僕は他人から焚き付けられないと何かを実行できない人間の一味である。
受験勉強だって妹に言われなければ始める素振りも見せなかった。少し話せば友達くらいはすぐに出来ると思いながらも自分からは全く動かない。どうも、やれば出来ると言われることは自分からする気が起きない。果たして僕をカテゴライズした場合、優柔不断に入るのか、面倒くさがりに入るのか、気になるところ。
期待通りそれから学校に到着するまでこれと言った異変もなく、転校生と曲がり角でごっつんこするような快適妄想ライフにサヨナラを告げた。これから一年間、話すこともほとんどないだろうクラスメイトと碁盤目状に机を並べ、大学受験とかその辺りの片鱗を感じている間に高校二年生のひととせが過ぎていくと信じたい。
要するに、何も起こらないほうがいい。
新しいクラス、二年三組に転校生がやってくることもなかった。あわよくば通学途中の幻想に現れた【彼女】が僕のクラスにやってきたら、なんて想像もしてみたけど、夢はいとも容易く打ち砕かれた。やっぱり、夢なんて見るもんじゃない。
始業式だが、当学校は進学校なので、始業式が終わった後は当然のように授業が始まる。そこそこの頭脳を持ち合わせた僕は、どの授業の評価もそこそこの位置につけているので、とりあえずさしあたって問題はない。問題と言えるのは何度も刻み付けたように、僕が天涯孤独なクソヤローという一点だけだ。
途中古文の授業で板書の順番を飛ばされるという、影の薄さを存分に発揮することに成功した僕は、難なく午前中の授業を終えた。妹が毎日お弁当を作ってくれる空想世界の事案はどう考えても発生しないので、毎日現物支給される小遣いを手にして、学食へと向かう。
比良里高校の学食は無駄に広い。全校生徒と職員が収納可能。懐の広さで言えば校内では向かうところ敵なしである。
学ランとセーラー服がこれほどのスペースを蹂躙し席巻するのは端から見れば異常な光景に見えるだろうけど、自分もその集団に入ってしまうと不思議と朱に染まってしまうものだ。不思議と僕も、孤独ではないような気分になれる気がした。
特に食欲がわかないので、ごぼ天うどん二八〇円を携えて端の方の席に座る。
東の窓に面した窓際の席。普段からこの辺りの席にはなぜか人が近寄らないので、僕は好んで腰かけていた。昼間でもあまり陽が当たらないからだろうか。ただでさえ暗めの空間はカーテンによって外界と断絶されているので、明滅する蛍光灯の淡い明かりに、塗装の剥げかけた長机がぼんやりと照らされている。
「いただきます」
四〇〇キロカロリーも行かないだろうごぼ天うどんをすすりながら、学食の中を眺める。僕のようなコミュニケーション不全者は往々にして、人間観察を趣味にすることが多い。僕みたいな人間はどんな状況下においても手持ち無沙汰になる天才であり、周囲に目くばせするしか武器がなくなるからだ。
学食は教室と違って他学年が入り混じるので、変化が見て取れるのが面白い。今はまだ二年生と三年生しか見当たらないが、学生服を着崩しているのが二年生で、身なりを整えて勉強道具を持ち歩いているのが三年生、というのは大体予想がつく。
比良里高校では「二年生は学校の心臓、三年生は学校の顔」と教えを受けていて、三年生にもなると品行方正な生活を送ることを余儀なくされる。それを受け入れられない者は、卒業することは出来ないというゴシップを聞いたこともある。ただ、平平凡凡な学生生活を送るつもりな僕にとっては未来永劫関係のない制度なので、そんなことより一人でも過ごしやすい空間と言うものを早急に設えてもらいたい。早急に。
五分ほどでうどんを食べ終え、背もたれに寄りかかる。
僕はそこらのエコカーよりも燃費が良いので、これで夜までは確実にお腹が減らない。午後も当たり障りなく授業を受けて、課された宿題を放課後に居残って解いてしまい、帰宅して晩御飯を食べ、いつものように夜が更ける。要するに学校生活と言うのはこの作業じみた機械のような日程を二〇〇日ほど遂行していくだけだ。そう考えると学校もただのルーティンワークで、そこにエンターテイメントは存在しなくなる。
椅子が相槌を打つように、軋む。
結論から言えば、僕はこうした毎日に退屈していくのが、怖い。
今はまだ妹のありがたいお言葉や人間観察によって時間を貪ることができているが、いつかそれらも飽食してしまって、何の価値もない八六四〇〇をただただ噛み潰すしか出来なくなると考えると、それはもはや死よりも恐れるべき境地である。それを未然に防ぐにはどうすれば良いのか。僕なりに一所懸命考えた。
解決案は、長期間継続できる趣味を見つけること。
それこそ読書でもゲームでも何でもいい。自分が心血注いで打ち込めるようなものを何か一つ持てば、それだけでも毎日が潤う気がする。音楽でも、スポーツでも、インターネットでも、勉強でも、家事でも、どんな些細な事でもいい。そうすれば同じ趣味を持つ者同士の話題なんかも作り出せて、結果的に友達なんかも出来て、建設的な未来が見えてくる可能性は高い。
唯一の問題は、僕が極度の面倒くさがりまたは優柔不断であるので、他人から強要されない限り継続して何かを実行することができないという点。勉強なんかは教師に諭されて仕方なく行っている面があるので、とても趣味に出来る気はしない。
万策尽きた。昨夜、無い頭を使って捻り出した妙案を、自ら看破してしまった。
机に俯せて、隣の窓に視線を寄せる。学食の外には小規模なテラスがあるのだが、そこの柵の部分に、スズメの群集が目白押しといった具合に雁首を並べていた。
「鳥になれば、こうして日々に懊悩を抱くこともなくなるだろうな」
願望を孕ませた独り言は、いったんもめんのようにぷかぷか浮かぶ。
【人間】という生物は、動物の中でも「思索」に富んだ生物だと考えている。何をするにも行動原理があって、やることなすことに意味を見出して生きていく稀有な生物である。と、妹に説かれた事を憶えている。妹だっただろうか。その辺の記憶さえもはや曖昧模糊。
鳥やライオンなんかは、人間と違って本能のままに生きているというスタンスをとっていて、羨ましく思ったことが過去に何度かある。
狩りをして餌を喰らい、眠たくなれば草木の影に寝転がり、力が及ばなければ逆に餌となって天寿を全うする。それはいずれも本能によって構成された人生設計で、そこに理性や常識が伴う人間からして見れば、籠の中の鳥でさえも羨望の対象になり得る。
もちろん鳥籠の中に捕らえられて生きるのが幸せだとは一概には言えないが、少なくとも今の生き方よりは窮屈ではないと思う。出来ることが限られているから、その中で楽しみを見つけられるかもしれないからだ。
テラスのテーブルにスズメが飛び移り、ぴょんぴょん跳ねている。
無残に散った桜の花びらを餌と勘違いしているのか、首をかしげながら執拗に突いている。今の僕はこうした光景を漠然と眺めることでしか、時間を使うことができない。考えても、考えても、思考はすぐにモッツァレラ・チーズのようにとけていく。有限の時間と共に。ダリが記憶の固執を描いたのも、分かる気がする。
僕は登校中に見た光景を思い出す。
そうだな、例えば――――
ミルキーな色を放つ長髪を靡かせて、無機質な表情を浮かべていた少女。
どこか異世界から飛び出したような雰囲気を持ち合わせた、茶眼の少女。
僕の幻想世界の中でしか言葉を発することの出来ない、想像産物の少女。
もし、彼女のような、異質な存在がこの世界にいたならば。
「日々がエンターテイメントで満たされると、思っているのに」
『日々がエンターテイメントで満たされると、君は思っているんだね?』
頭を上げるとそこは恐らく夢の世界だった。
誰が予想しただろうか。いつの間にか僕は眠っていたようで、周囲からは人の気配が消えてしまっている。その代わり、対岸に何かの存在を感じ取ることが出来て、寝ぼけ眼を擦ってみると、一人の女子生徒が、僕と向き合うようにして鎮座しているのが確認できた。
その瞬間、僕は明晰夢という、一つの単語を頭に浮かべた。
僕の目の前に座っているのだ。
願わくばもう一度だけでいい。その姿を見てみたい。
心の中でそう懇願していたクリームヘアーの少女が、両の頬杖をついて、僕の眼前にその麗しき容貌を曝け出していた。
僕は多分、相当間抜けな顔をしていたのだと思う。
彼女の口元はすぐに緩み、小さな声を上げながらクラムボンのようにかぷかぷと笑い始めた。彼女の周りは桜吹雪が舞うような神秘的な雰囲気で満ちていた。
「君は……今朝、踏切で通りすがった、人名コレクター……」
「人名コレクターなんて、君は見ず知らずの女の子に対して随分と失礼な口のきき方をするんだね。それともその言葉は、私の蒐集癖を知ってのこと?」
それくらいしか言葉が出てこなかった。不思議と口調がしどろもどろになることはなかったが、二の句を継ぐことは出来なかった。これ以上どう会話を続ければいいのか、分からない。
「ま、それはそうとして、君には訊ねたいことがあります」
凛とした中に柔らかさのある喋り方で、彼女はつらつらと言い放つ。
「我々は一年間、君を観察し続けてきました。この辺りのスペースは、我々【慢性クラブ】の拠点の一つであることは校内に於いて周知の事実。それを知って君は一年間、この場所に通い続けてきたのか、実に興味があります」
慢性クラブ?
質問文中に出てきた奇妙な単語に、僕は首を傾げる。
「一種のサークルみたいなものだからさ、日々に退屈を感じているなら、入ってみない? きっと、君の求めるエンターテイメントも、そこにある気がするよ」
慢性クラブ?
彼女の言葉は聴覚で捉えていたが、脳はまだ【慢性クラブ】という耳にしたこともない言葉で埋め尽くされていた。
不思議な感覚だ。まるで慢性クラブという言葉自体に麻薬作用でもあるかのように、頭が、身体が、細胞全体が一斉に目覚めたような錯覚に襲われた。トーキーに彩色が施されたような、革新的な衝撃。頭の上でペットボトルを逆さまにされたと勘違いするほど、鳥肌にも似た感覚が全身をなぞって、僕は何度か身震いした。
「私の推理によると、君は今、生きていく上での価値が欠落している。そうだね」
白いブレザーから少しだけ飛び出した指先で、彼女は僕を指差した。
「無理もないよ。今まで何も趣味を持たなかった少年が、急激に多感な思春期に突入したようなものだから。私も大昔そうだった。だから私は自分が退屈しないように、自分の周囲からエンターテイメントを絶やさなかった。結果、私は今こうして、実に満たされた学生生活を謳歌している」
少女は立ち上がると、腕組みをして笑顔を浮かべた。
「それに、君も加わらないかと言う算段だ。悪い話では、ないと、思うけど?」
要するに僕は今、【慢性クラブ】という名前の聞いたことのない、活動内容の想像さえもつかない謎のサークルに誘われている、ということになる。
なるほど確かに彼女の言う通り、僕が生活にエンターテイメントを欲していることに間違いはない。しかしそうとは言え、赤の他人の言葉を鵜呑みにするほど僕は人間が出来上がってはいない。悪いけど、状況の把握もままならないから、今回のところは保留にしておいてもらいたい。僕はそう伝えようと口を開いた。
「ああ、一応伝えておくけど、私は意思確認をしただけ」
だがそれよりも早く、彼女は言い募る。
「そもそも君は“私と口を聞いているんだ”。今更【慢性クラブ】に入らないなどと言う不遜な行為は、君が許しても私含む会員一同はそれを認めはしない。心配はしなくていい。誰もが初めは、この【慢性クラブ】のことが嫌いになる」
僕の中にある何かが、静かに輝きを失くしていく。気がする。
「よって、君はこれより【慢性クラブ】の会員だ。詳しいことは追って話すから、また明日、同じ時間に同じ場所で会いましょう、いいね?」
……それはとても奇想天外で俄に信じがたい出来事である。
ある日僕の目の前に現れ、春の香りを振りまきながら、僕の名前を訊ねて消えた少女。彼女は僕と同じ学校の制服を、確かに身に纏っていた。
例えるなら、妖精か、天使。
そう考えていた彼女は、どうやらもう少し別の生き物のようだった。
妖精のように笑う少女。
僕を監視していた集団。
【慢性クラブ】。
「とりあえず、夢ならそろそろ覚める頃なんだけど」
だが、僕の痛覚はそれを強く否定した。
今朝、妹から装備させられた御守りに効果があったとするならば、これは【災厄】ではない、と認識してもよいだろうか。それとも――――
小さくなっていく少女の背中は、観察対象の一部となって、消えていった。春らしい言い回しをするならば春雪のように淡く――――、といった部分まで考えたところで僕は、ぐへえ、と自嘲のため息を漏らして、空になった丼に頭をぶつけた。
かくして、僕は【慢性クラブ】の会員になったのである。