Neetel Inside ニートノベル
表紙

SCP-173
第二章

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第十二話

 はあ……はあ……はあ……

 はあ……は…っあ、はあ……はあ……

 静まり返った廊下に、自分の足音と呼吸音だけが響く。
 今のところ、俺の事を追いかけて来ているヤツはいないようだ。
 しかし……、何て狭い廊下なのだろう。両手を真っ直ぐ横に伸ばす事も出来ない。それにくねくねと折れ曲がっていて、視界も悪いし走り難い。
 あれから、どれくらい走ったのだろう。
 途中、何回か扉を見かけたが、どれも鍵がかかっていて入る事が出来なかった。博士は他に職員がいるというような事を言っていたが、未だ誰とも会っていない。俺はただひたすらに、迷宮の様なこの廊下をひた走るのみだ。
 肺が、心臓が悲鳴をあげ始めている。
 元より運動が得意な方では無い。こんなに走ったのは、いったい何年ぶりだろうか。
 膝も痛くなってきた。足がもつれる。何度も転びそうになる。
 今の俺を支えているのは「死にたくない」という本能と、『イチナナサン』への恐怖だけだ。

 ゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリ……

 突然、あの音が聞こえた気がして思わず立ちすくむ。疲れ切った足は急な停止に耐えきれず、俺は廊下に膝から倒れ込んでしまった。四つん這いの姿勢で、無機質な白い床に零れる自分の汗を見た。
 喉が、胸が焼けるように痛い。
 頭を過ぎるのは──、死のイメージ。
 ああ、倒れる時、俺はまばたきをしただろうか?
 今はもう、音は聞こえてこない。
 幻聴か?
 ありえる。
 だが、もし幻聴でなかったら?
 ヤツは、今俺を見下ろしているのだろうか?
 ……何故、俺を殺さない?
 いっそ……。
 博士の声を思い出す。
《どうやら君は、『イチナナサン』の視界にいながら、攻撃対象にはならないようなんだ》
 こんな事も言っていた。
《さらに、『イチナナサン』は君を追いかけているようにも考えられる》
 何故だ。
 何故俺なんだ。
 何故……。
 はっとして、目を開けた。
 いつの間にか、考えに夢中になって目を閉じてしまっていたようだ。
 それなのに──、
(生きてる……)
 ゆっくりと立ち上がり、再び走ろうとする。
 だめだ、足が動かない。
 さっきまで走れていたのに、今は棒のようになってしまっている。
 だけど、ここにはいたくない。
 一歩、一歩、這いずるように歩き出す。
 ゴールは、未だわからないまま。

 しばらく歩くと、不意に少し広い空間に出た。右手の壁を見ると、大きな両開きの重そうな扉がある。
 どうしようか……。
 少しだけ悩んでから、扉に手をかける。
 危険だとしても、闇雲に走り回るよりはいくらかましだ。
 力を込め、扉を押した。
 ……動かない。
 押してだめなら、と引いてみる。
 すると、扉はゆっくりとこちらに向かって開き始めた。
 今更ながら緊張してきたが、開く手は止められない。
 ──扉の向こうは、思ったよりも狭い空間だった。中に入り、扉を閉める。とりあえず、ここに『イチナナサン』はいないようだ。
 広さは、突き当たりの壁までが五歩、左右に十歩といったところか。突き当たりの壁には、大きくはないがやたら頑丈そうな扉が一枚。「鍵がかけられている」というよりは「封印してある」といった方が良さそうな程、その表面には鉄骨や溶接部分が縦横に走っている。
 ひとまず、ここにいればしばらくは安全そうだ。
 安心するとともに、体から一気に力が抜けていった。
 その場にへたり込む。
 同時に、目蓋が重くなる。
 眠い。無理も無い。
 寝てしまおうか?
 博士の言う事が本当なら、例え眠ってしまっても『イチナナサン』に殺される事は無いはずだ。いや、そもそも逃げる必要だって──。
 睡魔は容赦なく襲いかかってくる。
 その時、ふと視界の隅に何か光るものを見つけた。俺から見て左斜め前の壁だ。閉じかけた目蓋を無理矢理こじ開け、目を凝らす。何か、モニタのようだ。何のための、モニタなのだろう。
 ──そうか。
 俺は正面の扉を見た。頑丈な扉、厳重な封印。この向こうに何かがいると考えない方がおかしいでは無いか。
 では、何が?
『イチナナサン』を収容しておくには厳重過ぎる気がする。ならば、他の何かだろうか。
 子鹿のように震える膝を両手で押さえながら立ち上がる。何がいるのか、それだけでも確認しなくては。もし俺が『イチナナサン』に対して無敵だとしても、他の何かに対しても無敵とは限らない。ここは財団の施設。一番怖いのは『イチナナサン』以外のSCPだ。
 ずるずると、足を引きずるように歩く。1メートル移動するのも容易では無い。
 ようやくモニタの前に辿り着く。モニタの電源は落ちていて、今は何も映されていない。
 モニタの周りには何やら英語で沢山の注意書きが書かれていた。英語は得意では無い。何かわかる単語は無いかと探すと、一番見たくなかった言葉を見つけてしまった。
『SCP─096』
 それは、つまり、この中にいるのは『ゼロキュウロク』という事なのか。
 不意にわき起こる恐怖。思わず震えた手が、モニタのスイッチに触れた。
 すると──、
 反射的にモニタから目を背けた。
 見てはいけない。直感がそう言っている。
 そのまま床に倒れ込み、匍匐前進の要領で、部屋の反対端へと進む。モニタが見えない位置に逃げよう。体が重い。誰かに足を引っ張られているかのようだ。つるつるとした床を必死に這い、壁際まで逃げ切った。安心──、いや、安心は出来ない。出来ないが……。
 睡魔は容赦なく襲いかかってくる。俺は、気絶するかのように、眠りに落ちた。

 ──これは夢だ、とすぐにわかった。
 俺は自分の家にいた。
 リビングでは食卓を囲んで、父と母、ユタカ、カシマやタロー、リナまでいる。
 みんな、笑顔だ。話は頭に入ってこないが、きっと他愛の無い話題で盛り上がっているのだ。
 俺は、それを一歩離れたところから眺めている。ぼんやりと立ち尽くした姿勢のまま、食卓に近付く気持ちさえわき上がらない。
 ああ、良かった。
 と、何となく思った。
 皆が死んでしまった事は、わかっている。
 日常が元通りになる事がないのも、わかっている。
 だけど、俺がいないその場所でも、皆が笑っているのならそれで良い。
「ユキオ」
 誰かが呼んだ。
「ユキオ」
 また。
 誰だろう。
 誰も、俺の方を見ていない。
 少し、寂しいと思った。

 ──目を覚ますと、俺は俯せの状態で床に倒れていた。
 腕の力だけで、上半身を起こす。体のあちこちが痛い。痛いという事は、どうやらまだ生きているらしい。
 どれくらい寝てしまっていたのだろう。部屋の中に時計は無いし、腕時計は付けていない。
 そういえば、今日は何月何日なのだろう。この施設で目覚めるまで、俺はどれくらいの間気を失っていたのだろうか。博士は幾つか検査をしたというような事を言っていたから、少なくとも昨日今日では無いのだろうが──。

 ゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリ……

 壁の向こうから例の音が聞こえてきた。
 やばい。
 耳を澄ます。
 音はまだ聞こえる。
 幻聴では、無い。
 あいつが、この向こうに。
 どうする。
 このままやり過ごすか。
 それとも思い切って……。
 いやだ。
 こんな状況でも、死ぬのは嫌だった。
 一か八かで飛び出す気にはなれない。
 ならばここでやり過ごすしか無いか……。
 この、何がいるともわからない部屋で。

 ゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリ……

 音はまだ聞こえている。
 廊下を覗く窓は無いから、相手の様子はうかがえない。
 ……もしかして、あのモニタは部屋の外を見る事は出来ないだろうか。部屋の中を見るためだけのものと思い込んでいたが、窓の無い部屋だ、部屋の外を見るための切り替えスイッチがあるかも知れない。スイッチは、俺が押してしまったもの以外にも幾つかあった。英語は苦手だが、よく読めばわかるだろう。少し眠ったお陰で、さっきよりは多少頭もはっきりしている。
 壁に手をつき立ち上がり、俺は、ふらつく足でゆっくりとモニタの方へと向かった。

     

第十三話

 モニタに辿り着くまで、何度転んだだろうか。体中が痛い。半袖のシャツからのぞく腕は痣だらけになっている。
 俺は、画面は見ないように気を付けながらモニタを観察した。先程は気付かなかったが、このモニタ、どうも周りの設備とは浮いて見える。何というか、後から簡易的に取り付けたような感じなのだ。注意書きも、簡単にシールを貼り付けただけである。
 ……まあ良い。それより、どれが何のスイッチなのか調べなくては。

 ゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリ……

 背後の壁の向こうから、微かながらも『イチナナサン』の発するあの嫌な音が聞こえている。
 説明書きを見るが、いまいち、よくわからない。『ON・OFF』とか『IN・OUT』とか簡単に書いてくれれば良いのに、説明は小さな文字でだらだらと書かれている。
(くそっ)
 焦りから、思わずモニタを叩こうと腕を振り上げた。そのせいで体のバランスを失い、俺は慌てて壁に手をつく。良かった、スイッチは押してしまわなかったようだ。
 しかし──、
(しまった……)
 モニタの画面が、視界に入ってしまった。
 そこには……、部屋の中、ひとり座り込む男の姿があった。やせ形で、やたらと手足が長い。服は着ておらず、全裸だ。何だか、苦しそうな表情をしている。
 眼を逸らせないまま見続けていると、男がまるで恥ずかしがってでもいるように、両手で顔を隠した。
 そして──、

 いいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!

 分厚い鉄板の壁越しにも伝わる程の、鼓膜を引き裂かんばかりの絶叫。獣のような咆吼では無い。明らかに人間の声だ。

 ガンガンガンガンガンガンガンガガンガンガンガンガンガンガガンガンガンガガガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガガガンガンガガガガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガガガンガンガンガンガガガガガンガンガン

 叫び声に続いて聞こえてきたのは、壁を殴打する音と、振動。俺は思わずその場に尻餅をついた。

 いいいいいいいあああああああああああああああああああああああああうううううううううううううあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ

 やばい。
 やばいやばいやばい。
 俺の勘は正しかったんだ。やっぱりモニタを見たらいけなかったんだ。
 ちくしょうちくしょうちくしょう!
 やばいやばい、どうする。
 どうする!
 絶叫も、壁を叩く音も未だ続いている。その音があまりにうるさくて『イチナナサン』の音は聞こえないが、いなくなった保障は無い。
 廊下には『イチナナサン』。部屋の向こうには『ゼロキュウロク』。『ゼロキュウロク』ってどんなやつだった? ネットで見たはずだが、これっぽっちも思い出せない。
 ああああ、だめだ。立てない。
 腰が抜けている。
 封印された扉の方を見る。少し、変形し始めているように見える。
「う……うああああああああああああああああああ!」
 全ての力を振り絞るように叫び、俺は動かない体を無理矢理起こした。激痛が体を走るが、それどころでは無い。
 一気に立ち上がると、入って来た扉の方へ走る。外には『イチナナサン』がいるかも知れないが、ここは一か八か、博士の言葉を信じるしか無い。
「ちくしょおおおおおおおおおおお!」
 扉の鍵を開け、一気に押し開ける。
 すると、目の前に──、
(『イチナナサン』!)
 しかし、ヤツは微動だにせずこちらを見ている。
 考えている暇は無い。
 俺は廊下へ飛び出した。
 そして『イチナナサン』を背にして、走り出す!
(……大丈夫、なのか。生きてる、よな、俺)
 叫んだまま、俺は必死に走る。『イチナナサン』は追ってきていないようだ。
 これでもう『イチナナサン』は怖く無い。博士が言っていた事は本当だったのだ。

 ガンガンガンガンガンガンガンガガンガンガンガンガンガンガガンガンガン……

 遠くから『ゼロキュウロク』が壁を叩く音が聞こえる。あの扉は、あとどれくらいもつのだろうか。壁を破ったら、その後、ヤツはどうするのか。俺を追ってくるのだろうか。そして、もし追いつかれたら? 俺を、どうするつもりなんだ?
 ヒューヒューと喉が鳴る。もう、痛みも何も感じない。
 どれくらい走った?
 どれくらいヤツから離れられた?
 こうなったらもう、怖いのは『ゼロキュウロク』だけだ。
 ここまで何度も角を曲がったが、基本的には一本道だった。ヤツが反対方向へ行かない限り、あっという間に追いつかれてしまうだろう。ヤツの走るスピードが、異常に遅ければ良いが……。
「う、わ……」
 目の前に突然何かが現れ、俺は思わず前のめりに倒れた。突然現れ、今俺の体の下にあるものは……。
「は……ははは」
 それは『イチナナサン』だった。
「邪魔じゃねえかこの野郎!」
 俺は力の入らない震える拳で『イチナナサン』の顔面を叩いた。
「お前なんかもう怖く無いんだよ!」
 もう、何度もまばたきしている。しかし、俺は生きている。
「何だよ、畜生! 殺してみろよ、おら!」
 何度も、何度も殴る。ヤツの顔に血がつく。俺の拳が、割れたのか。
「みんなをやったみたいに殺してみろよ!」
 ヤツは、ただじっとこちらを見つめている。
「畜生……、何でなんだよ……。何で俺を殺さねえんだよ!」

 いいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああうああああうあうあううううううううああああああああ……

 その時、廊下のずっと向こうから『ゼロキュウロク』の咆吼が聞こえた。壁を叩く音はまだ聞こえている。しかし、気のせいか声が大きくなってきたような……。
「畜生!」
 もう一度『イチナナサン』を殴ると、俺は感覚の無くなった足を気力だけで支え、全速力で走り出す。
 くそっ、何て走りにくい廊下なんだ。
 このまま逃げて、どうする?
 もしこの先が行き止まりだったら?
 逃げ込む部屋は見つかるのか?
 でも、その部屋だって……。
「──っ、てめぇ、どけよ!」
 再び『イチナナサン』が目の前に現れた。狭い廊下だ、横を通る余裕は無い。俺は『イチナナサン』に体当たりをした。もう、怖く無い。
 ガクガクと震える足を叩いて、叩いて、俺は下敷きにした『イチナナサン』を無視して再び走り出す。
「くそっ、お前なんかなあ、怖くねえんだよバカ野郎!」
 叫んで、走る。
 視界が、霞んできた。
 もう、限界だ。
 もう……。
 俺は、糸の切れた人形のように、その場に倒れた。

 いいいいいいいいいいいああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああうわあああああああああああああああああああわあああああああああああああああああうわああああ……

 叫び声が聞こえる。
 扉を叩く音は、どうだ?
 だめだ、こんなところで倒れていちゃ。
 立たなくちゃ。
 逃げなくちゃ。
 みんなの分も……、生きるんだ。

 しかし、顔を上げた俺の目に飛び込んできたのは、

(いき……どまり……)

 無慈悲な、白い壁だった。

     

第十四話

 絶望が、俺の全身から力を奪う。それでも何とか、起き上がった。
 目の前──廊下の突き当たりには白い壁。
 どう見ても、左右に道があるようには見えない。
(ここで、終わりなのか?)

 あああああああああああああああああああああおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおうううううううううううわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ……

 遠くから、声が聞こえる。
 壁を叩く音は、聞こえない。
(くそっ……くそぉ……)
 怒りと哀しみが入り交じったような感情に襲われる。
 せめて壁際へと、足を引き摺る。
 廊下の端まで十──二〇メートルはありそうだ。突き当たりの壁には何か光るものが見える。眼を凝らしてみると、どうやらそれは鏡のようだ。
(鏡……?)
 さらによく見ると、鏡の横に何やらスイッチのようなものが見える。もしやと思って天井を見ると、二メートルくらいの間隔で厚さ三〇センチはありそうな分厚い鉄板が埋まっているのが見える。間違い無い。防護壁だろう。あのスイッチを押せば、これが落ちてくる仕組みに違いない。閉じ込められる形にはなるかも知れないが、引き返すよりずっと安全だろう。
 ほんの少しの希望を糧に、俺は歩くスピードを速めた。

 おおおおおおおおあああああああああああああああああああああああああああああああわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ……

 ヤツ──『ゼロキュウロク』の絶叫が、少しずつ、少しずつ近付いて来ている。
 はやる気持ちを抑え、決して転ばないように注意しながら、俺は壁へと向かった。
 壁まで後一、二メートルというところで、ちらっと後ろを振り向く。すると、五、六メートル先に、まるで『だるまさんが転んだ』をするかのように狭い廊下にひしめく、三体の『イチナナサン』の姿が見えた。いけない。例え殺される事が無いとしても、ヤツとこの狭い空間に閉じ込められるなんてごめんだ。
 俺は必死に手を伸ばし、スイッチに、触れた。
 その瞬間、まるで雷鳴のような音を立て、ギロチンのような早さで防護壁が下がってきた。それと同時に地震のように床が揺れ、俺はその場に倒れ込んだ。思わず閉じた目蓋を慌てて開く。
 体の向きを変え、突き当たりの壁にもたれ掛かる形で座り直す。もうこれ以上動けない。
 さっきは気付かなかったが、今目の前にある壁だけは透明な材質で作られている。ガラスか、アクリルの類いだろうか。
 透明な壁と、その向こうの鉄の壁との間に、二体の『イチナナサン』が挟まっている。良かった。『イチナナサン』と一緒に閉じ込められる事は回避出来た。もう一体は? ……まあ良い。それにしても、滑稽な姿だ。どうせなら近寄ってよく見てみたいが、今は立ち上がれそうに無い。

 ガンガンガンガンガンガン……

 微かに、壁を叩く音が聞こえた。『ゼロキュウロク』が、追いついて来たのだ。
 間一髪、助かった。この分厚さだ、簡単には破れないだろう。
 しかし……。
 辺りを見渡す。正面に二メートル、横幅一メートル強、高さ二メートル強の狭い空間には、壁のスイッチと鏡以外何も無い。扉や窓、蓋に見える切れ込みも無い。せめて空調ダクトや換気穴でもあれば、映画のようにそこから逃げ出す事が出来るかも知れないのに……。換気穴……。
 換気穴が、無い?
 慌てて辺りを見渡すが、換気が行えそうな穴は何処にも見えない。もし、本当に無いのだとしたら……。
(あと、どれくらい空気は保つんだ?)
 ここから逃げ出す術は無い。いずれ酸素は無くなるだろう。そうすれば、窒息しか無い。
(一難去ってまた一難、か)
 思わず、笑ってしまった。絶体絶命とはこの事だ。
 絶望が再び、体から力を奪う。

 ガガガンガンガンガンガンガンガガガガガガガ……

 音はまだ遠くに聞こえる。
 もう、諦めようか。
 もう、充分頑張っただろう。
 そんな考えが頭を過ぎる。
 体は痛いというよりも、寒く、硬く感じる。
 まばたきをするたびに、目の前の『イチナナサン』がまるでフラッシュのように位置を変える。まるで、踊っているようだと思った。

 ──。

 ────。

 意識が、何度も飛ぶ。

 ──────。

 いっそ眠ってしまおうか。
 開き直りにも似た感情がわき起こる。

 ガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガン……

 音はさらに大きくなっている。あの分厚い鉄板を叩いてこんな音をさせるとは、いったいどれほど強い力で叩いているのだろうか。

 おああああああああああううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううういいいいいいいいいいいいいいいああああああああああああああああああああああああああ……

 声もどんどん大きくなる。
 死が、俺に迫っている。
 足に力を込めると、少し、動かす事が出来た。体を回転させ壁に手をつき、思い切って立ち上がってみる。体は痛いが、動かなくは無い。そんなに俺は休んだだろうか? どれくらい意識を失っていたのだろう。
 立ち上がると、めまい、吐き気。そして、嘔吐──。体は胃から何かを吐き出そうと必死になるが、何も出てこない。喉の血管が切れそうな程えずいた。いけない。呼吸を落ち着けなくては、酸素が……。
 気合いを入れ、改めて周囲を見渡す。鏡には別人のように焦燥しきった俺の顔が映っていた。しかし、何でこんなところに鏡があるのだろうか。わからない。
 天井を見る。やはり空気の通り道は見当たらない。
 ……壁のスイッチをもう一度押したら、この防護壁は開くのだろうか。少しだけ、ほんの少しだけ開いて止める事が出来れば、換気を行う事が出来るだろう。そうすれば窒息は免れる。
 どうする?
 ……どうせこのまま待っていても死ぬだけだ。
 一か八か……。
 俺はスイッチに手をかけた。
 これ以上無いくらいに心臓が高鳴る。
 ぎゅっと眼を瞑り、
 思い切って、
 スイッチを──、
 押した。
 目の前で、防護壁が極めてゆっくりと上がり始め──、

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」

 何かが爆発したかのような轟音とともに、『ゼロキュウロク』の咆吼がダイレクトに耳へと飛び込んできた。
 まさか……、隙間に手をかけて押し上げたのか!?
 反射的に、スイッチを押した。
 少しだけ浮き上がった防護壁は、再び床へと接する。

 ああああああああああああおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお……

 声は、くぐもった音へと戻った。
 押し上げた扉に潰されてしまえばと思ったが、だめだったようだ。
 扉を叩く音が再び響き始める。
 目の前の『イチナナサン』は、まばたきにあわせてダンスを踊る。
「ちくしょう!」
 俺の声が狭い空間にこだまする。
 地獄は確実に、その距離を詰めてきている。

     

第十五話

 カリカリと、継ぎ目の無い白い壁を爪でひっかいてみる。
 もしかしたら、隠し通路など無いだろうか。
 こうなったら、それ以外に助かる方法は無い気がした。

 ガンガンガンガ……ド、ドン、ドゴ……ガン、ガ、ガ……

 壁を叩く音が少し変わった。
 まさか、叩き破ったのだろうか。この分厚い鉄の壁を。

 おおおおおおおああああああああああああああああああああああああうううううううああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ……

 声が先程までよりも明瞭に聞こえる。
 ああ、間違い無い。近付いて来ている。

 ガンガンガンガンガンガンガンガン……

 再び壁を叩く音。
 壁は、後何枚残っている?
 最後の透明な壁を入れても、おそらく全部で五枚くらいだったと思う。一枚は押し上げられてしまった。そして今また一枚破られた。残りは、三枚くらいだろうか。この透明な壁の強度はどれくらいなのだろう。三〇センチはあろう鉄の壁を素手で破るようなヤツだ。どれだけ特殊な材質で作られているとしても、この透明な壁で防ぎきれるとは思えない。
「あ、つっ……」
 横に移動しようとした瞬間、膝が抜けてしまい、俺は床に倒れた。足に力を入れると、今まで以上の痛みが襲ってきた。もしかしたら、骨にヒビでも入ったのだろうか。
 仕方が無いので、今度は床をひっかいてみる。床も、継ぎ目無い真っ白なプレートだ。
 ……酸素が、薄くなってきた気がする。
 何だか無性に息苦しい。
 息を深く吸おうとすると、肋骨が、肺が痛んだ。
 喉も痛い。口の中が血の味がする。
 いつの間にか溢れた涙が、手の甲に零れた。
 何で俺はこんな事……。
 こんな……。

 ……。

 …………。

 ………………。

 ……今、意識が飛んでいた。
 気付けば床に俯せになっている。
 今度はどれくらい、気絶していたのだろう。
 酸素は、さらに薄くなっているように感じる。
 立っているのと寝そべっているのでは、どちらの方が、酸素が濃いのだろう。わからない。学校で習った気もするが……。学校か……。懐かしい。通っていたのが、もう遙か昔のように感じる。

 ……。

 …………。

 ──ドン!

 その時、一際大きな音が聞こえた。

 ドン、ドン、ゴ、ゴガ、ガン、ガン!

 近い。どうやらすぐそこの壁を叩いているようだ。また、俺は気を失っていたらしい。

 ガンガンガンガンガンガンガンガンガガガガガガガンガンガガガガガガン!

 すぐそこの透明な壁の向こう。ヤツはもうそこまで迫ってきている。首を回し、防護壁の方へ向き直ると、音に合わせて分厚い鉄板が振動するのが見える。
 くそっ……、ここまでなのか。
 しかし、ここまで来て諦めるのは嫌だ。
 俺は、最後まで、諦めないぞ。
 カリカリと、床をひっかくのを再開する。もう俺にはこれくらいしか出来ない。こんな事をして何か見つかる可能性など皆無に等しいだろうが、ゼロとは言い切れない。ならば、やるしか無い。

 ドガン!

 鼓膜が破れんばかりの轟音が聞こえる。
 目をやると、壁の真ん中辺りがまあるく、こちらへ膨らんでいる。早い。ペースが上がってきているのか? それとも……。いや、考えているヒマは無い。

 ズガン!

 爆音。
 闇雲に連打する事はやめ、一撃一撃に力を込めるようにしたのか。

 ゴヮン!

 今までと少し違う感じの音が聞こえた。
 見ると、膨らんだ部分のてっぺんが裂けて、何か白いものが見えている。
 何、だ……?

 おおおおおおおおおわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!

 ヤツの声が壁を叩く音をかき消す。しかし、着実に裂け目は拡がり──。

 ドガン!

 拡がりきった裂け目から、見覚えのあるものが飛び出してきた。
(『イチナナサン』!)
 裂け目を通ってこちらへズルリと落ちてきたのは、何と『イチナナサン』だった。その後から、現れたのは『ゼロキュウロク』……。どうやら壁と壁の間に閉じ込められていた『イチナナサン』を叩きつけて壁を破壊したようだ。落ちてきた『イチナナサン』の頭部は、壊れてこそいないようだが、叩きつけられたのであろう部分が汚れていた。

 いいいいいいいいいいいいいいいああああああああああああああああああああああああああああああああああうううううううううううわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!

 絶叫。
 思わず耳を塞ぐ。
 ヤツはこっちへ真っ直ぐ手を伸ばし、駆け寄って来た。
 しかし、透明な壁にビタンとぶつかる。それでも立ち止まる事はしない、すぐさま壁をドンドンと叩き始めた。
 初めて間近に見た『ゼロキュウロク』の姿……。
 全裸の体はひどく痩せており、肌の色は病的に青ざめている。頭髪はおろか、体毛はどこにも見られない。異常に大きく開いた口。こちらを向いたその眼は白く濁っており、到底見えているようには思えない。背が高い。この狭い空間では背筋をのばす事は不可能だろう。手足も異常な長さだ。満足に振り回す広さが無いからここまで時間稼ぎが出来たのだろう。充分な広さがあれば、こんな壁など簡単に破られていたに違いない。
 ヤツの周りを、俺のまばたきにあわせて『イチナナサン』が舞っている。
 共倒れしてくれないかと少しは期待していたのだが……。『イチナナサン』が『ゼロキュウロク』に襲いかかる様子は無い。いや、もしかしたら俺が目を閉じている一瞬のうちに攻撃しているのかも知れない。しかし、どちらにせよ『イチナナサン』の攻撃は『ゼロキュウロク』には効かないようだ。

 ドン! ドン! ドン!

 透明な壁は案外丈夫なようだ。一撃で破られてしまうだろうと思っていたが、まだ変形した様子も無い。とはいえ、もう幾らも時間は残されていないだろう。
 俺は、再び床をひっかき始めた。
 何だかもう、何の現実味も感じなくなっていた。
 恐怖心が遠ざかって行く。
 ふと、空腹感を覚えた。
 お腹、空いたな……。
 母さんの作った豚汁が食べたい。
 眠い。
 眠いな……。
 布団で寝たい。
 俺、枕がかわるとだめなんだよな……。

  ……。

 …………。

「────?」
 耳元で誰かの声が聞こえた。
「どうやら、限界かな?」
 限界かだって?
 見ればわかるだろう。
「仕方が無い……。いったん休憩にしようか」
 低く落ち着いた、男の声。流暢な日本語だ。
 いったい誰だ?
 博士か?
 いや、違うか?
 わからない。
 声のする方に顔を向けたいが、首が動かない。
 手に、何かを持たせられた感触。掌にすっぽりおさまったそれは、ざらざらとした感触で、円い形をしている。何だろうか。
「だ……れ……?」
 声を振り絞り、訊ねる。
「そんな事より、さあ」
 体がひっぱりあげられ、無理矢理立たされる。
「円盤を落とすんじゃ無いぞ」
 わけがわからないが、俺は藁にも縋る思いで手の中の円盤を握りしめた。
「本来はこういう使い方をするものでは無いが……」
 誰かは俺の体を抱きかかえると、明らかに突き当たりの壁の方へと、飛んだ。

     

第十六話

 ──気を失っていたらしい。
 目を開けると、見知らぬ天井が見えた。
 どうやらベッドの上に寝かされているようだが、体が動かせない。視界も妙に色味がかっている。頭痛。まだ体は回復していないようだ。
 ここは、何処だろうか。
「目覚めたかい?」
 また、誰かの声が聞こえた。顔を見たいが、少し頭を動かしただけでも首に激痛が走り、そちらを向くことは難しい。眼球のみを必死に動かす。誰だ? よく、見えない。
「目覚めたかい?」
 繰り返し問いかけられる。返事をしようとしたが、かわりに出たのは乾いた咳だけだった。
「良かった。無事だったようだね」
 無事なものか。
「173が大丈夫だったから『シャイガイ』……、096も大丈夫かと思ったんだが……」
「……あなたは、誰ですか?」
 霞む眼で天井を見つめたまま聞いた。擦れた、か細い声だが、喋れる程度には回復しているようだ。
「誰? 誰という質問に答える事は容易ではないが……」
「名前、は?」
「名前? おお、それなら返答は容易い。私の名前はウィリアム。ウィリアム・ウッドワース。ひとは私を『教授』と呼ぶね」
 外国人然とした名前に似合わず、流暢な日本語で男は言った。
 博士の次は、教授か。やはり俺は実験動物のような扱いらしい。
「……『ゼロキュウロク』は?」
「大丈夫。ここは093の世界の中だ。ここまで追って来る事は不可能だ」
 今度は『ゼロキュウサン』の登場だ。SCPのオンパレードである。
「今、博士が『シャイガイ』をいったん隔離中だ。それが終わったら、君にはまた研究所へ戻ってもらう」
「何で……、俺……?」
「それはいずれ話そう。今は余計な事を考えず、生き延びる事だけを考えなさい」
 厳しいが、優しい口調で教授は言った。
「今は眠りなさい。ゲイリーから連絡が来たら起こしてあげよう」
 また知らない名前だ。
 もう、どうでも良い。
 また、ひどく眠たくなってきた。
「起きているのかい?」
 教授が声をかけてきた。
 返事をしようとしたが、声が出ない。
 抗う事も出来ず、目蓋が、閉じる。
「眠ったか……、それで良い」
 まだ眠ってはいなかったが、俺が眠ったと思ったらしい、教授が独り言のように言った。
「『見た』という意識と、見た事で発生した感情とはやはり区別しているのだな……。少し手を加えたくらいじゃだめだったか……」
 何の、話だろうか。
「しかし……、相変わらず財団は無能だな。まだ彼の居場所を探り当てていないようだ。今回はこれだけ手掛かりを与えてやったというのに……、おや?」
 ガタッと椅子の動く音。教授は椅子に座っていたらしい。どうやら立ち上がったようだ。
 足音が、こちらに近付いてくる。
「……寝たふりはいけないな」
 手が体に触れる感触。
「おやすみ。良い夢を」
 俺の意識は、闇に飲まれた。

 ──再び気が付くと、今度は薄暗い部屋の中にいた。
 体に力を入れる。不思議な事に、何の痛みも感じなくなっている。
 俺は、どれくらい眠っていたのだろう。
 それに、ここは何処だ。
 さっきまでは何処にいたんだ?
 あの謎の男は『ゼロキュウサン』の世界の中と言っていたが……。
 あれが、夢だったという可能性は無いだろうか?
 ……まあ良い。考えるだけ無駄だ。
 上半身を起こし、辺りを見渡す。
 明かりがほとんど消されているのでよくわからないが、医務室といった雰囲気の部屋だ。俺の体はベッドの上にあり、周囲は白いカーテンで仕切られている。カーテンの一部が開いており、そこから壁に並ぶ薬棚が見えている。
 消毒薬の臭いが鼻につく。元々体は強い方で、病気といえばたまに風邪をひくくらいのものだ。今まで病院にお世話になった事はほとんど無い。だから──という事も無いのだろうが、病院の臭いは好きじゃ無い。
 ベッドから足を下ろす。服はそのままだが、靴を履いていない。脱がされたのか。暗い中、目を凝らしてみるが靴は見当たらない。この後どんな展開が待っているかわからないが、靴下のままでは不安だ。いっそ裸足の方が走りやすいだろうか。ここがあの施設の中ならば、裸足で走って危ないという事もあるまい。足を手元に引き寄せ、靴下を脱ぐ。
 その時、部屋の中に声が響いた。
《お目覚めかな?》
 博士……、ギデオン博士の声だ。
 何処からか、俺を監視しているのか。
《まずは礼を言わせてくれ。ありがとう。君のお陰で非常に貴重なデータを得る事が出来た。いやはや、ずいぶんと怖い思いをさせてしまったね。申し訳ない》
「……ざけんな」
 大きな声は出なかったが、俺は憤りを口に出した。
《おお、怒るのももっともだ》
 博士が言う。俺の声も聞こえているのか?
《何の説明もせずに君を実験に使ってしまった》
 やはり、実験だったのか。
《知りたい事はたくさんあるだろうが、それはまたの機会にしてもらおう。さて、君の実験はもう少しで終わりだ。財団がようやく、君のいる場所を突き止めたようだからね》
 財団が……。という事は、博士は財団の職員では無いのか?
《少し歩けば外に出る扉が見つかるだろう。大丈夫、『イチナナサン』も『ゼロキュウロク』も、もうそこにはいないからね》
 それは、何よりだ。
《さあ、そろそろ行きなさい……。おっといけない……》
 音声が途切れる。
「何か……、あったんですか?」
 こんな仕打ちを受けてまで博士に敬語を使う必要など無いだろうが、博士相手には自然と敬語が出てしまう。不愉快だが、どうしようも無い。
《いや、済まない。君のところに今医者が向かっているようなんだ》
「医者?」
 痛いところはもう無いが、医者が来てくれるならありがたい。
《そう、医者だ。しかし、普通の医者では無い》
「……SCP?」
《彼にとっては不本意だろうがね》
 やはり、そういう事か……。
「わざとでしょう?」
《何がかね?》
 博士はとぼけた口調で言った。
「わざと俺に仕向けたんでしょう? その、医者を」
《信じてくれとは言わないが、それは、違う。ああ、いけない。こんな押し問答をしている場合じゃ無い》
 その時、部屋の外から小さな足音が聞こえて来た。
《部屋を出たら左に向かうんだ》
 俺は声を聞きながらベッドを降りた。
 足音が、止まる。
《しばらく行くと突き当たりに扉がある。少し重いが、思い切って引きなさい》
 カーテンの隙間からすり抜け、出口を探す。裸足の足が、ぺたりという足音を立てる。
 足音が、ゆっくりと近付いてくる。
《049には君は患者じゃ無いと言い聞かせてあるから、おそらく大丈夫だと思う》
 049?
 今近付いて来ているのは『ゼロヨンキュウ』なのか。
《049は英語しか話す事が出来ないから、君が会話するのは難しいだろう。何か言われても、何も答えない事をお勧めする》
 元より会話する気など無い。
 部屋の扉は開いていた。明るい廊下が見える。
 その廊下の壁に──影。不気味な形の影が見える。
 馬鹿でかい、ヒト型の影から、嘴のような巨大な三日月が生えている。
 足に力を込める。よし、痛みは無い。
(カシマ……、力貸してくれよ)
 足の速かった親友に祈る。あいつの分も、俺は生き延びるんだ。
 影が動いたのを合図に、俺は一気に走り出した。
 廊下に出て、左に曲がる。
 曲がる時に、ちらっと右側を見た。
 そこには、鳥を模したようなマスクを付けた、身長2メートル近い黒ずくめの男が立っていた。
 心臓が飛び上がる。
 いけない。焦っては、いけない。
 出口へと向かって走り出す俺に、黒衣の医師が何か声をかけた。

「As I thought, he is not …. However, he is not my patient….」

 何を言っているのかは、わからなかった。

     

第十七話

 廊下を走る足取りが、やけに軽く感じられる。
 体の何処にも痛みを感じない。むしろ、今までよりずっと早く走れているような気さえする。とはいえ、振り向く程の気持ちの余裕はない。
 あの黒衣の医師は、俺を追いかけて来ているのだろうか。
 ……いや、考えている時間は無い。
 もっと早く走るんだ。
 もっと、早く──。

 廊下は相変わらず狭く、ぐねぐねと折れ曲がっている。
 何度目かの角を曲がると、前方に大きな扉が見えた。
 間違いない。あれが博士の言っていた扉だ。幅は廊下と同じなので、そう大きくはないが見るからに重そうな鉄の扉である。しかし、躊躇っている暇は無い。
 取っ手に飛びつき、力任せに引く。
 重い。
 それでも、音を立てながら、扉は少しずつ開いていく。
 隙間から光が洩れて来た。
 外か?
 外なのか?
 何だかもう何年も表に出ていないような気がする。
 流れ込んで来る空気も、妙に美味しく感じられる。
 もう扉の半分は開いた。
 扉のすぐ向こう側には階段が見える。視線を上に上げれば──。
(ああ、外だ。外に、出られるんだ)
 その時、聞き覚えのある声が耳に飛び込んで来た。
《お疲れ様》
 博士だ。
《いや、君は本当に頑張ってくれたよ》
 俺は無視して扉の隙間へと滑り込む。後ろで足音が聞こえた気がするが、気にしない。
 階段を駆け上がる。思ったより段がありそうだ。
《君は、合格だ》
 何に合格したというのか。嬉しくもない。
《また、連絡するよ》
 一番上の段まであと少し。外の景色が見える。近代的な、街のようだ。
《次は、仕事を依頼させてもらうよ》
「くそくらえだ」
 大きく吠えて、外の世界へと飛び出す。
 その瞬間──。
 強い力で体を抱き寄せられた。
 耳に飛び込んで来る言葉は……、英語か? 聞き取れない。
 誰だ?
 怒りにも似た感情の中、何者かの方へと顔を動かす。
 見知らぬ、外国人の男が、こちらを見ながら何かを言っていた。
 いったい、誰だ?
「無事ですか?」
 今度は反対側から日本語で声をかけられた。
 そちら側へ顔を向ける。
「私はSCP財団の者です。あなたを保護しに来ました」
 小柄な、柔和そうな四十がらみの男がこちらを見ていた。
「大丈夫ですか?」
 博士や教授とは違い辿々しい日本語だが、久しぶりに、ひとの心に触れた気がした。
「大丈夫、です」
 絞り出すように答える。
 体を抱く力が少しだけ緩んだ。
「安心して下さい。あなたの事は、財団が護ります。詳しい話は施設の方で話します」
 体が解放され、ぽんと背中を叩かれる。見ると、俺を抱きかかえていたのは、映画の中でしか見た事の無いような屈強な男だった。体つきに似合わず、人懐っこい笑顔でこちらを見ている。軍人かと思ったが、服装が違う。この男も財団職員なのか。
 周りを見渡すとここは、裏路地といった雰囲気の場所だ。建物の感じから日本ではないことがわかる。周囲には他にも十数名の人間がこちらを見て立っている。全員普段着といった服装だが、通りすがりの者ではないだろう。皆、財団職員なのだろう。
 助かった、のか。
 いまいち実感が湧いてこない。
「どうぞ、こちらへ」
 目の前に担架が運ばれて来た。断ろうかとも思ったが、それもまた面倒だったので促されるままに横になる。
「施設につくまでの間、眠っていて下さって結構です」
 そう言われても眠くはなかった。
 担架は近くに停めてあったバンの中へと運び込まれる。
 中の椅子は倒されており、ベッドのようになっている。俺はそこへと寝かされる。
 外見は普通のバンだったが、中は妙に広い。気のせいか、それとも、財団の科学力によるものなのだろうか。
 担架を持っていた男達が車から降りる。扉が閉められたのと同時に、天井の明かりが白から青に変わった。
 体に振動を感じる。
 どうやらエンジンがかかったようだ。
 運転席は、こちらとは色ガラスで遮られており見えない。
 突然、強烈な睡魔が襲いかかる。
 ああ、何かされたのだな、と思うより早く俺の意識は闇へと落ちて行った。

 ──こうして目覚めるのは何度目だろうか。まるで場面転換のへたくそな映画のようだ。
 こんなに頻繁に気絶していては、体の何処かがおかしくなってしまうのではないだろうか。
 辺りを見渡す。
 明るく、清潔な、病室のようだ。
 ようやく、助かったのだという実感が湧いてくる。
 ベッドの上へ半身を起こす。腕に違和感を覚えたので見てみると、点滴の針が刺さっている。少し怖いと感じたが、そのままにした。
 サイドのテーブルにはご丁寧に花まで飾られている。
 さて、これからどうするか──。
 その時、部屋の扉がガチャリと開き、あの小柄な男が入って来た。おそらく、何処かで監視していたのだろう。
「気分はどうですか?」
 正直全く良く無かったが「悪くない」と答えた。
 男は柔和な笑みのまま、ベッド脇の椅子へと腰をおろす。
「先に自己紹介をしておきましょう。私の名前はトニーです。SCP財団の職員で、ここは財団の管理する病院です」
「キシダ……、ユキオです」
 半ば形式的に頭を下げる。おそらく、名乗らずとも知っているだろう。
「さて、何処から話しましょうか……」
 トニーは首を傾げ、顎をさすった。
「……何処から、知っているんですか?」
「我々があなたについて知っている事で一番古い情報は、およそ一年前に起きた『173事件』からです」
「一年、前……?」
 まさか、あれからそんなに経っているというのか?
 どの段階で、どれだけの時間が流れていたというのか……。
 聞きたかったが、今は黙ってトニーの話を聞く事にした。
「その少し前から、SCP─095─JPが何か動き出したという情報は掴んでいました」
「『サトウサイトウ』……、でしたっけ?」
「そう……。何処でそれを……? ああ、いえ、良いです」
 トニーはまた長い顎をさする。癖らしい。
「すぐに対処しようとしたのですが、しばらく様子を見るよう上層部からの命があり、我々は監視を続けていました。その時点でおかしいと思っていれば良かったのですが……」
「『173』はどうやって街に入り込んだのですか?」
「イチナナ……? ああ、はい。それが……、詳しい経路についてはまだわからないのです。173は現在確認されている限り、全てのものが監視下にありました。しかし、そのうち三体がいつの間にか監視下から消えていたのです」
 三体……。俺があの施設の中で見た数と一致する。
「内部の犯行、ですか?」
「それにつきましては、調査中、としかお答え出来ません。我々が気付いた時には、もう街は壊滅状態でした」
「監視していたのでは?」
「はい。しかし、これも不可解な命令により……」
「命令を下したのは誰ですか?」
「それは……」
「ギデオン博士ですか?」
 トニーの顎をさする手がぴたりと止まった。明らかに、動揺している。
「ギデオン……。ユキオさん、その名前を、何処で?」
「俺が閉じ込められていた施設の中で、です」
「博士に会ったのですか?」
「はい」
 少し考え込んでから、トニーは口を開いた。
「ユキオさん。これで状況がようやく把握出来ました」
「……?」
「ギデオン博士。彼の事を我々は別の名前で呼んでいます」
「……まさか」
「SCP―431『ギデオン博士』。ユキオさん、済みませんが先にあなたの話を聞かせていただけないでしょうか。いったいあなたは、あの地下施設の中で何を見て、何を聞いたのですか?」

     

第十八話

「なるほど……、それで?」
 俺は自分があの街で、あの地下室で見た事を、なるべく詳しくトニーに話した。
『グッドラック』事件の事。学校に『イチナナサン』が現れた時の事。気が付くと家にいて、その後に起こった事……。そして気が付くとあの施設にいた事──。
「そこで博士はあなたに、あの街で起こった事件の経緯を語ったのですね?」
「はい」
 記憶を必死に辿りながら、自分が見聞きしたものを話す。
「博士は君に『我々の記憶処理が効かない』と言ったんですね?」
「そう……、そうです」
「ここでいう我々というのが誰を指すのかが気になりますが……。確かに君に財団の記憶処理は効かないようです」
「やっぱり。ここに運ばれる時に車で見た光は──」
「済みません」
「いえ、良いんです。それで忘れられたら……、いっそ、良かったんですけどね」
「……。それで、その後博士は何と?」
 俺は博士が言った事を出来るだけ正確に伝えた。
「『173』の、攻撃対象にならない、と?」
「はい。そして、実際に俺は……。『イチナナサン』に背を向けても殺されませんでした」
「信じられない……。君が見た『173』が偽物だったという事はないだろうか?」
「……俺を、救助した後、あの地下施設を調べたりはしてないんですか?」
「……残念ながら、もぬけの殻でした」
「じゃあ──」
「はい。『173』やその他のSCPの行方も、未だ不明のままです」
「そんな……」
「……地下室に『173』は三体いたのですね?」
「はい」
「なるほど……。続けて下さい」
「博士は、俺が『イチナナサン』の攻撃対象にならないのは、俺の頭の中にある『テレキル合金』のせいだと言いました」
「……『テレキル合金』、と言ったんだね?」
「はい」
「……確かに、君の頭の中には、未知の金属片が散在している事がわかっています」
「未知? テレキル合金じゃないんですか?」
「少なくとも、我々財団が知っている『テレキル合金』とは違う物質です」
「じゃあ、博士は嘘を?」
「いえ。もしかしたら『テレキル合金』を材料に、この未知の物質を作ったのかも知れません。あの合金には心理影響特性を妨げる効果や隠す効果がありますから、それが変質して我々の記憶処理等を防いでいる、という可能性は低くありません」
「……」
「それで、その後『173』の部屋に連れて行かれたわけですね?」
「あ、はい。その時に部屋のネームプレートを見たんです」
「そこに『ギデオン』と名前があったんですね」
「はい」
 俺はそれから始まった『イチナナサン』との追いかけっこの事、逃げ込んだ部屋で『ゼロキュウロク』と遭遇した事を話した。
「『シャイガイ』は、一体だけでしたか?」
「シャイ……、ああ、はい。そうです。俺が見たのは一体だけです」
「モニター越しに奴を見たと言っていましたが、そのモニターというのはどういったものでしたか?」
「どういった、と言われても……」
「『シャイガイ』の姿は一般的なビデオカメラで見るように映っていましたか?」
「はい」
「……」
 トニーの顎を撫でるスピードが加速する。
「どうかしましたか?」
「いえ……。『シャイガイ』はモニター越しに見たとしても、ご存じの通り発狂し、襲いかかって来ます。なので収容する際には、モニターを設置するとしても圧力感知のもの等を設置するのですが……」
 ということは、つまり……。
「博士が意図的に危険なタイプのモニターを設置した、と?」
「可能性は高いですね。それにしても……、どうやって奴から逃げ延びたのですか? あ、いや、済みません。それをこれから話すところですよね。失礼しました。続けて下さい」
 トニーは顎をさするのとは反対の手で「どうぞ」と話を促した。
「……奴が閉じ込められていた部屋の壁は厚い鉄板で出来ていて、奴もすぐには破れませんでした。だから、俺、走って逃げたんです」
 頭の中に、あの狭く曲がりくねった廊下の光景が浮かんだ。
「途中で、何回か『イチナナサン』にぶつかりました」
「ぶつかった?」
「はい。そのままの意味です。ぶつかったので、押し倒して、乗り越えて……」
「信じられない……」
「……。しばらく進むと、廊下は行き止まりになりました。奴──『シャイガイ』も壁を破ったようでした」
「それで?」
 俺は壁のボタンを押してシャッターを下ろした事、換気がされず呼吸が苦しくなった事、奴が壁を一枚ずつ破っていった事などを話した。
「……『173』と『シャイガイ』は、互いに殺し合うような事はしなかったんだね?」
「はい」
「それで、そこからどうやって……?」
「何度も気絶を繰り返して……。『シャイガイ』も、もう目の前まで迫って来ていました。それで、もうダメだと思った、その時……」
「その時?」
「声が、聞こえたんです」
「博士ですか?」
「いいえ……。その声の主は、俺に何か円盤状のものを渡しました」
「円盤? それはどんなものでしたか?」
「感触で円盤状のものとはわかったのですが……。その時、見るだけの余力はなくて……。済みません」
「ああ、いえ。こちらこそ済みません。どうぞ、続けて下さい」
「……気が付くと。また知らない世界にいました。そこに、俺を助けた男がいました。男は、そこが『093』の世界の中だと言いました」
「『093』ですって? それは間違いありませんか?」
「はい」
 俺が首を縦に振るのを見ると、トニーは「ちょっと失礼」と立ち上がり、廊下へと出て行った。どうやらそこで、誰かに何か指示をしているようだ。声は微かに聞こえるが、残念ながら英語のため理解が出来ない。
「中断してしまい済みません。続けて下さい」
 再び椅子に腰を下ろしてトニーが言う。
「……男は、自分の名はウィリアムだと言いました」
「ウィリアム?」
「はい。ウィリアム・ウッドワースと」
「ウィリアム・ウッドワースですって? 何て事だ!」
 そう叫んでトニーは再び立ち上がった。そして先程と同じ様に廊下に出ると、また誰かへ何か指示をし出した。ずいぶん大きな声だ。何度も『ウィリアム・ウッドワース』と繰り返すのが聞こえる。
「……済みません、お待たせしました。続けて下さい」
 戻って来たトニーは顎をさする事も忘れて言った。
 俺は──この時の記憶は若干朧気ではあったが──、ゆっくりと思い出しながら『教授』の話した事を伝えた。
「……」
「それで、次に気が付いたら医務室のような部屋にいました」
「ちょっと待って下さい。教授は君に『ゲイリーから連絡が来たら』と言ったんですね?」
「はい。間違いない、と思います」
「その名前に思い当たりは?」
「え、俺がですか? いや、思い当たらないです。まったく」
「他の場面でも、その名前を聞くことはありましたか?」
「いえ……」
「そうですか……」
「誰、なんですか?」
「『ゲイリー』『電話』と聞いて、思い出した事がひとつあるのですが……。いや、良いです。済みません、話の続きをお願いします」
「……それで、今度は博士の声が聞こえてきました。スピーカーからです。博士は財団が俺を見つけたから、実験は終わりだと言いました」
「実験……。何の実験か、博士は言いましたか?」
「いいえ……。ただ……」
「ただ?」
「俺は、『合格』だと」
「……。それで、部屋から出て終わりですか?」
「部屋を出たところで、SCPに会いました。博士はそいつを『ゼロヨンキュウ』と呼んでいました」
「ゼロ……『049』? Plague Doctor!? 襲われなかったのですか?」
「はい。医務室で目覚めてからは体の痛みも無かったので、走って逃げました。何か話し掛けてきた気もするんですが……。すいません、英語苦手なんで、何て言ったか覚えてないです……」
「そうですか。いえ、気になさらないで下さい」
「済みません……。それで、地上に出る階段を見つけて、逃げ出したんです」
「そうでしたか。以上ですか?」
「はい」
 トニーは大きく呼吸をすると、ゆっくりと顎を撫で始めた。

《また、連絡するよ》

 頭の中に博士の声が響いた。

《次は、仕事を依頼させてもらうよ》

 この事だけは、トニーに話さない方が良いような気がして、話さなかった。
 トニーは今、何を考えているのだろうか。
 そして、俺はこれから、いったいどうなってしまうのだろうか。

     

第十九話

 それからトニーは「少し、休憩しましょうか」と三十分程退席した後、三人の男を連れて戻って来た。男達は俺の横になったベッドサイドに椅子を並べ、横一列に腰掛けた。トニーはその後ろに立っている。男達の年齢は五十代、六十代、七十代とばらばらに見えるが、三人とも妙な威圧感を持っている。安易な考えではあるが、その服装から財団の、それなりに地位のある研究員なのだろうと思った。少なくとも、肉体労働をする人間の体つきはしていない。
「ユキオさん」
 トニーが、少し申し訳なさそうに言った。
「済みませんが、先程の話をこの方達にもう一度行っていただけますか?」
「わかりました。……あ、日本語で大丈夫ですか?」
 俺は今更ながら気を遣った。
 こちらに来てから、『博士』や『教授』、トニーといった人間と話をしてきたが、誰に対しても日本語が通じていたので、ついここが日本で無いという事を忘れていた。
「大丈夫です。この方達も日本語はわかります」
 なるほど、俺とは知能のレベルに天と地程の差があるようだ。
「それでは、お願いします」
 トニーに促され俺が話し始めると、男達は時折何か耳打ちしながらも真剣な面持ちで話を聞いていた。
 二度目、という事もあって、さっきよりも細かい部分まで思い出して来た。もっとも、それが全て真実という確信は無いのだが……。思い出せば思い出す程、あの体験は、まるで単なる悪夢だったかの様に思えてくる。あれは悪夢で、現実では家族や友人も生きていて……、と。
 俺が話し終えると、俺から見て一番右──三人の中では一番若い、五十代くらいの黒髪豊かな男が話しかけてきた。少し発音に違和感があるが、日本語だ。日本人かと一瞬思ったが、中東か、インド系だろうか。
「大変、貴重な情報を、ありがとうございます」
「いえ……」
「そして今、あなたに、ひとつ謝らないといけない事があります」
「……?」
「先程、トニーが部屋を空けていた間に、あなたに、強力な記憶処理を行いました」
「え……?」
 全く、気が付かなかった。
「しかし、あなたに効果は無かったようです」
 なるほど。今同じ話をさせたのは、俺に記憶処理の効果があったか確かめる為だったというわけか。
「何の許諾も得ず、実験を行い、まことに申し訳ありません」
「いえ……。良いです。さっきも言いましたけど、俺……、忘れられるもんなら忘れたいですから」
「……」
「でも、良かったんですか?」
「何がでしょう?」
「貴重な、情報源なんでしょう? 俺の記憶がもし消えてしまったら……」
「ああ、それでしたら大丈夫です」
 ……何を理由に大丈夫なのか気になったが、これ以上追求しない事にした。
「キシダさん」
 今度は左端に座った六十代くらいの男が話しかけてきた。これもイントネーションが気になるが、立派な日本語だ。右端の男と対象的に、白くまばらな頭髪だ。白い肌と弛んだ皮膚は白人らしい歳の取り方と言える。柔和な、という印象がなくもないが、小さな丸眼鏡の奥の眼光は鋭い。
「あなたに我々の記憶処理が効かない以上、あなたをここから解放する事は出来ません」
「……はい」
 覚悟はしていた。覚悟はしていたが……、改めて面と向かって言われると、胸に刺さる。
「あなたには、この財団の職員として働いていただきます」
 これは少し意外だった。俺はてっきり──、
「SCPとして、収容されるのかと思いましたよ」
「それも検討しました」
 真ん中に座る、七十代くらいの男が言った。見た目は左端の男をさらに老け込ませた感じだが、声はここにいる誰よりもはっきりとしており、威厳に満ちている。かなりの地位がある人間に違いない。日本語も、『博士』並に流暢だ。
「しかし、少なくとも現段階では、あなたはSCPとは分類出来ません」
「何故、ですか?」
 別にSCPになりたいわけではないが、気にはなる。
「それは簡単には説明出来ません。何故なら、明確に『こういった理由であなたはSCPでは無いと考えられます』という答えが無いからです。我々は色々な視点から対象を研究し、それがSCPであるかどうかを見極めています。SCPの多くは、人類にとって非常に危険です。ですから、その見極めに悠長に時間を割くわけにはいきません。しかし、それが安易にSCPと分類してしまう事も、また危険なのです」
「はあ……」
「現段階では、あなたはSCPでは無いと考えていますが、これから先、その認識が一八〇度変わる事もあり得ます」
「……」
 何か、はぐらかされているような気もする。
「とにかくわかっていただきたいのは、我々はあなたをSCPという実験対象では無く、同じ研究者として向かい入れたいと思っているという事なのです。我々に敵意が無いという事を──」
「いえ、あの、はい。大丈夫です。別に、そんな敵意とか思って無いですから」
「……ありがとうございます」
 俺の言葉に、部屋にいる全ての人間が安心した顔をした。しかし、何処か疑いめいた表情も見え隠れしているように思えた。
「あの……」
「あ、これかの仕事等については私が──」
 トニーが手を挙げて言う。
「違うんです。そうじゃなくて……」
「……?」
「トニーさん。俺の街で『イチナナサン』が暴れたのは、もう、一年前の事なんですよね?」
「……はい」
「その後、俺の街はどうなったんですか? みんな……、死んだんですよね?」
「はい……、そうです。少なくとも、地図上の区分けであなたが『自分の街』と認識しているエリア内に、生存者はいませんでした」
「ニュースには……、ならなかったんでしょうね」
「はい」
「親戚とか……、街の外にも知り合いとかって沢山いると思うんですけど、そういう人達にも記憶処理を?」
「はい」
「戸籍とかも……、何て言うか、無かった事に……?」
「はい。今、あなたの街には、新しい住人達が暮らしています。ずっと以前から、そこで暮らしていたかのように」
「……」
 その人間達は何処から連れて来たのか気になったが、それは訊かない事にした。
「って事は、俺の事を覚えている人は、この世界に誰もいないって事ですよね?」
「ユキオさん……」
「いえ、良いんです。安心しました。さすが財団ですね」
 これは嫌味でも何でも無い。本心だ。この方が、何の迷いも無くいられる。それに、どうせ親しい人達はみんな死んでしまったのだ。
「で、俺は何の仕事をすれば良いんですか? また『イチナナサン』と追いかけっこでもしますか?」
「まずはしばらくの間、ゆっくりと休んで下さい」
「……退屈そうですね」
「まだ外出の許可は出せませんが、施設内であれば自由に歩き回っていただいて構いません。と言っても、権限が無いと入れない場所もありますので、何処にでも行けるわけではありませんが……。それでも、施設はとても広いです。退屈はしないかと思います。それに、いくつかのSCPには、きちんとした手順を踏んでいただければ、見たり触れたりする事も可能です」
 それは、怖いような、面白そうなような……。
「しばらくって、どれくらいですか?」
「そうですね……。はっきり決まってはいませんが、半年くらいでしょうか?」
「半年もですか?」
「はい……。と言いますのも、休養期間中に、やっていただきたい事がありまして……」
 それでは休養期間とは言えないのでは、と思ったが黙っておく事にした。揚げ足を取っても仕方が無い。それに、ただ『休め』と放置されるよりはずっと良い。何かをしていないと、心が折れてしまいそうだ。
「で、何をすれば良いんですか?」
「ユキオさんには、出来るだけ早く、英語が話せるようになっていただきたい。出来れば、英語以外の言語も」
「ああ……」
 なるほど。確かに今は日本語が話せる相手としか会話が出来ない。これから先は職員だけで無く、SCPと話す事もあるだろう。ならば幾つかの言語が話せなくては、職員としての仕事は務まらないだろう。
「一応、一日三時間程度のレッスンを予定しています」
 学校に通うよりはずっと楽勝だ。もっとも、勉強自体は得意で無いのだが……。
「レッスンは明後日から始めますので、今日明日は、本当にゆっくりとして下さい。必要な物があれば、近くの職員に言っていただければ結構ですので。それでは……」
 トニーと、三人の男達が部屋を出て行く。
 俺の、財団職員としての生活が始まったのだ。
 俺は心の中に渦巻く闇を出来るだけ直視しないよう、なるべくこの生活を楽しむようにと誓った。
 何故なら、俺は生きなくてはいけないから。
 死んでいった、みんなの分まで、俺は……。

     

第二十話

 施設に来て、半年が経った。
 ここでの暮らしにはすっかり慣れ、友人と呼べるような相手も出来た。意外な事に、財団には俺と歳の変わらない職員も多く在籍していた。彼等の多くはいわゆる『優秀な人材』だったが、性格も良い奴ばかりで驚いた。天は二物を与えず、というが、そんな事も無いらしい。
 先月の十九歳の誕生日は同僚達──いや、友人達に祝ってもらった。十八歳をすっ飛ばしてしまっているのでおかしな気分だったが、心から嬉しかった。自分が生きているんだ、という事を再認識出来た。それでも、心の底から笑う事は出来なかったけれど……。
 その間、俺は語学の勉強と、それとは別に一般的な学生としての教育を受けさせてもらった。今後の仕事に、専門的な知識は期待されていないとはいえ、高二レベルの学力でこの先一生いるのも不安だったからだ。なので、結局ほとんどの時間は勉強に使ってしまい、施設の探検はほとんどしなかった。その代わり、語学のレベルはかなり上がった。英語なら日常会話程度は問題無く喋れるし、ドイツ語やフランス語も多少の読み書きなら出来るようになった。正直、自分でも驚く程の成長である。もっとも、財団から何らかの特殊な方法で学習能力を高められた、という可能性も考えられはするが……。

   ***

 昨日の夕方──夕食前だったから五時くらいだった──に、久々にトニーが俺の部屋に来た。最初のうちは毎日のように様子を見に来てくれていたが、しばらくすると週に一回、月に一回と頻度は減っていき、今回会ったのは一月半以上ぶりの事だった。
「トニーです。少しよろしいですか?」
 控え目なノックの後に聞こえて来た声は、これまたずいぶんと控え目な音量だった。
「どうぞ」
 俺が返事をすると、扉はゆっくりと開き、トニーは隙間に体を滑らせる様に部屋の中へと入った。
「あ、そこ座って下さい」
 俺が英語で席を促すと、トニーは少し嬉しそうな顔をしてくれた。
「ありがとうございます。英語、ずいぶん上達しましたね」
「これが今の仕事ですからね。で、何か用事ですか?」
「ああ、はい。ユキオさんの任務が決まりましたので、その報告に来ました」
「任務……」
「はい」
「『173』関連とかですか?」
「それも、いずれはあるかも知れません」
「それも、って事は、仕事は一つじゃ無いんですね?」
「はい。詳しくは明日お話しします。朝食が済みましたら、私の部屋へ来て下さい。そうですね……、九時半ではいかかでしょう?」
「わかりました。大丈夫です」
「ひとまず、命の危険があるような任務はありませんから」
「……そう言われると、逆に怖いですね」
 俺が笑うと、トニーも少しだけ笑った。
「ユキオさん、ここでの暮らしには慣れましたか?」
「ええ。もうすっかり」
「友人も出来たようで、私も嬉しいです」
「ありがとうございます。ここの人達は、みんな良い人達ですね」
「そうですね……。しかし──」
「わかってますよ。クラスD職員とは親しくするな、って言うんでしょう? そもそも、普通に生活してたら会わないですし。俺、あっちの棟には行く事ないですから」
「そうですか」
 トニーは少し安心したのか、いつものように、ゆっくりと顎を撫で始めた。
「そういえば俺って、Cクラスなんですよね?」
「……一応は。居住スペースや待遇はAB職員と同等の扱いですが、実際現場に出たら、Cクラス職員相当の業務内容となるかと……」
「なるほどね」
 財団の職員は全てクラス分けされており、Aクラスが一番偉く、Dクラスが最下級の職員となる。Dクラス職員は元犯罪者などがほとんどで、いわば現場での『捨て駒』の様な役割を担う。Dクラス職員はABクラス職員との接触を禁じられているが、俺の属するCクラス職員との接触は特に禁じられてはいない。もっとも、俺の暮らしているのは(特別な計らいで)ABクラス職員と同じ施設内なので、先程も言ったように、普通に生活している分にはDクラス職員と出会う機会は無い。
「……ユキオさん」
 トニーがふいに真剣な顔になって言う。
「ユキオさんに友人が出来た事は、私、自分の事の様に嬉しいです。最近のユキオさん、本当に楽しそうで……」
「半年前の俺、そんなに暗かったですか?」
 冗談めかして言ってみたが、トニーは笑わなかった。
「ここでの仕事は……、言ってしまえば、いつ死ぬともわからない仕事です。私も、仲の良い同僚を何人か、失いました」
「……」
「……ひとは、いつか死にます。その理由はどうであれ。ですからユキオさん──」
「大丈夫です。俺は、大丈夫です。心配してくれてありがとうございます」
「ユキオさん……」
「強がり──かも知れないですけどね。そりゃ、怖いですよ。だって、俺、SCPに……『イチナナサン』に家族も友達もみんな殺されちゃったんですから。もし、また同じ様に友達が殺されたらって考えるだけでも……。だけど、一人でも俺の事を好いてくれる人間がまだそこにいるのなら……、何ていうか、打ちのめされたらいけないって、思うんです。時々は、俺一人が幸せでいるなんて、死んだみんなに申し訳ないって思う事もあります。でも……、それは違うって……、これはわがままなのかも知れないですけど、そう思うのは間違いだって、思うんです。むしろ、みんなの分も幸せにならないとって……」
 そう言いながらも、俺の顔から笑顔は消えていた。何度考えたって、最後に心に残るのは『俺一人が幸せでいるなんて、死んだみんなに申し訳ない』という思いの方だ。
「ユキオさん」
 膝に置いた俺の手に、そっとトニーが手を乗せる。気付かないうちに、俺の手は哀しいくらいに震えていた。
「ユキオさん、あなたは良い人です。みんなに好かれています」
「は、はあ……」
「だから、決してひとりになる事はありません。我々はあなたの友人であり、家族なんです」
 トニーの言葉に、思わず涙が滲んだ。ぐっと、堪える。
「ユキオさん。あなたの家族やご友人が死んでしまったのは、我々の責任です」
「……」
「ですから、私がこんな事を言っても無責任かもしれませんが……。ユキオさん」
 乗せていただけのトニーの手が、ぎゅっと強く俺の手を握りしめる。
「どうか、幸せになって下さい」
「……もう、充分、幸せですよ」
 照れながら、手を握り返す。俺は何処かで、トニーの事を父親の様に思い始めていた。
「今日は、明日に備えてゆっくり休んで下さい」
 トニーは立ち上がり、笑顔で言った。
「あ、どうせなら夕食一緒に行きましょうよ」
「済みません……、まだ仕事があるもので」
 そういえば、トニーと食堂で一緒になった事は無かった。忙しいのだろう。
「では、また明日。少し早いですが、おやすみなさい」
「おやすみ」
 トニーが部屋から出て行くと、一人きりの部屋は、いつもよりも広く感じた。

   ***

「──失礼します」
 扉をノックし、ゆっくりとドアノブを回す。ちらりと見える腕時計は午前九時半を示している。約束通りの時間だ。
「おはようございます、ユキオさん」
 部屋の奥には、トニーがこちらを向いて座っている。
 手で促され、俺は机の対面に腰を下ろす。
 一瞬、『博士』と始めて会った時の事を思い出した。
「それでは、さっそくですがユキオさんの仕事内容について説明させていただきます」
 そう言って、トニーは分厚いファイルを机の上に置いた。ファイルの表紙には俺の名前が書かれていた。
「この施設の敷地内には、全部で二百以上のSCP、或いはSCPと思われるものが収容されています」
「二百……」
「人畜無害のものから、この世界を一瞬で破壊してしまうような危険なものまで、その効果は様々です」
「はい」
 少し、緊張感が増す。
「ユキオさんの頭の中には──すでにご存じの通り、未知の物質が散在しています。それはギデオン博士の言葉を信じるならば、『テレキル合金』を元に作られた物質ではないかと推測されます」
「はい」
「我々財団にとっても『テレキル合金』は非常に特別な金属です」
「そうなんですか?」
「はい。そのものも持つ特性もそうですが、一部のSCPに対しては『テレキル合金』でしか物理的な影響が与えられないものもあるのです」
「『テレキル合金』でしか、ですか?」
「そうです。合金自体については、まだほとんどわかっていないというのが正直なところですが……。この特性はSCP研究においては非常に重要です」
「で、俺は何をすれば?」
「ユキオさんの中にあるものは、厳密に言えば『テレキル合金』ではありませんし、取り出す事も現状不可能ですが、ユキオさん自身が特定のSCPと接触する事で、今まで得る事の出来なかった情報を得られるのでは無いかと考えられます」
「……なるほど」
「なのでユキオさんにはこれから色々なSCPと対峙、場合によっては接触していただきます」
「なるほど。なかなか大変そうですね」
「申し訳ありません」
「いえ、やりがいがありますよ。俺にしか、出来ない事でしょうから」
「もちろん、ユキオさんにどんな被害も及ばないよう、きちんとサポートさせていただきます」
「お願いします」
「お任せ下さい。では、さっそく本日会っていただくSCPですが──」
 トニーがファイルの表紙をめくる。

 ──これから、俺の仕事が始まるんだ。
 無邪気に胸が高鳴るのを感じる。
(仕事、か……)

《次は、仕事を依頼させてもらうよ》

 ギデオン博士の声が頭に響く。
 仕事とは、果たしてどんな仕事なのだろうか……。
 いつ、どんな方法で連絡が来るのだろうか……。
 そんな考えを必死に打ち消しながら、俺はトニーの説明に耳を傾けた。

       

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Neetsha