Neetel Inside 文芸新都
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江口眼鏡のバクハツとヒョウロン
いつやるの? ――イヤ、まあ、今じゃなくてもねえ会議

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 読者諸賢に一言弁明させて頂きたい。このように表題に時事的なネタをブッ込むような作品は、できれば作りたくない。以前、作家先生になるんだという希望と矜持を胸に抱いていた頃はそう思っていたのだが、このような腐れコラムしか書けないと分かった以上、意地も体裁も捨てて媚びていくより他はあるまいと思っている。それに、前に映画館で『シネマ歌舞伎 野田版研辰の討たれ』を観た時、あの厳粛なる舞台の上で、七代目の市川染五郎と六代目中村勘九郎とが、野田秀樹の才気溢れる演出のもとで、アンガールズの持ちネタ「ジャンガジャンガ」をやっていたのだから、ええい俺の責任ではないとばかりに、ブッ込んでみるのである。もちろん野田秀樹は一回性が重要な要素である演劇だからこそ、「いま・ここ」で通用する時事ネタを入れたのであって、それを客席側からフィルムに収めて反復性の権化たる映画の世界に半ば強引に引っ張り出したのは制作会社の松竹あたりの仕業である。それなら私がこの活字の世界(ここは新都社だから厳密には活字ではないけれど)に時事ネタを入れてしまったのはなぜかと言うと、このような腐れコラムは二度も読まれる運命にないだろうと思うためである。つまり、この文章の文学的価値をこの文章の質それ自体が貶め、それによって反復性を持つ文学というジャンルからこの文章を引きずり落としているのである。さながら自らの尾を喰らうウロボロスの蛇である。

 ところで、この一回性という概念は、日本人には非常になじみ深いように思われる。お茶お花といった文化がさきわう国である、想像に難くないと思うのであるが、いかがだろう。茶道文化から出てきたと言われる「一期一会」なんて言葉もある。花だって、永続性の無いものである。性風俗だって大いに関係がありそうだ。日本の性具やポルノグラフィの発達は、毎度毎度同じ相手と交わす、つまりは反復性への抵抗であり、手を替え品を替え、新しい方法で、新しい相手と交わす(もしくは、交わした気になる)ことで性欲を満たそうとする、一回性への強い志向であると言えはしないだろうか。今「それは違う」と思ったあなたは正しい。このような腐れコラムは初めから疑ってかかってしかるべきである。

 さて、現代は「流行るが勝ち」である。「流行るが価値」とも言えそうである。大量生産大量消費の時代であり、何かひとつ、時代の流れに沿うような、それでいてインパクトのあるサムシングがあればそれで良い。あとは至る所で人びとの耳に、目に、五感に飛び込むようにしてやるだけである。さすればあとはおのずから、というものだ。流行に流されること無く、ゆく河の流れに抗って金物問屋やら手作り和菓子屋やらを続けてみても、大衆から見ればそんなもの糞喰らえであって、黙って見ていればいずれ潰れてしまう。
 そう、現代は反復性に興味を示さず一回性を好む、われら日本人の最盛期とも言える時代なのである。反りの甘い海老のような島々の中で、割ったりくっつけたりしながら「日本」を形成してきたわれわれは、現代に至ってついにその最大版図を手中にしたのである。

 いつやるの? 今でしょ――一見してありふれた言葉であり、その言い方にインパクトがあったから成功しただけだと思われがちな表題の時事ネタではあるが、その背後には、一回性のもつ「いま・ここ」感覚が深く根を下ろしていて、「いつやるの? 毎週火曜日だから、また今度ね」とは言わないあたり、強い口調で反復性への「否!」を主張していることが窺えるのである。
 読者諸賢も、このような駄文を読み終えたらすぐさまブラウザの「閉じる」をクリックしたほうが良い。ショートカットコマンドであれば速いのでなお良い。なぜって、今の時点であなたがた自身も、わざわざ駄文を読むことに時間を費やしてしまっている最中なのだから。これ以上無為に「いま・ここ」を浪費しているようだと、筆者もあなたがたのことをこれ以上「読者諸賢」などと敬って呼びはしない。「読者諸愚」とでも呼ぶつもりであるのだから……

       

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