見返すと導入が下手だった。
他人に心情を吐露するのは、知性の敗北である為、あまり関心を買わないような導入にしたい。
これは実験です。
新都社の人たちの思考や拒絶、称賛を知りたく、今後の創作に活かしたいので、試しとして掲載することに致します。
不快に思われる文章の可能性も存分に含まれます。
この点に留意して、未来の為に激情することなく、嘲笑することなく読み進めていただきまく思います。
新しい思想が必要である。
それは人間の集団生活を維持する作為的な排他的思想ではならない。
新しい思想が必要である。
それはマイノリティをいたずらに誇らせる独善的かつ排他的であってはならない。
偽善とは他人の前で神に祈ることである。
他者の前で映えるように、太陽の光を浴びながら、神に祈りを捧げることである
露悪とは他人の前で人を踏みにじることである。
他者の前で如何に脅威的に、狂人染みて人をいたぶることである。
童貞の臆病が嫌い ヤリチンの無節操が嫌い
ニートの脆さが嫌い 社会人の無神経が嫌い
貧困層の自堕落が嫌い 中流層の属集が嫌い 上流層の特別意識が嫌い
自分を好きな人間の偽善が嫌い 自分を嫌いな人間の露悪が嫌い
他人に共感する同属意識が嫌い 他人を批判する思い上がりが嫌い
知識がない人間の愚かさが嫌い 知識のある人間の傲慢が嫌い
平等とは無干渉です。
人に向かって、お前は間違っている、お前は弱者だ悪党だと説く。
これは、他人の価値感覚を冒涜し、自らの正統性を道徳観、暴力性で捻り作る。
人に向かって、お前は正しい、お前は強者だ善人だと説けば、他人の価値感覚を自らの自意識のみで正統し、いたずらに群れをなして自らの同意する意識の正統性を道徳観、偽善性で捻り作る。
倫理観の巧妙なロジックは人を殺める武器だ。
道徳的に生きない人間は屑、なんて排他であり、既に道徳を逸脱している。
簡単にいうと他人に教えを説くのは、脅迫なのだ。
「お前は善良に生きなければならない」
誰がそう決めたのだ、と問い詰めると、宗教を崇める人間は「指導者」だとか「神様」だと言うだろう。不確実なものばかりだ。
日本人は宗教を崇める人間は少ないので「自分の胸に聞け」だの「自分の純粋さ」だと言うはずである。
思考停止に他ならない。
「自分の純粋さ」を他人に主張する人間は既に純潔ではないのだ。
自分の思想を他人に打ち明け、救う側を気取ったり、自分の善良をアピールする魂胆がある。
これは偽善である。
「自分の胸に聞け」と言うのはあまりに自分以外の人間を知らなすぎる。
如何に悪どい、悪魔の様な所業を行っても、自分は強いから当然だ、と主張する人間もいるのだ。
これも偽善である。
マイノリティへの脅迫である。
理論武装した、道徳観を盾にした思想弾圧な他ならない。
では僕は暴力を肯定しているのか?と言われると、そうではない。露悪者にも退廃観と無常感を盾にした、理論武装がある。
自然界はピラミッド上に連なっており、弱肉強食という摂理は人間が発案した定説になっている。
動物達の弱肉強食というのは死骸の食いあいだ。ヒトも動物の一部であるから、強いものが弱いものをいたぶって当然。というのが彼らの理論武装である。
これも思考停止に他ならない。
地球上ではもっとも優れた知性を持ち、科学と食物普及の発達した人間が、サバンナや密林で空腹に喘いで暮らす動物と同じである、とは全くの筋の通らない話だ。
また一部の露悪者は被害者を主張する。
自らは社会の主義主張に弾圧された、歪んだ世間の犠牲者であり、本当の可哀想な人間なのだ、というのが主張である。
つまり、簡単に言えば「他人だって僕をいたぶるんだから、僕だって人をいたぶっていい」という話だ。
世間知らずの子供の発想だ。
彼らは大人になっても自らのアイデンティティーを獲得できず、全てを他者のせいにして、悲嘆と絶望に暮れている、という感情だ。それを他人に見せびらかし、世の中の同情を買おう、という寸法である。
あまりに人目を意識しすぎている。
他人の前で神様に祈ることとなんら変わりない。これもまた道徳観を盾にした理論武装である。
神様の変わりに、悪魔に祈るだけの話だ。
偽善者と露悪者。
善人と悪人。
ニートと大富豪。
どちらに加担してもいけない。
どちらを称賛してもいけない。
どちらとも対立を煽らない、新しい思想が必要だ。