Neetel Inside 文芸新都
表紙

みなそこにいる
飴玉くらいの幸せ

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 煙草と、グラウンドの生徒、そして屋上。
 僕の好きなシチュエーション。
 色んな物がすっぽりと視界に入るから、観察がとてもしやすいのだ。特にグラウンドは広すぎて平地からだとどうにも見辛いし、かといって教室のベランダ越しだと煙草が吸えない。
 この三つのお気に入りが上手く合致する場所を絞り込んだ結果、残ったのが屋上だったのだ。
 本来なら開放厳禁の場所でも、案外簡単に手に入った。教師という立場であること、そして他の喫煙者もよく利用しているようで、そう考えるとどちらかといえば「見ないふりをしてもらっている」と言ったほうが正解なのかもしれない。
 苦しそうな顔を浮かべながら、でも清々しくて、自分の限界に必死に向き合っていく姿は、見ていて飽きないし、心に訴えかける何かがあった。
 自分にも、夢や絆を胸に汗を流した時代があった。もう随分前の話だ。今ではそんな生徒達を見守り、導く立場となってしまった。混ざりたくても、僕と彼らではもうまるで違う生き物なのだ。これだけ変わってしまうと、大人しく煙草を吸って見ているくらいしか出来ない。
 吸い殻を空缶にねじ込み、小さな溜息を一つ吐いた。
 身体中に溜まった不満と疲れを追い払うように背伸びしていると、がちゃん、と音が聞こえた。多分ドアノブの落ちる音だ。
――他の喫煙者が来たのだろうか。
 僕はもう一本煙草を取り出すと、口に咥えながら扉が開くのを暫く眺めていた。
「あ、先生やっぱりいた」
 開いたドアから顔を出した来訪者は、僕を見てにっこりと笑みを浮かべると、よく手入れされたハーフアップの茶髪を揺らす。艶のある朱色の髪留めが沈みかけの夕陽の光を吸って輝いている。
「洲川か」
「職員室訪ねてみたらいないし、屋上の鍵も見当たらなかったから、喫煙中かな、と思って」
 そう言って彼女は後ろ手に手を組むと、首を傾げてはにかんだ。
「ところで先生、煙草はね、寿命を縮めるんですよ?」
 また始まった。やれやれと呆れながら僕は胸ポケットから煙草を取り出し、わざわざ彼女に見えるように口に咥えて火を付けてみせた。
 彼女は眉をひそめて、口を歪めた。
「わざとやってるでしょう?」
「正解だ」
 もう、と洲川は扉の鍵を閉め、フェンスにより掛かる僕の隣に音を立てて座ると、鞄から棒付きのキャンディを取り出し、包み紙を外す。
 屋上で僕を見つけると、彼女は決まって隣で飴を舐め始める。
 不機嫌そうな顔を浮かべ、僕が煙を吐く度にわざとらしく咳き込んだりするが、僕はそんな彼女に構わず煙草を吸い続ける。
「それで先生、今日はどっちのチームを応援します?」
 飴玉を舐めながら洲川はグラウンドを覗き込むと、そう尋ねた。
 丁度サッカー部の紅白試合が始まったらしい。僕は煙草の煙を吐きながらグラウンドを見て、それから贔屓にしている部員を見つけると「右」とだけ答えた。
「じゃあ私は左」
「多分負けるぞ」
 僕の言葉に洲川は目を細めた。
 いつもの事だ。テニスコートでも、野球場でも、サッカーでも良い。どこかが試合を始めたら、どちらが勝つか僕達は必ず賭けていた。
 彼女は自信があるのか、ハンデのつもりなのか選ぶ権利を僕にくれる。だから僕は容赦なく強い方を選び、彼女はやっぱりとでも言いたげな目をこちらに向けながら、残った方を選択していた。
 そして洲川は負けると真っ直ぐ下校を選択する。互いにルールを決めあったわけではないのだが、彼女は決まって負けると素直に挨拶をして帰るのだ。
 僕は、この賭けに負けた事は無かった。
「先生は、昔は短距離走でしたっけ?」
 突然洲川はそんなことを僕に尋ねた。視線はグラウンドに釘付けのままだ。僕はフェンスに背中を預けると、空を眺めながら煙を吐き出した。夕闇を照らす陽の光に、白濁とした煙がふわりと滲んで消えていく。
「高校まではな」
 ふうん、と彼女は呟く。相槌と共にホイッスルの音がした。
 高校時代、誰かを追い越す事が楽しくて仕方がなかった頃があった。大会で新しい記録を出す度に死ぬほど喜んだし、うまくいかない時はどこまでも落ち込んで、悔しがった。
 あの頃はただそれだけを考えていた。走って、走って、どこまでも駆け抜けて、そうやって辿り着いた先にあるものが見たかった。
「どうして?」
 そのどうしての意味は、言われずとも分かった。
「熱中していた筈なのに、突然何も感じなくなったんだ。走っても走っても、記録が出ても、それがただの結果にしか見えなくなった」
 それがどうしてかは分からなかったけど、限界なんだと感じた。そしてやがて走る事に義務感を感じ、引退と同時に陸上競技から足を洗った。
「なんであんな風に感じたんだろうなあ……。今でも不思議なんだ」
「後悔とかは、ないんですか?」
「不思議とね」
「それは、良いことなんでしょうか」
「どうだろうなあ……」
 だんだん傾いてきた陽を眺めながら、僕は二本目を缶にねじ込み、三本目に手を出す。
 グラウンドでは、応援していたチームが丁度一点入れたところだった。1-0だ。
「ただ、あの頃は走ってないと死にそうだなんて思っていたけど、今は今でわりと楽しく生きている。走ろうと思えば走ることだってできる。あのまま追い求めて朽ち果てるより、結局は生き残ることを考えた結果なのかもしれないなぁ」
「教師は楽しいですか?」
「どうだろうね」
 はぐらかしながら、僕は煙を吐き出す。
 多分、高校教師を選んだのも、あの頃打ち込んでいた自分が輝いていたからなのだろう。過ぎ去っていったあの時代を思い出して懐かしがりたかったのかもしれない。もしくは酒の肴にでもしたかったとか。そんな理由だろう。
「あの、怒らないで、聞いてくれますか?」
「ん?」
 洲川は試合を眺めながら、舐め終えた飴の棒を、灰皿代りにしていた空缶に突っ込むと、大きな瞳を僕に向ける。
「私は、先生がそうなってくれて良かったな、なんて思っちゃうんです」
「そうなってくれて?」
「走ることが興味無くなってくれて良かったって」
 洲川の言葉を、僕はうまく受け取ることが出来なかった。
「教師になったのって、当時の気持ちを思い出したかったからだったりするんじゃないですか?」
「まあ、それも理由にあるかもなぁ」
 心を読まれた気がして、少しだけ驚いたが、なんとなくその通りと返すのも癪に障るので誤魔化すことにした。
「あ、私のチーム、一点入れましたよ。同点だ」
 彼女の言葉にグラウンドに目を向ける。確かに点を取られていた。
「今日は私が勝つかもしれないですね」
 そう言ってはしゃぐ洲川は、見ていて面白かった。目を輝かせて試合をいつも見守る彼女は、案外悪くない。
 何かにつけて自分に絡んでくる生徒だが、懐に潜り込むのが上手いのか、場に馴染むのが得意なのか、不思議と彼女といて悪い気はしない。多分、踏み込むべきラインをちゃんと理解できる子なのだろう。
「それで、勝ったらどうするつもりなんだ?」
 負けたら素直に下校するとして、勝ったらどうするつもりなのか。いつも聞きそびれていた疑問だった。
「そうですね……先生に煙草を辞めてもらいます」
 その言葉に僕は声を出して笑った。
「別に僕が煙草を吸おうが吸うまいが、洲川には関係ないだろう?」
「関係ありますよ。やめてもらわないと困ります」
――困る?
 洲川の言葉の真意がどうにも汲み取れなくて、怪訝な顔を彼女に向ける。彼女の大きくて丸い瞳に、僕が収まっているのが見えた。

 彼女は、僕の首に両手を滑りこませると、そのまま顔を近付けてそっと微笑み、優しく口付けをする。

 あまりにも突然の出来事で、何も考える事が出来なかった。
 口元に柔らかな感触がある。
 鼻先を甘い果実の香りが擽る。
――葡萄の味。
 多分、さっきまで彼女が舐めていたキャンディの味なのだろう。
 グラウンドの方では、ホイッスルの鳴る音が響いて、それから歓声が聞こえた。どうやら決着が着いたらしい。
 洲川は離れると、茫然とする僕に悪戯っぽく笑ってみせ、それからフェンスに飛びついてグラウンドを見下ろし、大きくガッツポーズをしてみせた。
「私の初勝利です」
 そう言われても、僕はうまく反応が出来なかった。勝ち負けなんて最早どうでも良かった。目の前で顔を赤らめてこちらに笑みを浮かべる洲川の顔にしか、意識がいかない。
「もう一度言いますね。私は、先生がまた昔を思い出したくて教師になってくれて、本当に良かったって思ってるんですよ」
 そう言って洲川はにっこりと笑ってみせた。
「あと、煙草を辞めてもらいたい理由、分かってもらえました?」
 なんだか急に気恥ずかしくなってきて、僕は吸い途中の煙草を缶にねじ込み、洲川の頭を思い切り撫で回した。綺麗に整えられたハーフアップの茶髪を乱暴にかき混ぜながら、けれど嬉そうに目を細める彼女の顔を見て、胸が苦しくなった。
 苦しくて、悔しくて堪らない。
 僕は彼女の背中に手を遣ると強引に距離を詰めて、乱暴にキスをする。仕返しのつもりだったのだが、洲川は僕の背にするりと手を回して、隙間を埋めるように更に身を寄せてきただけで、何の仕返しにもならなかった。
――彼女の頭の中は、一体どんな風になっているのだろう。
 何度も何度もこの屋上に来て、試合の勝ち負けを賭けていたのかと思うと本当に馬鹿らしい。長く負けっぱなしだったから良いものの、初っ端で勝っていたらどうするつもりだったのだろうか彼女は。
 さっきよりも長いキスが終わると、葡萄味の彼女は首を傾いで微笑んでみせる。
「口が寂しくなったら、言ってくださいね。ほら、煙草よりは安上がりだと思いませんか」
 本気なのか、冗談なのか分からないその言葉に、思わず笑ってしまった。
「そうだな……、確かに安上がりかもしれない」
 自分で言っておきながら、彼女はひどいと言って、それから猫のように僕の身体に擦り寄ると、キャンディを数本取り出す。
 そして上目遣いに僕を見て、言った。

「次はどの味がいいですか?」



       

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