Neetel Inside 文芸新都
表紙

かくも遅咲き短篇集 参
その時は何も考えずに/ピヨヒコ

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その時は何も考えずに



 締太鼓の三つ打ちに篠笛の絡む囃子が、依然として湿気をはらむ十五夜に染みていた。屋台が坂を登るまでまだ幾ばくかの暇がある。男は財布からくすんだ硬貨をひとつ取って、香具師にビールをくれと頼んだ。
 氷水から引き上げられるビールの缶に水滴がいくつも滑った。男はその落下を目で追い、やがて氷水の底に沈む小さな蝶を見つけた。蝶は随分と涼しげな風情で絶命していた。
 男は朴訥としかし穏やかな口振りで言った。
「ひところに比べてずいぶんと夜店が減ったね」
 香具師は応じる。
「減ったのは若い衆ですよ。田舎を行脚しているとそれがよくわかる。小さな子はまだ少しは居ますけどね、ちょうど良い年頃が居なくなった」
 酒を受け取ると、男はそうかい、と模糊に笑ってその場を離れた。
 ビールをすすりながら進む雁木通りで男が見たのは、なるほど殆ど老いぼれとおまけ程度の子供であった。香具師の嘆いた通り青年は皆どこかへ消えてしまったようだ。老いぼれと子供。老醜と餓鬼。これが我が故郷の成れの果てかと男は嘆息した。
 しかし、と男は麦の苦味を一口に飲み下す。
 
 俺も消えた青年の一人だ。
 自分を棚に上げて嘆く分際ではない。
 
 男もまた田舎を飛び出した口ではあったが、しかしその来歴は仔細に語るには空虚であり、ましてや物語性とは程遠い。端的に済ませるのであれば、それは今しがた男がした曖気のようなものだった。狭い内臓から逃れようとする炭酸のように、男もまた故郷から開放だけを求めて飛び出したのだ。ただ一点、男が曖気と違うとすれば、それは故郷に(一時的にせよ)戻ってみようと思い立ったところに尽きる。
 男の帰省は逃避であった。都会で職に就いたものの、活力に溢れていたのは束の間で、日々繰り返される起伏に乏しい生活は男の精神を萎えさせた。田舎からの開放は果たされたが、今度は職場のビルに閉じ込められてしまったのである。その閉塞に、男はまたも逃げ出したくなった。これなら田舎に居た頃のほうがましだとさえ感じていた。
 祖母の法事だと嘘をつき、男は休暇の申し出を済ませた。出任せの嘘に祖母が出てきたことに男は驚いた。たんに、逃げるにあたって、まず思い浮かんだのが祖母の微笑みだったのだ。もし祖母が生きていたのなら、惨めに逃げてきた俺を見ても、きっとやさしく笑ってくれるだろう。そんな空想が男には浮かんでいた。このようにして男は逃げる手配を進めた。
 早朝にアパートを出て、電車を乗り継ぎ、バスに揺られて故郷へ着いた頃には、夕焼けが田んぼを赤く塗りあげていた。湿っぽい風に頬を撫でられていると、男の耳に祭ばやしが届いてきて、それでやっと今日が祭りの日だと思い出した。
 
 今日祭りがあったのは偶然だろうか。あるいは俺は、知らずに求めていたのだろうか。
 男は香具師から受け取ったビールを飲みながら、朽ち果てそうな雁木通りを歩いた。
 俺の田舎が寂れてしまった。
 商店街に並ぶ夜店の著減は男に寂寞をもたらした。祖母と手を繋いで巡った昔の祭りは、もっとたくさんの店が並んでいたのに。

「や、堂前の倅か」
 ラーメン屋の前に差し掛かった時、男は見知らぬ老人から声をかけられた。
「え、ああ、どうも……」
 堂前とは町名であり、正しくは堂前中島と呼ぶ。老人は男を見知った様子であったが、しかし男には眼前の皺まみれが何者か判然としなかった。堂前中島に住むのは男の家だけではない。この町に住む老人は顔見知りを、町名をつけた倅とか娘とか言うことがあるため、男は老人といつか話したことがあるのだろうと考えた。
「久しぶりだなぁ。すっかり大人になって」
「どうも、ご無沙汰してます」
「いつの日以来だろうな。おまえさんが家にお使いに来た頃が懐かしい」
「お使い。いつの話でしょう」
「ほら、おまえ、あの時さ。婆ちゃんにマヨネーズ買ってこいって言われてよ、一人で来ただろう」
「ああ」男は頷いて「池トメさん」と老人を思い出した。
「懐かしいね、池トメさんなんて言われるのは」
 老人は手招きしてラーメン屋の軒下に男を呼んだ。軒下ではラーメン屋の旦那が、杉の祝樽に入った八海山を振舞っていた。老人は何処から出したのか知れぬ三尺枡に八海山をなみなみと注がせ、それを男に手渡した。男は酒を一口で飲み干す。老人は拍手して、それから自分も同じように飲んだ。
「うちはもう池トメさんじゃなくなっちまった」
「閉めたんですか」
「時代だね」老人は舌を鳴らして笑った。「どこだって一緒さ。うちみたいに食い物売ってるところが真っ先にやられる。江西の方にスーパーが建ってから、商店はどこもやめちまったよ」
 老人がまた酒を男に渡した。男はそれを、今度は三口に別けて飲んだ。甘い米の香りが脳を眩ませる。宵の町が揺れてくるのを男は心地よく感じた。
「しまいにゃ高島座も店じまいと来たもんだ」
 老人が顎先でラーメン屋の横を指した。そこにはシャッターの降りた小さな映画館があった。ラーメン屋の横の映画館に、男はよく通ったものだったので、つい声を上げて嘆いた。
「ああ、知らなかった」
 新作映画が一年遅れで配給される映画館は、もうどのフィルムも回さないのだ。八十円のラムネも、恐ろしいぼっとん便所も、二階の立見席も、その全てが男の知らぬ間に幕を閉じていた。
「は、は、高島座は最後に粋がってフィナーレとやらをやったんだよ。昭和のコメディだったんだと。俺は見られなかった。見たかったなあ」
 そう言うと、老人はおぼつかない足取りで男から離れ、そのまま何処かへ行ってしまった。男はしばし呆然と立ち尽くし、それからラーメン屋の旦那に酒をもう一口もらった。

 行灯に肩をぶつけながら男は歩いた。千鳥足で老人の流れを掻い潜る。老人たちは凝り固まった肉体で、蒸す夜の商店街に群れていた。こいつら、どろどろの血液だ……この町は老いている。男は自身の諧謔をそぞろに笑んだ。
「や、堂前の倅か」
 出し抜けに声をかけられ、男は立ち止まった。
「ああ、小林先生」
 禿頭の老紳士は上品な所作で男に会釈をした。
「嬉しいね、覚えていてくれたのか」
「忘れやしませんよ」男は曖気を手で隠して「何度もお世話になっている」と続けた。
「この町の人間はだいたい診たからね」
「まだお医者様ですか」
 禿頭の老人は首肯した。
「田舎で医者をやると辞めるに辞められない。患者は毎日のように病める病めると言うのに」
 男は医者に酒を奢った。二人はバス停のベンチに腰掛け、男の病歴を肴に鯨飲する。とりわけ、男が無類のレントゲン好きだった話は大いに盛り上がった。男は幼い頃、事あるごとに骨が痛むと訴え来院していたが、どこにも異常はなく、気休めにレントゲンを撮ると症状が軽くなったのだ。それを医者は面白がった。男は忘れた素振りでとぼけたが、口元はにやけたままだった。
「正直、あまりレントゲンばかり撮るのは好ましくないんだけどな」
「でも好きだったんです。それが一番の薬だった」
 二人の足元にはいくつもの酒の缶が転がっていた。
「どうだい、久しぶりに撮りに来るかね?」
「いいえ、遠慮します」
 ところで、と男は切り出した。
「俺はさっき、この老人だらけの町を見て、老人しか歩いていない道を見て、どろどろの血液を思い浮かべました。すっかり老いさらばえた肉体を、この町に見ました」
「おもしろいね」
「どうですか、先生、この町はどうですか? 治療できますか?」
 医者は哄笑した。真っ赤な頬に銀蝿が一匹止まった。
「ヘイフリック限界だよ、これは」
 医者は唸って立ち上がり、名医もこれには敵うまいと寂しそうに呟いた。男は医者の背中を見送り、それから自分が酩酊していることに気づいた。
 もうそろそろだ。まもなく屋台が坂を登る。男は神社に向かって歩いた。老人たちが頬を蒸気させ、目を輝かせ、せっせと男を追い抜いていった。男は今、誰よりも歩みが遅い。

 商店街を抜け山際の小道を行けばその神社はあった。三十余段の石階段を登るとくすんだ赤い鳥居がある。男は慣習として、鳥居をくぐる際に一礼し、まず手水舎に寄った。柄杓で両手を清め、この町の多くの老人がそうするように、口内も濯いだ。やや錆の味がすることに男は顔をしかめた。昔、ここの水は美味かったのに。
 境内には出店がぽつぽつとあった。メロンだとかみかんのアイスや、だれもやろうとしない射的や、五百円もする綿菓子のどれ一つとして男を愉しませることはなかった。男は酒の回る脳で、祭りを楽しめなくなった己を嗤った。
 ああ、祭りはいつから退屈になったのだろう。
 砂利に躓きながら男はうろつく。どこもかしこも老人の朽ち果てそうな肉体だらけだった。本殿さえも風雨に傷み日差しにあぶられ汚らしく見えた。もうこの町は枯れているのだ。縁日でさえこの程度だとすれば、普段はどれだけ静かなのだろう。男は考えて、やめた。あまりにも悲しかった。老人が、一人ぼっちで背を丸め、畳の上で黙っているような光景が思い浮かんだのだ。誰も来ないし、何も起きないし、することもない。それが、終わる田舎なのだ。
「ビールをくれ」
 男は酒を買うと飲んだ。その場で何本も缶を開けた。最早、味など求めてはいない。いや、男は元より旨味など求めていない。ただ酒に沈みたいのである。逃げた先に待っていた、枯れゆく故郷から目を背けたいのだ。
 明日にでも新幹線に乗ろう。男はそう決めた。このまま田舎に居てしまっては心を削るだけだと予感した。また田舎を出て、ビルの生い茂る都会に紛れるべきだと、酔いながら思った。
「屋台が来たぞ!」
 老人のうち誰かが叫んだ。老いた群衆はそれを合図に沸き、一斉に神社の一角へ集まる。この神社には石階段とは別に、境内へつながる傾斜の強い坂があった。十五夜祭りの終わりになると、三台の屋台が順々にその坂を登る。商店街の連中が商売繁盛を祈願し、屋台から伸びた荒縄を身体に巻きつけながら引き上げるのだ。
 男はこの登り屋台が好きだった。熱気を纏い、荒々しい音頭と共に若者が屋台を引き上げる様を見ると血が沸いた。男は商店街の生まれではなかった為、屋台を引く役にはなれないのだが、いつか大人と認められたらその一員になれると信じていた。しかし結局、男がその綱を身体に巻くことは無いまま今に至る。
 男は吐き気を堪えながら登り屋台を見に動いた。手水舎の奥からだと、屋台を引く様がよく見えたのを思い出し、藪蚊を手で払いながら奥へ進んだ。
「ああ、なんてこった」
 落胆する男の先には、確かに登り屋台があった。ただ、それを引く群衆さえも老いていたのだ。老人たちは和気藹々と、酒に火照った頬を脂汗で光らせながら、よいしょよいしょと屋台を引いていた。それはまるで小学生の綱引きだった。屋台はじっとりと坂を登る。老人たちの力だけで登っているのかと、男はそれでも何とか感心しようとしたが、屋台後方から軽トラックが押しているのを見て憤慨した。
 男は吐いた。この登り屋台は男にとって史上稀に見る汚物だった。あの活気は、あの獰猛さは、あの勇壮さは、あの神々しさはどこへ消えた! 俺の田舎の誇らしさは何処へ行った!
 男は尚も吐いた。涙が溢れ、酒を鼻から噴射した。力みすぎて実を伴った屁さえ出た。こんな祭りは俺の田舎の祭りじゃない。男は止まらない嘔吐の中で嘆くしかなかった。
 もういい。
 もうわかった。
 俺の田舎は死ぬしか無いのだ。
 俺がこの度帰省したのは、気まぐれや逃避ではなく、死を予感して見納めに来たというわけだ。だとすればこれで終いだ。もうこの町に用はない。もうこの町に戻ることもあるまい。ああ、そうだとしても、あと少しこの町が若いころに戻って来るべきだった。こんな瀬戸際に戻ってくることなかった。逃げ場になる内に戻りたかった。
 男は嗚咽した。体中が汚れていた。屋台がゆっくりと坂を登って境内に落ち着くまで、汚れた液体にまみれながら泣いていた。軽トラックが坂を下るのを見て、男は絶望した。後にはまだ二台、醜態が控えているのだ。
 男は我慢の限界を迎え、立ち上がり帰ろうとした。そして哀れなことに、男は自身の吐瀉物に足を取られて転んだ。酩酊しているのだ。受け身もまともに取れず、男は石に後頭部を打ち付けた。鼻の奥から血の匂いがして、男は気を失った。

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 締太鼓の三つ打ちに篠笛の絡む囃子が、依然として湿気をはらむ十五夜に染みていた。屋台が坂を登るまでまだ幾ばくかの暇がある。男は財布からくすんだ硬貨をひとつ取って、香具師にビールをくれと頼んだ。
 氷水から引き上げられるビールの瓶に水滴がいくつも滑った。男がその落下を目で追うと、水を飲みに来た蝶を見つけた。蝶は随分と涼しげな風情で飛んでいた。
 男は朴訥としかし穏やかな口振りで言った。
「ひところに比べてずいぶんと夜店が減ったね」
 香具師は応じる。
「はあ、そうは思わんけど」香具師は瓶から王冠を抜いて「この部落は、ここいら一帯じゃ栄えてるっけね。爆弾も落ちなかったし」と言った。
「は、爆弾?」
 男はビールを受け取り訝しむ。コップを探したが見当たらなかったため口をつけて飲んだ。どこか脂っぽい味がした。
「そう……見ただろう……?」香具師は眉間に皺を作りながら、男から受け取った硬貨を見定めた。「爆弾が落ちてきて……みんなが蒼紫のお山に逃げて……」
 男はつっかえがちな香具師の言葉に戸惑った。
「おいおい、なぁさん、これじゃ駄目だ」
「駄目?」
 男は香具師の放り投げた硬貨を掴んだ。
「ちゃんと払ってくれよ、こんな日に詐欺はいけない」
「いったい何を言ってるんですか」
 男は肩をすくめ、返された硬貨をふたたび香具師に渡してその場を離れようとした。すると、香具師は「てめえこの野郎!」と怒鳴り、男をあっという間に羽交い絞めにして地面に押し倒した。
 男は混乱しながらのた打ち回る。香具師はがっちりと男を抑えこんだ。周りに人が集まり歓声を上げる。男は尚も逃げようともがいたが、人だかりを見てすっかり動きを止めてしまった。
 男と香具師を取り囲む群衆は、若い男に、艶のある乙女に、よく日焼けした老人に、かりあげの少年たちにと多様を極めた。その誰もが血色良く、やや背が低く、女は色鮮やかな浴衣を身にまとい、男は青い法被姿だった。
「ああ、もう、離してあげなさい」
 人垣をかき分け、女が一人飛び出てきた。押さえつけられた男の目に、桜散る臙脂の浴衣が焼きついた。
「お金ならわたしが払いますから。さ、もういいでしょ、散った散った」
「こりゃ、お嬢さん……お知り合いでしたか」
 男にかかる力が弱められる。
「え、そう、そうよ、わたしのお友達」
「はあ、これは申し訳ない。お友達とは知らずに、その、ちゃんと払ってもらえればそれで」
 香具師が引くと群衆もまばらに去っていった。女は手を差し伸べ男を立ち上がらせた。
「あなた無茶よ。香具師を騙せるわけがない」
 男は女の呆れ声もそぞろに、ただ見惚れた。美しい女だったのだ。夜の孕む湿気が吹き飛んだのを男は感じた。それは、女の肌の白い事によるのか、首筋に落ちる淡い影によるのか、男には判然としなかった。
「どうしたの? ほうけて」
「ああ、いや、ありがとう。助かりました」
「お気になさらず。ところで見ない人ね。この部落の人ではない?」
「いや、堂前の方に家があります」
「堂前? そんな部落あったかしら」
 女は不思議そうに人差し指で唇をなぞった。
「ええと、そうだな、学校が集まってるでしょう。あこら辺です」
 女はそれを聞いて破顔する。浅い笑窪が可愛らしい。男は己が赤面するのを俯いて隠した。
「やだわ。面白い人。学校ならこの通りのすぐ近くなのに」
「なんだって?」
「ほら、この通りを折れてすぐ」
「そこは役場だ」
「なあにそれ」
 周囲を見回し男は愕然とした。街のつくりこそ変わらないが、地面にアスファルトはなく、雁木も全て木製で、夜店が延々と遠くまで続いていたのだ。通りは人で溢れかえっており、方方で囃子や歓声が聞こえる。人々はみな笑顔で、大いに楽しんでいる様子だった。
「あなた、お金が無いの?」
「いや、金ならあるが」男は周囲を見回し落ち着かない様子で続けた。「さっきは受け取ってもらえなかった」
「ふうん。面白い人。どうかしら、わたし一人なの。一緒にいかが?」
 女は、男の返答を待たず、おいでおいでと歩き出した。男は女の背を見て、うなじの美しい曲線を見て、その小さな背丈を見て、ついていく事に決めた。ずっと昔、男は何度もその背中についていったような懐かしさを覚えていた。

「ほら、こっちこっち。バイクの曲芸が来てるの!」
 女は男の手を引いて、商店街の大きな空き地へ来た。男の記憶では、この辺は潰れたコンビニがあったはずだが、今は巨大なすり鉢状の舞台があった。
 二輪がエンジンを唸らせ、舞台の底から傾斜のついた壁面を走りだす。二人は高く組まれた客席へ登り、ぐるぐると遠心力を生むバイクを見下ろした。バイクは加速し、耳をつんざく騒音を鳴らしながら、壁を徐々に登っていく。
「あっ! 飛び出しそう!」
 女が矯正をあげる。男もまたその光景に見入った。
 バイクは舞台の縁まで来ると、真上に飛び出しそのまま後ろ向きに坂を下った。観衆が拍手を炸裂させる。運転手は歓声に応じるようにバイクの上に立ち上がった。バイクは依然加速を続ける。運転手は両手を広げ、さながらサーフボードに乗るように姿勢を保った。
「すごいすごい! あなた、見た? 命知らずもいいとこね!」
「ええ、すごい……祭りでこんな事をやってるの、初めて見た」
「そうお? 確かにここじゃ初めてだけど、流行りの曲芸と聞くわ。あなたの部落でもお祭りの日はこういうのがあるでしょ?」
 男は返答に困り、口をもごもごさせて濁した。
「あら、語りたがらない」
「堂前が無いのであれば、語るに語れません」
 女は微笑んだ。男はそれだけで、随分とかき乱された。喉がつまり、目頭が熱くなり、首筋が強張った。今まで初対面の異性にこれほどの動揺を覚えたことはなかった男だが、しかし、これが色恋とはまったく違うことは分かった。
「男性は時々、水たまりみたいになる」と女。
「水たまり?」と男。
「そうよ」女は男の手を引いて客席を降りた。「水たまりみたいに静かだけど、一度揺らげばしばらく落ち着かない」
「はは、まいったな」
 男はつい笑った。舞台の入り口では入場料を払えなかった子供達が、隙間から中を覗いていた。

 商店街を歩いている間、女はずっと人々に声をかけられていた。男たちからは深々と頭を下げられ、女達からは浴衣が似合うのを褒められた。子供たちは男を指さし、旦那さんか? と茶化した。
「随分と人気者ですね」
「家は代々この部落で商いをしてきたから。それがずっと上手くいってるのよ。そんな家の一人娘だから、何処へ行っても人が寄ってくる」
「まるでマドンナだ」
「やだ、横文字は苦手」
 男は笑って「いったいお幾つですか。横文字だなんて、今の人はそんな言い方すらしない」
「私でしたら十五ですよ」
「驚いた。随分と大人びて見える」
 女は褒められて喜んだ。
「母に躾けられましたから。しっかりしないと私を追い出してメードを雇うだなんて言うのよ。それがもう怖くて怖くて、悪いことなんてひとつもできなかった」
 女は、だから縁日くらい思い切り楽しむのだと言った。男はその言葉を羨ましく思い、女の後につづいた。
「あら高島座さんはくじ引き屋さんになったのね」
 女が立ち寄ったのは映画館前の夜店だった。男は夜店の奥を見て口を開けた。映画館にシャッターがおりていない。ガラス張りの入り口からは美しい内装が見えた。
「なぁ、映画館はまだやってるのか?」
 男は勇んで女に訊ねた。
「まだもなにも開店して間もないけれど」
「ああ、なんだってんだ」
「映画、ご覧になったことないのかしら」
 女は男をよそにくじ引きの景品に目を輝かせた。ブリキの玩具や懐中時計や色のついたひよこまである。女はひとつひとつをじっくりと眺め、あれがほしいこれもほしいと呟いた。そして、その中から一つを指さし男に言った。
「あれ何かしら」
 男は映画館の中を覗きこんでいたが女に引っ張られ連れ戻された。女の指差すものを見て、男は答える。
「ああ、あれはロケットかな。こう、蓋を開けると、中に写真なんかを入れられる。今どき見ないけれどね」
「今どきって、今あるじゃない。それはそうと、わたしロケットが欲しい」
「くじ引きだから欲しがって貰えるわけじゃないよ」
「でも、やってみなくちゃわからないわ」
「どうかな。きっと手に入らないさ。くじ引きなんてそんなもんだ」
 言うと、女は不満気に男を見た。男はその表情に見覚えがあった。その顔をよく見ていた気がするのだ。
「あなた、まだお若いのに悟ったようなこと仰るのね。あれそれは、そんなもの。どうせこうなる。結局ああなる。どうしてそんな風に考えるのかしら」
「ええと」男はばつが悪そうに言った。「いや、祭りのくじ引きで欲しいものが当たったこと無いんだ。でもすまない。悪いことを言った」
 男の顔を見て、女はすぐに許した。
「いいえ、ちょっとからかっただけ。ごめんなさいね」
「まいったなあ」男は嘆息して「なんだか叱られた気分だったよ」と頬を掻いた。女は「私もなんだか躾をしたような気分」と眉を垂れて微笑んだ。
「やっていく?」
「もちろん」
 女はくじを一回引いた。三角形の包みを開くと、赤い文字で大当たりとあった。
「見て! 大当たり!」
「ええ」男は覗きこんで「すごいじゃないか。でもなんだ大当たりって」とついつい笑った。
 するとくじ引き屋の店主(高島座の主人だ)が「おや、おめでとう。なんでも一つ持って行きな」と太い声で言った。男と女は目を見合わせて頷く。もちろん何にするか決まっていた。

 二人は並んで神社を目指した。まもなく屋台が坂を登るのだ。
「ほら見なさい。ちゃんと欲しいものが手に入った」
 女は得意気に言った。
「まさか当たるとはね」
「諦めては駄目ってことね。昔どんなに上手くいかなかったとしても、それで今が決まるわけじゃないわ。前どうだったかなんて関係ないという教訓ね」
「くじ引きひとつでオーバーだな」
「なあに、わたし横文字嫌いよ」
「いや失礼。でも、そうなのかもしれないね」
「そうよ。昔にとらわれるなんて……」
 女が言いかけてやめた。境内へ続く階段が人でごった返しているのを見て、女は嘆息した。
「相変わらずすごい人混み。さ、急がないと良い場所取れなくなっちゃう」
 二人は手水舎で手を清め口を濯いだ。女がこの奥に穴場があるのだと男を引っ張った。そこは、男が嘔吐し転倒した藪の中だった。
「ここ、よく見えるでしょう」
 男は頷いた。
「ああ、ここは屋台と人を良い塩梅に見下ろせる」
「あらご存知だったの? みんなはもっと近くで見たがるから、ここに来るのって私くらいなのに」
「ずっと子供の頃、祖母に連れて来られたんだよ」
 男は、はっとして続けた。
「祖母も言ってたな。みんな近くで見たがるから、ここには人が来ないんだって」
「そうなの。あなた本当にどの部落の人なのかしら」
 男は女をじっと見つめた。女はその視線を受け、照れることはせず、受け入れるように、認めるように、小さく頷くだけだった。
「ごめんなさいね。どの部落だろうと構わないわ。あなたが私の知らない所に住んでようと、それは別に良いの。だから、そんなに悲しそうな顔をしないで?」
「うん」男は、叱られた後の子供のように、震える声で頷いた。
「お祭りの日くらい、楽しそうな顔をしていて?」
 屋台が坂に差し掛かった。
「でも、祭りの後は……楽しかったことの後は……寂しくなってしまうんだ」
 二人の耳に、若い男たちの雄叫びが聞こえた。荒縄を身体に巻き付け、太鼓の音と共に、屋台を引っ張り始めたのだ。
「お祭りの翌日が寂しいのは、何も残っていないように思ってしまうからよ。お祭りがいちどきりだと思ってしまうからよ」
 男は涙をこらえられなかった。
「楽しいことは無くならないわ。ずっとずっと残るのよ?」
 屋台がじっくりと動く。木製の車輪が軋みながら坂を登る。
 男は、唇を噛んで、言った。
「でも、元のままの形で残るわけじゃない。とても小さくなって、惨めになって、情けない姿になってしまうんだ。楽しいことは、いつもそうだ」
 女は笑った。女はたくさん笑った。二人は並んで登り屋台を見た。二人の下では、男たちが汗を散らしながら屋台を引き上げている。歓声は止まない。男の生涯の中で、それは最も美しい瞬間だった。
「何もかもがそのまま残るなんてことはないんでしょうね」
 女は背伸びをして、男の頭を撫でた。
「それでも、きちんと楽しみなさい」女は男の名を呼んで「それでも、きちんと喜びなさい」とだけ言った。
 男はおいおい泣きながら屋台を眺めた。大きな車輪が坂を登り切ろうとすると、女は強く男の手を握り、男も握り返し、あたりは少しずつ男から遠ざかり、遠く遠く光り輝く点となり、やがて、消えた。

 2

 男が目を覚ますと、二台目の屋台が坂を登っていた。
 屋台を引く老人たちは、声を合わせて笑っていた。引かれる屋台もまた、車輪をぎちぎちと鳴らし楽しそうだった。
「そんなんじゃ朝になってしまう」
 後ろにはあと一台の屋台が控えている。前の屋台が坂を登り切るまで、後続は少しも動いてはいけない決まりなのだ。
 腕まくりをし、尋常ではないほど汚れた服を手で叩き、鼻血を拭い、大きく息を吸って、男は祭りを楽しむことにした。
 男はまず、屋台を引く。
 祖母の墓参りはそれからで良い。

 おわり

       

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