Neetel Inside 文芸新都
表紙

砂糖菓子と渡り鳥
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   序

 私の最初の記憶は、
 かちゃかちゃという小気味よい音と、
 少しくすぐったくて、温かな感触。

 しばらくの間は何も見えなくて、
 音だけを聴いて過ごしていた。

 香りも、かなり古い記憶の中に残っている。
 まだ、体も手足も無かった頃だ。
 今思えば、あれは春だったのだろう。
 花色の風が、植えられたばかりの髪を揺らしていた。
 
 眼が見える様になったのは、初夏。
 若い光が窓の外の景色を濡らしていた。
 私は傾いた視界の中に、
 自分に与えられた偽りの永遠を見た。

 父──と呼ぶべきであろう方の事は、
 あまり、覚えていない。
 優しく肌を撫でる繊細な手の感触は、
 今でもすぐに思い出せるのに、
 顔も、
 声も、
 思い出せない。

 何故だろう。

 やっぱり、思い出せない。

   ○

 はっきりとした記憶は、
 あの子に初めて抱きしめられた日から始まる。

 私と同じようにおめかしをした、
 私と同じ位の年齢の女の子だった。
 髪の色はきれいな金色。
 瞳の色は青色で、
 雨上がりの空を切り取った様だった。
 いっぽん欠けた前歯が、
 可笑しくて、
 愛おしかった。

 あの子は私を抱きしめて、
「はじめまして」
 と笑った。
 何も言ってあげられないのがもどかしかった。
「あなた、とってもきれいなドレスね」
(あなたもよ)
 と胸の裡で呟く。
「かみのけも、しろくてふわふわしていて、うらやましい」
(あなたの髪も、木漏れ日の様で素敵よ)
 触れ合わない会話でも、楽しい。
「さとうがしみたいね、あなた」

「そうだわ、あたし、あなたを『さとうがし』とよぶわね」

 こうして私は、
 あの子の『砂糖菓子』になった。

   ○

 私が、
 自分が『人形』で、
 あの子とは違う時間を生きているのだと気付いたのは、
 哀れなことに、出会いから数十年も経ってからだった。

 その頃にはもう、
 あの子はとうに、
 子供でも、
 少女でもなくなり、
 家族から知った顔は減り、
 知らぬ顔が増え、
 私を抱くのも別の少女に変わっていた。

 何の為に私は生まれたのかと、
 一度だけ考えたことがある。
 でも、それは一瞬の事。
 私を見つめる無垢な少女の瞳に、
 答えは星空の様に散りばめられていた。

   ○

 その後、私はずいぶん長い旅をした。
 色々な場所で、
 色々な少女に愛された。
 不思議と、
 どの女の子も私を『砂糖菓子』と呼んでくれた。
 お気に入りの名前だったから、
 素直に嬉しかった。

 たくさんの花に飾られた。
 たくさんの風に揺られた。
 たくさんの梢に身を寄せた。
 たくさんの夢を聞かせてもらった。

 私は、
 幸せだった。

   ○

「──ごめんね」

   ○

 最後に、
 誰かに抱かれたのは何時だったろう。
 少なくとも、
 これだけ部屋が荒廃する程の時間は経っている。

 カーテンのレースは風に千切れ、
 何時の間にか割れた窓から飛び込んだ、
 季節と虚ろが至る所に積もっている。

 チェストの上で傾いて座る私は、
 右目で窓のその向こうを、
 左目で時間に洗われた部屋の中を、
 もうずっと、
 ずっと、
 見つめていた。

 私の髪は縮れて縺れ、
 ドレスもくすんで乱れている。

 もう誰も、
 砂糖菓子とは呼んでくれなかった。

 噛んだ唇の様に、
 心が燃えた日もあった。
 でも今は、
 この部屋の様に、
 ただ、
 無慈悲に、
 静かだ。

     

   壱

 こつこつと、
 窓を叩いたのは鳥だった。

「開いているわよ」
 嬉しくて、嫌味を言った。
「呼んでいるんだよ」
 鳥は笑って、窓枠に止まった。

「何か、用かしら」
「うん、そう、そうなんだ」
「あなたは、渡り鳥ね」
「そうだよ」
「私に用って言うけれど、私はあなたみたいに動く事は出来ないし、きっとずうっとものを知らないわよ」
「うん、そうだね。そうかも知れない」
「何も、否定しないのね」
「ああ、うん、ごめん」
 鳥は、小さく羽ばたくと、
 私の隣へ舞い降りた。
「あなた……片眼が無いのね」
「うん、そうなんだ」
 つぶらな、木の実の様な瞳は、
 私から見て左側だけが輝いている。
「怪我を、したの?」
「うん、一昨日の嵐で」
「仲間とは? はぐれてしまったの?」
「うん、一昨日の、嵐で……」
「それで、私に何を?」
「君の眼を、くれないかな」
 鳥は頭を下げ、申し訳なさそうに言った。
「良いわよ」
 私が即答すると、
 鳥は、驚いて顔を上げた。
「良いの?」
「良いわよ。その代わり……」
「その代わり……?」
 鳥は、少し不安そうに後ずさりをした。
「左目にしてちょうだい」
「左目?」
「そうよ」
「なぜ?」
「時が止まっているのなら良いのだけれど……」
 私は荒れた部屋を見ていた。
「手の届かないところで、無慈悲に過ぎゆく時間なんて、いらないわよね」

   ○

「それで、どうやって私はこの眼をあなたにあげれば良いのかしら」
 私の問いに、
 鳥は困った様に一声鳴いた。
「わからないのね?」
「うん。君も?」
「わからないわね」
 二人はため息をついた。

   ○

「あなた、名前はあるの?」
 私たちは、少しだけ話をした。
「くつくつ、と呼ばれているよ」
「くつくつ?」
「君は?」
「私は……砂糖菓子と呼ばれていたわ」
「砂糖菓子か……美味しそうだね」
「あら。それなら、少し食べてみる?」
 私が冗談めかして言うと、
 くつくつは真剣な顔で頷いた。
「それなら、その、左目を」

   ○

「どうかしら」
 私の左目をつつく彼に問いかける。
「美味しいよ」
「美味しいの?」
「うん」
「なら、良かったわね」
「うん。甘くて……ほんとうに砂糖菓子みたいだ」
 私は、少しだけ照れくさくて、
 黙っていた。

   ○

「……終わった?」
「うん」
「どう?」
「……見える。見えるよ」
「ほんとう?」
「ほんとう」
 鳥は、
 私の右目に、
 自分の両目を映して見せた。
 濡れた夜の様な双眸が、
 吸い込まれそうな程、きれいだ。
「……行くのね」
「うん」
「そう……」
「ありがとう」
「どういたしまして」

   ○

 羽ばたく音が、遠ざかる。

 私は、
 良い事をしたのだ。
 枷になっては矛盾してしまう。

 だけど、
 寂しかった。

 だから、
 強がって、
 一言、

「良い旅を」

     

   弐

 こつこつと、
 窓を叩く音がした。
 
 北風の仕業だろうかと、
 閉じることの出来ない瞳に、
 意識を通わせた。
 ひとりの時間が長すぎたからか、
 なかなかうまくいかない。
 心が錆び付いたのか、
 凍り付いたのか。
 
 しばらくしてから、
 光は私に再び世界を与えた。

 窓を叩いていたのは、
 一羽の美しい鳥だった。
 白い翼が雪の様だ。
 薄紅の嘴は花弁を思わせ、
 冷え切ったこの景色を、
 ほんの少しだけ暖めている。

「何か、ご用かしら?」
 冷たい、
 冷たい、
 私の声だ。
 ずいぶん長いこと口を閉ざしていたせいで、
 どうやら声までが凍り付いてしまったらしい。
「用……いや、用は無いんだ……でも、困っていて……」
「それはつまり、用があるって事ではないかしら?」
「うん、そうだね……でも……」
「否定が多いのね」
「いや、うん、そうだね……」
 久しぶりの生ある会話だというのに、
 私は少し苛立っていた。
「用が無いのなら、何かお話でもして下さらない? 私、とても退屈なのよ」
「ごめん、だめなんだ。僕は、急がないといけないから……」
「なら、早く用件をおっしゃって下さいな」
「うん……」
 鳥は、
 おずおずとこちらへ近付いて来た。
 僅かに、
 片足を引きずっているようだ。
「怪我でもなさったの?」
「ああ、いや……うん、そうなんだ」
「はっきりしないのね。お空の雲よりも曖昧だわ」
 私の言葉に、
 鳥は寂しそうに笑った。
「どうかして?」
「ううん……あ、いや、僕の名前がね」
「名前?」
「うん、もくもくっていうんだ」

   ○

「──それでね、くつくつに聞いたんだ」
「まあ、懐かしい名前ね。彼はお元気?」
「うん、元気だよ。今頃は空の上さ」
「あら、あなたは行かなくてもいいの?」
「それがね……」
 もくもくは、
 小さな嘴から、
 小さなため息をこぼした。
「足を怪我してしまったから……」

   ○

「ねえ、砂糖菓子」
「いきなり呼び捨てなんて失礼だこと」
「ああ、ごめん……」
「冗談よ。それで、私に何を?」
「君の足を、食べさせておくれ」

   ○

「いかが?」
「美味しいよ」
「急に素直になったわね。おかしいわ」
「おかしくなんてないよ」
「そうかしら」
「そうだよ」

   ○

「どう?」
「うん、前よりも、ずっと、良いよ」
 もくもくは、
 私の前でぴょんと跳ねて見せた。
 夕焼けに照らされた羽が、
 ガーネットの様に眼に刺さる。
「それじゃあ、ほら、お行きなさいな」
「うん……」
「どうかしたの?」
「君は、お別れは苦手じゃないの?」
「私は……」

   ○

 私は、
 また独りぼっちになって夕日を見ていた。

 何かが足りないのだけれど、
 それがわからなかった。

 ただ、
 血を求めるバンパネラの様に、
 乾いている気がした。

 だから、
 そんな気持ちを振り切るように、
 私は言った。

「良い旅を」

     

   参

 とっ──と、
 鈍い音で目が覚めた。

 眼を開いたままなのに、
 何も見えずにいたのは、
 人でいえば眠りそのもの。
 人形でいえば、
 死に似た、
 何か。

 玩具の体は、
 求められなければ意味が無い。
 飾られたままでは、
 生きているとは、
 いえない。

 また、長い間、
 独りぼっちでいたせいで、
 頭の中の時計が出鱈目になってしまったらしい。
 今がいつなのか、
 いつで時が止まっていたのか、
 何もわからない。

 私は窓の方を見た。
 外は、
 明るいようだ。
 風が冷たいのを感じる。

 意識がはっきりしてくるにつれて、
 死の色に濁っていた視界も、
 生命と時に彩られ、
 意味を持ち始める。

 窓枠の上に、
 一羽の鳥が倒れていた。
「どうか、されて?」
 音ならぬ声を投げかける。
「助けて、欲しい」
 鳥はうめきながら、
 そう言った。

   ○

「僕は、さんさんっていうんだ」
「綺麗な名前ね。羨ましいわ」
「君だって、素敵だよ。砂糖菓子」
「あら。どうして私の名前を?」
「くつくつに聞いたのさ」
「いやだわ、言い触らして回っているのね」
「助けて欲しい」
 彼は苦しそうに言った。
 自分の事で必死なくせに、
 思いやりのある会話が、
 何だかひどく胸に刺さった。
「羽が、折れているのね?」
「そうなんだ」
 彼の右の翼は、
 いびつに曲がり、
 北風にはためいている。
「私に翼は無いわ」
「わかっている」
 立ち上がりながら、
 彼は言う。
「君の、その、腕を」

   ○

 てんてんと跳ねて、
 彼は少しずつ、
 こちらへ近付いて来た。
「大丈夫?」
「もどかしいよ」
「そうね、もどかしいわね」
「……君は、ずっとそうして動けないままなのかい?」
「ええ、そうよ。自分では歩けませんからね」
 遠い記憶が頭を過ぎる。
 そういえば、
 昔はずいぶんと色んなところへ連れて行ってもらった。
 独りぼっちになってから、
 何処かへ行く事なんてすっかり諦めてしまっていた。
「……植物は、ずっとそこにいて、退屈では無いのかしら」
「わからない。わからないけれど、きっと退屈だと思うから、僕たちは種を運ぶのさ」
「あら、じゃあ私の事も何処かへ連れ去って下さる?」
「花のうちに摘んでしまっては、枯れてしまうよ」
「摘まなくたって、何時かは枯れるわ」
「枯れるまで、待たなくっちゃ駄目さ」
「そう、それじゃあ──」
 私は、
 笑って言った。
「枯れない花は、何の為に咲くのかしらね」

   ○

「右腕で、良いのね?」
「ああ」
「治る保証なんて無いわよ?」
「ああ」
「私にも翼があれば、食べさせてあげるのに」
「僕には、見えるよ」
「……馬鹿にしないでちょうだい」

   ○

「少し、くすぐったいわ」
「くすぐったいって、感じるんだね」
「馬鹿にしないでちょうだいってば」
「美味しいよ」
「ほら、また……」

  ○

「どう?」
「うん。これなら行けそうだよ」
「不思議ね」
「ありがとう」
 彼は、
 窓枠へと華麗に飛び乗ると、
 こちらを寂しそうに振り返った。
「ごめんよ」
「ほら、また……」

   ○

 寂しい、と思った。

 遊んでもらって、
 私は、
 また少しずつ玩具に戻っているのだろうか。

 時間の止まった部屋の中、
 ただの物と成り果てていた私の心に、
 小さくて、
 取り返しのつかない、
 ひびが入っている。

 少しだけ、
 怖くなったから、
 もう誰もいない景色に呟いた。

「良い旅を」

     

   継

 きい──、きい──。

 遠くから、
 音が聞こえる。

 自然の音では無い。
 私には、
 わかった。

 もうすっかり、
 頭も、
 心も、
 時に曝され削られて、
 すっかり禿びてしまったが、
 どうやら、
 まだ、
 私は生きているらしい。

 きい──、きい──。

 古い記憶が、
 頭の中から零れ落ちていく。
 最近は、
 こうして意識がある時の方が珍しいが、
 目覚める度に、
 思い出が、
 マッチの火の様に、
 目映く朽ちていく。

 お父様の温もりが、
 消えていく。
 あの子の声が、
 消えていく。

 私はもう、死にかけていた。

   ○

 こつこつ、と、
 音が聞こえた。

 心の眼を開く。
「どなた?」
 と、呟く。
「僕だよ」
 と、声が返ってくる。
「ごめんなさい。あまり、よく見えないの」
 とっ、とっ、っと、
 跳ねるような音がした。
「近くに、いるのね」
「うん」
「どなた?」
「くつくつ、と呼ばれているよ」
 それは懐かしい名前だった。
 少しだけ、胸に光が灯る。
 ああ、
 またマッチが朽ちていく。
「懐かしい名前ね」
「覚えていてくれたんだね」
「今は、まだ、ね」

   ○

「外は、春かしら?」
「ううん。ずいぶんと、寒くなってきたよ」
「あら。それならあなたはどうしてここに?」
「……良いんだ」
「渡り鳥が飛んで行かずにどうするの?」
「どうも、しないよ」
 真夜中のような彼の瞳が、
 艶やかに光る。
「そう……あなた、もう……」
「そう。冬が、くるんだ。僕にもね」

   ○

「それじゃあ、寂しい同士、お話しでもしましょう」
「ううん。今日はお別れを言いにきただけだから」
「あら、やっぱりどこかへ行くの?」
「ううん」

 きい──、きい──。

 遠くから、音が聞こえる。
 何だろう。

「僕は、さっきからずっと見ていたんだ」

 がちゃり。

「行くのは君だよ」

   ○

「わあ、みてママ。お人形」
 私に、触れる感触。

 誰?

「あら、だめよ。そんな……汚らしい……」
「そんなことないわ。この子、とても可愛いわ」
 頬と頬が触れる。
 そして、
 優しくて、無邪気な口づけ。
 私の中の氷が溶けていく。
 埃まみれの思い出達は、
 本当に必要なものだけを残して、
 この新しい風に散っていく。
「あなた、甘い味がするわ」
 目の前の少女が、
 いたずらっぽく唇を舐めて言う。
「そうね……砂糖菓子。あなたの名前は砂糖菓子よ」
 私は、
 くすり、と笑った。

   ○

 片眼と、
 片手と、
 片足と──。
 私が失ったものは少なくない。


 しかし、
 残った片眼と、
 残った片手と、
 残った片足とで、
 私が得ることが出来るものも、
 まだあるらしい。

 窓枠の上で、
 くつくつが笑っている。

「良い旅を」

       

表紙

火呼子(ひよこ) 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha