開けながら、老人は男に煎餅を差し出しながらそう聞いた。
「いただきますよ、ありがとうございます」
 男は、煎餅を受け取ると、袋を開け煎餅に噛り付いた。パリッという音とともに男の口に香ばしい味が広がる。
「二十世紀ももうすぐ終わるね」
 テレビをボーっと眺めていた老人が、感慨深げにそう言った。男は、煎餅を慌てて飲み込むとはい、と言って頷いた。
「誰も彼も浮かれているよ。新たな世紀だかなんだか知ったこっちゃないが、こちらの気持ちも考えてほしいもんだ」
 老人は、独り言のように話し続ける。一言一言に怒りを込めながら。まるで、テレビに向かって、その怒りをぶつけるように強く話続ける。
「戦争で、俺はすべてを失った。何が二十一世紀だ。何が新しい時代だ……。なあ、お兄さんよ」
 男は、何ですかと答える。なるべく、柔らかく聞こえるように。老人は、その表情を見ながら、再び話し続ける。
「俺は、轟さんと同じ場所で戦った。東南アジアの戦場に飛ばされたんだがな。それはひどいものだったよ。地獄だ。本当の生き地獄だ。俺たちの部隊は、あっという間に全滅した。食料もねえ、食えるものは何でも食ったさ。俺は、何度ここで死ぬと思ったことか……。だがな、轟さんのおかげで死なずに済んだ。俺が、死にたいと言う度に、俺にこう言ったんだ。『生きろ!ともに生きて必ず祖国の土を踏もう。嫁の飯を食おう。子供を抱き上げよう』ってな」
 老人は、懐かしそうに話した。しかし、みるみるうちにその目に涙が溜まっていく。
「轟さんよぉ……。何で逝っちまったんだ。何で俺より早く逝っちまったんだ……。まだ、何の礼もしてないっていうのによ……」
 男は、いたたまれない気持ちになり、老人から目をそらさずにはいられなかった。男の心情を悟るかのように、遠くからバスが駅に近づく音が聞こえた。
「バスが来たみたいですね。それでは、僕はこれで。色々とご親切にありがとうございました。それと、お煎餅ご馳走様でした」
 なるべく丁寧に聞こえるよう心がけながら、男は老人にそう挨拶をし、駅の待合室から立ち去ろうとした。
「なあ、お兄さんよぉ……」
 老人は、振り絞るような声で言った。男は、その沈痛な表情さえも目に見えそうな老人の声に、振り返ることができず、ただ、はい、とだけ答えた。
「これから、轟さんのところに行くんだろう?だったら、俺の分も線香をあげといてくれないか?俺がいけるに越したことがねぇが、駅長って仕事はそうも行かねえ。最近になってまたキセルをする奴が出てくるようになってな……」
「ええ、わかりました、必ずあげてきますよ……。必ず」
 男は、そう言い残すと、待合室を出ようとした。その背中に老人が話しかける。
「待ってくれ!あんた、名前は?名前は、何て言うんだ?」
 男は、立ち止まるとゆっくりと振り返りながらこう言った。
「僕は、田島翔二(たじましょうじ)と言うものです。以後、お見知りおきを」
 田島翔二は、そう言い残すと、バスに乗り込み、轟邸を目指した。

     

【2】
バスに乗っているのは、本当にわずかな人々だけで、バスは山道を進むごとに揺れた。バスが、山奥に進むにつれ、乗客は段々と減っていく。何個目かの停留所で、中年の男が二人乗り込んできた。二人とも農作業をするかのような格好をしている。二人は、田島の真後ろの席に腰かけた。
「轟さんが死んじまったもんだから、この村も終わりかね」
 中年の男が、深いため息を吐きながらそう言った。田島は、少ないバスの乗客の視線が、自分の後ろの中年二人に集まっているのを感じた。そんな視線もお構いなしに、中年二人は、話し続ける。
「村一番の大金持ちが死んじまったんだから、この村もあっという間よ」
「あっという間って、どういうことだ?」
「決まってるじゃねえか。隣のS町に吸収合併されて、この村の名前は消えちまうだろうね……。俺たちが育ったこの村がよ……」
 中年は、寂しげに言った。その時、バスが停留所に差し掛かり、少しの揺れを伴って止まった。中年二人と、田島を残し乗客たちは降りていく。運賃を精算する音、運転手の愛想のない礼がマイク越しに聞こえる。
「そうだ、志村さん、あんたのとこの爺さん、元気か?轟さんと同じ年くらいだったろう?」
 志村と呼ばれた中年は、ああと言うと相手の中年に話す。それから、しばらくしてバスか再び動き出す。
「元気だよ、このままじゃ、一〇〇歳くらいまで生きるんじゃないかってくらいだ。工藤さん、そっちは?」
「こっちも元気だ。糖尿病の気があるのが心配だけどな」
 それっきり、工藤と志村は黙り込んだ。バスは、急な坂道を上がっていく。ほとんど、舗装されていない道で、バスは進む度に、がたがたと音を立てて揺れた。何個か停留所があったものの、乗ろうとする客がいないからか、また田島たちが降りようとしないからなのか、少しスピードが緩むだけで止まる気配はない。
「そうだ、工藤さんはどう思うかね?」
志村が不意に口を開く。工藤は、少しうとうとしていたのか、少し驚いたように返した。
「何が?」
「轟さんのところの跡継ぎだよ、跡継ぎ。あの人の作った会社は、今じゃ世界の『轟電機』だろ?遺産だけでも相当あるだろうし……。跡継ぎは大変だね、こんな小さな村から出来た世界の轟電機を背負って立たなきゃいけなねぇんだから」
「ああ、そうだね。あのこともあるしなぁ……」
「ああ、恐ろしいことだよ。俺だったら、ごめんだね」
 バスが一段と大きく揺れる。うたた寝をしていた田島は、バランスを崩し、窓に思いっきり頭をぶつけた。ぶつけた部分をさすりながら、田島は、雲行きが怪しくなってきた中年二人の会話に耳をすませた。
「俺だって、ごめんだよ。莫大な遺産と一緒に『雷帝の祟り』まで、相続するなんてよ」
(『雷帝の祟り』……?そもそも雷帝って、どういうことだ?)
 田島は、禍々しいその言葉に興味を惹かれ、頭に走る痛みを忘れて二人の会話に聞き入っていた。二人は、田島が会話を聞いていることにまるで気づかず、話を進めていた。
「ああ、恐ろしいよな、雷帝の祟りってやつはよ……。榮一(えいいち)さんの時は、何人だっけな?何人死んだんだっけな?」
(『死んだ』……?祟りって言われるのはそういうことなのか?)
 二人は、揺れ動くバスの中、声を潜めることなく、会話を続ける。田島にとってそれは、不気味な童話を聞くかのようだった。
「数えきれないよ。榮一さんに気に入られない人間や、榮一さんの障害になりうる人間は、呪い殺されるんだもんな……。榮一さんは、敵が多かったからな……。それに、榮一さんの最期は本当に惨かった……」
「それが『雷帝の祟り』だよ。雷帝の敵は呪い殺される。だが、その呪いを使ったが最後。雷帝は、本当に惨い最期を迎える。恐ろしいことだ……」
 二人の会話を聞き入っていた田島は、バスが徐々にスピードを緩め、止まったことに気が付かずにいた。
「お、工藤さん、着いたよ。ここで降りないと」
「ああ、そうだね、志村さん」
 支払いを済ませ、二人はバスから降りて行った。田島の脳内を『雷帝の祟り』、『呪い殺される』という言葉がをぐるぐると旋回している。
『お客さん』
 運転手が、マイク越しに田島に話しかける。
『次が終点ですが、ここから先は宿屋がないですよ。お客さん、泊まる当てはあるんですか?』
 しわがれた声の運転手は、まるで警告を発するかのように田島に聞いてきた。
「大丈夫です。早く出してください」
 田島の発言に対して、運転手が不機嫌そうな顔をしている。田島は、思わずそう感じた。決して、その表情を見たわけではないのだが……。
『発車します。揺れますので、お気を付け下さい』
 バスが、再び動き始めた。より急で、不安定な道をがたがたと音を立てながら、走り続ける。まるで、田島の不安を煽るかのように。田島は、不安な気持ちを吹き消そうと、何となく窓の外に目をやった。

     

【3】
窓の外には、山道の下の町に広がる民家が点々と見えた。もうすぐ終わる二〇世紀のため、新しく迎える年のために、多くの家の人たちが、その準備をしているのであろう。
『新たな世紀だかなんだか知ったこっちゃないが、こちらの気持ちも考えてほしいもんだ』
不意に、駅員の老人が発した言葉が、田島の脳裏をかすめた。とても、重々しく、寂しく聞こえたその言葉に、田島は思わず身震いをした。しかし、それ以上に、志村と工藤の会話が頭の中を終始、支配していた。
この時代に不釣り合いで、聞きたくもなければ使いたくもない『祟り』や『呪い殺す』という言葉。長く続く都会暮らしのおかげで忘れていた『土着信仰』という概念が、ふつふつと田島の脳裏に湧き上がってきた。何かの儀式に関わることなのか、それとも別の何かなのか。田島は、ただ考えることしかできなかった。
(『雷帝祟り』か……。ん?雷帝……?この言葉、どこかで……)
田島が、その言葉を思い出そうとしたその時、バスが急停車した。田島は、ふたたび額を窓ガラスに思いっきりぶつけた。
(もっと丁寧な運転はできないのかよ……。おかげで二回もぶつけちまったよ……)
「お客さん、終点ですよ」
 ぶっきらぼうに運転手が言い放つ。田島は、一瞬、苛立ちを覚えるも、慌てて財布から小銭を取り出すと運賃の分を精算機に入れた。運転手の気持ちを表すかのように、気怠そうな音を立てて、精算機は動く。
「どうも」
 田島は、そう言って頭を下げたが、運転手は相変わらずぶっきらぼうなままでいた。田島がバスを降りたその瞬間、バスは去って行くのだった。
 田島は、不服そうにその辺に転がる石を力任せに蹴っ飛ばした。石は、近くの木に当たりどこかに飛んでいく。
「うう、寒い……!」
石の行方を追う田島の口から思わず漏れた言葉。冷気が、田島の皮膚をちくちくと刺すようにまとわりついている。
田島は、バス停の近くの丘を見上げた。そこに建つ御殿。それが、田島翔二に依頼を持ちかけてきた『轟家』のものであることは、明らかである。そして、その屋敷に続く、長く急で新雪がうっすらと積もるただ一本の道を見て、思わずため息を吐いた。この道を歩かなければならないのか、心の中で絶望した。近くに公衆電話は、見当たらないし、携帯電話も学生である田島は持っていなかった。その時、田島の背後からクラクションの音が聞こえた。田島は、ゆっくりと後ろを振り返る。
 一台の赤い軽自動車が、田島の真後ろに停車しており、中から長身の若い女が降りてきた。見覚えのあるその顔に、田島は、一瞬たじろぎ、やがて不自然に微笑んで見せた。
「あ、やっぱり、翔二君だ」
 女は、車から降り、田島の近くに行くとにこりと笑いながらそう言った。
「杉本先輩、お久しぶりです」
 田島は、慌てて女に頭を下げてそう言った。
「もう、いい加減に私のことを琴美先輩って呼びなさいよ。サークル仲間のことを下の名前で呼ばないのは、翔二君の悪い癖だよ?」
「すみません。でも、どうしても高校の時の癖が抜けなくて……」
「卒業して二年も経ってるじゃないの!まったく……」
 琴美と名乗った女性は、やれやれと言った感じで首を振った。
「でも、本当にお久しぶりですね。昨年の夏に開いたOB・OG会以来ですよね?」
「ええ。私も何だかんだで、忙しかったしね……」
 琴美は、そう言ってふうとため息を吐いた。白い吐息が、空気を染める。
「乗りなよ、翔二君。轟さんのお屋敷に行くんでしょ?私もこれからいくところだから、ついでに乗せてってあげる」
 琴美がそういうと田島は、では、遠慮なく、と、つぶやきながら琴美の車の助手席に座った。田島が、荷物を後部座席に置き、シートベルトをしたのを確認すると琴美は、車を滑らせ始めた。
「で、どうなのよ、サークルの方は?新入生は入ったの?」
山道を駆け上がる車の中で、琴美が田島にそう聞いた。
「え?ああ、まあ、それなりに。文学部の後輩にお願いして名前だけ借りましたからね。サークル審査は何とか通りそうですよ」
「じゃあ、実際に活動しているのは?」
「僕と後輩で一人だけですね。その一人が石川千賀子(いしかわちかこ)という女子学生です。そう言えば、杉本先輩には、新歓の時にご紹介しましたよね?」
 杉本先輩と呼ばれ、琴美はまたもやムッとした表情を浮かべる。
「ええ、そうだったわね。よく覚えているわ。今時珍しい、色白の子だったわね。それにしても、実際に活動しているのは二人だけか……。まあ、三年生も引退するし、そうなるでしょうけど……。二人ねえ……」

     

【4】
琴美は、田島をちらりと見る。田島は、琴美の視線に気づかず、外を眺め、景色を楽しんでいた。
「ねえ、翔二君。もしかして、二人きりで活動しているのかしら?」
「ええ、まあ。そうならざるを得ないですから」
 田島は、しれっと答える。琴美は、何故か少し苛立ったような表情を見せた。
「翔二君。そんなことやっていたら、東央大学の我らが『推理小説研究会』は、あなたの代で消滅してしまうわよ?来秋の大学祭で出す予定の同人誌だって、二人だけだったら、満足に書けないだろうし……。大丈夫なの?」
「同人誌のことなら、他大学との提携を考えていますので、問題ないですよ。インカレのサークルだと思って、入ってくれる子も増えるかもしれませんし」
「あのねぇ……」
 琴美は、おおげさにため息を吐いてみせて、話し続けた。
「秋の大学祭が終わるころには、君は引退でしょ?それまでに、部員を増やさなきゃいけないの!代交代だって、進まないでしょ?」
「あ、そうでした……」
「『あ、そうでした……』じゃ、ないでしょうが、もう!」
 琴美は、いら立ちを隠さないようにしながら話す。しかし、田島の興味は、琴美ではなく、眼下に迫る轟家の屋敷にあった。
「近くで改めて見てみると、大きさがよくわかりますね」
「何が?」
「轟さんの屋敷ですよ。こんなに立派な建物を見たのは久しぶりです」
「翔二君は、轟家がどんな家か知っていて、そんな寝ぼけたことを言っているの?」
 琴美が、蔑むように言った。
「あ、いや、その……。お恥ずかしながら、知らないんですよ、まったく。轟家がどんな家かってこと……」
 田島は、照れくさそうに頭を掻きながら消え入るような声でそう言った。琴美は、その様子を横目でちらりと見ると、なぜかどこか満足げな表情で微笑んでいた。
「『もはや戦後ではない』」
 何の脈絡もなく、突拍子に琴美はそうつぶやいた。田島は、え、と困惑気味の表情を浮かべるほかなかった。
「『もはや戦後ではない』。経済白書に結びで使われた言葉よ。高校の現社で習わなかったの?」
「すみません、僕は高校の社会科は地理と倫理をとっていたもので……」
 田島は、申し訳なさそうにそう言った。あら、そう、と琴美は呆れ気味に言った。
「この言葉が指すこと、それはすなわち、戦後の日本経済が回復したってこと。翔二君も知っていると思うけど、大東亜戦争の敗北により、日本はすべてを失った。それこそ、焼け野原からの復興よ。敗戦後の経済成長なくして、今日の日本経済は成り立たなかった。とくに、轟家が創設して今日もなお成長を続ける轟電機。轟電機の力なくして、経済成長は見込めなかったとまで言われているわ。それくらい、轟電機が果たした役割は大きかったのよ」
 琴美は、誇らしげに言った。なぜ、自分の身内でもない人間のことについて嬉しそうに語り、そして誇らしそうな姿を見せることができるのか、田島には皆目見当がつかなかった。
「なるほど、それはご立派な」
「ただね、轟電機がここまで大きな企業に成長できたのには、悪い理由があるからだとも言われているの」
「悪い理由?」
 田島の胸に、ほんの少しの違和感と言うか、不安と言うか、なんとも言い難い感情が広がっていく。
「ええ、あくまで噂なんだけど、轟電機がここまで大きくなれたのは、轟電機の創始者である轟榮一が使った『雷帝の祟り』と呼ばれるものよ」
 田島の耳に、その言葉が響いた刹那、彼の脳内にバスの中で聞いた中年男二人の会話が思い起こされた。
「先輩、今、なんておっしゃいましたか?」
「え?雷帝の祟りだけど……?翔二君、何か知っているの?」
 琴美は、きょとんとした表情を浮かべながらそう聞いた。
「いえ。ただ、先ほどバスの中で同じ言葉を聞いたものですから、つい……」
 琴美は、何か言いかけたが思い直したように口を噤んだ。田島は、聞き返そうとしたが、それよりはやく琴美が口を開いた。
「着いたわよ。轟榮一が築いた城に。通称『雷帝の館』にね」
 田島の目に城と形容するに相応しい家が飛び込んできた。いや、家と言うより館と呼ぶ方がよいだろう、それほど巨大な建物だった。この時、田島は何も知らなかった。轟榮一が『雷帝』と呼ばれる所以も轟家で起こる凄惨な事件も。

       

表紙

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Neetsha