渚にいる。
そのひと
そのひと 一
私とそのひとは、透明な水が湛えられた、
青色の四角い桶の中にいた。
桶は底深く、濃い青色は樹脂に溶かした
絵の具のようだった。
蓋はない。
私とそのひとは水面から顔を出して息をしていた。
辺りは薄暗く、ひかりに当てたらもしかして
輝くルビー色かもしれないレッドブラウンの線が
幾何学模様を描いて、床に広がっていた。
この無機質で傷一つない床はやがて、
向こうの暗闇に消えていく。
暗い遠くには地平線が、ぼんやりひかって横たわっていた。
機械のような、地鳴りのような、かすかな低音が、
涼しげな空気の彼方から響いてくるようだった。
……、…
そのひとはよく、何事か呟いたものだった。
そして私は返事もしないで、遠くのほうに立っている白い柱のようなものを
見据えて、黙って笑っているのだ。
私たちは、視力はあまりないようだった。
ほの暗い遠くは茫漠としていて、そこは、
やすらかなところであったのだ。
私とそのひとは、透明な水が湛えられた、
青色の四角い桶の中にいた。
桶は底深く、濃い青色は樹脂に溶かした
絵の具のようだった。
蓋はない。
私とそのひとは水面から顔を出して息をしていた。
辺りは薄暗く、ひかりに当てたらもしかして
輝くルビー色かもしれないレッドブラウンの線が
幾何学模様を描いて、床に広がっていた。
この無機質で傷一つない床はやがて、
向こうの暗闇に消えていく。
暗い遠くには地平線が、ぼんやりひかって横たわっていた。
機械のような、地鳴りのような、かすかな低音が、
涼しげな空気の彼方から響いてくるようだった。
……、…
そのひとはよく、何事か呟いたものだった。
そして私は返事もしないで、遠くのほうに立っている白い柱のようなものを
見据えて、黙って笑っているのだ。
私たちは、視力はあまりないようだった。
ほの暗い遠くは茫漠としていて、そこは、
やすらかなところであったのだ。
そのひと 二
私とそのひとは、はじめ同じ人間の形をしていたが、
そのうちに、私のほうだけがだんだんと姿が
変わっていってしまった。
ある日、視界も思考もまっ白になって、
高い空のように広々とした場所へ行ったようで、
遠くの方でそのひとの声を聞いた。
もう行くのか、早いなぁとそのひとは言った。
私は、別に早くないよ、と答えた。
すぐにまた会うでしょと言うと、
あ、そうかといつもの調子で言った。
行ってらっしゃいと、聞こえた気がしたので、
行ってきます、と呟いた。
私の意識はどこかへ急激に上昇していったようだった。
そのまま、明るい、やはりどこまでも透明な
海を泳いでいった。
泳いでいるうち見おろす海の深い底のほうは、
砂と、青やエメラルドグリーンの小石ばかりで、
生き物は何一ついなかった。
巨大な、シンプルな造りのボートが一艘、
海底に沈んでいる、その真上を通り過ぎて、
どこかの砂浜にたどり着いた。
砂浜のすぐ上は夏の小高い丘で、
私はただ懐かしい思いに駆られて、
崖に掛けられた木のはしごを
登っていった。
一度だけ振り返ったが、もう、振り返った自分しか、
見えなかった。
私とそのひとは、はじめ同じ人間の形をしていたが、
そのうちに、私のほうだけがだんだんと姿が
変わっていってしまった。
ある日、視界も思考もまっ白になって、
高い空のように広々とした場所へ行ったようで、
遠くの方でそのひとの声を聞いた。
もう行くのか、早いなぁとそのひとは言った。
私は、別に早くないよ、と答えた。
すぐにまた会うでしょと言うと、
あ、そうかといつもの調子で言った。
行ってらっしゃいと、聞こえた気がしたので、
行ってきます、と呟いた。
私の意識はどこかへ急激に上昇していったようだった。
そのまま、明るい、やはりどこまでも透明な
海を泳いでいった。
泳いでいるうち見おろす海の深い底のほうは、
砂と、青やエメラルドグリーンの小石ばかりで、
生き物は何一ついなかった。
巨大な、シンプルな造りのボートが一艘、
海底に沈んでいる、その真上を通り過ぎて、
どこかの砂浜にたどり着いた。
砂浜のすぐ上は夏の小高い丘で、
私はただ懐かしい思いに駆られて、
崖に掛けられた木のはしごを
登っていった。
一度だけ振り返ったが、もう、振り返った自分しか、
見えなかった。
そのひと 三
私はそのひとを忘れ去り、
熱帯の森に魂の起源を持った。
そこは樹海の奥底、
青や赤の原色の花々が咲き果実を実らせ、
濃い影を落とす葉むら、
空を覆いひかりの柱を落としかける
遥かな古代樹のなかに棲んでいた。
思考は歌に埋もれ、どんな気持ちの変化もなくなり、
土と草花の汁と虫の死骸にまみれ、
ただただ、満ち足りていた。
熱帯の森は、夜になるとガラスのような青と碧に
発光し、樹木は皆、機械の基板の柱となった。
この基板はすべて、生命を持っていた。
宝石の虫と、やはり宝石の原石の身体を持つ
宙を泳ぐ魚が、夜の森を支配した。
私は、静まりかえった水の中で眠った。
やがて、
私は誰かに向かって手を伸ばし始めた。
無心で手を掲げ続けるうち、
私からは無数の人間の手のようなものが生えた。
それは、熱帯の森を覆い尽くした。
無心で抱き込むうちに、手も、森も消えていった。
いつしか、夜明けとも夕暮れともつかないほの暗い空と、
暗い水平線だけが広がっていた。
私は、長いこと海を見ていたが、やがて歩き始めた。
熱帯の風が、螺旋状に、上空へ吹き抜けていった。
私はそのひとを忘れ去り、
熱帯の森に魂の起源を持った。
そこは樹海の奥底、
青や赤の原色の花々が咲き果実を実らせ、
濃い影を落とす葉むら、
空を覆いひかりの柱を落としかける
遥かな古代樹のなかに棲んでいた。
思考は歌に埋もれ、どんな気持ちの変化もなくなり、
土と草花の汁と虫の死骸にまみれ、
ただただ、満ち足りていた。
熱帯の森は、夜になるとガラスのような青と碧に
発光し、樹木は皆、機械の基板の柱となった。
この基板はすべて、生命を持っていた。
宝石の虫と、やはり宝石の原石の身体を持つ
宙を泳ぐ魚が、夜の森を支配した。
私は、静まりかえった水の中で眠った。
やがて、
私は誰かに向かって手を伸ばし始めた。
無心で手を掲げ続けるうち、
私からは無数の人間の手のようなものが生えた。
それは、熱帯の森を覆い尽くした。
無心で抱き込むうちに、手も、森も消えていった。
いつしか、夜明けとも夕暮れともつかないほの暗い空と、
暗い水平線だけが広がっていた。
私は、長いこと海を見ていたが、やがて歩き始めた。
熱帯の風が、螺旋状に、上空へ吹き抜けていった。
そのひと 終
彼女は、働きながら一人暮らしをしてかれこれ
4,5年は経つ。
真夏の急な大雨を浴びるのがすきで、
明け方に見た夢のメッセージ性を考えるのも、すき。
そして、肌寒い日に暖かい部屋でコーヒーを飲むのも、
化粧をして鏡の前で笑ってみることも好きな、
ごく普通の女性だった。
何でもない日々が続いたのちに、
ある日、ふと彼女は彼と出会った。
それから、夏の日差しの強い日に、彼女は自転車を押しながら、
彼は買い物袋片手に、歩いていた。
ふたりの歩く道の横手には、うっそうとした、夏の森。
たしかにその日、そこは少しの間だけ熱帯の森だった。
ふたりは一緒に暮らし始めた。
水道代を浮かすと言って、一緒に風呂に入る。
青色の四角い風呂桶に浸かりながら、彼女はふと、思い出しているのだ。
常夏の森を駆け抜ける風のにおいに微笑む前、
うっすらとかすかなひかりを帯びる水平線を遠く眺める前、
もうずっと昔のやすらかだった頃のことを。
彼女は、働きながら一人暮らしをしてかれこれ
4,5年は経つ。
真夏の急な大雨を浴びるのがすきで、
明け方に見た夢のメッセージ性を考えるのも、すき。
そして、肌寒い日に暖かい部屋でコーヒーを飲むのも、
化粧をして鏡の前で笑ってみることも好きな、
ごく普通の女性だった。
何でもない日々が続いたのちに、
ある日、ふと彼女は彼と出会った。
それから、夏の日差しの強い日に、彼女は自転車を押しながら、
彼は買い物袋片手に、歩いていた。
ふたりの歩く道の横手には、うっそうとした、夏の森。
たしかにその日、そこは少しの間だけ熱帯の森だった。
ふたりは一緒に暮らし始めた。
水道代を浮かすと言って、一緒に風呂に入る。
青色の四角い風呂桶に浸かりながら、彼女はふと、思い出しているのだ。
常夏の森を駆け抜ける風のにおいに微笑む前、
うっすらとかすかなひかりを帯びる水平線を遠く眺める前、
もうずっと昔のやすらかだった頃のことを。