SF小説アンソロジー
アシュバートン/複素数
今より少し未来、万能細胞やクローン胚の関連技術の商業利用が解禁された。解禁になったのは豚を使った移植用の内蔵の製造や、拒絶反応の起きない輸血用血液の製造などだけで、道徳的に問題だとされていたクローンなどの技術は未だに禁止されていた。それでも、世間はお祭り騒ぎになった。
その時の事は今でも覚えている。テレビや新聞では連日連夜、不治の病とされてきた病気の患者たちが放映された。みんな往々に喜んでいたと思う。そして番組の締にコメンテーターが言う。『科学が人を救ったのだ』と。
確かにそうなのだ。たいがいの病気は体の部品を取り替えれば治る。今まではそれが簡単には出来なかった。だがこの技術を使えば体のどこの部位であっても、新鮮なものがすぐに用意できるのだ。70年代のサイバーパンクSFで描写されたような、体に機械の部品を埋め込む未来が部分的に来たのだと、当時はそう思って感動した。
医療業界は、これらを移植医療の革命と呼んだ。
大きな窓のある個室に、レースのカーテン越しに強い西日が入り込む。夕日のオレンジに照らされた白い壁紙の照り返しで、照明がついていないにも関わらず病室はとても明るい。
僕は手元のリモコンで自動リクライニングのベッドを操作し、背を起こした。
顔に直に当たる陽の光は熱かった。僕にとってはこんな些細なことすら毒になると知ってはいたが、やめられない。もっとも、もうすぐ些細な事で医者に毒づかれる事も無くなるのだが……。
ベッドの脇にある水の入ったコップを取ろうと手を伸ばすが、手に力が入らない。なんとか持ち上げたコップも、口元に運ぶ前に手から滑り落ちてしまう。
アクリルのコップが派手な音をたてて床に水をぶちまける。
僕にとってはこれも殆ど日常だ。こうしてモノを床に落とす度に、力なく空を掴む手が目に映る。その手はやせ細って皺だらけで、ふるふると力なく震えている。
ここはアシュバートン。アシュバートンというのは地名で、ここには重病患者専門の病院がある。そして僕はそこの入院患者だ。アシュバートンには病院以外無いので、それがここの代名詞になっている。重病人が最後の時間を過ごす場所、アシュバートン。
移植医療革命から程なくして、世界は本当に変わった。心臓疾患や先天性の臓器障害の患者だけではない。肝硬変や胃潰瘍などといった、従来は投薬と施術を組み合わせて長期で治療していた病気も臓器の交換で済まされるようになっていた。内蔵だけではない。骨や眼球、神経系なども同様だ。臓器移植という言葉はいつしか、より軽便な”交換医療”と言い換えられるようになっていた。
そうして人々が交換医療にすっかり依存した頃、ある論争が起こる。完全な自分の体を作ることは道徳上問題か、ということだ。20世紀後半から21世紀にかけて、人の寿命は医療の充実した先進国で80歳前後を推移した。別の言い方をすればそこで頭打ちになったのだ。原因は様々だが、現代人としてふつうの生活をしている人でもその歳になる頃にはどこかしらにガタが来て、そこから体がダメになっていくのだ。だが交換医療はその限界を大きく押し上げた。今や平均寿命は伸びるいっぽうだ。体をいくら替えても脳は老いていく、そういう学者も沢山居たが、老衰を経験しない健康な体に支えられている脳はやはりいつまでも健康だった。だが、その現状がこの論争を生んだ。
延命医療が発達した20世紀終盤、いつ患者に終末を迎えてもらうかという事が問題になった事があった。俗に終末医療問題というらしい。意思表示能力は無いが心臓は停止していない患者を、病院と遺族はいつまで延命させれば良かという問題だ。結局有効な解決を見なかったこの問題だが、今は全く逆の事が起きている。
交換医療による延命を行った患者は、どの検査をうけても異常などない完全な健康体である。頭もハッキリしている老人が、街に溢れている。だが彼らは老人だ。部品を交換できても、体の全てが若返る訳ではない。臓器や血管、血圧などに以上は無くとも体は確実に老いている。重労働には従事できない。いや、非肉体労働にも、定年を迎えた老人を抱えるだけの枠は無い。だから国は定年を引き揚げられないし、老人には社会保障が提供される。これが国家への大変な負担になった。債務の不履行を避けるために激しい増税が行われ、同時に年金は用品券との併用支給になって、その総額もかなり減った。
貧困と格差が無くなった世紀と言われた今世紀にあって、20世紀に行われていたようなデモ行進が再開する事態は、その参加者を含めた全国民に前時代的な不安を呼び起こさせた。そんな状況下、ある意味必然として人体複製への論議が活発になっていく。
ベッドの横で、タバコのカートン程の大きさの掃除ロボットがこぼれた水を吸っている。僕は水を諦め、窓のほうに体を向ける。体を少し動かすのも一苦労だ。
一日の大半を病室で過ごすようになると、自然と窓を見る癖ができる。壁や天井は一日で飽きるし、散策に出歩く体力は無い。だからせめて、視界に変化のあるものを入れておくために景色を見るのだ。看護師が時々来て花瓶に季節の花を生けてくれるが、楽しいのは最初の半日ぐらいで、あとはすぐに飽きてしまう。花はぜんぜん動かないからつまらないのだ。
僕は手元のリモコンを操作して、カーテンをスライドさせる。さっきまで水平に射していた西日はさらに沈んで、今は天井近くの壁をわずかに照らしているだけだ。
この病院もぜんぜん辺鄙(へんぴ)な場所にあるが、幹線道路沿いというだけあって活気は程々あった。
僕の部屋からは病院の裏門が見える。表なら公園があって、そこを歩く患者や、遊びまわる子どもたちが見えただろう。だが裏門も活気という意味では十分なものを持っている。急患の受け入れ、出入りの業者、スタッフの出入り、そして遺体の搬送…
では、人体複製の議論とは具体的に何なのだろうか。
クローン技術に対する妄信的な恐怖が世間を覆った事があった。自分そっくりのクローン人間は自分を殺すかもしれない、誰かが密かに作った自分の複製が自分の社会的地位を消費するかもしれない、そういった類の不安である。むろん、これらは完全な的外れであり、大昔のフィクションが断片的に引用された結果でしかない。これら飛躍した不安の下支えをしていたのは別の思想である。
この世にある万物は神が作りしものであり、存在することで神の全能を証明し続ける。科学の時代にあってもそういう考えをもつ人、つまり神を信じ聖典の教えに従って生きる人々は一定の割合で存在する。かつて原子工学や量子力学などの物理学が神の教えを守る人々から批判されたように、クローン技術も批判された。否、同様では全くない。この技術分野がさらされた批判は(原子力に関しては政治的都合があったにせよ)それら物理学が受けたものの比ではなかった。その理由は聖典の記述にあった。
原子力や量子力学が創りだすものは原子や素粒子、あとは電磁波や熱などのエネルギーがせいぜいである。そこには神の奇蹟も無く、精霊も宿りはしない。だがクローン技術は異なる。この技術は複製というグレーな表現の下、生物の創造を行う。そしてその生物には人間が含まれている。聖典によれば神は自らの姿を模して人間を創ったという。その人間を、人間自身が科学技術で以って創造して見せるということは神の絶対性の否定につながり、信徒――そしてそれを束ねる教会――として認めることは出来なかったのだそうだ。そして、少数の思想が世論をけん引するという構図は、こういった教会の最も得意とするところだった。
理由はそれだけではないが、そういった理由を一括して『道徳上の問題』と称する事でクローン技術の利用は先延ばしにされていた。
だがそれも豊かな時代の話だ。自身の生活が脅かされようとしている時に、他人の道徳をきにかける人間は居ない。
太陽は完全に沈んだ。窓の外はまだ明るいが、部屋はもう本も読めな明るさしか無い。
センサーが光量を検知し蛍光灯が点灯した。それとほぼ同じタイミングで部屋に介助士が入ってきた。
『お時間です。具合の悪いところはありませんか?』
これは病院の規則のようなもので、介助士にしろ看護師にしろ、かならず最初にこう尋ねるだ。そして僕も規則のように”ありがとう、大丈夫だよ”と言う。本当は大丈夫でもなんでもないが、それも間もなく終わると思えば気にならない。
介助士は僕をベッドから起こすと持ってきた車椅子に載せた。
車椅子のロックが外され、ゆっくりと動き出す。
部品を取り替えてもフレームは弱り、朽ちる。機械も人も、そこが寿命だ。実際、ほんの10年前までそれ以外の選択などありえなかった。しかし前述の理由から、人はその壁さえも越えていった。
自分の遺伝子から創りだしたクローンを意図的に脳停止状態で育成させ、そこへ自分の意識(すなわち脳の電気信号パターン)を投射することで体を乗り換える。これが人体転換である。
体にメスを入れる事も、血を取ることも無しに体を乗り換えることができるこの療法の認可で人は死を克服する。
僕はその療法の患者第一号だった。
僕をのせた車椅子は病院の白い廊下を進む。
廊下やロビーは面会の帰りの訪問者でいっぱいだ。この中の何人かは将来、人体転換による寿命延長をうけるだろう。それは全員かもしれない。だがそれも僕次第だ。
僕が第一の患者に選ばれたのには理由がある。この療法は老人問題の解決のために認可されたようなものだが、それはあくまでオフレコの話だ。まずは医療としての体裁を取りたいという医師会の都合もあり、最初の患者は先天か後天の身体障害をもつ人間が選ばれることになっていたらしい。そしてそれが僕だった。
エレベーターを乗り継ぎ、車椅子は分厚いコンクリート製扉の部屋の前まで来ていた。聞いた話では、この療法はノイズ電波があると成功しないのだという。
ゴゴ、という音で扉が開いた。ノイズが無い電波暗室ということで壁や天井から棘のように突起が生えている部屋をイメージしていたのだが、内装は普通だ。隣に入れ替わり先、言ってみれば新居の自分が寝ていたら不気味だなとも思ったが、部屋には一人用のベッドがひとつと電子機器のラックがあるだけだった。
介助士と医師は僕をベッドに寝かせると、替え全体を覆うヘルメットを僕にかぶせた。電極が刺さったスパゲッティ皿のようなレトロなやつではなく、白い洗面器のような本体からコードが数本出ているスマートなものだった。
『念のため手足を固定しますね。キツかったら言って下さい』
白衣を来た医師が耳元で言う。そんなにショックの強い手術なのか?僕は少し恐怖を感じたが、新しい体のことを考えて冷静さを取り戻した。どうせろくに動かない手足なのだ、少し固定されたところで何も変わらない。
『注射をします。少し痛いですよ』
今度は看護師が言う。麻酔だろう。麻酔が効いてしまえば、あとは寝息を立てている間に全て終わる。晴れて新しい体という訳だ。
ちくっ、という痛みが肩に入り込む。針の痛みなんて慣れっこな僕だが、こんなところを注射するのは初めてだ。局所麻酔というやつか。
『今度は麻酔を撃ちますね』
驚きの余り閉じていた目を開いて声のほうを見てしまった(ヘルメットの内側しか見えなかった)。今さっき肩から打ったのが麻酔だと思い込んでいたが、どうやら違うらしい。とはいえまぁ、不安に思うことは無いはずだ。
自分を落ち着けていると、麻酔が効いてきたのか意識が朦朧としてきた。徐々に体、そして思考の自由が効かなくなっていく……はずだったが、意識はいつまで待っても明瞭なままそこに居座り続けている。それどころか思考の感覚が毎秒ごとに研ぎ澄まされていく。思考の速度が上がり、常に二人以上の自分が頭のなかでしゃべり続けているようなイメージに取り憑かれる。そうだ、高熱を出して寝込んだ時の頭がちょうどこんな感じだ。
それでも思考の自由はどんどん奪われていく。手枷足枷をかけられるように不自由になった頭は、現状を言葉で理解し追うことすらできなくなった。そしてそれは始まる。
記憶、それも映像のものが順に再生されていく。近いものから順に、
ヘルメットの内側、分厚い扉、廊下、病室、介助士の顔、夕日、コップ、花瓶、病室、車、家、道路海羊海岸雲電車駅ランナーカードシャワー林崖河船魚糸針……横断歩道トラック脚……天井、腕、声、母の顔。
寝ることも、目を閉じることもできないで記憶を掘り起こされる悪夢は永遠につづくかと思われたが、いつしか終わっていた。最後に見たのは母の顔だった。頭はすっかり熱で侵され疲弊していた。
『終了です。お疲れ様でした』
医師の声が聞こえる。彼がヘルメットをはずすと同時、僕は気を失った。
前と同じ病室で目が覚めた。前と同じベッドに、前と同じ天井、窓からの景色も同じだ。僕は手元のリモコンを操作しベッドの背を起こす。そしてぼうっと窓の外を眺める。
体の感じは前とさほど変わらない。苦しいということは無いが、少し期待はずれだ。もっとも、すぐに筋骨隆々の体が手に入るとは思っていなかったが。
僕は自分のて体に目を向ける。つま先、脚、膝、腰、そして手が目に入る。だがその手は若々しい健康なものではなく、やせ細ってしおれた、前と寸分変わらない手だった。
『……!』
驚きの余り声も出ない。
もう一方の手も確認してみるが、やはり同じ、前のままだ。
僕は体を横倒しにしてベッド脇の棚を強引に引っ張りだすと、そこから手鏡を取り出し自分を見た。
鏡に映るその姿は、手と同じく痩せこけ皺の寄った病人の顔だった。
その時、窓から見える外の通りを人が通っている事に私は気づいた。それは男で、花束を何本も持っている。医師たちや他の患者が笑顔で彼に言葉をかけているようだ。それは私だった。顔や背格好は紛れもなく若いころの私そのものだ。あれは私だ。私がなるはずだったんだ!
彼はひと通りの挨拶を終えて病院に手を振ると、タクシーに乗り込んだ。そしてタクシーは走り去っていった。
嗄(しゃが)れて弱った声で私は泣いた。
泣いていたら日が暮れた。今のいままで取り乱して泣きじゃくっていた私だが、その間に全てを理解した。クローンを使った人体転換は確かに存在したのだ。そしてそれによって人生を再スタートさせた私も居る。だが古い体が都合よく消えてくれる訳でもなかったのだ。偶然私が古い側だった。それだけの事なのだ。
ひょっとしたら、人体転換はもう何十年も行われているのかもしれない。その事実は隠され、古い体はここで最後を迎えるまで生きる。新しい体は新しい人生を歩む。
ここはアシュバートン、重病人が人生の最後を過ごす場所。