Neetel Inside ニートノベル
表紙

ゴールデンクロス・デッドクロス
01.「取引」

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01.「取引」



 ぼくはいつからここに立っていたんだろう。
 いつからそこに立っていると思っていたんだろう。
 はじめて父のディーリングルームに入ったのは、ぼくが十歳になった誕生日の日のことだった。
 父がどうしてその日そこへ連れて行ってくれたのかは、いまでもよくわからない。息子の誕生日くらい一緒に過ごしてあげようと父親なりに思ったのかもしれないし、もしかしたらぼくが“株式取引”を勝手に勉強し始めていたことを、父は知っていたのかもしれない。
 高く積まれたPCラックと数えきれないほどのモニターで埋め尽くされた壁。それらに囲まれるようにして部屋の奥にはシンプルな机があった。
「とうさんは、いつもここにいるの」
「そうだね、ここにいることが多い」
 そう言って、父は黒色のオフィスチェアに腰掛ける。メインパソコンの主電源を入れると唸るようにファンの音が部屋に鳴り響いて、その頃にはもういつもの父ではなくなっていた。
 モニターには連峰のように波を描く数十個のチャートと数秒ごとに更新されるニュースサイト、目が眩むほどに点滅を繰り返す各銘柄の板情報がいくつも映しだされていた。ぼくはそのグラフや数字のひとつひとつが意味することは知っていたけど、情報の海と化したそれらを理解することはできなかった。それもそのはずだ。ぼくはそれらすべてを捉えようとしていたのだから。
 父は膨大なそのなかから必要な情報だけを選んでその目に捉える。その他の情報は一切脳に入れない。きっとそのときの父の目には、ぼくの姿すら入ってなかったのだろう。むしろその部屋のなかで一番必要のない情報は、ぼくだった。
 データの海に数十分ほど潜っていた父は、やがてキーボードに左手を乗せ、見つけた未来を簡単な数字で入力する。それが百年以上も前から懲りないやつらがやり続けてきた“株式取引”という行為だった。
 いくらか時間が経つと今度はぽーんという単調な電子音が何度も部屋に鳴り響く。取引が成立した知らせだ。
 時間はあっという間に過ぎて、気づけば十五時になっていた。
 ふぅ、と一日の取引を終えて安堵したのか大きな溜め息をひとつ吐くと、父は再びぼくを見てにっこりと笑った。「そういえば、いたんだね」と、思わずそんな声が聞こえてきそうな表情だった。
「今日はいくら稼いだの」
「そうだね、だいだい二億五千万くらいかな」
 それがどれほどのお金なのか、ぼくにはよくわからなかった。
 宝くじの一等がたしかそれくらいだったかもしれない。だけど、大きな金額だということはわかっても、そのお金でなにができるのかまでは想像がつかなかった。父はそんなぼくの表情を読み取ったのか、言葉を続けて教えてくれる。
「だいたい人ひとりが、一生を生きるのに必要なお金だよ」
 それはとてもわかりやすい例えだった。
 父はその日、人ひとり分の人生を喰ったのだ。

 ○

 屋上に出てみると、今日はやけにいい天気だった。
 雲ひとつない青空、と言い切りたかったけど、東の空を見れば白い雲の一群があった。ちょうどそのなかへ小蝿ほどに小さくなった飛行機が突っ込んでいく。あの飛行機はいつか、雲を抜けるのだろうか。
 空から視線を少し下げると、緑のフェンス越しに街並が広がっている。
 相変わらず、どこか寂しい街だ。
 べつに都会人ぶるつもりはないけど、東京と比べてみるとそう感じずにはいられなかった。なんというかこの街には、人の気配が少ないのだ。それにどこか灰色がかって見える。平穏と言ってしまえば、それはぼくが求めていたものと言えるのかもしれないけど。
 街の中央を走るひょろひょろとした小枝のような線路を境目に、この街はふたつに分けることができる。海のある南側には平たい工場群が、北側にはどこにでもありそうな退屈な住宅地が広がっていて、この高校も、いまぼくが住んでいる祖父の家もその南側だった。
 いい加減見慣れてきた街の景色から目を離し、階段室の影に腰を下ろす。
 特別棟の屋上。辺境の地。
 転校してきて早々に、この場所をみつけることができたのは、本当に幸運だった。
 教室のある校舎からここまで来ようと思えば、階段の昇り降りだけで十分近くはかかる。いくら昼休みが長いからって、そこまでの努力をして一人になりたいやつは、どうやらぼく以外にいないらしい。
 ぼくは購買で買ってきたサンドイッチを片手に、スマホにテレビ画面を映し出した。
『それでは、皆さんお待ちかね、“午後トレ!”のコーナーです。今日もよろしくお願いします、三雲さん』
『はい、よろしくお願いします』
 テレビではちょうど株式情報番組が始まっていた。出演してるアナリストの顔を見て、ぼくは思わず驚いてしまう。そういえば、昼にもレギュラーコーナーを持つようになったんだっけ。
『為替相場と連動して、前場は日経平均が少し落ち込むかたちになりましたが、この後はどのような動きになるでしょうか』
 司会に午後からの株式市場の動きを聞かれた人気経済アナリストはまるで天気予報でもするかのように語り始める。
『多少下がったとはいえ、特に大きな材料があったわけでもありません。全体としては月末までボラティリティが低い状態が続き、粛々とロールが入るような凪の展開が予想されるでしょう。急騰が予想される銘柄としては……』
 もちろん、天気と市場は全然違う。でも、彼が語る未来は、天気予報なんかよりずっと当てになるものかもしれない。
 株価は、人の思いで動く。
 たとえ世界一的中率の高い天気予報士が「明日は晴れます!」と言ったところで、明日の降水確率は変わったりしない。だけど株式市場においてはそれがありえるのだ。たったひとりの人間の、たった一言で可能性と確率は一定方向へ傾く。
「相変わらず上手よね。それっぽく聞こえちゃうんだから」
 ふと、そんな声が聞こえてきた。
 少し幼い声だ。もちろんテレビのなかからじゃない。ぼくは慌ててその声が聞こえてきた方向――頭上を見上げた。
 そこに、女の子がいた。
 こちらを覗くように、階段室の上から顔だけをひょっこりと出していて、目が合う。人形のような小さな顔に、不釣り合いな大きな瞳。重力に引かれるようにしてさらさらとした髪がこちらに向かって垂れてきていた。まさか先客がいるとは思わなかったので、ぼくはしばらく息をするのも忘れて呆然としてしまう。
「株式取引に興味があるの?」
 彼女の方は特に驚いた様子もなく、当たり前のように声を掛けてくる。ぼくがここへ来たことに最初から気づいたんだろうか。
「い、いや、たまたまテレビをつけたら流れてただけで」
「ふぅん」
 そう言って顔を引っ込めたかと思うと、すぐに近くの梯子を使って降りてきた。ここの制服である黒のセーラーに、脚にはタイツ。肩できれいに切りそろえられた髪も真っ黒なせいで、わずかに晒された白い肌がやけに目立っていた。一瞬、スカートのなかが見えそうになったので、ぼくは慌てて視線を逸らす。
「でもその人、あなたの父親でしょ」
 梯子の途中からひょいっと飛び降りると、彼女は両足をコンクリートにつけた。驚いた表情で再び顔を上げると、彼女は少しだけ嬉しそうに笑っていた。
「な、なに言って……」
「あなたは、三雲渡也。三雲正也のひとり息子」
 彼女の瞳と言葉はすべて、確信に満ちていた。無駄とは感じつつも、いちおう言葉を返してみる。
「勘違いじゃないかな……」
「三雲渡也なんて名前の人間、そう何人もいるとは思えないけど」
 ぼくは肯定も否定もせず、大きく溜め息だけを吐いた。それは実質、負けを認めたようなものだった。テレビを消して、残りあと少しだったサンドイッチを口に入れて、ミネラルウォーターで一気にそれを飲み込む。驚くほど味がしない。
 彼女はどこか嬉しそうな様子で近づいてくると、ぼくの目の前までやってきた。近くで見ると、小柄な体躯であることがよくわかる。本当に同じ高校生なんだろうかと疑ってしまうくらいだ。
 立ち止まった彼女は少し屈むと、ぼくの襟にそっと右手を伸ばしてきた。一気に身体と顔も近づいてきて、少しどきりとする。屋上を吹き抜けた乾いた風が、彼女の髪を目の前でふわっと広げた。
「本当に普通科に入ったんだ」
 どうやらぼくの襟に付いているクラス章を確認したかったらしい。
 この高校には二つの学科がある。A~C組がいわゆる普通科で、残りのクラスは流通経済科になっている。彼女のクラス章を見てみると、2―Eと書いてあった。流通経済科だ。ちっちゃいけど、いちおうぼくと同じ二年らしい。
「きみ、誰なの」
「折花美雨」
 シンプルな答え。
 ぼくなんかよりずっと珍しい名前だと思った。一度聞いたら忘れなさそうな名前だったけど、聞き覚えはなかった。
「あなた、この学校の校則って知ってる?」
「そんなの、いくつもあると思うけど」
「部活動に必ず一つ参加すること。あなた、まだ入ってないんでしょ」
 この高校には面倒な校則が多い。
 このいまどき珍しいクラス章も外すと怒られるし、部活動だって義務付けられている。昔からある規則がそのまま続いてるんだろうけど、変えるのがただ面倒くさいだけなのかもしれない。変化の少ないこの街の雰囲気とどこか似ていた。
「それなら、映画研究部に入るつもりだから、大丈夫だよ。来週には入部届を出すから」
「あそこはたしか、去年全員が卒業して、いまは部員ゼロなんじゃなかったかしら」
 どうしてそんなこと知ってるんだろう。ぼくも一度見学に行ったから、あそこが活動していないことは知っている。まあ、だからこそ入ることに決めたんだけど。
「四月に予算決めるとき、部員が三人以下のところは廃部になるのよ。だから映研に入っても校則を満たしたことにはならない」
「え?」
 いや、でも学校のホームページの部活動一覧みたいなところにはたしかに書いてあったはずだ。単なる消し忘れだろうか。去年まであったのだから、そうであってもおかしくはないけど、校則は厳しいくせに変なところで甘いのはなんだか腹が立つ。
「そういう情報は知らないのね。クラスに誰も友達いないっていうの本当だったんだ」
 ぼくは余計なお世話だと折花を睨む。というかさっきからなんでそんな情報ばかり知ってるんだ。まるでぼくのことをずっと見てきたみたいに……。
「普通、転校生ってしばらくはボーナスタイムでちやほやされるものじゃないの? 一週間で完全孤立って、逆にすごいと思う」
 べつにぼくは完全孤立しているわけじゃない。友達がいないのは事実だけど、話しかけられたらちゃんと返すし、用事を頼まれたらちゃんと受ける。ただ自分から積極的に話しかけないだけだ。というかクラスメートの名前も顔もいまだに一人も覚えてないから話しかけることが難しいだけで……。
「そんなかわいそうなあなたに、救いの手を差し伸べてあげる」
 そう一方的に話し終わると、折花はなにやら紙のようなものをポケットから取り出して、ぼくの目の前に突き出した。見てみると、それは入部届の紙だった。なんとなくそうだろうとは思っていたけど、やっぱり部活の勧誘だったらしい。
 こんな転校生のぼくをわざわざ誘いに来るなんて、彼女の部活も相当危機的状況なのだろう。でも、だからと言ってわざわざ面倒事に巻き込まれるつもりはなかった。そこまでぼくはお人好しでもない。
「結構だよ。自分で適当に幽霊部員になれそうな部活を探すから」
「わたしは、あなたがどうしてもほしいの」
 彼女は目はたしかに本気だった。どうしてそんな台詞をそんな真剣な表情で言えるのかは謎だった。でも、その言葉が正確じゃないことにぼくは気づいていた。彼女が求めているのはぼく自身ではなく、あくまでぼくの力だ。
 第一に、彼女はぼくの名前の意味を知っている。
 そして、彼女は市場の世界にいる人間だ。
 そのたったふたつの条件だけで、彼女の次の言葉は簡単に予測できた。
「あなたに、投資をやってもらいたい」
 ぼくの予想通りの言葉を、彼女は口にした。一字一句合っていたので、逆に気持ちが悪い。
「断る」
 それに対するぼくの言葉も、すでに決まっていた。
 さきほどまで嬉しそうだった折花の表情が、一気に曇る。
「どうして」
「ぼくはもうそっち側の人間じゃない」
 投資はやめた。逃げてきたと言った方が正しいだろう。そのために東京から出て、祖父の家があるこの街にやってきた。それなのに、どうしてこんなことになってるんだろう。まるで呪いのようだった。
「べつにリアルでやってもらうわけじゃない。バーチャルの学生同士のコンテストよ。知ってるでしょ、流橋経済研究所が主催してるトレコンって」
 それは懐かしい響きの言葉だった。
 仮想市場で行われるバーチャル株投資大会、流橋トレーダーコンテスト。
 小学校、中学校、高校、社会人の四つの部に分けられて、定期的に開催されるトレーダーを育てるための投資ゲームだ。数多くの有名ファンドの出資によって運営されており、優秀な成績を残せばヘッドハンティングもされるという、投資家を目指す者にとっては夢の舞台。
 ぼくがはじめて株式取引をしたのも、このトレコンだった。仮想市場とはいえ、現実の株式市場とほとんど変わらないよく出来たシステムだし、所詮は仮想マネーを使った取引なので負けたって損はない。それでも……。
「投資は、もうやらない」
「……そう」
 彼女があっさりとその言葉を受け入れることに、ぼくは驚きつつも安心する。
 けれど、用がなくなったわけではないのか、折花はその場に立ち止まったままスマホを取り出すと、なにかを操作し始めた。
 折花はスマホの画面をぼくに向けると、なにやら動画を再生する。
 そこに流れていたのは忘れもしない、ぼくが小学六年生の頃の映像だった。トレコン三連覇の天才小学生として、テレビカメラに囲まれたぼくは楽しげに、自信に満ちた表情で夢を語り始める。
『将来ぼくは、お父さんのような一流のトレーダーになって……』
 十秒ほど動画が再生されたところで、ぼくは唖然として彼女を見上げた。
「どうしてそんな動画を」
 インタビューを受けたのはもう四年近く前のことだ。それも地上波のテレビ局ではなく、インターネット上の配信番組で少し流されただけのもので、自分でも調べたことはないけれど、動画サイトにも残ってないようなもののはずだった。それをどうして彼女が持っているのか。
「あなたは、英雄だった」
「英雄って……」
 彼女はその言葉の意味をちゃんとわかってて言ってるんだろうか。ぼくは取引で世界を救ったこともないし、誰かを救ったこともない。ただ自分の目的のためだけにやっていたことだった。むしろ同じ頂点を目指していたものたちの夢を奪ったとも言えるだろう。実際、三雲正也の息子ということもあって、八百長や不正をやってるんじゃないかと散々なことを言われたこともあった。そのぼくが英雄だなんて、馬鹿げている。
「わたしはどうしてもこのコンテストで優勝する必要があるの」
「べつにぼくじゃなくたっていいだろ。この高校には経済流通科だってあるんだし、興味のあるやつはいっぱいいると思うけど」
「興味があっても実際に取引ができる高校生なんてそうそういない。それに、ここの生徒はだいたいが商売人の子どもで、将来親の仕事を手伝うために資格を取ったり大学へ行くことしか考えてないわ」
 それはそれでいいことのように思えた。少なくとも投資なんかに手を出すよりは、現実的で賢明な選択だった。そうやってこの街は自分たちだけの時間を保ち続けているのだろう。
「悪いけど、その動画削除してくれないかな」
 彼女はしばらく迷った様子を見せたけど、やがてまた嬉しそうな表情をつくってぼくを見た。さきほどとは違って、少し意地悪が混じった笑顔だった。
「じゃあ、取引といきましょう」
「取引?」
「そう、取引。あなたが入部してくれたらこの動画は消すわ」
 もちろんそんな言葉にぼくが納得するわけなかった。取引とはもっと公平な条件下でおこなわれるべきものだ。彼女の提示した条件では、どう考えたってぼくに損しかない。むしろ脅迫といったほうが合ってるだろう。
 折花は強引に話をまとめると、ぼくの右手を取ってさきほどの入部届の紙を握らせた。ずいぶんと小さくて冷たい手だなと思った。
「明日の昼休み、部室に来て」
 彼女はそう言って、階段室の扉を開けて去っていく。ぼくはひとり、屋上に取り残される。
 しばらく経ってから、右手のなかのものを確認してみた。入部届の部活名欄には、「株式投資研究部」ときれいなボールペン字で書かれていた。

 ○

 二〇三五年。日本の金融市場はここ数年で急激に成長し、再び世界トップの経済大国となっていた。
 その成長の大きな要因が、株取引量と投資額の急激な増加だ。
 失われた三〇年の時代は終わり、バブル以来の好景気が現実となった。投資は国民的なブームとなり、多くの人間が投資信託に資産の多くを預け、自らも個人投資を行う時代となっていた。
 そんななかで大成功を収めた人間のひとりが、ぼくの父――三雲正也だった。
 父には、相場師としての圧倒的な才能があった。ユーロ圏の経済崩壊のタイミングを見抜き、多くのファンドが致命的なダメージを受けたなか、一年間でラリー・ウィリアムズの記録を塗り替える驚異的なリターンを叩きだした。その後も大手信託銀行のトップディーラーとして、たった三年で資金を一〇〇〇倍に増やした化け物だ。下落相場で一人勝ちするそのスタイルは"悲観主義の王"と呼ばれ、世界にその名を轟かせた。
 そんな天才の息子なのだからと、周りからはいつも期待されてきた。折花もまたその一人に過ぎない。
 たしかにぼく自身、父の姿に憧れて市場の世界に手を出し、それなりに成功した過去はある。けれどそれは、ぼくがその世界の底を知らなかったからこそできたことでもあった。
 投資の世界である程度の成果を出すやつの多くは、自殺行為とも言える自己破壊願望を持っている。どんなハイリスクを負っても構わない、失敗すれば人生も一緒に終わらせればいいと本気で思ってるようなやつらだ。
 ぼくもそういうやつらの一部だった。ぼくの場合は失敗を恐れていないというよりかは、失敗を考えてなかったといった方が正しいかもしれない。本当に勝つことしか信じてなかったのだ。なんて幸せな頭だろうかといまとなっては思う。
 実際、失敗を想像しないやつらは成功する。しかし、それは最初に限った話で、何度もふるいにかけられ、それでも生き残った者だけが天才と呼ばれる。
 要は月並みか、果ての国かの問題なのだ。人間の身長に個人差はあるといっても、三メートルを超えるような巨人はこの世界にはいない。だけど、お金の世界にそんな限界値は存在しない。世界の富の半分以上は、上位たった数%の人間の手のなかにあり、彼らは人生を何十回繰り返してもまだ使い切れないような大金を、さらに増えそうとしている。それが資本主義のシステムだった。
 そこは、狂気の世界だ。
 投資家とは投資によって生計を立てる者のことではない。他のなによりも投資を優先させる、まさしくその生き方を体現する者たちのことだった。
 ぼくはその向こう側に居続けることができなかった。そもそも思い込んでいただけで、向こう側になんて行けてなかったのかもしれない。
 どうせいくらお金を稼いだって、本当の幸せを手に入れられるわけじゃない。この世の大半の人間は、本を一冊も読まなくても愛する人を得て、子どもを産んで幸せに生きてる。それ以上のことがなんで必要なんだろうか。
 そんな疑問を感じた者は、即刻蹴落とされる。
 いまのぼくにいったいなにを期待するっていうのだろう。

 ○

 結局うまく考えをまとめらないまま、翌日の昼休みを迎えた。
 彼女に期待させたままでいるのは気分が悪い。ぼくはもう一度彼女に会ってちゃんと断ろうと思っていた。
 あの動画が残ったままになるのは困ることではあったけど、だからといって入部するほどのことではない気がした。それに入部してしまえば彼女の思いどおりになってしまうようで嫌だった。
 ただひとつ、問題があった。
 向こうはぼくのことをずいぶんと知っているようだったが、こちらは彼女のことをなんにも知らないのだ。そう、部室の場所さえも。
「ごめん、少し聞きたいんだけど、株式投資研究部の部室って、どこか知ってる?」
 彼女の唯一の情報でもあるE組に行くのもありかと思ったが、正直まったく知らない他所のクラスに突撃するのは気が引けた。ぼくは適当に近くにいたクラスメートに部室の場所を訊いた。
「あー、それなら特別棟の二階だよ」
「そうなんだ、ありがとう」
「ちょい待ち、おれもちょうどそっちへ行く用事だったんだ。ついでに案内するよ」
 いや、それは悪い……というか会話ができる気がしなかったのでぜひお断りしたかったのだけれど、そのクラスメートは弁当箱まで準備して着いてくる気満々だったのでうまく断れなかった。
「学校はもう慣れたか?」
「まあ、それなりに」
「こんな二学期の半ばに転校なんて、めずらしいよな」
「いろいろと事情があって」
「へぇ。ところでおれの名前って覚えてる?」
「いや、えっーと……ごめん」
「はは、いいよべつに気にしなくても。湯波だよ。湯波信平」
 そんなどこかぎこちない会話をしていると、すぐに部室に着いた。ここらへんには文化系の部室が集まっているらしく、新聞部と天文部に挟まれるようにして株式投資研究部の部室はあった。
 案内をしてくれた湯波に礼を言おうとしたら、なぜかぼくの代わりに部室のドアまで開けてくれる。別にそこまでしなくても……と思ったが、湯波は振り返るとぼくを見て、にやっと一瞬笑った。
「実はおれもここの部員なんだよね」
 唐突な言葉に表情を変えることもできない。
「どういうこと?」
「どういうって、そのまんまの意味だよ。びっくりしたよ、まさかよりによっておれに場所を聞いてくるなんて。知っててやってるのかと思った」
 はあ、とぼくは溜め息なのか返事なのかよくわからない声を出す。ここの部活にはこういう人間しかいないのだろうかと少し不安になってくる。
「折花っていう人に、ここに来いって言われたんだけど」
「あー、美雨ね。……なるほど、だいたいの事情は理解できた。そういえばさいきんおまえのクラスでの様子をよく訊かれてたからなぁ、そっか、ここに勧誘するためだったのか」
 情報源はあんただったのか。折花の認識からしてあまり良い情報は伝えられてなかったみたいだけど、もしかしてぼくってクラスメートからそんな印象しか持たれてないんだろうか。さすがに少し落ち込む。
「あれ、でもいまはいないみたいだな、美雨」
 先に部室に入った湯波がそう言う。ぼくもなかに入って、後手でドアを閉める。
 部室は教室の三分の一ほどの大きさで、縦に長い部屋だった。壁には棚が並んでいて、中央には長机が二つ並べて置かれている。その上にはノートパソコン五台ほどと、いくつかのディスプレイ画面。てっきりディーリングルームみたいになっているのかと思っていたけど、そこまで本格的というわけでもないようだ。
 その一台のノートパソコンの前に、女の子がひとり座っていた。背中まで伸びた黒の髪。折花と違って強気な瞳が印象的だった。
「……」
 そしてなぜかぼくのことをものすごく睨んでいてる。もしかして邪魔したのかな。まあ、部外者がいきなり現れて怪しむのはわかるけど……。
「音瀬ちゃん、美雨は今日まだ来てないのか?」
「一人で集中したいって言って、さっきタブレット持って行きましたよ。今日はコンテスト初日ですから」
 音瀬さんと呼ばれた女の子は淡々とした口調と表情でそう言う。クラス章を見てみると、どうやら一年生のようだった。
 彼女の言葉を聞いて、湯波はどこか納得したような表情をしていたけど、ぼくにとっては当然納得できるような話ではなかった。人を乱暴な方法で呼び出しておいて、当の本人がどこかへ行くとはいったいどういうつもりなんだろう。
 帰ってやろうかと思っていると、いつのまにかノートパソコンの前に座っていた湯波が楽しげな表情でぼくを手招きをしてきていた。
「美雨に呼ばれてきたってことは、三雲も投資はわかるんだよな」
 そりゃまあ、経験はあるけどとぼくが答える前に、湯波はノートパソコンの画面をぼくの方に向けた。そこに映しだされていたのは、株式の取引画面だった。簡単な取引履歴と口座照会だけが映しだされたシンプルな画面。湯波はなにも操作していないのに、売買注文はひとりでに数字を打ち込んで繰り返し取引が行われている。自動売買プログラムでも使っているんだろうかと思ったが、それにしては取引量が少く、人間的な取引をしているようにみえた。
「あいつがいま操作してる取引画面だよ」
「リモート操作?」
「そんなもんだな。銘柄指定と数量だけを受信して、このパソコンが処理している」
 まるでぼくは夢でも見てるんじゃないかと思った。
 画面に映しだされている総資産が、瞬きをするたびに増えていくのだ。それも十円や百円といったはした金額じゃない。
「すげぇだろ。見てるだけでこっちの頭が狂いそうになる」
 ウォール街では誰も道端に落ちているお金を拾わない、という有名な例え話みたいなものがある。屈んでお金を拾っている時間で、トレーダーはその何十倍ものお金を稼ぐことができるからだ。馬鹿みたいな話だと思う。けれど、この取引画面を見ているとそんな話にも現実味が増してくる。
「“魔術師”っていう言葉は、こういうやつのためにあるんだろうな」
 驚異的なリターンをあげるトレーダーを、ときにそう呼ぶことがある。ぼくはそういった類の人間は、これまで父以外見たことがなかった。
 けれど、この画面の向こうにいるのは、たしかに……。
「折花は……いまどこにいるの?」
「え?」
「どこで取引をしてる?」
「図書館とか裏庭とか、ひとりになれるところだと思うけど……」
 ひとりになれる場所――。それならだいたい見当がつく。
「わかった、ありがとう」
 そう短く告げて、ぼくは部室を飛び出した。
「いま会いに行っても無駄だと思うぞ」という湯波の忠告も無視して、走りだす。その瞬間、たしかにぼくは向こう側を再び目指していた。



「意外と早かったのね」
 ぼくが屋上に着くなり、折花はそう言った。ぼくは階段を駆け上って切らした息を整えてから答える。
「部室に来いって話じゃなかったっけ?」
「そうね。でもいちおう保険をかけておきたくて。ここにいれば会えると思ってた」
 つまり、ぼくは結局彼女の思いどおりに行動してしまったというわけだ。けれどたしかにそれが一番確実な方法でもあったので怒る気にはなれない。ぼくが部室に行こうが行かまいが、最初から彼女には負けのない賭けだったのだ。
 この屋上も部室も同じ特別棟にある。階段を少し上ればいいだけだったので、たいして時間はかからなかった。
 折花の手元にはタブレットがふたつ、その横にもスマホやらいくつかの電子機器が散らかるように置かれていて、そのすべての画面に映しだされているのは取引をするために必要な情報たちだった。いわば簡易的なディーリングスペースというわけだ。こんな環境でやる人ははじめて見たので、なんだか光景自体に違和感を感じてしまう。
 ぼくの存在は頭には入っているだろうけど、身体は微動だにせず、彼女の目は固定されたかのように情報を捉えている。まるで写真に写された精巧な人形でも見せられているような気分だった。
「部室にもちゃんと行ってくれたのね。ここに来てくれたってことは、昨日の話はオッケーということでいいのかしら」
 あれだけの取引をしながら、折花は当たり前のように会話をする。常に湧き続ける情報の泉から輝く金貨を見つけ出すためには、脳の全機能をつかったとしても到底届かない。いったい彼女はどれほどの早さで世界を捉えているのだろう。
 本当は断るつもりだった。けれど、そんな考えはもうなかった。トレコンにはこんなにもすごいやつがいるのだ。彼女の取引を見せられて、ぼくは昔の自分に戻ったようにただ憧れを抱いていた。
 ――あなたは、英雄だった。
 昨日彼女が言っていたその言葉の意味を、ぼくは少し理解できた気がした。投資なんてただお金を増えす手段に過ぎない。けれどそれもある段階を越えれば、その価値以上に人を惹きつけるものになる。
「べつに入部することは構わないよ。でも、よくわからない」
「なにが?」
「それだけの力があれば、他人の力なんて必要ないだろ」
 取引を見たのはほんの数分間だけだったけれど、彼女の力はあきらかに向こう側、あるいはそれに近いものだった。彼女に比べたら、いまのぼくなんて大した足しにもならないだろう。
「本当にそうだとしたら、あなたに声なんて掛けない。わたしだけじゃ一位に届かないから、だからあなたが欲しいの」
 たぶん彼女は自分の目的のためにぼくを利用しようとしていることを隠す気がない。それに気づいていながら乗ろうとしている自分が、だんだん嫌になってくる。
「優勝しなくたって、企業から声は掛かる」
「あなた、甲子園を目指してる高校球児がみんなプロ野球選手になりたいとでも思ってるの? 小学生じゃないんだから」
「じゃあ、なんで一位にこだわるんだよっ」
「あなたが投資をやめた理由を教えてくれたら話すけど」
 ぼくは口をつぐんで彼女から目を逸らした。ぼくがその理由を言いたくないということがわかってて、彼女はそんなことを言っているのだ。相変わらず嫌な取引ばかりしてくる。折花も答えが聞けるなんて最初から期待していなかったのか、やがてゆっくりと口を開いた。
「コンテストは今日からなの。悪いけれど、迷う時間はそんなに与えられない」
「……きみは、勘違いしてるよ」
 それを聞いた折花は顔を上げ、きょとんとした表情を見せた。ほんの少しのあいだだけ、取引をする手も動きを止める。
「どういうこと?」
「取引はするよ。でも、期待なんてしないで欲しい。ぼくの小学生時代をきみは知ってるんだろうけど、もう何年も前の話だ。ぼくだって変わってる」
「そうでしょうね。ではなければ、あなたはこんなところにいないでしょうし」
 彼女は大した興味も示さず、再び取引の作業に戻った。
「あなた、神様って信じてる?」
 突然出てきた予想外な話題に、ぼくはどう答えていいかわからなかった。適当に話を逸らすつもりんだろうか。悪魔がいるかどうかの質問なら、迷いなく答えてたのに。
「わたし、たとえ神様がいようがいまいが、信じてた方がお得だと思うのよね。だって、実際に神様が目の前に現れたとき、もし神様を信じてなかったらそいつが神様だなんて気づけないわけじゃない」
「その神様が、ぼくとでも?」
 皮肉のつもりで言ったけど、彼女はあっさりとその言葉を肯定する。
「ええ、わたしにとっては神様みたいなものかもね。あなたのトレコンでの取引は間違いなく神がかってたわ。わたしはその取引履歴を何百回と目を通してきた。そうやって、わたしは取引の仕方を覚えた」
「え?」
 トレコンの優勝者の取引履歴は、ネット上で公開されるようになっている。五年近く前のそのデータがいまでも残っているのかは知らないけれど、百日間分あるデータに目を通すのには、たとえ取引した本人であるぼくが見たって数日はかかるだろう。それを何百回だなんて、あまりに馬鹿げた数字だった。
「わたしの胸ポケットに入ってるメモを取って」
「え、いやでも……」
「取引、やってくれるでしょ? いまわたしが動ける状態だと思う?」
 いくら胸が、その、小さいからと言って、胸ポケットに手を突っ込ませるのはどうかと思ったけど、素直に従う以外に方法はなさそうだったのでぼくは全神経を右手に集中させて、なるべく身体に触れないように慎重にメモを抜き取る。
 折りたたまれたメモを開いてみると、なにやら英数字が並んでいた。
「部室にあるノートパソコンのパスワード。必要だったら持ちだしてもいい。コンテストのルールは自分で確認しておいて」
 なんだかあっさりとしていた。こんなにも簡単にぼくは取引の世界へ戻ってしまっていいんだろうか。あんな酷い目にあったのに、自分でも頭がおかしいんじゃないかと思う。けれど、トレコンでならもう一度取引ができるんじゃないだろうかと、そんな期待がどこかにあった。人は誰かに認められることでしか自分の存在意義を確かめることができない。そんなの、弱い人間の考えることだと思っていた。だけど、ぼく自身がその弱い人間だった。
「なにか、条件は?」
「条件?」
「取引の条件。信用取引とか、一日の取引量とか」
「そんな細かいものないわ。取引をする際のルールなんてたったひとつでしょ?」
 一瞬だけ、彼女がこちらを見上げて目が合う。遠い。それが彼女の瞳の印象だった。空を眺めているときと同じ、吸い込まれそうになる感覚の遠さ。
「たったひとつ?」
「そう、たったひとつ。絶対に損をしないことよ」

       

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