Neetel Inside 文芸新都
表紙

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【長編】とある絵描きと夏の少女

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彼女が僕に見せるその笑顔は、夏に咲く、

ひまわりの花のようだった。




【 とある絵描きと夏の少女 】





「では、藤崎さんの病室はこちらになります。ナースコールは枕元の近くにあります。緊急の際にはこれを押していただければすぐに駆けつけます。それと…」

白い看護服を着た女性の口から出るいかにもマニュアル通りの説明を聞き流しながら、俺は窓の外に広がる海をただ、茫然と眺めていた。

その海の色は美しい青色とは程遠く、洗筆バケツに溜まった水のような濁った緑色をしていた。

海というものはこのような色だっただろうか。



それとも、俺にだけそう見えているのだろうか。





俺は幼いころからよく絵を描いていた。

幼稚園でも外で元気に遊びまわる活発な子供とは対照的で、休み時間にはいつも教室で絵を描く子供だった。

そして俺は中学、高校共に美術部に入部した。同じ絵を描く仲間たちと過ごす毎日は、俺にとってまさに青春そのものだった。

自分で言うのもなんだが、部内でも俺はズバ抜けて絵が上手かった。

その才能を先生に見込まれ、進路先で美大を勧められた。

俺は流されるままに進路先を美大にすることにした。



今思うとそこから、俺の絵を描くことに対する気持ちは変化してしまったのかもしれない。



俺は美大に入るため、必死に画力向上の努力をした。

来る日も来る日も絵を描く毎日。一体何枚の絵を描きあげただろう。

自分が満足いく作品を見せても、こんなのしか書けないのでは受からないと先生に罵倒された。

それでも画力向上のため何度も絵を描き続けた。


血の滲むような努力の末、俺は見事美大に合格した。

しかし、そのとき既に絵を描くことは俺にとって苦でしかなかった。

苦労して入った大学も、最初の方に何日か行っただけですぐに不登校になった。

大学側から学校に来いと何度も言われたが、無視し続けた。

俺は何もせず、家に篭りっきりになった。

両親はそんな俺を見捨てるかのように、何も言ってはこなかった。

灰色の時間だけが淡々と過ぎていった。



そして、俺はついに自傷行為に走った。

引き出しの奥に眠っていた彫刻刀を使って。

痛みに悲鳴をあげながらも、それを自らの左手目掛けて突き刺した。

何度も。何度も。何度も。

俺の悲鳴を駆けつけた両親がドアを壊して部屋に入ってきた。

母親の甲高い悲鳴が聞こえる。

親父は俺を殴りつけると、右手に持っていた彫刻刀を強引に取り上げた。

俺はそこで意識を失った。

それからの事は、記憶が曖昧であまり覚えていない。

この海辺近くの田舎病院に入院させられた。



ただ、それだけを除いて。




「さてと、説明はこんな感じかな。なにか質問ある?」

さっきまで堅苦しい敬語を話していた看護師が、急にため口で話しかけてきた。こいつ、どうやら本当にマニュアル通りにしゃべっていたようだ。

「いや、特にない...です」

小声でそう答えると、看護師はやれやれとでも言うように鼻で小さなため息をついた。

「あたし、加藤っていうの。ここ爺ちゃん婆ちゃんとかしかいない田舎病院だから、愚痴なり相談なりしたくなったら呼んでくれて構わないから。あ、でもそれでナースコールは使っちゃ駄目だからね?」

そう言うと、彼女は今言った自分の冗談に対してケラケラと笑った。こんな浮かれた奴に誰が相談などするものか。

「じゃあ、あたし行くから。」

さっさと出てってくれと念を送っていると、彼女はドアを半分開けたところで急に振り返った。

「そうだ、暇なら屋上にでも行ってきなよ。この病院解放してるんだ」

「…気が向いたら」

「そっか。今の天気ならきっと奇麗だよー。海とかさ」

そう捨て台詞のように呟きながら、彼女は退室した。




開けられた窓の外から、小さく波の音が聞こえた。


その音が『こっちにこい』と呼んでいるように聞こえ、俺は八つ当たりのように勢いよく窓を閉めた。


...続く。

     


【 とある絵描きと夏の少女 】




看護師が出ていってからしばらくして、俺はきれいに整えられたベッドの上に仰向けになり、天井を見つめた。

かなり古くからある病院なので、目に入ってくる色は消して真っ白ではなく、どこか黄ばみがかった色をしていた。

以前は汚れなど一つもない、奇麗な色をしていたであろうその天井に少し親しみを感じ、ふと左手を伸ばした。

手首から肘のあたりにまで巻きつけられている真新しい包帯が視界に入り、すぐさま上げた左手を振り下ろした。

「雄也、入るぞ」

家に篭りきりの時に散々聞いたその低い声が、廊下から聞こえてきた。

俺は反射的に壁の方へ体を向けた。

天井よりも黄ばんだ病室の壁にいらだちを感じて、すぐに目を瞑った。

「雄也、具合はどうだ。落ち着いたか?」

さっきよりも大きくなった親父の声に対し、俺はただ黙って寝た振りをした。

「着替えとかいろいろお前の部屋からもってきた。荷物、ここに置いておくからな。母さんは…ちょっと、まだ落ち着いてないようだから。家で待ってるよう言ってきた」

静かな病室にとん…と微かな物音が響く。

「学校の方には私から連絡を入れておく。…とりあえず、何も心配することはない。今は休め。…いいな?」

そう言うと俺の返事を待っていたのか僅かな静寂の後、親父は病室を出て行った。

その間、俺は目を瞑ったまま体を動かすことさえできなかった。





親父が出て行ってから数分後、鞄の中身を確認しようと横たえていた体を上半身だけ起こして、ベッドの横に置いてあった鞄を膝の上に持ちあげた。

鞄の中には着なれている洋服が数着、近くのコンビニで揃えたであろうアメニティグッズ、そして



昔使っていた大きめのスケッチブックと色鉛筆が入っていた。



それを見た瞬間に堪え切れない苛立ちを感じ、壁に投げつけようと色鉛筆の箱を掴みあげた。

しかし再び目にした黄ばんだ壁を前に、俺の動きは止まってしまった。

そのもどかしさのあまり、膝の上に置いていた鞄をベッドの下に掃落した。

どんという大きな音と共に、中に入っていたものが一斉に床に撒き散らされた。

俺はこの黄ばんだ天井や壁のある部屋にいるのが耐えられなくなり、病室を飛び出した。


純粋な色に決して戻ることはないと、語りかけているように思えてならなかった。






俺はただひたすら廊下を駆け抜けた。この辛い気持ちから解放してくれる場所を求めた。

しかしどの階の廊下も、どの部屋の中も同じ色をしているように見えて、息が詰まった。

その時、ふとさっきの看護師が言っていた言葉を思い出し、俺は階段をただただ上へと駆け上った。





気がつくと屋上の扉の前にいた。

ここがこの耐えがたい辛さから解放してくれる確証はなかった。

ただ屋上は天井が無い分、他よりもましだろう。

俺は思い切ってドアノブを握り、扉を開けた。



一瞬にして俺の体は、天高く上っている太陽の日差しを浴びた。

顔を射すその強い光に目をそっと伏せた。

それとほぼ同時に、やさしく吹きつける心地よい潮風に体が包まれた。

髪が風に靡いている感覚と鼻をかすめる塩の香りが、目の前に大きく広がる海の存在を感じさせた。

次第に外の明るさに慣れていった俺は、ゆっくりと目を開けた。

そこには太陽の元、視界いっぱいに海が広がっていた。

そして海より手前の丘にはたくさんのひまわりが咲き誇り、今の季節を強く俺に感じさせた。

しかし、俺にはやはりそのどれもが色あせて見えるような気がした。

海の色は先ほど病室でみたものと同じ、薄黒いような複雑な色をしていた。




俺は落胆した。

他の人達にはこの景色はどのように見えるのだろう。

その時になって初めて、色鉛筆を握ったまま病室を抜け出してきてしまったことに
気がついた。

この色鉛筆の色のように色鮮やかな世界に見えているのだろうか…

俺は静かに、冷めた目で手に持っている色鉛筆を見つめていた。

海は透き通るように青く、丘の草原は温かい緑色で、そこに咲くひまわりは黄色を鮮やかに放つ。

そんな風に見えているのだろうか…






「どうして海は…青色ではないのでしょうか」






唐突に耳に入ってきたその声に、俺の体は一瞬びくついた。

声の聞こえた方に目をやると、そこには同じぐらいの歳の少女がいた。

真っ白なワンピースに、つばの大きい麦わら帽子を被った彼女は、車いすに座ったまま同じように寂しそうな目で海の向こうを見つめていた。



再び潮風がふわりと吹きつける。

それと同時に彼女の長い髪が風と共にゆらゆらと戯れていた。





…続く

     


【 とある絵描きと夏の少女 】




彼女はまっすぐ、そして悲しげに海の向こうをただ遠い目で見つめていた。

「私は幼いころ、海は青いものだと教えられました。青くて、透き通っていて、
 とてもきれいなところだと。
 草や、そこに咲いているひまわりもそうです。
 それぞれがきれいな美しい色をもっている、と。
 私はそんなきれいな場所で生活できる魚たちや虫たちをとてもうらやましく思いました。
 私もそんなきれいな場所で、きれいな世界で生きていきたい、そう思っていました」




彼女は俺のことに気づいて話し始めたのだろうか。

だが、決してこちらに顔を向けることなく、ただひとりごとのようにそうつぶやいた。

「あなたには、この海がどんな風に見えますか?」

そう彼女は問いかけると、初めて俺の方に顔を向けた。

こちらをまっすぐに見つめるその瞳が、一瞬とても鮮やかな色を放ったように感じた。

そんな彼女の瞳に圧倒され、俺は何も言葉を発することができなかった。

そんな姿を見て、彼女はまた海の方に顔を向き直した。

「私にはとても青には見えません。美しくは…見えません。
 海はもっと青く美しくあるべきだと私は思うのです。草も、花もそうです。
 …誰が見ても青に、緑に、黄色に見えるくらいに。輝いているべきだと思うのです」




俺はその彼女の発言になぜだか苛立ちを覚えた。

恐らく今まで積み重なってきた多くの出来事がその原因だろう。

そして正論をただ淡々と語るその姿は、さっきまで恐れ、逃げてきた汚れた色と
重なるところがあった。




その苛立ちは度重なってきたストレスと共に抑えきれなくなり、ついに爆発した。

彼女が持っていたこの病院の院内通信を強引に奪いあげると、俺はその紙の裏に持っていた
色鉛筆を使って絵を描き始めた。

俺は今までため込んできた感情をすべて吐き出すかのように、目の前の風景をそこに描きなぐった。

まるで幼い子がフォークを握るかのように鉛筆を握り、紙に向かって力いっぱい描きなぐった。

最後に青を使って海の色を塗りあげると同時に、青の鉛筆が力に負けて
先から音を立てて折れた。

原色に近い明確な色合いしかそろっていない色鉛筆では写実的な絵を描くことはできず、
出来上がった作品はとてつもなく色の主張が激しい過激なものとなった。

そしてそんな酷い出来の絵を、俺は彼女の目の前に思い切り突き付けた。


「お前の望むそれぞれが主張しあう世界ってのは、こんな世界か!」


荒々しい息遣いと共にそう怒鳴りつけた。


その一言を述べた瞬間、ふと我に返った。

何をかっとなっているんだ、みっともない。

彼女は何も悪いことを言ってはいない。俺が捻くれているだけだ。

それをただ怒鳴りつけ、相手に八つ当たりをするなど。全く、子供同然だ。




「.........ごめん。いきなり怒鳴って...」

「凄い!」





時が止まったような気がした。





「...は?」

「凄い!凄いです!こんなに美しい絵、私今まで見たことがありません!」

「え?美しい?これが?こんな幼い子が書きなぐったような絵が?」

「はい、感激しました。あなたはとても美しい絵を描くのですね」

そう言いながら彼女は満面の笑みで笑いかけた。



唖然だった。

思いもよらない彼女のその言葉に、ただ唖然とした。



「千夏ちゃーん。そろそろ検診の時間…ってあれ?」

そんな中、扉の向こうからあのふざけた看護師の加藤が現れた。

「なに、千夏ちゃん。もう藤崎と顔見知りになったの?」

こいつ、何勝手に俺の名字を呼び捨てにしているんだ。俺は患者だぞ。

というか、そもそもお前とそこまで仲良くなった覚えはない。


「あんた、さっきこの病院にはあんた以外、爺さんと婆さんしかいないって言ってたよな?
 あれは嘘か?」

俺は少し皮肉った口調で加藤に対して問いかけた。

「あー。千夏ちゃんは別」

「何が別なんだよ」

「だってあんたみたいな発情期真っ盛りの男子に、同い年で、しかもこんなに
 かわいい女の子がいるんですーなんて言ったら絶対にちょっかい出しに行くでしょ」

「いかねーよ。第一、発情期じゃなくて思春期って言えよ」

「さてと、行こうか千夏ちゃん」

「無視すんなよ!」


そんな加藤と俺のやり取りを見ていた彼女、千夏はただ声もなく、くすくすと笑っていた。

「えっと、藤崎くん…でいいんですよね?」

千夏は、顔を見上げて俺に話しかけてきた。

「ああ、そうだけど」

「この絵、もらってもいいですか?」

「かまわないけど、そんな殴り書きの絵でいいのか?」

「これがいいんです。今まで私が見てきた物の中で、一番…輝いていましたから」

そう言うと千夏はさっきの殴り書きの絵をきれいに折りたたみ、
ポケットの中にしまい、小さく微笑んだ。

その姿は先ほど見つめられた時の瞳と同じく、
また一瞬だけ鮮やかな色を放ったように感じた。

「んじゃあ、あたしら行くから。あんたもここずっといると、日射病になりかねないから
 早く戻りな。ただでさえ忙しいのに仕事増やされちゃ、こっちも困るんでね」

そう言って、加藤は千夏の車いすを押しながら屋上を後にした。






二人が見えなくなってから、俺は床に落ちているさっき折れた青い鉛筆を拾い上げて、くるくると回しながら、また目の前の海を眺めた。


「輝いてた…ねぇ…」


想像もつかなかった彼女の発言を、俺は無意識のうちにつぶやいていた。







…続く

     


【 とある絵描きと夏の少女 】





千夏と出会ったその夜。俺はベッドの中でなかなか寝付けずにいた。

『 あなたはとても美しい絵を描くのですね 』

千夏の言葉が何度も頭に響く。

人に絵を褒められるなんて、本当に何年ぶりだったろう。

しかもあそこまでまっすぐに言われたのは。

俺は眠れずにただ横になっていた体を、ゆっくりと起こした。

月明かりだけが射しこむ夜の病室は、昼間に比べてとても居やすかった。

俺はじっと、窓の近くに置いた青い鉛筆を見つめた。

「…なぁ。俺はどうすればまた、昔のように楽しく絵を描けると思う?」

そんな気持ちに反応するかのように、包帯を巻かれた左腕が一度だけ大きくずきんと痛んだ。




翌朝、俺は昨日よりも少し早い時間に屋上へと向かった。

そこには、ひまわりの花を抱える千夏としゃがみ込みながら談笑している加藤の姿があった。入ってきた俺に先に気づいたのは加藤の方だった。

「なんだ、藤崎。今日も来たのか」

「悪いか。あとその馴れ馴れしい呼び方、やめろ」

「なんで。あんたの名前、藤崎だろ?あ、下の名前の方がいいか?」

「そういうことじゃねーよ!なんでお前は俺の事呼び捨てにするんだよ。
 こっちは患者様だぞ」

「何を言う。それを看病してやってるのはこの看護師様だぞ。そっちこそ敬え」

その言葉に何も言い返せずに頭をかく俺に対して、今度は千夏が話しかけてきた。

「こんにちは、藤崎さん。今日は昨日よりも少し早いんですね。
 ...そうだ、これ。藤崎さんに」

そう言うと千夏は手に持っていた数本のひまわりの中から一輪を、俺の前に差し出した。

その花は、俺の目の前にあるからか海の向こうに咲くひまわりの花々よりも
とても鮮やかに見えた。

「昨日の絵のお礼です。よかったらどうぞ」

「あ、あー...どうも」

俺がそのひまわりを受け取ろうとすると、隣にいた加藤が不満の声を漏らした。

「えー!?千夏ちゃん、そのひまわり藤崎にあげるためだったのー!?
 なら、とってこなきゃよかったー...」

「そんなこと言っちゃだめですよ、加藤さん。
 それに他の花はちゃんと私の病室の花瓶にさしますから」

「ならいいんだけど。藤崎、その花死ぬまで枯らすなよ。」

「死ぬまでとか無茶言うなよ」

「このあたしがあの丘まで行って取って来たんだ。枯らしたら殺す」

「看護師が患者に向かって、なんという発言してんだ!」

千夏は俺と加藤のやり取りを止めようとはせず、それを見て静かに笑っていた。




それからしばらく俺と千夏、加藤の三人で他愛もない話をしているうちに、
千夏の検診の時間になった。

「そういやいつもこの時間は加藤が付き添ってるのか?」

俺はふと疑問に思ったことを加藤に質問した。

「いや、今日はたまたまだよ。いつもは行きと帰りだけ迎えに来てる」

「いつも...すみません。私のわがままに突き合わせてしまって...」

千夏はそう加藤に対して作り笑いをしながら、言い終わる前に下を向いてしまった。

「かまわないって!千夏ちゃんのためだもの。
 ...あ、そうだ!藤崎、お前どうせ入院中暇だろ?
 よかったらこの時間帯に千夏ちゃんと一緒にいてやってくれないか?」

「え...ええぇ!?」

加藤のその質問に、俺よりも先に声をあげたのは千夏の方だった。

「あー...まぁ、別にかまわないけど」

「ええええぇぇ!?!?」

俺のその回答に、加藤よりも先に手をバタつかせながら声をあげたのはまた千夏だった。

「そんな、無理しなくていいんですよ!?私ずっとこの時間一人でしたし!!
 な、なな慣れてるんで!」

「自分の病室にいるよりこっちにいた方が断然マシなんだよ。
 あと何かあった時、ここから下の階まで一人じゃ降りられないだろ。
 いつでも加藤が来てくれる訳じゃないんだから」

「それは...そう、ですけど...」

そう言うと、加藤は千夏の明確な返事を待たずして小さくぽんと手を叩いた。

「よし、じゃあ決まりだね。行きはいつも通り私がつれてくから。
 検診の時間は毎日この時間帯だから千夏ちゃん連れてくるのもお願いね」

「わかった。千夏はそれで構わないか?」

「よ...ろしく...おねがいします...ぅ...」

千夏は波の音にかき消されそうな小さな声で、そう下を向きながら返事をした。



こうして俺は療養生活の間、屋上で千夏と一緒に過ごすことになったのであった。






...続く

     


【 とある絵描きと夏の少女 】



加藤との約束を交わしてから数日間、俺は昼から夕方の検診までの数時間を
千夏と屋上で過ごした。

加藤に頼んでいるのだろうか、俺が屋上に行くと千夏は毎日ヒマワリの花を手に持って
海を眺めていた。

そして、お礼と言ってその花を一輪、俺に差し出すのだった。

俺たちは話に花を咲かせるわけでもなく、かといってお互い黙りこむこともなく、
心地いい程に少しの間を挟みながら他愛もない話をしていた。


俺が話す、千夏はそれに言葉を返す。少しの静寂。千夏が話す、俺がそれに言葉を返す。


お互いが作り出すそのリズムは、常に耳に入ってくる波のそれと同じように思えた。



そんなある日のことだった。千夏があの話を切り出したのは。



「藤崎さんは絵を描くことがお好きなのですか?」

太陽が徐々に傾き、太陽が次第に空を橙色に染め始めた時、千夏は俺にそう問いかけた。

些細な会話の中でその言葉が放たれた瞬間、俺の中で時が止まったかのような錯覚に陥った。

いつもならばすぐに言葉を返していた俺だったが、
その質問にはすぐに答えることができなかった。

「...どうしてそんなことを聞くんだ?」

「あ、えっと、何かすみません。初めてお会いした時、藤崎さん、
 絵を描いて下さいましたよね。なので、てっきり普段から絵を描くのがお好きなのかと。」

「...実際のところよくわからない」

俺は自然と千夏に対して本心をさらけ出した。

「そう...なのですか。」

俺たちの間にいつも以上の静寂が訪れた。

俺はその静寂に耐えられず、千夏から顔をそらして海の方に目をやった。

静寂はなぜか心と共に、左腕をきりきりと痛めつけた。



「あの...私、藤崎さんにお願いがあるんです」



その静寂を断ち切ったのは千夏の方からだった。

「藤崎さんに、私の絵を描いてほしいんです」




予想もしなかったその発言に俺はただ唖然として、再び千夏の方へ顔を向けた。

「今、何て言った?」

「わ、わかってます。わがままを言っているのは従順承知なのですが...
 ...是非、藤崎さんに描いて欲しいんです」

千夏の髪が、一瞬吹きつけた強い潮風にふわりと靡いた。

「...百歩譲って俺の絵が好きだから絵を描け、っていうのはわかる。
 でも、なぜ千夏の自画像なんだ?」

「別に私が自分大好き人間とかそんなナルシストという訳ではないですよ?
 ただ...藤崎さんに私がどういう風に見えているのか...それが知りたいんです。」

千夏は自分で車いすを正面へとゆっくり向き直して俺の目を静かに見つめた。



「藤崎さんには、私がどう映っていますか?」



そう言うと千夏は微笑んだ。静かに、ゆっくりと。

橙色の夕日がうっすらと射しこんでいたからだろうか。

俺にはそんな千夏の笑顔がとても悲しい顔をしている様に見えてならなかった。


「...少しだけ。少しだけ、考えさせてくれ。」


その千夏の問いかけに対して、俺はただ冷たい返事をすることしかできなかった。






加藤に千夏を預けると、俺はどこによる事もなく自分の病室へと向かった。

千夏は別れ際に、別にそこまで気にしなくていいとまた微笑みかけた。

そんな千夏の些細な気遣いに、俺はさらに胸が苦しくなった。






病室の前に着いて扉を開けた途端、そこに佇んでいた人物が俺の胸をまた苦しくさせた。



「......親父」


「...てっきり病室でまた寝たふりをしているかと思っていたんだが。
 その調子だともう随分、良くなったみたいだね」

「何しに...来たんだよ」

「何って、息子の顔を見に来ただけだよ。今日は早めに仕事が済んだからね」

「...そうやって...そうやって、俺が病んでから父親面かよ!」

俺はそう叫ぶと入り口の壁を左手で思いっきり叩いた。

痛みよりも、どこにぶつけたらいいのか分からない、やるせない感情でいっぱいだった。

「大学に行かなくなっても、俺の事、まるで気に留めなかったくせに!
 無視し続けたくせに!俺の事なんか、ほっといてくれよ!」

そういって俺はまた外へ駆けだそうとした。



「それはお前が決めた道だったからだ」



その父の言葉が耳に入った途端、俺の足は止まった。


「お前が、雄也が自分で、自分の意思でその道を歩むことを決めたからだよ。
 雄也が美大に行くって父さんたちに話した時、自分自身でその将来を口にした時、
 もう雄也に対してあれこれ言うのはやめようと思ったんだ。
 子供を育てるのが親の役目だけれど、自分で選んで歩み始めた道に対してまで
 口出しするのは、親のすることじゃない。
 親の役目はね、子供を一人の大人として育て上げることなんだ。
 自分で道を決められるようになったなら、それはもう大人なんだよ。
 あ、でも命にかかわる事に関しては口出しするよ?
 雄也は、父さんにとっての大切な家族なんだから」

親父は振り向きもしない俺の背中に向かって、決して怒鳴らず、
ただやさしい口調で話しかけていた。

「だからね雄也、お前はお前のやりたいようにやりなさい。
 行きたくないのなら、無理に大学に行く必要なんかない。
 無理に絵を描かされる必要なんかない。
 雄也自身が描きたいものを描ける道を選びなさい。
 雄也は心から絵を描くことが好きなことを、父さんは知っているよ」

親父はそう口にすると、また俺の返事を待つかの様に静かになった。

俺はゆっくりと振り返り、親父の方へ向き直った。

窓から夕日が射しこんで、病室内を橙色に染め上げていた。

窓に背を向けた親父の体を除いて。



「なぁ、親父。教えてくれよ。
 昔の..昔の俺は、本当に楽しんで絵を描いていたか?」


もう忘れてしまった遠い記憶を。

思い出せなくなってしまったその記憶を俺は親父に問いかける。



「ああ、雄也は絵を描いている時、とても楽しそうにしていたよ。今でも鮮明に覚えている」


「......そうか」




やっと確信ができた。

今までずっと不安だったんだ。本当に俺は好きで絵を描いていたのかって。

ただ、外で遊ぶ友達の輪に入れないからとか、大学を受験するためとか
そんな気持ちで最初から描いていたんじゃないかって。

でも、親父から直接そう言ってもらえたおかげで、
俺は好きで描いていたんだって確信が持てたよ。




だってここまで描けるようになったのは、幼いころから俺に絵の描き方を教えてくれた

父さんのおかげだから。




「なぁ、親父...いや、父さん。頼みたいことがあるんだが、いいかな?」













翌日、俺の病室に懐かしい油絵の一式が届いた。








...続く

     


【 とある絵描きと夏の少女 】


父さんから画材を受け取った後で屋上に向かったため、
俺がそこについたのはいつもより遅い、検診前ぎりぎりの時間だった。

屋上に上がるといつもと変わらない、同じ光景がそこにあった。

夕暮れの空の下、ひまわりの花を手に持ちながら海をただまっすぐに見つめる、
夏の少女の姿。

だが、俺がその場に加わることで見慣れてきたその光景は、少しだけ変化をみせる。

そう、いつも空っぽだったその手に真っ白なキャンバスと木炭のケースを持っている、

俺が加わることで。



「...藤崎さん、ですか?」

千夏が俺に向かって遠くから問いかける。

「ああ。ここに来る男なんて、千夏以外に俺しかいないだろ」

「...もう、来ないのかと思ってしまいました...今日は。
 ...あ、昨日の事は気にしないでください。一時の気の迷いというか何というか。
 とにかく、絵の事はもう気にしないで大丈夫ですから」

千夏は俺に向かって昨日と同じように微笑んだ。悲しい笑顔だった。



なら悪いけどそうさせてもらうよ。絵を描いていたことで今このざまなんだ。

なのに何でまた絵を描かなくちゃいけないんだ。なぜまた苦しい道を選ばなくちゃならない。

そう俺は答えるだろう。



「 描くよ 」



昨日までの俺なら。

「描くよ、千夏の自画像。千夏の好きなこの屋上と一緒に。
 俺がこのキャンバスに描いてやる」

俺は手に持っていたキャンバスを千夏の目の前に突き出した。

「え...い、いいですよ!私もなんとなくで言っちゃっただけですから!
 第一、藤崎さんの負担になっちゃいますし!]

「負担?俺がこれまでどんだけの数の絵を描いてきたと思ってるんだ」

「でも...藤崎さん、絵を描くことに関して何か複雑な事情をお持ちみたいですし...」

やはり、心の中というのは表情以上に相手に見透かされてしまうものだ。

「...確かに絵を描くことはここ最近の俺にとって、正直苦でしかなかったよ」

俺はキャンバスを一度地面に置いてから、ゆっくりとしゃがんで
千夏の目をまっすぐに見つめた。

「でもそれは描いていたんじゃなくて、"描かされていた"からだ。
 好きでもないものを無理やり描かされていたからだ。
 誰だって自分のやりたくないことを無理やりやれって言われたら嫌な気持ちになるだろ」

千夏は反論もせず、俺の話を静かに聞いていた。

「だから、俺はこれからまた、昔みたいに絵を"描こう"と思う。
 俺が自分で描きたいと思ったもの、俺が美しいと感じたものを。この手で」

我ながらなんと臭い言葉だ。言い終わって顔から火が出そうになった。

そんな心の中も読み取られたのか、千夏は顔をふいと外にそらした。

射しこむ夕日が千夏の頬を赤く染めていた。



しばらくして、落ち着いたのか千夏はゆっくりと俺の方に向き直った


「藤崎さんには...私が...どう映っていますか?」


昨日冷たく返してしまったその質問に俺は似つかわしくない笑顔で答えた。


「それは、出来上がってからのお楽しみだ」






次の日から毎日、俺は屋上で千夏の絵を描いた。

昔使っていた油絵の道具で、千夏の自画像を描いた。

その分日数はかかってしまうが、俺はこの絵に決して手を抜きたくはなかった。

それが新たに"描き"始めた絵であるからか、千夏のための絵であるからかは
自分でもよくわからなかった。

それと、俺が絵を描き始めたこと以外にもちょっとした変化があった。

千夏がいつも以上に多くのひまわりを、描いてくれているお礼として俺に
渡してくれるようになった。

加藤が苦労する姿が目に見えたが、ひまわりを嬉しそうに手渡す千夏の姿を見ると
俺はいつも素直にそれを受け取るのであった。

そのため、俺の病室は溢れんばかりの"夏"でいっぱいになった。

さすがに全ては部屋に飾りきれないので、俺はときどき見舞いに来る父さんに
少しおすそ分けをした。

いつももらっているなら全部家に持って帰ってやってもいいんだよと度々父さんに言われたが

窓辺の花瓶には必ず数本残してもらった。

夜の間でもひまわりを見ることができるように。






それから数日たって、絵はもうすぐ完成というところまで出来上がっていた。


「うん。かなり出来上がってきたな。後はちょっと細かいところを仕上げるだけだ」

「本当ですか!早く藤崎さんの絵、見てみたいです!」

「だめだ。完成までは絶対に見せない」



絵を描くにあたって俺は千夏と一つの約束をしていた。


『 完成するまでは絶対に絵を見せない 』


描きあげるまでの工程を見られてしまっては感動が半減すると思ったので、
俺はこの約束を絶対条件とした。




「ごめん、千夏。足元にある青色取ってくれる?」


海の仕上げをしている時だった。


「はい。わかりました」


その違和感にはじめて気づいたのは。


絵具箱は千夏のすぐ足元にあった。それは目と鼻の先の距離程だった。

しかし、千夏はそれを見つけるために手探りをした。

僅かな時間だったが、手探りをして絵具箱を見つけ出したのだ。




まるで暗闇の中で、落したものを探すかのように。




胸が静かにざわついていくのを憶えた。



「すみません、ちょっと車椅子で隠れて見えなくて。どうぞ」



千夏はそう言うと探し当てた絵具箱から、一本の絵具を俺に手渡した。







その色は、赤だった。







完成まで残り一つの仕上げだけを残し、その日は切り上げた。







帰り際、加藤に千夏を預けると俺はいつもよりゆっくりと病室に戻った。

その間も俺の胸のざわめきは収まらなかった。


病室についてしばらく茫然としていると、部屋の扉がゆっくりと開いた。

そこには、いつものような明るさのない、とても真剣な表情をした加藤が立っていた。




「ちょっと話がある。今、いいか?」




左腕の傷は、もう痛むことはなかった。



退院の時が、刻々と近づいていた。










...続く

     


【とある絵描きと夏の少女 】



加藤は入り口付近にあった椅子をベッドの近くまで持ってくるとそれに重く腰かけた。

「最近、屋上でなにやら始めたらしいな。千夏ちゃんが今まで以上に
 ひまわりを取ってきてくれって言うようになったし、それによく笑うようになった」

普段より笑うようになった。

普通なら喜ばしいその変化について加藤は低く静かに話し始めた。

「ああ。千夏の自画像を描いてるんだ。それより聞きたいことがあるんだが...」

「お前がそうさせてくれって頼んだのか?」

俺の話を遮って、加藤は俺を睨めつけた。とても冷たい目だった。

「違う。千夏が俺に描いてほしいって頼んできたんだ。それより聞きたいことが...」

「千夏ちゃんが...か。そうか――」

また俺の話を遮ると、加藤は俯きながら静かに目を閉じた。

「おい、お前ばかり質問してないで俺の話も聞けよ。
 千夏はなにが原因でこの病院に入院してるんだ。あいつ、何の病気なんだよ」

加藤はゆっくりため息を吐き椅子から立ち上がると窓を開け、
懐から煙草を取り出しそれに火をつけた。

「おい、院内は禁煙じゃないのか」

「そうだな。まぁ、院長にはだまっといてくれ」

白く濁った息を窓の外に吐きだし、やがて俺の方へと体を向けた。
しかし目線は合わせずただ下を向いていた。



「ベーチェット病って知ってるか?主に口内炎や皮膚症状が主症状となる病気なんだが」

「皮膚?でも千夏は見た感じそんな風には見えなかったぞ」

「まぁ、急かすなよ。人の話は最後まで聞け。他にも主症状はあるんだ」

加藤は一呼吸し、重たく濁った息を吐きだした。


「眼症状。千夏ちゃんはそれにあたるな」


今日の屋上の出来事でおおよそ予想はついていた。

目に障害があるのではないかと。

しかしそれが確信に変わった時、俺は先ほどとは比べ物にならないほどのざわつきを感じた。

「完全型だと主症状全てが当てはまるんだが、不幸中の幸い...でもないか。
 千夏ちゃんはそうじゃない。主症状の眼症状に加えて、関節炎と消化器症状。
 主な副症状が2つ。不完型だ。」

「眼症状って...主にどんな?」

恐る恐る俺は加藤に尋ねた。

「視力が著しく低下する。酷い場合は失明だな」

"失明"

「千夏は...千夏の症状はどれくらい進行してるんだ」

「とりあえず今のところ失明はしていない。ただ視力が日に日に
 下がっていっているのは確かだ」

「...そのベーチェット病ってのを治す薬はないのか」

「確立された治療法はまだ存在しない。難病のひとつだからな。
 症状の進行を抑える薬はあるが、多くは投与できない。
 あの子は体が普通の人よりも弱いから副作用に耐えるのが難しいんだ」

「じゃあ...今の千夏は」

煙草を吸い終え、携帯灰皿を取りだす加藤に俺は力無く問いかける。

「ああ。お前が来た時よりも、もうほとんど見えていない状態に近いだろうな」

聞きたくない答えが。俺の一番聞きたくなかった答えが返ってきた。




俺があの日、屋上に行くずっと前から


" 私にはとても青には見えません。美しくは…見えません。"


千夏にはほとんど見えていなかったんだ。


" 誰が見ても青に、緑に、黄色に見えるくらいに。輝いているべきだと思うのです。"


屋上から見る海も、草も、花も、、加藤も、俺も。


" 藤崎さんには私がどう映っていますか? "


自分の姿、さえも。





「だったら...もうほとんど見えなくなっているのなら...どうしてあいつは、
 俺に絵を描いてくれなんて...頼んだんだ」

膝の上で握りしめた拳を眺めながら、堪え切れない心の中の思いが
自然と口から力なく出てしまっていた。

加藤は小さくため息をつくと、加藤は携帯灰皿を懐にしまって
さっきと同じように椅子へと座りなおした。

「見えないって言ってもまだ完全に失明したわけじゃない。
 毎回あたしが千夏ちゃんにひまわりを渡すときに言ってくれるんだ。
 " とてもきれいだ "って、笑いながらさ。」

加藤の息はヤニ臭かった。でもその言葉はなぜだかとても温かく感じた。


「あの子ね、施設育ちなんだよ。幼いころから両親に捨てられて施設にいたんだ。
 その頃から体が弱くてさ。あたしが仕事の用事でそこに行った時も、
 施設の人のお世話になってて。千夏ちゃんいっつも謝ってた。
 いつも迷惑かけてごめんなさいって。
 普通だったら外で無邪気に騒ぎまくるくらいの歳の子が、
 その毎日を謝りながら過ごしていたんだ。
 それを見ていて思ったよ。この子はどうしたら幸せを感じられるだろうって。
 だから、あたしがその子を幸せにしてあげることにしたのさ」

「え?それってつまり...」

「ああ、そうだよ。あの子の名前はね、"加藤 千夏"って言うんだ」


まさか。加藤が事実上、千夏の今の母親だったとは。


「でもあの子、引き取ってからもずっとあたしの事名字で呼んでさー。
 お母さんとか、言ってくれたことないんだわ。
 まぁ千夏ちゃんがそっちの方が楽ならいいんだけどね。
 それからしばらくはあたしの家で暮したよ。
 あの頃の千夏ちゃんとはよく散歩に出かけたなー。
 花を見るのが好きでね、あの子。公園とか植物園なんかにいったよ。
 その中でもひまわりの花が一番大好きでさ。夏になると暑い中、毎日のように
 公園に咲いてるひまわりを見に外に行ったよ。その時の千夏ちゃんは凄く元気だった。
 幸せそうだった。
 そんな姿を見て私は、来年は大きなひまわり畑を見に行こうなんて約束をしたよ」

加藤はそうぽつぽつと話しながら、笑っていた。

あの時の千夏と同じような悲しい笑顔だった。

「その次の年だった。病気が発症したのは。
 千夏ちゃんはあたしの勤務してるこの病院に入院した。
 せっかく幸せになってくれると思ったのに。全く、神様ってのはほんと...クソ野郎だね」

俺はその顔を直視することができなかった。

「でもあたしは約束を破るつもりなんてなかった。
 だからさ、そんな神様に喧嘩売ってやったのさ。
 院長とも交渉して、海の近くの丘にひまわり畑を作ることにしたんだ。
 それが屋上から見えるあのひまわり畑なんだよ。
 あれ作るのには何年もかかったけど、あたしは諦めなかった。
 運命なんかに。病気なんかに。負けてほしくなかった。そんな想いでいっぱいだった。
 でも、それが結果的に千夏ちゃんをまた一人にしてしまったんだ」





「完成した頃にはさ、もう...遅かったよ。
 遠い丘の向こうに咲く花なんてもう...千夏ちゃんには...」

加藤の声は震えていた。その声だけで、今どんな顔をしているのか
俺には見なくても明らかだった。

その後すぐに大きく深呼吸する音が聞こえた。


「あーあ!!ダメダメ!!あたしこういう辛気臭いの嫌いなんだよねー!!」

「加藤...」

「おし!ごめん!ここからが本題!」

加藤は目のあたりを腕で拭うといきなり立ち上がり、
ベッドに座っている俺に向かって頭を下げた。


「藤崎には、絶対に千夏ちゃんの傍にいてほしい。
 それがあたしからあんたへのお願い
 あの子、近くに誰かがいてくれるだけで、それだけで幸せそうに笑っていてくれるんだ。」


その言葉にはいつもの軽快さはなかった。


子を思う一母としての真剣な気持ちがこもっていた。



その後加藤は、明日は用事で別の病院に行かなくてはいけないため、

朝千夏を屋上に送って行って欲しいと頼んだ後、俺の病室を後にした。





そしてその夜、俺は油絵の具の一式と共に静かに病室を出て屋上の入り口へと向かった。


そこに置いてある描きかけの油絵を、窓から差し込む月明かりが照らした。

青く大きく広がる海。そこから少し手前の丘には颯爽と生い茂る草々の緑、
そこに加藤が作ったひまわり畑が、小さいながらも美しく黄色に輝いている。


その絵の景色が、今まで淀んでしか見えなかった俺の目を変えてくれたことを物語っていた。


絵の真ん中には千夏の姿。

他のどの輝きにも負けないほどの笑顔をしている夏の少女。

手に抱えている花には色がまだ塗られていない。

俺はパレットに絵具を広げ、その花に色を塗り始める。


その時間はとても長く感じた。

いつもより時の進む速さが遅くなっているように感じた。




「...完成、だな」

そこには少女の笑顔と同じくらい、明るく輝くひまわりの花が咲いた。










翌朝、俺はいつもより早く目が覚めた。

昨晩は絵を描いていたため遅寝だったはずなのだが、眠気は不思議な事に全くなかった。

「さて、着替えるか」

今日は千夏を屋上まで送る仕事もある。加藤に、千夏の母親に頼まれた大事な仕事だ。
サボるわけにはいかない。

着なれたTシャツに袖を通し、近くにあったペットボトルの水を飲み、俺は廊下にでた。



そして、いつもと違う違和感を感じ取った。



いつもは静かなその廊下は、やけに騒がしかった。

看護師たちが何やらものすごく騒いでいる。

「すみません、なにかあったんですか?」

近くにおろおろとしている一人の女性看護師がいたので声をかけた。

「急患です。今朝、出勤してきた看護師が崖から転落している人を見つけまして」

そう言うと廊下の向こうから何人かの看護師に運ばれ入ってきたストレッチャーが
凄い勢いで俺の目の前を通過し、すぐに角を曲がって見えなくなってしまった。



それは一瞬だった。





俺は目を疑った。






ストレッチャーの上に乗っていたその患者は






千夏だった。







...続く

     


【 とある絵描きと夏の少女 】



「...失礼します」

俺はそう言ってノックをしてから病室に入った。


心電図の単調な音が部屋に響き渡る。

病室のベッドで千夏はただ静かに眠っていた。

頭に包帯を巻かれ、酸素マスクを着けた状態で。

加藤はその千夏の手をぎゅっと握りしめながらただ、隣で俯いていた。





加藤は千夏が事故にあったという情報を聞きつけると、すぐさま病院へ戻ってきた。

そして息絶え絶えに病室に駆け込み、千夏の姿を見るや否や子供の様に泣き出し、

ただ千夏にごめん、ごめんねと頭を撫でながら謝るのであった。


当日の朝、加藤は別の仕事があるから屋上には送って行って上げられないと
千夏に対しても告げたそうだ。

そして、ひまわりの花も今日は届けてあげられないとも。


千夏はそれを聞いても文句一つ言わず

「大丈夫ですよ。お仕事がんばってきて下さいね」

そう加藤に笑いかけたのだという。




そう。千夏はひまわりの花を摘みに、ひとりで丘に向かったのだ。


誰の手も借りずに、自分自身の力で外へ出た。


もうほとんど目が見えていない状態に近かったのに。


自分で車椅子を押して、丘へ向かった。


それが自分のためだったのか、それとも俺へのお礼の為だったのかはわからなかった。





なぜなら、事故が起きてから数日たっても、千夏の意識は戻らなかったからだ。





崖といってもあまり高さは無かったのと幸いにも砂浜近くだったので溺れることはなく

外傷もそこまでひどいものではなかった。

しかし、千夏の意識は一向に戻ることはなかった。

院長はその様子を見て、千夏の血液検査、CT、髄液検査を行った。



それらが導き出したものは最悪の結果だった。



" ウィルス性急性脳症 "



事故の当日、海に落ちてから数時間放置された事により、千夏は風邪を引いてしまっていた。

その風邪の菌が血管をとして脳に入り、酷い脳炎を起こしてしまったのだ。

それはベーチェット病により弱っていた千夏の体にとって、絶望的状況だった。


千夏にはもう、治療を行うための体力は残されていなかった。







心電図の単調な音が部屋に響き渡る。

その音は俺にとって、まだ千夏が生きている証しであると同時に

今の千夏が植物状態である事実を突き付けるものでもあった。

病室の窓辺に目をやると、水が入った花瓶が置かれていたが、

そこには何の花も挿されてはいなかった。


「加藤、変わるよ。お前、寝てないだろう。少し休んだ方がいいんじゃないのか?」

加藤は何も答えなかった。ただ、千夏の手をさらに強く握りしめただけであった。

俺は入り口に重ねられていた椅子を加藤の隣に持ってきてそこに腰かけた。

やがて加藤は重い口を静かに開き始めた。

「まただ...まただよ。あの子が辛い思いをしている時に限って、
 あたしはあの子の傍にいないんだ...
 あたしが千夏ちゃんを幸せにしてあげる?はは...笑っちゃうよね...」

「加藤...」

「こんなことになるなら引き取らずに、施設にいた方が幸せだったのかもしれないね...」

それは俺に話しかけていると言うより、自分自身に言い聞かせているように感じた。





そうだ。



そうだよ。



こんなことになるなら



こんなことになるのなら。



俺もあの時、ずっと寝たふりをしていればよかった。



屋上なんかに行かなければよかった。



千夏と逢わなければよかった。



そうすれば千夏も、加藤だってこんな悲惨な目にあわずに済んだはずなのに。



辛い想いをしないで済んだのに。



幸せでいられたはずなのに。







" 凄い!凄いです!こんなに美しい絵、私今まで見たことがありません! "


" あなたはとても美しい絵を描くのですね "


" 昨日の絵のお礼です。よかったらどうぞ "


" そんな、無理しなくていいんですよ!?私ずっとこの時間一人でしたし!!
な、なな慣れてるんで! "


" ただ...藤崎さんに私がどういう風に見えているのか...それが知りたいんです "


" 藤崎さんには私はどう映っていますか? "


" 早く藤崎さんの絵、見てみたいです! "


楽しそうに話す千夏の声が俺の頭の中でこだまする。




そんな時、昨日の加藤の言葉がふと思い出された。




「千夏ちゃんが今まで以上に
 ひまわりを取ってきてくれって言うようになったしそれに」




『よく笑うようになった』




「...確かに施設に居ればこんなことにはならなかった。
 俺があの日、屋上に行かなければ、千夏と話さなければ、絵を描くなんて言わなければ、
 こんなことにはならなかったのかもしれない。

 でもさ、施設から千夏を引き取ってからいろんなとこ一緒に歩いて回ったって
 あんた、昨日言ってたよな。公園や植物園に行ったりしたってさ。
 その時の千夏はどうだったんだ」

目を赤く腫らせた加藤が千夏の手を離し、俺の方へ初めて顔を向けた。

「その時の千夏はどう見えたんだ?
 その姿を思い出しても、施設にいた方が幸せだったって。本当に、そう思うのか?」

加藤は決して俺から目を反らさなかった。

問いかけに対して何も答えなかったが、目からこぼれた一筋の涙が加藤の想いを語っていた。


俺は千夏の方へと顔を向けた。もちろん瞳が開くことはなかった。

それでも俺は千夏へと語りかけた。どうしても、本人の口から聞きたかった。

「なぁ、千夏。お前は加藤と出会って、一緒に暮らすことになって。
 施設の中とは違う、外の景色をたくさん見て。
 いろんな草木や花を見てさ。幸せだったか?」

千夏の手をゆっくりと握る。

「病気が見つかって、病院に入院することになって。
 足も思うように動かなくなって。車椅子に乗って生活しなきゃいけなくなって。
 目が以前より見えなくなって。より景色も鮮やかに見えなくなっちまってさ。
 それでも、幸せだったか?
 俺と出会って、最初から凄い怒鳴り散らした俺だったけど、
 そんな俺とここで、出会ってさ。
 加藤と一緒に三人で話したり。あと、二人で他愛もない話とかしたなー」

景色がゆがみ、喉の奥に痛みが走ったが、懸命にこらえた。

「そしたらお前、いきなり俺に私の絵を描いてくれーなんて言ってきて。
 本気でびっくりしたよ。正直一瞬、こいつナルシストなのかなんて本気で思っちまったよ
 でもそんなお前の一言のおかげで、また絵を描こうって気になれたんだ」

千夏の手を力いっぱい握る。そこにもう温かさはあまり感じられない。

「なのに出来上がるまでその絵を見せないなんて約束無理取り取りつけてさ。
 それまで千夏の目が見えてるかなんて、わからないのに。
 結局、出来上がった絵も見れないまま、こんなことになっちまって。
 それでも...それでもさ...」


もう全てが、堪え切れなかった。


「それでも...幸せだったか?」



そう言って俺はベッドに顔を埋めた。手は硬く、握り締めたまま。







その手を






握り返す感覚を感じた。





「――― 幸せ、でしたよ ―」





俺はその聞き覚えのある

今までずっと傍にいた、聞き覚えのあるその声の方へ顔を向けた。



「―― 加藤さんと出会えて。いろんな花を見て。私の好きなひまわりに出会って」


その声はゆっくりと、そしてとても微かだった。


「―― いろんな鮮やかな景色を見ることができて。毎日散歩に連れてってくれて」


だが確かにその口元は動いていた。


「―― そんなやさしい、お母さんに出会えて...とても幸せでした――」


隣にいる加藤が、その言葉を聞いた途端、声もなく泣き始めた。


「―― 確かに足もおなかも目も、以前と変わってしまって。鮮やかに見えなくなって」


うっすらとその目が開き始める。


「―― それはちょっぴり悲しかったけど。でもそのおかげで」


ゆっくりとこちらの方へ顔をむける。



「―― 藤崎さんに、出会うことができました――」



千夏はゆっくりと腕を動かし、懐から一枚の紙を取り出した。

それは俺が初めて描いた時の乱雑なあの海の絵だった。


「―― もうほとんど見えないはずなのに。この絵だけはとても鮮やかに見えたんです。
 本当に...本当にきれいでした ――」


あの乱雑な絵を、裏紙に描いたあの絵を

千夏は未だに捨てずに肌身離さず持っていたのだ。


「―― 私は藤崎さんの描く絵がとても好きでした。とても色鮮やかなこの絵が ――」

「何言ってんだ!そんな裏紙に描いた絵なんかより、
 今描いている絵の方がずっとずっときれいだ!ま、待ってろ!今持ってくる!」


そういって俺はあの絵を取りに病室から駈け出して、屋上へ走った。



「―― 私は...藤崎さんと...出会えて ――」








「 千夏!! 」

そう言って俺は絵を抱えたまま部屋に駆け込んだ。



そこには院長と看護師が数名いた。


加藤は千夏の体に顔を埋めたまま動かなかった。


さっきまで単調なリズムを刻んでいたその機械からは――





甲高い長音が発せられていた。





「ち、千夏...うそ...だろ」

「藤崎さん。お気持ちはわかりますが、一先ず落ち着いて下さい。」

俺は看護師を振り払うと千夏の傍まで駆け寄り、持っていた絵を千夏の目の前へと出した。

「も、持ってきたぞ、これだ。

 ほら、海も、草も、花も。全部鮮やかな色をしてるだろ?

 そんな絵よりこっちの方が全然きれいだろ? な?

 あそこからはこんなにきれいな景色が広がってるんだよ。
 
 この真ん中にいる女の子。誰かわかるか?お前だよ、千夏。

 お前の笑顔は周りに負けないくらいこんなに輝いてるんだ。

 なぁ...なんとか言ってくれよ...千夏...」


「藤崎さん、千夏さんはもう...」


「千夏!!目開けろって言ってんだろっ!!聞こえねぇのか!!

 以前みたいに嫌々描かされた絵なんかじゃねぇ!!

 これは俺がこの年にもなって初めて、本心から描きたいと思って描いた絵なんだよ!!

 これ見ないで俺の絵が好きだとか、勝手なこと貫かすんじゃねぇよ!!」


「藤崎さん落ち着いて下さい!藤崎さん!」


キャンバスを振り回しながら叫ぶ俺は数名の看護師によって押さえつけられた。


加藤はただ、千夏の近くで千夏の名を何度も何度も呟いていた。









千夏は静かに息を引き取った。





結局千夏は最期まで





俺の絵を見ることはなかった。





...続く

     


【 とある絵描きと夏の少女 】


葬儀は千夏が息を引き取ってから2日後に行われた。

幼いころから施設育ちということもあり葬儀に参列した人数は少なかった。

なので、葬儀はとても物寂しいものだった。

焼香を上げるところに置いてあった千夏の写真は、今に比べると少し幼かった。

それでもあの明るい笑顔は変わらなかった。


棺に入った千夏の肌の色は、着ている着物よりもとても白く思えた。

その千夏が手に持っていたものは、

いつまでも大切にしてくれていたあの乱雑な絵だった。

おそらく加藤がお願いをしたのだろう。

両手で大事そうに、胸の上に抱えていた。

俺は出来上がったあの油絵を枠から外して持ってきており、直前まで入れようと思っていた。



でも、できなかった。



千夏とのあの時間が。

屋上で過ごしたあの時間が。

無かったことになってしまいそうで。

俺は最後までポケットの中でその絵を、ずっと握りしめていた。


最後に皆で棺の中に花を手向けた。



千夏の大好きだった黄色いひまわり。



たくさんのひまわりに囲まれている千夏の顔は、とても幸せそうだった。




俺はその時、千夏のその表情がどこか笑っているように見えた。






「んじゃあ、父さん下の車で待ってるから。荷物まとまったら降りてこいよ」

「わかった。すぐ行くよ」

父からかかってきた電話を切ると、俺は途中まで描いていた絵を再開した。

窓辺の花瓶に挿された一輪のひまわり。

それを色鉛筆を使って描き上げていた。

青い花瓶の色を塗るために俺は箱から青色の色鉛筆を取りだした。

一本だけやけに小さい青色の色鉛筆。

開けていた窓から入ってきた心地良いほどの潮風が、カーテンをふわりと舞い上がらせた。

「あれ?まだいたの。下に止まってる車、あんたんとこの親父さんでしょ」

そう言いながら入ってきたのは加藤だった。

加藤はあの後も変わらずこの病院で勤務を続けていた。

「そうだけど。いまちょっと仕上げてるものがあってさ」

「なにー?また絵描いてるの?」

「ああ、もうすぐ完成。ほら、やるよ」

そう言って俺は描いていたひまわりの絵を加藤に手渡した。

「ほー、こりゃうまいもんだ」

「これでも元美大生だからな」


俺はあの後、美大をやめた。

父と母にも相談し、お前がそう決めたならそうしなさいと言われた。

しかし美大をやめたからといって何かが変わる事もなく、俺はその後も絵を描き続けた。

ただ自分が描きたいと思ったものを描き続けた。


「ここまでうまく描いてくれると、あたしが毎朝摘んできてやった甲斐があったってもんだ」

そう言って加藤はいつものようにケラケラと笑った。

「さてと、んじゃあ描き途中の作品も完成したし、俺はそろそろいくよ」

そういって鞄を持ち上げ、廊下に出ようとした。

「ああ、待った。渡したいものがあるのはあんただけじゃないよ」

加藤は俺に封筒に入った一つの便せんを手渡してきた。

「なんだよこれ。あんたからの別れの手紙なんかいらないんだが」

「んなのあげるわけないでしょ。とりあえず開けて読んでみなって」

そう言われ、俺は渋々持っていた鞄を足元に置いて封筒を開け、便せんを開いた。

それは誰かから俺に宛てられたものだった。

見たこともない字だったが、それが誰からのものなのかはすぐに分かった。



『藤崎さんへ

 退院おめでとうございます。
 あなたにどうしても伝えたいことがあるのですが、私はどうも話下手なので
 このように手紙に認めることにしました。

 私が初めてあなたに会った時、私があなたに話したことを覚えていますか?
 あなたには、この海がどんな風に見えますか、確かそんな感じでしたね。
 きっと藤崎さんは最初、こいつは何を言っているんだと思われたでしょう。
 私もなんて訳のわからない質問をしたのだろうと、今思うと少し恥ずかしくなります。
 でも、そんな質問から入った私の話に、あなたは無視をすることもなく
 逆に大声を出して私に怒鳴りつけてきましたね。
 正直、びっくりしました。
 でも、それ以上に驚いたのはあなたが私に見せてくれたあの絵を見た時でした。

 実を言うと私は今、治療法のない難病にかかっています。
 今まで黙っていたのは、藤崎さんに心配をかけたくなかったという私のわがままからです。
 本当にすみません。
 その難病のせいで体が思うように動かない上に、実は視力ももうほとんどありません。
 屋上でいつも外を眺めていながら、私には外の景色はほとんど入ってこないのです。
 そんな中、あなたの絵を見た時には本当に驚きました。
 今まで碌に見えていなかった私の目でも、とてもきれいで色鮮やかに見えたのです。
 あの絵を、最初に見た時の感動は今でも忘れられません。

 もう見ることができないと思っていたその色鮮やかな景色を
 あなたは絵で私に見せてくれたのです。
 本当に。本当に嬉しかった。
 あの絵は今でも宝物として大切に肌身離さず持っています。

 それから私はあなたに自画像を描いてほしいとお願いをしましたね。
 勝手なお願いを聞き入れてくれたこと。本当に感謝しています。
 私があなたにこんなお願いをしたのも、あなたのその素敵な絵で
 この屋上から見える景色をもっと見せて欲しかったからなのです。
 そしてこの私自身も、あなたにとってどのように見えているのか知りたかったのです。
 
 でも、ごめんなさい。
 私はもう以前にもまして目が見えていません。
 あなたが私のお願いを聞き入れてくれた夜にこうして今、手紙を書いているのですが
 もう字を書いている手元さへも怪しいくらいに病状は悪化しています。
 あなたが作品を描きあげる頃にはもう、見ることができなくなっているかもしれません。
 本当に身勝手でごめんなさい。
 
 でも私には見えなくともその作品はとても素晴らしいものだということがわかります。
 藤崎さんが描かれる絵ですから。素敵じゃないはずがありません。
 私をきれいに描いてくれているかどうかは少々不安なところはありますが、なんて。

 あなたがここを退院する時、その時の私はどうしているのでしょうか。
 まだ目は見えているのでしょうか。
 もう見えなくなっているのでしょうか。
 それとも、もうこの世を去っていますでしょうか。
 今の私にはわかりません。

 でも、私がどうなっていようとも絶対に変わらない気持ちを最期にここへ綴り、
 この手紙の最後としたいと思います。


 藤崎さん。私はあなたの事が好きです。
 あなたと出会うことができて、私は本当に

 幸せでした。

                                   加藤 千夏』




涙が。


涙が止まらなかった。



広げていたその便せんに涙がこぼれ落ち、描いてある字を滲ませた。


「あんたが退院する時に渡してほしいって、頼まれてたんだ。
 自分で行けって言ったんだけどね。恥ずかしいから無理だって言って聞かなくてさ」

加藤は持っていた自分のハンカチを俺にそっと手渡した。

「なぁ...千夏は...千夏はこんな俺に出会って本当に幸せだったのかな」

「そこに書いてあることに偽りはないよ。
 夜中までひたすら文を考えながら書いてたけど、千夏ちゃん、とても幸せそうだった」


俺はその手紙を握りしめたまま、ただひたすら泣き続けた。


絵、見せてやれなくてごめんな。本当にごめん。

でも俺も千夏のおかげでまた楽しんで絵が描けるようになったよ。

俺も千夏が好きだ。

俺も千夏に会えて本当によかった。幸せだったよ。ありがとう。


その時、花瓶に挿されたひまわりが微かに揺れた様な気がした。



「ほら、いつまで泣いてんだ!とっとと出ていけ!
 また、夏にでも顔出しにこいよ?今度はちゃんと健康体でな!
 ―――あ、そうだ。なんで千夏ちゃんがずっとお前にひまわりを渡していたか、
 教えてやろうか」

俺が廊下に出た時、そう思い出したかのように加藤は口にした。

「千夏が好きだったからじゃないのか」

「んー。まぁそれもあるだろうけどな。他にもあるんだよ。" 花言葉 "さ」

「花言葉?ひまわりの花言葉ってなんだったっけか」

「それはな。―――」





   ― ひまわりの" 花言葉 " それは ―










        ―――――――――――――『 いつも あなたを見ています 』―――――










END

       

表紙

タン塩 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha