エピローグ Part1
暗い部屋の中、『彼等』は静かにモニタを見つめている。
モニタに映し出されているのは、何の変哲もない、ありふれた街の風景だ。
空撮でもしているのだろうか。視点は空からゆっくりと地面へ下降していく。
──道を歩いている、一人の男がクローズアップされる。
彼の名前は、キシダ・ユキオという。
「本当に、気付いていないのかな?」
暗闇の中、一人の男が言った。
「うん。どうやら、さすがの彼でも気付かないらしい」
もう一人の男が答える。
カメラ(便宜的に、だ)は歩く彼から数メートルの距離を保って移動を続ける。
彼の隣には、彼に寄り添うひとつの影があった。
「母さん」
ユキオは『それ』を『母さん』と呼んだ。
「今日の夕飯何?」
「……」
「マジで? やった」
「……」
「あ、でもさ、明日で良いからカレー作ってくれない? 久しぶりに、さ」
「……」
「ユタカは辛口はイヤだって言うだろうけどさ、俺は辛口が良いな」
「……」
「母さんも辛いの好きだろ? 父さんだってさ──」
「……」
「あーあ、明日から学校かあ」
「……」
「長い休みも終わりか……、あいつら、みんなどうしてっかなー」
「……」
「授業、起きてられっかな」
「……」
「……」
傾き始めた陽に照らされて、街はオレンジ色に染まっている。
「あ、カシマとタローじゃん。おーい!」
「……」
「……」
「久しぶりだなあ。全然変わってねえじゃん。え? 俺? バカだな、ちょっと留学したくらいじゃ何も変わらねえよ」
「……」
「……」
「おう、明日からまた、学校でな」
「……」
「……」
ユキオが『カシマ』と『タロー』と呼んだものは、ゆっくりと道を転がっていく。
ユキオは、今にもスキップでも始めそうな様子で歩いている。
「幸せそうじゃないか、彼」
「約束だからね」
「約束? これで約束を守ったとでも?」
「もちろん。幸せそう、だろ?」
「ただいまー」
自宅の玄関を開け、ユキオは中に声をかける。カメラも続いて中に入る。
「父さんただいま。ユタカは? 部屋?」
リビングのソファの上に転がった『それ』に声をかける。
「……」
「またゲームやってんの? あいつなー、スポーツでもやりゃモテるだろうに」
「……」
「母さんもさ、言ってやった方が良いぜ? 父さんもさ──」
「……」
「……」
「じゃあ、ちょっと俺、上行って来るね」
「……」
「……」
弾む様な足取りで、彼は二階の自室へと向かう。
「ユタカ、お前ゲームばっかやってんじゃねえよ」
「……」
チカチカと点滅を繰り返すテレビの前に転がった『それ』を、ユキオは軽く蹴った。
「お前ガタイ良いんだからさ、スポーツやった方が絶対モテるって」
「……」
「今からでも間に合うからさ」
「……」
「いや、俺は……、俺は良いよ」
「……」
「俺は……、家にいたいから……」
「……」
「……俺にもゲームかせよ」
そう言って、彼は床に転がったゲームのコントローラを手に取った。
「奇妙な映画だね」
「確かに」
「彼の目には、どう映っているのだろう」
「ふふん、『都合の良い様に』だろうね」
「食事はどうするつもりだい? 『あれ』に作れるとは思えないが?」
「それも『都合の良い様に』見せるんだろうが……、いずれは餓死か、それとも……」
「残酷だね」
「そうかな? 僕には、幸せな夢に見えるよ」
「悪夢で無く?」
「どちらも同じさ」
「──はーい。おい、ユタカ、飯だって。行くぞ」
「……」
ユキオは『ユタカ』を抱きかかえる様にして、部屋を出る。
「しかし、よくこんな大量に用意出来たものだ。どうやったんだ?」
「企業秘密だよ」
「この場所もいずれ、見つかるだろうね」
「その前には終わるさ」
「終わる? 彼の幸せがかい?」
「そう云う意味では、永遠に、終わらないだろう」
「美味しいね」
「……」
「……」
「……」
四人分並べた空の食器を前に、ユキオが言った。箸で何か口に運ぶ動作をするが、そこには何も無い。
「ユタカ、それ俺の分だよ、盗んなよ」
「……」
「……」
「……」
「母さん、ご飯おかわり」
「……」
「ありがとう」
「……」
「……」
「……」
「味は感じているのかな?」
「それくらいの幻覚はおやすいご用だろうね」
「こうして改めて見ると……、なかなか恐ろしいね、この『SCP―31』ってやつは」
「改良型、だけどね」
「声は、彼にだけ聞こえているのか?」
「指向型なわけさ」
「改良はその部分?」
「この部分については改良とは言えないかも知れないけどね」
「逆に、もっと強力にしてやれば、他の攻撃的なSCP達に対して優位になれるんじゃないかな?」
「どうだろう……。『173』が誰かを愛する事はあるだろうか?」
「それこそ……、『愛とはなんぞや?』だね」
暗い部屋の中、彼等の声だけが響く。
モニタの向こうでは、ユキオが幸せそうに笑っている──。
幸せそうに──。
SCP-173
エピローグ
エピローグ Part2
「本当に、これでよかったの?」
不安げな顔で少女が言う。
俺は彼女にそっと微笑む。本当の気持ちを悟られてはならない。
「うん。ありがとう」
優しく頭を撫でてあげると、幾らか安心した様だ。
視線を前に戻す。
薄い、昆虫の羽の様な膜の向こう──、真っ暗な部屋の中で、二人の人間が話している。俺と彼女は、この『何処でもない空間』から、その様子を見つめている。
「私、もっと出来るよ?」
彼女がまるでおねだりでもするかのような声で言う。
「大丈夫、本当に。これで良かったんだ」
彼女は自分の力を完全には制御出来ない。余計な事は考えないで欲しい。
「……」
今、彼女に俺の心の声は聞こえていない。聞こえないように出来る事に、気付いたのはつい先程だが……。
俺が彼女──『ちいさな魔女』に望んだ事。それを簡単に説明することは出来ない。彼女が上手く俺の思考を読み取ってくれたから良かったものの、こんな事、言葉で指示をするのは極めて困難だっただろう。
膜の向こう──壁のモニタにはキシダ・ユキオ──俺だった人間が映っている。幸せそうな顔だ。ようやく……、ようやく彼は日常を取り戻したのだ。
あれは、本当の『俺』だ。
そう、ここにいる『俺』の方が偽物──。
それとも、どちらも本物でどちらも偽物か。
……どうでも良いか。
ふと気付く。
俺は無意識にアゴをさすっていた手を止め、苦笑する。
なるほど。慣れない顎髭は気になるものだ。
「前回の俺──、いや、彼は同じ事を望んだのかな?」
ふと、呟いてみる。
「ちがうと思う。でも……、ううん、やっぱり、同じだと思う」
彼女が俺の手をきゅっと握る。ひんやりとした、小さな手だ。
「そろそろ行くよ」
「五年前の三月五日、だよね。もっと前じゃなくて良いの?」
「良いんだ。まだ理由はわからないけど」
何故五年前の三月五日なのか、今はまだわからない。
しかし、たぶんこの日付には意味があるのだろう。それに、例え自分が生まれる前に戻っても、何も手出しは出来ない。こんなところまで来て情けないが、自分自身の存在を抹消出来る程、俺に勇気は無い。生まれてしまった以上は、哀しい運命から逃げる事は出来ないだろう。だったら、せめてあの事件だけでも──。そう、あの事件さえなければ……。
「そろそろ、行くよ」
「うん……」
「大丈夫。また会えるさ。いや、違うか。もう再会はしているんだね」
「……お兄ちゃん」
彼女の瞳が涙で滲む。
もしかしたら彼女は、俺のこの無限とも云える旅の結末を知っているのかも知れない。
「じゃあ、お願い」
「うん」
言葉では形容しがたい感覚が全身を襲う。
いったい、どんな形で自分と再会する事になるだろう。
願わくば、再会しないで済んで欲しいものだ。
出来る限りの事はしよう。
出来る限りの事は……。
「本当に、これでよかったの?」
不安げな顔で少女が言う。
俺は彼女にそっと微笑む。本当の気持ちを悟られてはならない。
「うん。ありがとう」
優しく頭を撫でてあげると、幾らか安心した様だ。
視線を前に戻す。
薄い、昆虫の羽の様な膜の向こう──、真っ暗な部屋の中で、二人の人間が話している。俺と彼女は、この『何処でもない空間』から、その様子を見つめている。
「私、もっと出来るよ?」
彼女がまるでおねだりでもするかのような声で言う。
「大丈夫、本当に。これで良かったんだ」
彼女は自分の力を完全には制御出来ない。余計な事は考えないで欲しい。
「……」
今、彼女に俺の心の声は聞こえていない。聞こえないように出来る事に、気付いたのはつい先程だが……。
俺が彼女──『ちいさな魔女』に望んだ事。それを簡単に説明することは出来ない。彼女が上手く俺の思考を読み取ってくれたから良かったものの、こんな事、言葉で指示をするのは極めて困難だっただろう。
膜の向こう──壁のモニタにはキシダ・ユキオ──俺だった人間が映っている。幸せそうな顔だ。ようやく……、ようやく彼は日常を取り戻したのだ。
あれは、本当の『俺』だ。
そう、ここにいる『俺』の方が偽物──。
それとも、どちらも本物でどちらも偽物か。
……どうでも良いか。
ふと気付く。
俺は無意識にアゴをさすっていた手を止め、苦笑する。
なるほど。慣れない顎髭は気になるものだ。
「前回の俺──、いや、彼は同じ事を望んだのかな?」
ふと、呟いてみる。
「ちがうと思う。でも……、ううん、やっぱり、同じだと思う」
彼女が俺の手をきゅっと握る。ひんやりとした、小さな手だ。
「そろそろ行くよ」
「五年前の三月五日、だよね。もっと前じゃなくて良いの?」
「良いんだ。まだ理由はわからないけど」
何故五年前の三月五日なのか、今はまだわからない。
しかし、たぶんこの日付には意味があるのだろう。それに、例え自分が生まれる前に戻っても、何も手出しは出来ない。こんなところまで来て情けないが、自分自身の存在を抹消出来る程、俺に勇気は無い。生まれてしまった以上は、哀しい運命から逃げる事は出来ないだろう。だったら、せめてあの事件だけでも──。そう、あの事件さえなければ……。
「そろそろ、行くよ」
「うん……」
「大丈夫。また会えるさ。いや、違うか。もう再会はしているんだね」
「……お兄ちゃん」
彼女の瞳が涙で滲む。
もしかしたら彼女は、俺のこの無限とも云える旅の結末を知っているのかも知れない。
「じゃあ、お願い」
「うん」
言葉では形容しがたい感覚が全身を襲う。
いったい、どんな形で自分と再会する事になるだろう。
願わくば、再会しないで済んで欲しいものだ。
出来る限りの事はしよう。
出来る限りの事は……。