長い、本当に気の遠くなるほど長い月日が経ちます。
その後、ニニギは出雲に降臨し、そうして出雲は回る事になります。
しかし、その話は今は置いておき、場はずっと、ずーっと未来の世界。奈良と呼ばれる時代にまで飛びます。
「稗田殿、按配は如何あるか?」
文官、太安万侶(おおのやすまろ)は、天皇より自身と同じ命を授かった、一人の者に向かってそう呼びかけます。
「もそっとかかりそうに御座候ふ」
太安万侶の問い掛けに、その者は、薄らと微笑みを浮かべて答えました。
稗田阿礼(ひえだのあれ)。
この者には、そのような名がついていました。共に作務を行っている太安万侶ですら、稗田阿礼の事はよくわかっていません。果ては、稗田阿礼が男なのか女なのかすら、太安万侶にはわかっていませんでした。
ただ、美しい、本当に美しい者でした。しかし、優しげなその瞳に宿る使命の炎は、到底手弱女とは思えぬものがあります。
──稗田之阿礼 常人に非ず 天之比売
(稗田一族の阿礼という者は 人間ではなく 天より出でし女神なのではないか)
そのような噂まである始末でした。つまりそれは、稗田阿礼とは天皇と同位或いはそれ以上の存在だと言っているようなものです。無論、事程然様な噂など、元来は一笑にすら値しないものです。しかし、こと稗田阿礼に関してだけは、それを一笑に伏すのみに留められぬ程の何かがありました。
取り分け異端なのは、その記憶力です。稗田阿礼は、時の大臣である蘇我蝦夷(そがのえみし)の炎上自殺により、共に燃え消えてしまった「天皇記」や「国記」の編纂の命を、天皇より賜っていました。つまりこれは、「天皇記」や「国記」を、記憶だけを頼りに丸々複製せよ、と言っているのと同様でした。莫大な頁の記簿です。
それを何と、稗田阿礼は、今まさに成そうとしているのです。こんな記憶力の持ち主は、どこを探しても見つからないでしょう。
「……時に、稗田殿。ちとお聞きしやう御座あるか?」
「何なりと」
コホンと咳払いをしてそう言った太安万侶に、やはり稗田阿礼は、薄らと、どこか儚い微笑を浮かべて頷きます。
「あいや、不躾詮無き事をお聞きしてしまひさうが……その方、巫女にあったといふは真か?」
「然様に御座候ふ。添上郡は稗田村にて」
厳密には、巫女ではなく宮司でした。太安万侶のみならず、神職に明るくなければこのような誤解は珍しくありませんが、これは神職者にとってはあまり気持ちのいい事ではありません。しかし、そんな太安万侶の質問にも、稗田阿礼は嫌な顔一つせずに応対しました。
「さもある汝兄……失敬……汝妹が、何故、舎人となりて編纂なる命を賜ったので?」
「祖先が言伝故」
太安万侶は、稗田阿礼のハッキリとした血統を知りません。しかし、噂程度であれば聞いた事があります。
稗田とは、猿田毘古之男神(さるたひこおのかみ)と、その妻である天宇受賣命(あめのうずめのみこと)の血統であると。
つまり、稗田阿礼の言う祖先の言伝とは、サルタヒコとアメノウズメの言伝という事になります。
「差支えねば、お教え願えまひか?」
「大事に御座ありませぬ。……『忘れてくれるな』と、そのやふな言伝に御座候ふ」
なるほど、と太安万侶は納得します。であれば、今、稗田阿礼の行っている事は、祖先の言伝に忠実に従っていると言って過言ではありません。
「その記簿、完成の暁には、どのやふな名を賜るであろか?」
太安万侶の問いに、稗田阿礼は筆の尻を唇に当てて、ぼんやりと考え込みます。そして、目を細め、より優しく微笑みながら、太安万侶に返答しました。
「……『古事記』と、斯様なる名を賜りたく」