Neetel Inside 文芸新都
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みなそこにいる
挟めない栞

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 雨の日の図書室は、匂いが違う。
 気圧の変化なのか、湿度の変化か、はたまた別の何かの作用なのか。何にせよ私はこの、雨が降った日の図書室の匂いが特に大好きだった。
 外に出る事が出来ず、暇を持て余した生徒達で騒がしい昼下がりとは違って、放課後は特に静かで好きだ。さっさとカラオケなりカフェなりに行ってしまう色彩豊かなあじさいの花みたいな傘の群れを窓越しに見送ってから、私は再び手にしていた文庫本に目を戻し、栞を挟み込むと閉じて周囲を見渡す。
 左右三つづつのパイプ椅子と、縦長の机のワンセット。それらが三セット二列並べられたそこには静謐が着席している。時折聞こえてくるシャープ・ペンシルのノック音、鉛筆の芯がノートを擦る小気味良い音。落ち着いた呼吸。時折誰かが座り直して、ワックスの掛かった床を擦る音が響く。
 人によってはそれも雑音かもしれないが、私にとっては、これらの音も含めて「静謐なもの」だ。閉じた文庫本の艶やかな表紙を手で撫でると、残った腕の方で頬杖を付いてほう、と吐息を一つ吐き出し、足を組んだ。
 私が図書委員を選んだのは、ほとんどこの「静謐なもの」を見たいが為だった。この貸出用のカウンターに自らの席を持てることが、何よりの幸福で、入学してからずっとこの特等席を私は狙い続けていたのだ。
 好きな本に読み耽っても何も言われない。顔を上げれば静謐なもの達を見ていられる。私にとって、ここは極楽のようなものだった。
「なあ、詩織は今何読んでるんだ?」
 ただ、天は二物を与えずなんて諺も(まあ、これは人に対して使う言葉だけれども)あるように、完璧という言葉には必ずどこか欠陥が生じるよう世の中は出来ていて、それはこの私にとって「完璧」な空間もまた、そんな完璧という不完全な回路状態が該当している。
「なあ、そんな満足そうなんだからきっと面白いんだろ?」
「もっと声を抑えて」
 言ってしまってから、ハッとして口許を抑えたが、もう遅かった。ちらりと長机の方を見ると、幾人かが鬱陶しそうな顔を私に向けていた。私は慌てて頭を下げて、それからやっと、隣の席にいる厄介者をきっと睨みつけた。
「お前の声、俺より大きかった」
 愉快そうな彼の顔に、私はより一層苛立った。
「貴方が余計なちょっかい出したからでしょう?」
「俺はただ聞いただけじゃん。詩織が何読んでるのかってさ」
「そんな事言ったって結局貴方、本読むとすぐ寝ちゃうじゃない」
 いやあ、文字ばっかはやっぱり難しくてさ、と彼はパーマの掛かった髪をくるりと指先に巻きつけながら愉快そうに笑う。全く、と溜息を一つ吐くと、私は閉じたままの文庫本をそのまま隣の彼の前に滑らせる。
「すみ、ひがし…‥」
「墨東綺譚(ぼくとうきたん)、よ」
 呆れたように首を傾げてみせると、彼はへへ、と舌をぺろりと出して笑ってみせると、暫くちらりちらりと文庫本を眺めていた。まるで見たこともない物を見た時のような仕草だ。
「永井荷風、ね。面白いの?」
 純粋な質問に私はどう答えようかな、と思う。面白いと返してもいいのだけれど、それだけじゃ少し詰まらないし、彼は私に質問する時、もっと凝った返答を期待している節があるから(本を沢山読んでいるのに面白かったなんて返答は詰まらない、と言われた時は流石に引っ叩いてしまった)、私は小さく唸ると、窓の外に目を向けた。
 外は依然として雨が降っている。サァサァと紙束が擦れ合う時みたいな摩擦っぽい、それでいて足音みたいな打音も交じった柔らかな音だった。未だにあじさい達はちらほらと見えるが、それでも大分減ったように思えた。校門の外では車が右に左に現れては少し高い校門の塀の陰に姿を消していく。
 サァサァ。時折風に煽られてか、跳ね返った結果なのか、一つ、二つ、三つと雨粒が窓を濡らして、部屋の室温に抗うように窓を冷たく冷やしていく。少し曇った窓に人差し指を充てて、斜めに下ろしていく。一本の線が生まれて、私の指先は冷たく濡れた。
「なんて言うか、匂いがするの」ぽつり、と言った言葉に彼は首を傾ぐ。「匂い?」私は頷く。「そう、匂い」
「とても綺麗な文章で、読み始めると、するすると流れるように読んでしまえるの。川の流れに乗ったみたいな、なのにするすると、ゼリーみたいに飲み込んだ言葉が私の中にその映像を作り出してみせて、まるでその場にいるみたいで……」
「その当時の匂いがする、と?」
 彼の言葉に、私は頷いた。頷いてから、自分の口から出てきた言葉が途端に恥ずかしくなって俯きたくなる衝動に駆られた。
 きっと彼から見たら私の頬は真っ赤になっているんだろう。前にもそれでからかわれたし、胸の奥底から体温がぐんぐん上がっていっているのが自分でも分かる。だから私は嫌なのだ。彼の詰まらないという残念そうな顔が見たくなくてつい頑張ってみせてしまう。
「また顔真っ赤だ」
「うるさい」
「ゼリーって単語は今回初めて出たな」
「だからうるさいって……」
 顔を上げた瞬間に、彼の手が私の口を塞いだ。大きくて、骨ばっていて、暖かい掌の感触に、私はびっくりして心臓が痛いくらいに飛び跳ねたのを感じた。
 彼は得意気に空いた方の手で人差し指を一本立てると、自分の口許に充てて、それから言った。
「図書室ではお静かに」
 貴方にだけは言われたくないと訴えたかった。けれど、その時私は充てられた手の感触と、真正面から真っ直ぐに彼に見られていることに気が動転していて、上手く言葉が出てこなかった。
 だから、嫌なのだ。
 彼は私を静謐なものでなくしてしまうから。
「もう、分かったから」
 觀念してそう言うと、彼は私を抑えていた手を下ろして、屈託ない笑顔を私に見せた。それから、彼は真横を指差した。
「まあ、騒いでも今なら誰も何も言わないだろうけどね」
「え、あ……」
 彼の指さした方を見ると、図書室は本当に静寂に包まれていた。きちんと仕舞われた椅子と壁に沿うように並べられた本棚だけが、私達カウンターの二人に目を向けていた。
「……ねえ、いつから気付いてたの?」
「詩織が窓の外見て考え事してる時だよ。詩織にとっては一瞬だったかもしれないけど、三十分近く考えこんでたって気付いてる?」
 言われてハッとして時計を見て、それから彼を薄目でじっと睨んだ。
「思考に耽った詩織は何言っても反応しなくなるからね」
「今までもあったの、これ?」
「しょっちゅうだよ。てっきり気付いてるものかと思った」
「言ってよ」誰も居ないと知ってしまうと、自然と声が大きくなってしまう。
 私の静謐なもの達を返して欲しい。
「じっと考え事してる時の詩織を見るのが好きだから、あまり言いたくなかったんだ」
 そう言う彼の表情は、陽気さも愉快そうでも無く、ただただ穏やかで、ぬるま湯みたいな笑顔で、そういう時の彼は本当に本音で話している時だということを知っているだけに、私はそれ以上責めようがなくなって、悔しくて、嬉しかった。
「ばか」
「本の時以外も素直になってくれたらなあ」
 いつもの悪戯っ気のある笑みに戻ったのを見て私は一発彼の頭を叩くと、テーブルの上に突っ伏する。
 本当に、だから嫌なのだ。
 私は、ここで、この図書室の静謐なものを眺めながら、匂いに包まれているだけでいいのに。

 あの日、図書委員に立候補した時、彼は私の後に続くようにして手を上げた。
 そして、初めて二人一緒にこの貸出カウンターに就いた時、彼は言ったのだ。
「俺、ずっと詩織さんの事が好きだったんだ」
 呆気に取られている私を見てそれから、彼は続けたのだ。
「詩織さん、本読むの好きだよね、どんな本が好きで、なんで読書が好きなのか、俺に教えてくれないかな。俺も、読めるようになりたいんだ」
 どうして、と尋ねたら、彼はあのぬるま湯みたいな笑顔を浮かべて、言ったのだ。

「好きな人の一番好きな物を理解して、もっと好きになりたいから」

「ねえ、今、誰もいないよね」
 突っ伏したまま尋ねると、そうだね、と彼の声が聞こえた。
 起き上がって、改めて周囲を入念に見回す。誰もいない。変わらず椅子はきちんと長机に収まっているし、書籍をたらふく収めた本棚は壁沿いにそれぞれどっかりと座り込んでいる。
 耳を済ましたら本の寝息が聞こえてくるんじゃないかってくらい、とても静かだった。
 窓を打つ雨の音も穏やかで、サァサァと優しく耳触りの良い雨音を鳴らし続けている。
 再び彼を見ると、彼は得意気で、悪戯的で、それでいて、とても嬉しそうに口角を上げて微笑んでいた。
「ばか」不貞腐れたように吐き捨てると、彼の両手が私の両頬を挟んだ。
「ばかでけっこう」
 それから先は、何も言えなかった。言うべき口は塞がれていたし、言葉を紡ぐような距離でも無かったから。
 図書室の静謐なもの達を私は今でも愛している。
 あの匂いは何にも代え難い、読書好きの私にとって大切な空間だ。
 ただ、そんな代え難いという感情を揺らがされているのも事実で、私自身もやがてその静謐なもの達から心が離れてしまいそうな気がして、それだけが怖くて、でも揺らぐことをやめられない自分がとても嫌いだ。
 嫌いだけど、好きになってしまいつつある私自身が本当に嫌になる。
 好きなところで止めておける栞と違って、私はどこまでも捲られてしまう。

 この栞だけは、多分、私に挟めない。


       

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