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江口眼鏡の奇書「探」読
本朝総覧抄

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 少年時代というのは、だれかれ少なからずひとつやふたつ、収集癖を持っていたものだ。伝統あるものであれば飲料瓶の王冠やプロ野球チップスの後ろに付いていたりするブロマイドやカードの類(あれがまた剥がしにくいのだ。どうにか力づくで引っぺがして角が折れてしまった時などに限って贔屓であるヤクルト土橋のカードだったりするのだ。おのれ土橋。せめて城石あたりなら角が折れてもまあ……)、私の世代だとポケットモンスターのソフビ人形(申し訳程度のラムネ菓子が入っていた)なんかを好んで集めたものだ。大人になるにつれてそうした収集癖はCD・レコードやギターなどの実用を兼ねた物品や、大人向けに設定された物(創刊号がイヤに安い『週刊○○』のような類)が対象になっていったり、フィギュアや模型などでも収集対象が深化しニッチなジャンルに手を出したりするようになる。あるいは私のように「奇書」を集めたり…………
 さて、前段が長くなってしまったが、つまりはいつの時代も「自分にまつわる世界の情報を体系化したい」という欲望が尽きることは無い。収集癖だって自分の興味範囲のものをずらりと並べてひとつの整理された情報として眺めたい、そんな欲望に裏付けられた行動なのではないか。

 古代人も事情は一緒なのである。とにかく世界をひとつにまとめたい。飽くなき欲望は情報が錯綜する現代よりも真っ直ぐなものだったのだろう。
 この『本朝総覧抄』は九百一年、醍醐天皇の治世下にあったころ作られたものだ。『日本書紀』に始まる六国史の最後『日本三大実録』が編纂され、我が国の「歴史」が体系化された。それに伴って、我が国で今までに書かれてきた「書物」、それらをひとつにまとめようという発案があっても何らおかしなものではない。檜垣親王という、二品(に-ほん、当時の位階)の親王がトップに立って編纂したという記録が残っている。
 と、ここまでこの書物が書かれた事情を述べてみると、これは本当に「奇書」なのかという疑いの念を抱いてしまう。親王が編纂しただなんて、れっきとした正伝じゃないか!  奇書を取りあげろ! この三文作家! という声が一ヘクタールをゆうに超える私の屋敷の庭から聴こえて来る(北海道はでっかいどうなので、こうした阿呆みたいな広さの屋敷はざらにあるのだ)。諸君、安心したまえ。私が岩波文庫なぞここで取りあげると思うか。『カラマーゾフの兄弟』なぞ取りあげると思うか。私は未だ下巻の78ページより読み進められていない。だって長いじゃん、アレ。

 『カラマーゾフ……』の話はいいのだ。私が午睡の時間に夢の中でドフトエフスキーから怒りの鉄槌を食らえば済む話である。本題の『本朝総覧抄』は何故「奇書」とされてきたか、である。考えても見たまえ。現代の出版技術、編集力等をもってしても文章の抜けや文字の間違いといった技術的な問題から、「全集」と銘打っておきながら全部の原稿を入れられないなどの環境面での問題まで、「すべての情報を網羅する」ということには種々の困難がつきまとっている。いわんやこの時代をや、である。
 『本朝総覧抄』、誤字脱字の類からセンテンスの抜け、さらには記録間違い等、数え上げればキリが無い。さらにこの本を「奇書」とする一番の理由、それはなんと(ここで「北嶺」と相槌を入れたあなたは立派な日本史オタク)『古事記』が入っていないのだ。昭和十五年にこの本の翻刻の話が出た際、出版予定だった光陰社に右翼団体から「『古事記』が入っていないじゃないか」とクレームが入り、左翼と疑われたという話も残っている。

 『古事記』を入れ忘れてしまったおマヌケな当時の「全情報体系」も、今では一部の愛好家によって収集される奇書という位置づけで、情報体系の一部として立派に役割を果たすことができているのだ。
 『本朝総覧抄』は、現代まで連綿と続く編集出版技術の進歩を遥か先に見据えた一里塚だったのであろう。

書誌情報
編者:檜垣親王
出版社:岸田遼太郎書店(昭和五十年翻刻版刊行時)
出版年:初版九百一(延喜一)年ころ
定価:(翻刻版)三千七百五十円
江口眼鏡の購入価格:一万二千円(これは奇書とは言え痛かった)

       

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