Neetel Inside 文芸新都
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Wild Wise Words
地均しの蟻

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 ずしん、と響いた音が耳元に届くと同時、地面が一段下がるような揺れを足元に感じた。
 遥か彼方、歩けば3日か4日はかかろうかという距離、地平線の向こうに見えたのは「地均しの蟻」だ。それは昆虫にしては馬鹿でかく、私が知っている限りではこの惑星をもう一億周以上もして、地面が真平らになるまで行進をやめない神話上の怪物だった。
 私は昆虫学者として、この蟻の研究にやってきた。いや、正しくは歴史学者か。それとも宗教家か、ああ、単なる見物人か。まあ何だっていいがとにかく使命は1つも帯びていない身軽な身だ。この惑星の生物は全てあの蟻の出現によって滅びたので、今この地上にいる人間は私1人。人間以外の生物はあの蟻1匹だ。
 また1歩、その身体との割合で言えば細い、しかし地面との割合で言えば天まで届く塔のような脚を踏み出す蟻。地面にいくつも亀裂が生じた。しばらくしてまた蟻がそこを通れば均されて亀裂も塞がる。蟻の行進はこの惑星がつるつると丸い完全な球になり、地上の凹凸一切が失われるまで終わらない。そういう生態なのだ。
 昆虫学者らしく、「地均しの蟻」について分かっている事を少し述べよう。身体はその大きさを除けば一般の蟻と全く同じで、頭、胸、胴。そこに6本の脚が生えている。眼は大きく、触覚も使って前方を探る。探った所でこの大きさでは蟻の行く道を邪魔する物など有り得るはずもないが、何とも不思議な物だ。
 この蟻の存在が初めて確認されたのはこの宇宙が誕生する以前とも言われている。しかし誰が確認したのかは分からない。矛盾しているようではあるが、この大きさでは確認した者に命は無いし、この大きさでは確認するなという方が難しい。おっと、これは昆虫学者ではなく歴史学者の領分だったか。
 とにかく、人間の生まれる遥か以前から「地均しの蟻」は惑星を踏み鳴らし、滅ぼしてきた。そして宙を渡り、生き続ける。ずしん、また1歩。巨大さ故に動きは緩慢に見えるが、確実にこちらに近づいてきている。重要なのは目的だ。昆虫学者の立場に戻るが、この蟻が地面を均す目的は未だに解明出来ていない。滅びその物か、それともただ何のあてどもなく歩いているだけなのか。その答えを得る為に必要なのは見る事だ。そして見る事は、昆虫学者でも歴史学者でもなく見物人の領分だ。
「お久しぶりです。こんにちは」
 不意に声をかけられた。振り向くと、そこに説法屋が立っていた。
「お前か。何の用だ?」
「妹からの頼みで、あの蟻の脚を1本頂けないかと来てみたんですよ」
 手で瞼の上に屋根を作り、のん気に遠くの蟻を眺めながら、説法屋は上機嫌だった。
「君に妹がいたか?」
「ええ、わがままで困っています。協力頂けますか?」
「どうだろうな」私は自身の皺だらけの手を見てため息をつき、「この老いぼれで役に立てるかどうか」
「ご謙遜を。相手はたかだか蟻1匹」
「まあ、そうだな」
 ぼんやりと返事をする私の目が、僅かに霞む説法屋を見ていた。
 それから私と説法屋はしばらく世間話をしながら蟻の到着を待った。近づく程に地面の揺れも空気の揺れもその間隔を広くし、やがて頭部が日の光を遮ると夜がもたらされた。私達は土の中に埋もれた枯れ木を掘り起こし、それで焚き火を作って温まった。
 絶え間なく揺れる一夜を過ごし、いよいよ前脚の1本が私達のすぐ近くに降りた。地面は隆起し、飛び跳ねた岩は粉々に、天地もない震動が私達の周りを包んだが、私と説法屋には心の安らぎがあった。彼も私と同じく宗教家としての素質がある。
「ではそろそろ、脚の1本を頂きましょう。先は僕が」
「ああ」
 説法屋が蟻の脚をよじ登っていく。その巨大さ故に、表面は細かい毛のような物に覆われ、天への旅路は意外と快適だ。夜を作る影が額の汗を優しく拭い、蟻の放つ微香は爽やかに甘い。遠くから見ていただけでは成し得なかった発見が、脚の道には転がっていた。
「目的を研究しているんでしたっけ?」
 先を行く説法屋が、私にそう尋ねた。私は声を張り上げて「そうだ」と答える。
「登っていて気がついたんですが、この蟻はフェロモンを出していますね。ほら、お尻の方から出す匂いで、群れに『自分はここだ』と知らせるような奴」
 確かに、言われてみればそうだ。先ほどから鼻がくすぐられている感覚がある。
「意外とこの蟻の目的も、あなたと同じかもしれませんね」
 私と同じ? 顔をしかめる。
「得意の説法か?」
「いえいえ、あなたに説く程、僕は自惚れていませんよ」
 そして笑顔で私を見下ろす説法屋の顔は、昨日より霞んでいた。
 やがて私達は、蟻の脚の節目に到着した。そこは不思議と安定しており、その脚の着地時に僅かに揺れる程度で、少なくとも昨日よりは寝心地が良さそうな気がした。
「では、後はこの節目を説いて、脚を1本頂くだけです」
「待ってくれないか」
 1日をかけて蟻の脚を登っている中で、私は気づいてしまった。この蟻の目的、私の研究、そして説法屋が、私に何を言いたいかについて。
「妹さんには申し訳ないが、この蟻の脚は1本たりともくれてやる事は出来ん」
「気にしないでください。僕に妹などいません」
「ふむ、そうか。では早くこの惑星から去ってくれないか?」
「ええ、そうしましょう。ではまた」
 そして説法屋は蟻から飛び降りた。脚の節目に残された私は、差してきた日に眼を細めながら、遥か遠くを見つめ、ありもしない空想に耽る。
 気づかぬ間に足元から私の身体を這い上がってきた小さな小さな蟻が、私に抱く好奇と好意。その甘美な物語。
「生意気な弟子を持つと苦労するな、蟻よ」

       

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