金色の丘を歩く鹿の群れを、どうやら小川の傍から眺めているらしかった。
穏やかな風が吹いていた。小鹿が母親の元へ寄って互いに言葉を交わすようにして鼻先を突き合わせている。まるで「こっちにおいで」と語りかけるようにして、母親は小鹿の先を行く。その後を鹿の群れはゆっくりと続いた。
ただそれだけなのに、どうして涙が出るのだろうか。
しかし、この場所に見覚えがない。この小川はどこから来て、どこへ向こうのか。名前は。そんな事も知らない。
そもそもこの光景を見ているのは私なのだろうか。私は私をどこからか見ている。小川の傍で鹿の群れを眺め、静かに泣いている私が見えている。ではこれは。
その時である。やけにベタベタとする黒い液体が、私の足元に広がってゆくのが見えた。それはだんだんと広さを増し、その周りに銀色の棘のような物体が軋む音を鳴らしながら並んでいくではないか。まるで大きく口を広げ私を呑み込むようにして。
私は私に逃げるよう叫んだが、次の瞬間目の前が鮮血に染まり、そのすぐ後で高槻茜の甲高い笑い声が響いた。
呑み込まれたのは私ではなく、この私だった。
○
目が覚めた時、まず初めに見たものは漂白したような光に舞うきらきらとした埃の粒であった。
私は糊の利いた掛け布団をめくり、頬をつねった。ここでようやく先ほどの光景が夢の話である事を知る。しかしながらこの寝室は知らない寝室である。大きな窓の外に目をやると手作り感あふれるベランダが広がり、小さな植木鉢に小ぶりなサボテンが顔を出し、その周りには色とりどりの花が朝日に顔を向けようと精一杯背伸びをしているようであった。
「そうか私は」
生野に来ているのであった。昨夜、酷い悪夢に魘(うなさ)れ卒倒した私は夢の中でもあの時の衝撃を繰り返し見ているようで、食べていないものに食べられるという気の利いたオチで脱落人生二日目を迎えた。おはようございます。
なるほどあの鹿の群れはきっと私に呪詛(じゅそ)の念を送っていたに違いない。小鹿も「あの女むかつく」等と母親に悪態を吐いていたのだろう。可愛い顔してクソむかつく。
私はゆっくりと体を起こして部屋を出た。
目の前は急な階段であり、どうやら私が寝かされていた寝室は二階にあったようだ。ゆっくりと階段を降りていくと大きなテレビがある居間に皿が積まれており、昨夜私が食べ残した黒糖饅頭の半分が丁寧にラップに包まれ遠慮深げにこちらを見ていた。
なんとなくの記憶だが、この廊下の奥に洗面所がある事を知っていた私はそそくさと移動し流水で何度も顔を洗い流した。まだ鮮血が顔面や手にこびり付いているような気がしてたまらなかった。何故だかそれは高槻茜のものであるという思いが私の中にあり、余計に気味が悪かったからである。まだあいつは私を陥れようとしているのだろうか。舞台より退場した私の影をまだ踏もうというのか。罪の重りが今更ながら煩わしく感じる。
洗面所の廊下を渡ると引き戸があり、どうやらそこは台所へ通じているらしかった。流し台には真新しい大きめのボウルが置かれ、包丁も綺麗に並べてあった。うちのキッチンとよく似ている。なんでこんなにも懐かしく感じるのだろうね。もう家には帰りたくもないのにね。
ふと、後ろから足音が近づいてくる気配がして、私は逃げるようにして玄関へ向かった。
急いで靴を履いて飛び出そうとすると、「千里ちゃん」といくばあちゃんの声がした。
「どこ行くんや?」
「ちょっと」
「朝ごはんすぐできるで?」
「散歩、してきます」
その後、いくばあちゃんはまだ私に何か言ったようだがもう耳には入ってこなかった。私はそのまま思いっきり走った。
○
思いつくままに私は走ったが、それは徐々に記憶を辿る早朝散歩となって駅前の古臭い文房具屋や、木戸がボロボロになった雑貨屋を巡って広いグラウンドへ出た。本当に少しずつ思い出してきたが、ここは小学校のグラウンドで奥にはもう使われなくなった機関車がそのままの形で置かれていて、遊具代わりによく遊んだ記憶があった。
それに目の前の郵便局は窓口が一つしかなく、いつも近所の年寄りと職員が他愛もない雑談を延々繰り返しており、その横にある駄菓子屋のお婆さんは笑顔でハムカツを作ってくれるのだが、中まで全然火が通っておらずやけにねちょねちょとしたカツの味までもゆっくりと思い出し始めた。
そのまま私は何か思い出すものはないかと辺りを散策したが、特にこれといって何もなく、信号もまだ点滅したままであるし、広い道路に野良らしき貧相な犬が排泄をしているだけで何もないにも程があった。ここの町は恐ろしい病気が蔓延し既に人はいなくなってしまったのですよと吹き込まれれば信じてしまいそうなほどに誰もいなかった。
とりあえず腰をおろして何か飲もうと思ったが、何も持たずに出て来てしまった故に自販機で飲み物も買えず、そもそも自販機が見当たらなかったし、今更ながらのこのこ朝食を摂りに帰るのも気まずかったので早速途方に暮れる他なかった。勝手に転がり込んできた非行少女である。じいちゃんばあちゃんもやはりどこかで煙たい思いをしているのかな。もちろん、私が何故ここに来たのかは母から聞いていると思われる。そりゃ、誰だって嫌だろう。頭が変な子だと思われているに違いないよ。
蝉が高く鳴き始め、私はグラウンドの木陰で時が過ぎるのを待った。もういっそのこと、じいちゃんばあちゃんに謝って今夜には荷物を持って帰ろうとも思っていた。
家に? まさか。帰れる場所はないけれど、やっぱりここにはいられない。
悔しいが。どこか、人が居なくて、誰にも迷惑にならないところで、静かに。
そんな事を考えていると、向こうから歩いてきた犬を連れた人が私を不審そうな目でジロジロ観察しているのに気付く。怪しまれている。
私は腰を上げ、足早にその場を去った。