Chapter 1
1
薄暗い雪の森の中を、一人の少女があてもなく彷徨っていた。後ろを振り返ると、街が赤く燃え上がっているのが見える。森の中を駆け抜けながら、少女は父親の最期の言葉を思い出していた。
『よいかアクア……この、代々我が国に伝わってきた宝玉を守れ……決して、これを悪しき者の手に渡してはならん……お前がしっかりと守ってくれ……』
お父様はそうおっしゃられて息を引き取られた。この宝玉が一体何なのかは教えて下さらなかったけれど、とにかくお父様のおっしゃられたとおり、これをしっかりと守らなければ。
極寒の地、ノースアイランドを統治するウィンタリィル国が突然の襲撃により壊滅し、アクアは命からがら逃げてきた。王女である自分が国から逃げることに引け目を感じたが、もう後戻りすることなどできない。託された宝玉を胸に、アクアはひたすら走り続けた。
体に刺すような寒さが襲ってくる。この雪の森は昼間こそ凍えるが、夜ともなれば更に気温は下がる。それだけでもじゅうぶん危険だが、夜は凶暴なスノーベアや、お腹をすかせたフェンリルウルフたちが獲物を求めて徘徊している。そんな中をあてもなく彷徨うことがどれほど危険なことなのかはよく分かっていた。しかし、夜が明ける前に何としてもここを抜けなければならない。
お父様の死を無駄にはできない。この森を抜ければ雪の町フリージュがある。まずはそこへ……。
突然後ろから風を斬る音が聞こえてきた。何の音かと振り返る間もなく、アクアの髪の毛をかすめて、矢がすぐ側の木に突き刺さった。どうやら追っ手が来たらしい。
なぜ自分が森へ逃げ込んでいるとすぐばれたのかは分からないが、矢を放ってくるあたり、宝玉を持っていることも分かっているのだろう。相手は馬に乗っているみたいですぐに追いつかれてしまうのは目に見えているが、それでも諦めるわけにはいかない。
アクアは飛んでくる矢をなんとかかわしつつ木の間を縫って走り続けたが、案の定すぐに追いつかれてしまった。追っ手は馬から降り、じりじりとアクアに近づいていった。全身をマントで身を包み、フードと仮面で顔を隠している。体格からして、どうやら男のようだ。
「逃げても無駄です。おとなしく宝玉を渡してもらいましょうか。そうすれば貴女様の命は助けて差し上げましょう。もし嫌だと言うのなら、アクア王女には死んでいただくしかありません」
アクアは男の言葉に全く動じない……というより、動じないふりをしていた。本当は膝が震えて立っているのもやっとだったが、決してそれを相手に悟られてはいけない。
「王女様は命が惜しくないのですか?宝玉を渡さなければ死ぬことになるのですよ?」男の放った矢が勢い良く飛ぶ。それでもアクアは動じない。男は次第に苛立ち始め、声を張り上げて言った。
「さっさとそれをよこせ!どうせお前が持っていても何の意味も持たないんだ!さあ早く!」
「これはお父様から預かった大切な物。お父様はこれを悪しき者に渡すなとおっしゃいました。誰があなたのような人に渡すものですか!」アクアはそう言うと、呪文を唱え始めた。
「ファイアボール!」
アクアの指先から炎の球が男めがけて飛び出した。男はすんでのところでファイアボールをかわす。ファイアボールはそのまま男の後ろにあった木にぶつかり、激しい音を立てて辺りを煙に包んだ。
「くそっ、どこだ!」
男は必死に周囲を見回したが、あたりは煙が立ち込めてよく見えない。アクアは何とか追っ手から逃れ、また走り続けた。
だが、気のせいか進むにつれてどんどん暗闇の中へ誘い込まれているような感覚に陥る。自分が今どこを走っているのかもまったく分からない。
「きゃっ!」突然足元が滑る。アクアは小さな崖の下でしりもちをついてしまい、しばらく言葉も出なかった。
――いけない、こんなところで止まっている場合ではないわ。そう思って立ち上がろうとした瞬間、右足に激痛が走った。
「痛っ……」
滑り落ちた時にどこかに当たって切れてしまったらしく、ふくらはぎが血の赤で滲んでいた。深く切れていたわけではないが、痛みでなかなか立ち上がることができない。
ああ、私はこのままここで死んでしまうのかしら。どこからか獣の匂いがしてくる。きっと私が死ぬのを待ってるんだわ。そして、そのあと私の肉や内臓を喰らうにちがいない。
アクアは木々の隙間からのぞいている空を見上げた。絶望に満ちたアクアの心とは裏腹に、月は曇りなく大地を照らし、星は輝いている。ふいに涙が零れ落ちた。
思えばあっという間の出来事だった。突然の襲撃に多くの民が命を落とし、お父様も殺され国は落ちてしまった。私は宝玉を守るため国を逃れ、こうして森の中を走り続けてきた。でも、私ももうこれで終わり。足に怪我を負ってしまってうまく立ち上がることができないし、この寒さで全身の感覚がもうほとんどない。
お父様ごめんなさい。約束は守れそうにありません。せめて、このままあの世へ宝玉を持っていければいいのに。……ああ、なんだか意識が朦朧としてきた……本当にもうダメみたい……お父……さ……ま……。
2
目が覚めると、そこは凍える森の中ではなく、暖かい部屋のベッドの上だった。
「やあ、気がついたかい?」
一人の青年が部屋に入ってきた。年齢は十八くらいだろうか。暖かさに満ちた、澄んだ青い瞳。じっと見ているとその中へ吸い込まれてしまいそうだった。
「あの……うっ……」アクアは起き上がろうとしたが、負った傷が痛くて起き上がることができない。
「大丈夫?無理に動くと傷にさわるよ。さっき魔法屋で買った薬草を塗ったから、すぐに良くなるとは思うんだけど」
「あなたが助けてくれたのですか?」
「ああ。雪の森の中で倒れていたのを見つけて、このフリージュの町まで運んできた」
「どうも助けていただいてありがとうございます。このご恩は決して忘れませんわ」
アクアの丁寧な態度に、青年は少し驚いた。
「ずいぶん礼儀正しい人なんだね。それにどこか高貴な雰囲気がする。どこかの富豪のご息女とか?」
ここで王女だと名乗って、敵に追われていることが知れれば彼にも迷惑がかかるかもしれない。ここは気づかれないよう庶民のようにふるまわなければ。
「い、いえ、私はただの一般庶民ですわ。ただわたくしの父が礼儀作法にうるさい人だったので、いろいろと教え込まれただけなんです。そういうあなたこそ、ずいぶん立派な鎧を纏ってらっしゃるのですね。さぞ由緒正しき家柄なのでしょう?」
「そんな、由緒正しいなんて……なんてことない普通の家だよ」
「そうなんですか?以前伯爵の一行を見たことがあるのですが、お付きの方はとても立派な鎧を纏っていらっしゃいました。あなたの鎧も、それによく似ています」
「そんなにいいものじゃないよ。そういえば自己紹介がまだだったね。僕はクリス。クリス・アーチェイン。見てのとおり剣士で、修行も兼ねて旅をしている。あなたは?」
「私の名はア……」
一瞬本当の名前を言いそうになって、焦ってしまった。首をかしげるクリスに悟られぬよう、軽く一呼吸おいて、落ち着いた様子で口を開いた。
「……アンドレス。マリン・アンドレスです」
「マリン・アンドレスか。どこかで聞いたことあるようなないような」
「そ、そうかしら。ありふれた名前ですわ」
マリン・アンドレスというのは、アクアが愛読していた名著な本の登場人物の名前をもじったものだった。何とか話題を変えようとして、ふとあることを思い出した。
「そういえば、アーチェインといえばどこかの有名な剣士もそんな名前だったような気が……」
「……フリドリッヒ・アーチェインは僕の父です。といっても、本当の父親ではないんですけどね」そう言って苦笑いするクリスの青い瞳は、心なしか曇って見えた。
「そうなんですか……でも、素晴らしい方がお父様になって、あなたも誇らしいことでしょう」
すると、ふいにクリスの顔が暗くなった。
「ご、ごめんなさい、何かいけないことでも……」
「いや、大丈夫、なんでもない。それよりも、マリンさんはあの森の中で一体何をしていたんだい?」
「ええと……特にこれといって目的はないのですが、世界中を気ままに旅して歩いている、とでも言っておきましょうか」
「世界中を気ままに旅している、か。それにしてはずいぶん手ぶらなようだけど」
「わ、私、荷物は軽い方が好きなんです」痛いところを突かれ、アクアは慌ててしまった。
「そうか。でも、それではいろいろと大変だろうに。武器を持ってないところを見ると、魔法を使うのかい?」
「一応護身用の短剣は持っているのですが、剣の腕の方はあまりよろしくないので……」
「なるほど。それではどうだろう。僕も一人で旅をしている身。一人より二人の方が何かと頼もしいだろう。一緒に旅をしないか?」
アクアは少し考えた。たしかに彼がいれば頼もしいかもしれないが、何しろ自分は狙われている身である。彼にも危険が及んでしまうかもしれないと思うと、素直にイエスとは言えなかった。
「マリンさん?」
澄んだ青い瞳が私の目をじっと見つめる。そんな瞳に見つめられると、心が痛んでしまう。
「何か都合の悪いことでも?」
「あ、いえ……そうですね、ぜひご一緒させて下さい。でも、ひとつ忠告しておきます。私と旅を共にすれば、これから危険なことが待ち構えているかもしれません」
「危険なこととは……何か事情でも?」
「今は申し上げることはできません。でも、いつか必ずお話します。それでも良いというのなら、ぜひご一緒させてください」
「僕は全然かまわないよ。むしろその方が意義のある旅になりそうだ。それに、あなたと似たような人を僕は前に会ったことがある」
「そうなんですか?それは一体……」
「……さて、話はこれくらいにして。夜も遅いし、そろそろ寝ようか。幸い足の傷もそんなに深くないみたいだし、数日もすればよくなるだろう。だからゆっくり休むといい」彼にも何か事情があるようで、途中でアクアの話を遮った。アクアもいろいろ隠しているが、クリスも何かを隠しているようだ。
「あ、僕のこともクリスって呼んでくれていい。それじゃ、おやすみ」
「じゃあ私のこともマリンで。おやすみなさい」
クリスはにこっと微笑んで、ランプの火をふっと消してソファーに寝転がった。この部屋は一人部屋だったので、当然ベッドもひとつしかなかった。
真っ暗な部屋を、窓から差し込む月明かりが部屋を照らしていた。町の夜は平和そのもので、さっきまであんな惨事があったことなど嘘のように静まり返っている。
このスノーアイランドには他にも点々と町や村が存在しているが、すべてウィンタリィル国の領地。数日後には国が滅んだことが知れ渡り、まもなくこの大陸は他の国の領地争いに巻き込まれるかもしれない。雪景色でこんなにも綺麗な町や村が、戦火の渦に巻き込まれてしまうのかと思うと、なんだか悲しい気持ちになる。
「眠れないのかい?」
「ええ。ちょっといろいろあったものだから……」
「そうか……どんな辛い思いをしてきたのかは分からないけど、今は身体のために休んでおいたほうがいい」
クリスを見ていると、アクアはなぜだか心が落ち着いた。彼の優しい青い瞳のせいだろうか。その瞳に見つめられると、何もかも失って途方に暮れていたアクアの心はすぐに立ち直れそうだった。
「そうですね。これから長い旅に出るんですものね。早く良くならないと。おやすみ」
「おやすみ」
とにかく今は傷の治療に専念しなければ。早く治して、これからどうしなければいけないのかを考えなければいけない。
アクアは不安を感じていたが、目を閉じると、突然起こったいろいろなことで疲れていたせいか、すぐに深い眠りに落ちた。
to be continued...