Neetel Inside ニートノベル
表紙

ゴールデンクロス・デッドクロス
03.「折花」

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03.「折花」



 ぼくが彼女と出逢ってしまったのは、文化祭の日のことだった。
 ぼくたちのクラスは演劇をするらしく、湯波と一緒に音響係になったけれど、自分は素材集めを少し手伝っただけで当日の演出などはすべて湯波に任せていた。
 祝日はトレコンも現実の市場と同じように取引が休みとなる。文化の日でもある文化祭当日は家でゆっくり過ごそうかと思っていたのだけど、宣伝の人手が足りないだとか急遽ぼくも文化祭に呼び出された。
 いつもの数倍ほどの人で溢れる学校は、なんだかいつもとは別の場所のような、不思議な光景だった。
 ぼくは年寄りなど、受け取ってくれそうな人を選んで適当にビラ配りの仕事を終えると、なにもすることがなくなって行く場所に困った。いちおう湯波と上演が終わったあとに店をまわろうという約束はしていたけれど、演劇が終わるまでにはまだ一時間近くあった。
 自分のクラスの演劇を観に行くという選択肢もあったけれど、途切れ途切れとはいえリハーサルや練習で何回も観させられていたので、あまり行く気にはなれなかった。かと言ってひとりでこの人混みのなかを歩く気にもなれない。こういうイベント行事はいつもサボっていたので、いまいち楽しみ方がわからなかった。
 今日はあの屋上もなにかのイベントに使われているらしく、この人が溢れる学校のなかでひとりになれそうな場所はというと、部室くらいしか思いつかなかった。
 とは言っても、ぼくたち株研もいちおう文化祭の参加団体ではある。文化部は必ずなにか文化祭で催し事をしないといけないという決まりがあるからだ。そのため、ぼくたちは先日の土曜日に一人ひとつずつ経済コラムみたいなのを書き上げて、それを部室に展示している。店番なんかも用意していないし、記事だって二時間程度で書き上げた雑なものだが、株研の展示は毎年こんな感じらしく、文化祭の実行委員会もこれでぎりぎり見過ごしてくれるそうだ。
 もしかしたら展示を観に来たお客さんが部室にいるかもしれないけれど、いたとしてもせいぜい一人か二人だろう。記事はいちおうまともなことを書いたが、経済新聞なんかに書かれていることを簡単にまとめたような内容だし、高校生が書いた記事をわざわざ観に来る人なんてそうそういない気がした。それに部室なら部員のふりをしてパソコンを触っていても、誰も文句は言わないだろう。
 いつものように特別棟の二階にあがる。両隣では学校紹介をやっている新聞部とプラネタリウムをやっている天文部の展示にたくさん人が集まっていたけれど、株研の部室だけは喧騒に取り残されたように静けさを醸し出していた。申し訳程度に置かれた立て看板と開けっ放しになっている扉を通ってなかに入る。
 部室には、ひとりの女子生徒がいた。
 でも、それはいつもの光景と変わりない。この高校の制服である黒のセーラーに、小柄な背丈、肩で切り揃えられた髪に、少しだけ覗く白い首筋。
「折花……?」
 窓際にいた彼女が振り向く。その双眸が、ぼくを捉える。
「あら、あなたもここに辿り着いたの? 退屈だものね、文化祭って」
 たしかにその声音も、言葉も、いつもの折花のように見えた。だけど窓から差し込む光が、彼女の髪を明るく照らしていた。いつもの黒い髪とは違う、少し茶色がかったアッシュカラー。ぼくの視線に気づいたのか、彼女が口を開く。
「あ、これ? いちおうお祭り気分を味わってみたくて少し染めてみたの。どうかしら? トーヤも染めてみたら? 意外と似合うかもしれないわよ」
 彼女はそう言うと、くすくすと楽しそうに笑った。辺りの喧騒なんてそのときのぼくの耳には届かず、彼女の笑い声だけがリピートするように聞こえていた。
 ぼくはなにも言葉が出ず、ただ部室の入り口に立ち尽くす。たしかな違和感が、そこにはあった。株価のチャートを見ているときと似ている。いや、それ以上におかしい、なにかが。
「きみ、誰なの?」
 ぼくがその言葉を口にしたのは、これが二度目だった。
 彼女が困惑した表情に変わったのが、見てわかった。
 自分でもおかしなことを言っているということは理解している。けれど、その言葉を訂正するつもりはこれっぽちもなかった。目の前にいる少女が、ぼくの知らない人間であるのは紛れもない事実だったからだ。
「そんな遠回しに言う必要ないんじゃない? 似合ってないと思うなら、ちゃんと言ってよ」
「そんなことを言ってるんじゃない」
「……どうしたの? 今日のトーヤ、なんか変よ」
 ぼくは一度息を大きく吐いて、全身の力を抜いた。顔の表情が強張っているのが自分でもわかる。べつに怒っているわけじゃなかった。ただ、いまの状況をうまく理解できていないことに苛立っていた。
「そもそも折花はぼくのことを名前で呼んだりしない」
 それを聞いても彼女はすぐに表情を変えなかった。ぼくは諦めずに彼女の表情から目を離さない。彼女がようやく反応をしたのは、十秒ほど経ってからのことだった。
「あれ、そうなのかい? 思ってたより関係深くないんだね、キミたち」
 口調も変わって、一気に化けの皮が剥がれたのがわかった。
 彼女は胸ポケットから赤縁のメガネを取り出して掛けると、にひひ、と笑った。それでも折花の面影は強く残っていたけれど、どうやらぼくの言葉に間違いはなかったということがわかって、ひとまず安堵する。
「でも、それだけのヒントでキミはボクが折花美雨じゃないと見抜いたのかい? ボクが名前を口にする前からキミの表情はあまりにも確信に満ちていたように見えたけど」
 そう言うと折花によく似た彼女は、とてとてとわざとらしく部室の周りを歩き始めた。
「もちろん、それだけじゃないけど」
「なるほど、直感っていうやつかい?」
 ゆっくりと歩いていた彼女はやがてぼくの前までやってきた。近くで見ても折花と瓜二つだった。ぼくはなんだか頭が痛くなってくる。
「ボクの直感は七割で外れるからね。キミや美雨みたいなタイプの人間をうらやましく思うよ。ボクもキミのことを名前で呼ぶべきか最初は迷ったんだよ? でも“三雲”というとやっぱりキミのお父さんの方が思い浮かんでしまうからね。なんとなく抵抗があったんだ。でもそうかー、美雨はキミのことを名前では呼ばないんだね」
 よく喋るやつだと思った。
 ぼくの知っている折花も一方的に話をすることがよくあるが、その言葉は簡潔にまとめられている印象がある。目の前の彼女の場合は、ただ思ったことを次から次へと口に出しているように感じた。
「折花の双子かなにか?」
「にひひ、それも直感? まあこれだけ似ていれば考えられる選択肢なんてあまりないし、この場合直感っていうのも変か。うん、そのとおりだよ。ボクは美雨の双子の妹、折花美雪だ」
 ずいぶんと似ていない双子だなと思った。
 容姿からしておそらく一卵性双生児なのだろうけど、見た目は似ていても中身はまったく別どころか真逆に近いようだった。ぼくは双子というものをあまり見たことがないけれど、こういうものなんだろうか。
「その様子だと、ボクのことは聞かされてなかったみたいだね。まあ、わざわざ話す必要性もないか。それに最近の美雨はどうもボクのことをずいぶんと嫌っているみたいだしね。ううっ、妹としてボクは泣きたくなってくるよぉ」
 美雪は両手を目の下に当て、わざとらしく泣く演技をする。ぼくは「はあ」と、呆れと戸惑いの混じった返事をする。
 そういえばと、ぼくは彼女がうちの高校の制服を着ていることを思い出す。たしかに折花に双子の妹がいることは聞かされてなかったけれど、こんなに似た容姿の生徒がいたらどこかで見かけて気づいていそうなものだった。染髪は校則で禁止されているし、今日みたいな文化祭の日じゃなければすぐに目につくだろう。
「美雪さんも、うちの生徒だったの?」
「美雪でいいよ。そうそう、この制服はね、今日のためにわざわざ用意したのです。制服って結構簡単に手に入るものなんだねー、びっくりしたよ。あ、でもこれコスプレ用らしくてさ、本物に比べたら作りが甘いんだよ。ほら、ここらへんの生地とかぺらっぺら。おかげで寒いったらありゃしないよ。それにこの胸当ても簡単取れちゃうし、スカートの留め具だって」
「わ、わかったから、ちゃんと服着て!」
 彼女が服のつくりを見せるためにいまにも脱ぎ出しそうだったので、ぼくは目を逸らしながらも慌てて止める。扉だって開きっぱなしだっていうのに、いったいなにを考えてるんだろう。そもそも女子の制服がどういうつくりなっているかなんて知らないし。
「しかし、こうもあっさりと見抜かれるとはね。やっぱり髪染めたのがダメだったかなー。もう少し美雨のふりをし続けたかったのに。昔から美雨の真似には自信があるんだよ。あ、あの一年生の女の子ならうまく騙せたかな」
「音瀬さんのこと?」
「そうそう、そんな名前の子。あー、でもあの子も結構するどそうだしなあ。シンペーは意味わかんないけど幼稚園の頃からなぜか一度も美雨とボクを間違えたことないし。そんなやつシンペーだけだよ。親でもボクたちが中学校に上がるまでしょっちゅう間違えてたっていうのに。まあ、それはボクがときどき美雨の真似をしていたからなんだけどね」
 ひと通り喋り終わると、美雪はまた笑った。
 シンペーというのは湯波のことなんだろう。折花と幼馴染みたいなものだとこの前言っていたので、美雪が湯波のことを知っていてもおかしな話ではない。けれど、まさか幼稚園の頃からの付き合いだとは思ってなかった。
「えっーと、折花に会いに来たの?」
「ボクも折花なんだけど」
 本当に面倒臭いやつだな……。
「折花美雪さんは折花美雨さんに会いに来たんでしょうか」
 ぼくはわざとらしく丁寧に言い直した。本当は折花のことを「美雨」と呼ぶのがなんだか恥ずかしくて誤魔化したのだけど、美雪はそんなぼくの態度をずいぶんと気にいった様子で、楽しそうに笑っていた。
「うん、会えるなら会いたかったかな。でも今日はキミに会えたことだし、ボクは満足だよ。どうせ美雨は文化祭なんてサボってるんだろう?」
 そのとおりだった。いちおうせっかくの休みなのだからゆっくりと休むように言っておいたけれど、きっといまごろ家でいつものように情報分析でもやっているのだろう。
「これ以上おもしろそうなものを見れそうにもないし、ボクも帰ってやりたいことがあるしね。いまから帰れば一五時過ぎには着くだろう」
 一五時? まだ昼の一二時にもなっていなかった。いったいどれだけ遠くからやって来たのだろう。ぼくはその時間で、ひとつ思い当たる場所があった。
「もしかして、東京に住んでるの?」
 それを聞いた美雪は、驚いた表情をした。
「本当にキミはなんでもずばずば当てるんだね。ボクは新幹線に乗るなんて一言も言わなかったのに」
「いや、前まで東京に住んでたから、なんとなく」
「なるほど。そういえばキミのお父さんは新宿に住んでいたね。あんなたっかいマンションの最上階に住んでいたなんてうらやましいなぁ」
「え?」
 今度はぼくが驚く番だった。
 どうして父が住んでいる場所を彼女が知っているんだ。そんな情報、一般に知られているようなものじゃないのに。
「東京に戻ってくる機会があったら、今度はトーヤがボクに会いに来てよ。キミとはもっとゆっくりと話がしてみたいからね」
 そう言うと美雪は持っていた鞄から名刺を取り出して渡してきた。
 どうして高校生が名刺なんて持ち歩いてるんだろう。なにか仕事でもしてるんだろうかと、ぼくは渡された名刺を見てみた。
 メールアドレスに電話番号と、ぱっと見ればシンプルな名刺に見えたけれど、名前の右上に小さく書かれた肩書きのようなものがぼくの目に入った瞬間、ぼくは言葉を失った。

 Quantsクオンツ

 ぼくはきっとそのとき、宇宙人でも遭遇したかのような顔をしていたと思う。これはなにかの冗談のつもりなんだろうか。それにしては出来が悪過ぎる。彼女はただ笑みを浮かべているだけで、その表情からはなにも読み取れなかった。
「あ、そうそう大事なものを忘れていたよ。これ、美雨に渡しといてくれるかい」
 そう言って今度は鞄からCDのケースようなものを取り出すとぼくに押しつけてきた。ぼくの両手は名刺とCDでふさがってしまう。
「じゃあ、ボクはこれで帰るよ」
「……ッ、ちょっと!」
 こんなタイミングで帰るなんてあんまりだった。ぼくはいま彼女に訊きたいことが山のようにあった。
 彼女は本当に帰るつもりらしく、足を止めずにすたすたと扉の方へ向かっていく。ぼくは強引にでも引き止めようとしたけれど、すれ違いざま、彼女が口にした言葉でぼくは動けなくなってしまった。
「ボクは一ツ嶺学園に通っている」
 部室を出て行く彼女を、ぼくは追いかけようとはしなかった。
 一ツ嶺学園高校。
 その学校名はつい先日目にしたばっかりだった。現在、トレコンのトップに立っているチームがある高校だ。
 ぼくは呆然としながらも、さきほど渡されたCDを裏返してみた。
 その瞬間、ぼくの頭のなかにあったあらゆる疑問が未完成ながらもつながっていった。自分でもよくわからない笑みが込み上げてくる。
『折花美雪』
『クオンツ』
『一ツ嶺学園』
 そして、CDの表に書かれていた最後の言葉は……。

 Rainmakerレインメーカー

     


 ○

 美雪が去ったあとの部室で、ぼくはノートパソコンを開いて調べ物をすることにした。
 トレコン参加者の集まる匿名掲示板。
 存在は知っていたけれど、書き込みの大半はあれがあがるだとかこの株はこれに連動してるだとか、予想というよりは希望に近いものばかりでいままで特に覗こうとは思わなかった。そういった噂は大して当てにもならないからだ。でも、いまはぼくが必要としているものを知るには持ってこいの場所だった。
 掲示板には急騰急落銘柄や人気のある個別銘柄に関するいくつものスレッドが乱立していた。そのなかのひとつに折花に関するスレッドがあったので、ぼくはついクリックをして開いてしまった。

天才女子高生トレーダー折花美雨について語るスレッド

 1レス目には折花の過去の受賞履歴が載っていた。小学校の頃から活動をしているようで、トレコン以外のリアルトレード大会でも入賞していたり、数多くの成績があるようだった。あれだけの取引ができればすでになんらかの結果は出しているだろうと思っていたが、ここまで折花が有名な人物だったとは知らなかった。そう言えば音瀬さんも折花に憧れてこの高校に来たんだっけ。
 本来の目的とは違っていたけれど、興味があったのでもう少し続きも見てみた。

2:名無しさん@トレード中
 蹴られたい
 
3:名無しさん@トレード中
 いまでもやってんの? さいきん名前見ないけど

4:名無しさん@トレード中
 折花美雨は中学までってそれ一番言われてるから

5:名無しさん@トレード中
 トレコンのルールが変わったからだろ。個人戦ならいまでも確実に上位にはいってる

6:名無しさん@トレード中
 昔からチーム組んでたって噂もあるけど

7:名無しさん@トレード中
 なんでもっといい高校いかなかったんだろうな

 当たり前だけど結構好き勝手なことが書かれていた。折花もこんな掲示板に目を通したりはしてないだろうから、大丈夫だとは思うけど。ぼくは試しに「折花美雪」というワードで検索をかけてみたけれど、ひとつもヒットはなかった。コンテストなどで名前を出しているのは折花美雨の方だけなのだろうか。
 ぼくはスレッドを閉じて、本来の目的について調べ始めた。検索をかけるとすぐに出てきた「システムトレーディング総合★2」というスレッドを開く。

1:名無しさん@トレード中
 トレコンのルール変更により必須ツールとなったシステムトレーディングについて語るスレです

 その下には参考URLが続いていて、市販のものやネットで手に入れられるシステムトレードの一覧が並んでいた。そのなかのひとつに「レインメーカー」の名前もあった。まさかとは思っていたが、ネット上で配布されているようだった。ぼくはクリックしてレインメーカーのページを開いてみる。
 画像もほとんど表示されないシンプルなページが開かれる。更新履歴と利用規約、システムの紹介などが並んでいた。どうやらトレコン用に調整されたプログラムらしい。去年の夏頃から公開され、頻繁に更新もされているようだった。ここ最近は更新が少なくなっていたが、動作が安定してきたということなんだろう。最新バージョンを見てみると「ver1.70」とあった。ぼくはなにかおかしいと思い、さきほど美雪に渡されたCDを確認してみる。やっぱりそうだ、こっちには「ver1.72」と書かれている。おそらくこのプログラムをつくっているのは美雪なのだろう。でなければネットでは公開されているバージョンを持っているのはおかしい。でも、どうして美雪はわざわざこんなものを持ってきたのだろうか。
 説明のところも開いてみたけれど、αモデルだとか対数正規分布といったよくわからない単語が並んでいたので、ぼくはもう一度スレッドの方に戻ってそっちの方を読むことにした。

2:名無しさん@トレード中
 RMが最強って前スレで結論出ただろ

3:名無しさん@トレード中
 以下好きなおにぎりの具を語るスレ

4:名無しさん@トレード中
 チャーハン

7:名無しさん@トレード中
 RMもだいぶ安定してきたよな
 月単位じゃ損なんて絶対出ないし

8:名無しさん@トレード中
 おれも去年までは市販のものと組み合わせて使ってたけどいまはRM一本だわ

10:名無しさん@トレード中
 RM厨は専用スレでもつくって隔離しろよ

13:名無しさん@トレード中
 >>10 自作プログラム厨怒りのマジレスwww
 今日も損してますかーwwww

15:名無しさん@トレード中
 RMの稼いだ分を俺が全部溶かしてるからずっとプラマイゼロだわ

17:名無しさん@トレード中
 >>15 無能すぎワロタwさっさとやめろ

 RMというのがどうやらレインメーカーの略称らしい。試しに検索をかけてみたが、書き込みのほとんどはレインメーカーに関することだった。評判もかなり良いようだった。
 湯波のようにプログラミングが一から組み立てられる高校生なんてそうそういないだろうし、多くの参加者は無料で手に入れられるレインメーカーを使用しているのだろう。
「やっぱりここにいたのか」
 ふと、そんな声がしたので顔を上げてみると、湯波が部室にいた。顔を見てみると少し怒ってるようにも見えた。ぼくはあわてて時間を確認してみる。とっくに演劇の終わる時間を過ぎていた。
「体育館の前で待ち合わせって言わなかったっけ」
「ごめん、ちょっと調べたいことがあって」
「調べ物? ……って、それ」
 湯波はぼくのノートパソコンの画面を覗こうとしたが、その前にパソコンの脇に置いていたCDケースが目に入ったようだった。レインメーカー。その言葉を最初に教えてくれたのは湯波だった。
「美雪はッ!?」
 ぼくが湯波に事情を説明しようとする前に、大きな声が部室に響いた。
 折花だった。
 部室の扉に手をつけて、大きくを肩を揺らしながら息を切らしていた。まさか彼女がここに来るなんて思ってもいなかったので、ぼくも湯波も驚いた。折花があんな大声を出すなんて珍しかったし、それに折花は制服ではなく私服を着ていた。黒いタイツを履いているのはいつもと一緒だったけれど、深い緑のハーフコートにデニムのスカート。もちろん彼女の私服姿を見るのはこれがはじめてだった。
「美雪は、どこ?」
 まだ息を切らしながらも折花は言葉を吐き出す。思わず一歩後ずさってしまうような、そんな力強い目をしていた。
「どうしてそれを?」
 ぼくがそう訊くと、折花はポケットからケータイを取り出す。美雪から直接メールでも送られてきたのだろうか。
「クラスメイトからメールが来たの。わたしを文化祭で見たってね」
 自分は家にいたのにそんな目撃情報が来たら、疑えるのは自分の妹くらいだったのだろう。もしかしたら美雪がこうやって姿を現したのは今回がはじめてというわけではないのかもしれない。
「三雲くん、美雪を見たの?」
「見たというか、会ったけど……」
「いまどこ?」
「えっと、もう帰っちゃったよ」
 折花に気圧されるように、ぼくは弱々しく答える。美雪が帰ったと聞いた折花は、なにやら大きなミスでもしでかしたように左手を額に当て、天を仰いだ。
「どうして信平も止めてくれなかったの?」
「いや、俺は会ってねぇよ。クラスの劇が終わっていま来たところ」
「なにか伝えたいことでもあったの?」
 あわててやってきた様子の折花にそう訊ねる。折花は口を開いてなにかを言おうとしたけれど、言葉は出ず、身体の軸を失ったようにその場でふらりと揺れた。あのときと同じだった。異状を察した湯波がすぐに折花へ駆け寄って、倒れる前に身体を支える。折花は湯波にしがみつくような体勢になる。
「おまえ、家から走ってきたんだろ。無理すんなよ、馬鹿」
「ちょっと、目眩がしただけよ。いちいちうるさい、信平……」
「死にそうな顔してなに言ってんだ。おい三雲、こいつを家まで連れて帰るぞ。悪いが文化祭回りはなしだ」
「あ、うん」
 ぼくも一緒に付いていこうと思った。元々文化祭なんて楽しみにしていたわけじゃなかったし、ぼくも折花が心配だった。湯波が付いているなら問題はないだろうけど、自分だけなにもしないっていうのも居心地が悪い。
 折花は「ひとりで帰れる」と何度もそう言ったが、ぼくたちも「はい、そうですか」と放っておくわけにもいかなかった。
 ぼくたちはしばらくしてから校門を出た。
 折花はいまはひとりで立って歩いていた。さっきのは急な運動をしたせいで血液がうまく頭に回らなくなったのだろう。水を飲んで少し休めば、折花の顔色もいつもどおりに戻った。
 ぼくと湯波はそんな彼女の後ろを見守るようにして歩く。学校を出て、駅とは反対側の北に向かって進む。こっちには山があるので少し坂道になっていた。ぼくはこの街に引っ越してきて一ヶ月以上になるけれど、こっちの方面に行くのはこれがはじめてだった。特になにかの施設があるわけでもないし、行く用事もなかったからだ。
 会話もあまりないまま、ぼくたちは進んでいく。
 石階段を何回登ると、住宅地に入る。特にここらへんは大きな屋敷のような家が建ち並ぶ、いわゆる高級住宅街というところだった。その一角に折花の家はあった。一瞬あまりの大きさに本当かどうか疑ったけれど、表札にはたしかに「折花」と書かれていた。
「折花って、もしかしてお金持ちなの?」
 彼女が溜め息を吐いたのがわかった。
「だから付いてきて欲しくなかったのよ」
 美雪は父の高層マンションのことを羨ましいなんて言っていたけれど、ぼくにとっては目の前の家の方がよっぽどすごかった。まるで西洋の城みたいに立派な石垣が一辺何十メートルという長さを囲んでいて、目の前には重厚感のある黒い門があった。
「ここまで来たんだから、もう満足でしょ? もう帰って。三雲くん、あなたには明日たっぷりと話を聞かさせてもらうから」
 そう言って折花は少し笑うと、門の中へ入っていこうとした。たぶん美雪についてのことだと思うけど、お話というか尋問のようになりそうだった。
「美雨?」
 折花が門に手をかけたところで、ふと背後からそんな女性の声がした。
 振り返ると、日傘を差した長髪の女の人がそこに立っていた。この住宅街の雰囲気をそのまま形にしたような、清潔感の溢れる人だった。
「結局文化祭に行ってたの? 美雨が行くんならお母さんも行ったのに」
 お母さん?
「ちょっと顔出しただけだから。どうせ大事なランチの約束があったんでしょ」
「もうまたそんなこと言って。信平くんも久しぶりね。元気にしてた?」
「ええ、この通り」
 湯波は顔見知りのようだった。昔からの付き合いだから何度も顔を合わせたことがあるんだろう。折花の母親は次にぼくを見ると、少しだけ不思議そうな顔をした。
「あなたも、美雨のお友達?」
「あ、はい。三雲渡也です」
 ぼくが少し緊張しながらそう名乗ると、折花の母親は少し考えるような表情をして「三雲……?」と呟いた。そんなに変な名前だっただろうか。漢字もわりと単純だと思うんだけど。
「そう、はじめまして。美雨の母です。へえ、美雨も案外モテるのねぇ」
「お母さん!」
「ふふ、冗談よ」
 当たり前だけど、母親と一緒にいる折花はいつもと違って普通の子どものようで、ぼくは笑い出してしまいそうなのをこらえた。
「せっかくここまで来てくれたのだし、お茶でも飲んでいかない? ちょうどさっきおいしそうなクッキーをもらったのよ」
 そう言って折花の母親は持っていた鞄から袋に入れたらクッキーを見せてくれる。ぼくは湯波と目を合わせてどうしようかと悩んだけれど、奥にいる折花の目を見て意見を一致させる。あの目は「帰れ」と言っている目だ。
「いえ、おれたちはもう少ししたら文化祭の片付けの方に行かないといけないんで、今日はこのまま帰ります。また今度お邪魔しますよ」
 湯波はそう言ったが、もちろん嘘だった。文化祭の片付けは明日まとめてやることになっている。
「そう? ひさしぶりにお話できると思ったのに残念ね」
「わたし、先に入っとくから」
「あ、こら美雨」
 言葉も聞かずに折花は門を開けて中へ入っていく。折花も少し恥ずかしがっていたのかもしれない。「ごめんなさいね。また来てね」と折花の母親は申し訳なさそうにぼくたちにそう言って、折花の後を追おうとする。けれどその前に、一度ぼくのそばで立ち止まるとそっと顔を近づけて、言葉を口にした。近くで見ると、折花と目がよく似ているような気がした。折花も大人になるとこんな感じの女性になるんだろうか。
「難しい子だけど、これからも仲良くしてあげてね」
「あ、はい」
 二人が家に入るのを見送ってから、ぼくたちはゆっくりと坂を下っていった。
「折花とも美雪とも全然違う人だったね」
 ぼくが途中そう口にすると、湯波はおかしそうに笑った。
「三雲は親と似てるのか?」
 ぼくは少し考えてから答えた。
「いや、全然」
 父には憧れてはいたけれど、結局投資スタイルも性格もなにひとつぼくと父は違っていた。母親は母親で自分の意見をしっかり持っている社交性のある人間だったし。
「そういうもんだよ」
 ぼくは湯波の言葉になるほど、とうなずいた。


 

     


 折花の家からの帰り道、ぼくは湯波に誘われて二人で喫茶店に寄ることにした。ぼくも湯波に聞きたいことがあったから、特に断る理由もなかった。
 学校から近いこともあってか、店内には文化祭の帰りらしき人々で溢れていたけれど、二人用のテーブル席がちょうどひとつ空いていたのでそこへ座る。こういう店に来ることはあまりなかったので、ぼくはなにを頼んだらいいのかよくわからず、結局湯波と同じブレンドコーヒーを注文した。
「さっき部室で調べてたのって、レインメーカーについてか?」
 注文が届くとすぐに湯波はそう話を切り出した。ぼくは一度頷くと、鞄にしまっていたCDケースを取り出して、テーブルの上に置いた。
「湯波はもちろん知ってたんだよね」
「知ってるもなにも、それは元々おれたちが三人でつくってもんだよ」
「三人?」
 予想していなかった答えにぼくは驚く。三人というのは湯波と折花、そして美雪の三人のことなんだろうとすぐに気づいたけれど、どういうことなのかはよく理解できなかった。
「最初は一緒に取引をやってたんだけどさ、おれと美雪には才能がないってすぐに気づいてな。それで美雨みたいな取引ができるプログラムをつくろうとしたんだ。おれはプログラムを勉強して、美雪は数学を勉強した。それで中二の頃にできたのが“レインメーカー”だ」
 ぼくはそこであることに気づいた。
「“折花美”をつくろうとしたから、“レインメーカー”?」
 湯波はゆっくりと頷く。
「まあ、名づけたのは美雪だから、もしかしたら三雲がこの前言ってた意味もあるのかもしれないけどな」
 雨を降らすように大金を稼ぐ。たしかにどっちの意味でも通りそうなものだった。
 少し笑うと、湯波はようやくコーヒーカップに手をつけた。ペーパーナプキンの横に置かれていたシュガースティックを三本ほど入れる。折花と同じで湯波も甘い方が好きだったりするんだろうか。ぼくはコーヒーは苦いままの方が慣れていて好きだった。淹れたてのコーヒーは、やっぱり家で飲むものとは香りが違った。
「それは、完成したの?」
「ある程度の利益は出すようになったよ。美雨が取引で結果を出せるのは、あいつのなかになにかルールがあるからだ。それもわかるところはだいたい数式化できた。でも、それだけじゃ美雪は満足しなかったんだよ」
 そのとき、湯波のケータイから着信音が流れた。湯波は迷った顔で一度こっちを見たけれど、ぼくが頷くとすぐに電話に出た。会話の様子からしてどうやらクラスメートからの電話のようだった。途中「ああ、三雲も一緒にいる」と湯波が答える。通話は一分も経たずに終わった。
「なんか打ち上げをするだってよ。駅前の焼肉屋。三雲も来るか?」
 ぼくは少し迷ったけれど断ることにした。クラスの演劇にはそんなに関わっていなかったし、それに帰ってからやりたいこともいくつかあったからだ。
「そっか、おれもどうしよっかなぁ」
「湯波は行った方がいいんじゃない?」
「そうだなぁ。まあ、六時かららしいから、それまでここで時間潰すよ」
 まだ十七時を少し過ぎたばかりだった。ここから駅前までは歩いても十分もあれば行ける。たしかに出るには微妙な時間だった。
 湯波は追加でアイスティーとフレンチトーストを頼んだ。いまから焼き肉に行くのにそんなもの食べて大丈夫なんだろうかとぼくは心配になったけれど、「肉なら何枚でも食える」らしい。そういえば昼休みもいつも学食で大盛りを頼んでいたっけ。今日は文化祭を回る予定を飛ばしてしまったから、もしかしていままでなにも食べていなかったのかもしれない。
「美雪と今日、なにか話したのか?」
「特に、なにか話したってわけじゃないんだけど。去り際にこのCDとこんな名刺を渡されただけだよ」
 ぼくは美雪にもらった名刺をポケットから取り出して、湯波に渡した。それを見て、おもしろそうに笑う。
「クオンツって。まあ、資格があるわけでもないし、名乗るだけなら自由か」
「でも、それだけの知識はあるってことだよね」
「ああ、あいつは天才だよ」
 天才。それは、過剰評価や皮肉ではなくそのままの評価なのだろう。
「金融工学なんてもんは大学院まで行って、数学の天才だけがようやく手を出せるような領域だ。それをあいつはたった二年で理解した。なんでそれだけの頭があって取引は全然ダメだったのかはよくわからねぇけどな」
「美雪は、自分の直感はよく外れるって言ってたけど」
「直感、か。というより、美雪は他人の心ってのが読めないんだよ。そこがあの二人の一番の違いだな。まあ、数学馬鹿にはそういう連中も多いらしいし、そういう点で合ってたのかもしれないが」
 ぼくは美雪との会話を思い出す。たしかに彼女は双子にしては折花とは対照的な性格のように思えた。湯波がそう言うということは、昔から二人はそうだったのだろう。
「美雪がいま一人でいるのは、自分の満足がいくプログラムをつくるためなの?」
「そんなとこだろうな。あいつがなんでいまも“レインメーカー”っていう名前を使い続けてるのかはよくわからねえが」
 プログラムで人間の取引を再現するなんて、必ずどこかに限界があるはずだった。高いリスクは取らず、小さな利益を休みなくかき集めるプログラム取引には、人間の取引とは違うやり方がある。きっと折花の取引はあまりに人間的すぎたんだろう。美雪は金融工学を勉強すればするほど、折花の取引に魅力を感じなくなっていったのかもしれない。実際、投資家のなかにもクオンツのことをあまりよく思っていない人間は多い。彼らは同じ世界にいながらも、根本的に考え方が違うからだ。
「折花と美雪って、昔から仲が悪かったわけじゃないんだよね」
「ん? まあ、仲良しだったとは言い難いが、いまよりはマシだっただろうな。いまも、仲が悪いというかは、美雨が一方的に美雪を嫌ってるだけだと思うが」
 そういえば、美雪もそんなことを言っていたような気がする。でも、もし折花と美雪があそこで出会っていたら、どうなっていたんだろう。さすがに折花も殴りかかったりはしないだろうけど、あのとき部室にやってきた折花の表情からして、あまり良いことにはならないだろう。
「あいつらがいまのようになったのは、去年の夏頃からだよ。あの日も美雪は突然やってきた」
「……そのとき、なにがあったの?」
「美雪が美雨に言ったんだよ。取引をやめた方がいい、美雨の取引じゃ優勝なんてできないってな。それからだよ、美雨が優勝にこだわりだしたのは」
 ぼくが知りたかった、折花の理由。
 自分の取引を否定されることは、投資の世界に生きる人間にとっては自分のすべてを否定されることに等しい。それも自分の双子の妹から告げられたすれば、なおさらだろう。
 だけど、ぼくはどうも腑に落ちなかった。
 だから折花は優勝にこだわっている? 自分を否定した美雪を見返すために?
 表情に出ていたのか、湯波はぼくの顔を見て言葉を続ける。
「納得できないだろうけどさ、おれたちはあいつらの姉妹喧嘩に巻き込まれてるだけだよ」
 巻き込まれたというのは、たしかにそのとおりかもしれないと思った。あのとき、折花に誘われなかったら、ぼくはいま取引なんかしていないだろう。そのことに不満があるわけじゃなかった。ただ、ぼくは知りたかった。ぼく自身の整合性を求める理由ではなく、折花自身のことを。それはぼくの個人的な興味に過ぎなかった。
「だから、おまえもあんまり無茶すんな。無理して美雨に付き合う必要なんかねぇんだよ」
「べつに無茶なんて……」
「嘘つけ。さいきん寝てないだろ、おまえ。授業中もよく寝てるし」
 そういえば湯波はいまぼくより後ろの方の席だったけ。窓際の最後列。転校生ということもあって、ぼくもこの前までその席に座っていたけれど、先月の席替えでいまは教室の真ん中の席になってしまった。湯波は「退屈な席だ」とか言っていたけれど、そんなことを言うくらいなら代わってほしかった。ぼくにとっては最高の位置だ。
「じゃあ、そろそろいくわ」
 フレンチトーストをきれいに食べ終わった湯波は、そう言って立ち上がった。いつの間にかちょうどいい時間になっていた。ひとりで店に残ってもしょうがなかったので、ぼくも一緒に会計へ向かう。
「まあ、他に気になることがあるんだったら、美雨に直接訊いてみろよ。明日はちゃんと来るだろうし」
「うん、そうだね」
「あいつがちゃんと答えるかはわからんがな。おれも、さいきん美雨がなに考えてんのか、正直よくわかんねぇんだ」
 店を出たところで、湯波は困ったように頭を掻いた。外は冷たい風が吹いていて、夕方のこの時間はやっぱり少し寒かった。
「なんか二人ともずいぶん遠くに行っちまった気がするよ。あいつらを見てると、おれだけ一人置いて枯れた気分になる」
 ぼくはなにも答えず、湯波の顔をじっと見つめた。
 遠い。
 折花を見ているとそう感じることがぼくにもあった。けれど、湯波が感じているのは単純な距離のことではないんだろう。ずっと近くにいた湯波にもわからないことがあるのだ。あるいは、湯波にも言えないなにかが、折花にあるのかもしれない。
「やっぱ、腹減ったな」
「え?」
「あんな食パンだけじゃ足りねぇ」
 湯波はいつものように笑ってみせた。建物の隙間から漏れた夕日の光が、その顔を照らす。
「三雲もちゃんと飯食えよ」
「うん」
 湯波ほどたくさんは食べられないだろうけど、今日はぼくもやけにお腹が空いた、そんな気がした。

 ○

 翌日の学校は午前の授業がすべて休みとなり、文化祭の片付けに充てられていた。
 ぼくは移動していた机や椅子を元の場所に戻す作業を少しやっただけで、一時間もすれば特にやることもなくなり、部室へ行くことにした。
 部室には思っていたとおり、折花の姿があった。
「三雲くん? もうクラスの方は終わったの?」
「終わってはないけど、人手は足りてるらしくて」
「つまり、暇ってことね」
 クラスの出し物は演劇だったので、片付けでやることといえば大道具の解体くらいだった。湯波はなにやら鋸を持ってやる気満々で作業をしていたけれど、量はそんなに多くなく数人でやれば十分らしかった。
「じゃあ、ここの片付けを手伝って。机とかだいたい元の位置の戻したのだけど」
 そういえば、ここもいちおう展示場所だったけ。いったい何人の人がここへ訪れたんだろう。来場者用にノートでも置いとけばよかったかなとか、いまさらになって思った。
 部室の片付けと言っても、残っているのは壁に貼ったコラム記事の紙を外すくらいだった。高い位置に貼っているものもあったので、折花ひとりでは大変だったのかもしれない。
「昨日、美雪となにを話したの?」
 作業をしながら、折花はそう訊いてきた。
 ぼくが椅子の上に乗って押しピンを外し、折花は倒れないよう椅子を押さえてくれていた。見下ろしてみると、たださえ背の低い折花がいつもよりちっこく見えた。
「特になにか話したわけじゃないよ。すぐに帰っちゃったし」
「そう……」
「去り際に、一ツ嶺学園でプログラムをつくってるってことは教えてもらったけど、投資の話はひとつもできなかった」
 すべての紙を外して終えて、ぼくは椅子から下りて押しピンを容器にもどした。一度折花の方を見てみたけれど、彼女は顔を伏せたままなにも答えようとはしなかった。
「どうして、折花は教えてくれなかったの?」
「美雪のこと?」
 ぼくは黙って頷く。
「べつに、わざわざ話すこともないと思ったから」
「そうかもしれないけど、もしそれが折花が投資をする理由なら、話は別だと思う」
「……信平に聞いたのね」
 折花の小さな溜め息が、静かな部室に響いた。
「どうしてそれがわたしの理由だったら、話す必要性があるわけ?」
「そんな理由でやってるなら、勝てるわけがないからだよ。ぼくだって負けるとわかっているものに力を貸す気にはなれない」
「それって……」
 自分でもひどい言葉だなと思った。ぼくが言っていることは、美雪が告げたことと変わりないものだった。それでも、これだけは言っておかないといけない気がした。
「ぼくは、折花の本当の理由が知りたい。どうしてトレコンの優勝にこだわるのか、その理由を」
「……もし、そんなものなかったとしたら? あなたはこの部をやめるつもり?」
「取引の世界に連れ戻してくれたことは感謝してるよ。でも、べつに取引はひとりでもできる」
「ふふ、よく言うわ。最初から他の理由があるって確信してて話をしてるくせに」
 ぼくはその言葉を聞いて、少しだけ安心してしまった。てっきり折花を追い詰めた気でいたけれど、そんなことはなかったとわかったからだ。
「そう思うのは、あなたの勘? それとも経験?」
「……両方かな」
 折花はあの日、屋上で言っていた。
 ――あなたが投資をやめた理由を教えてくれたら話すけど。
 そんな言葉、折花はとっくに忘れてしまっているかもしれないし、もしかしたら本気で言ったわけじゃないかもしれない。それでも、やっぱりぼくはまず、ぼく自身のことを話しておく必要があるような気がした。ただ単純にぼくが折花に知ってほしいだけなのかもしれないけれど。
「二億五千万って聞いて、折花はなにを思い浮かべる?」
「二億五千万?」
 突然の質問にも関わらず、折花は特に文句も言わず真剣にその言葉の意味を考え始めた。しばらくしてから、その小さな唇を開く。
「会社の資本金かなにか?」
 それを聞いてぼくは思わず吹き出してしまう。折花はむっとした表情を浮かべた。
「なによ」
「いや、折花らしい答えだなって思って」
「なんて言えば三雲くん的に正解だったわけ?」
 折花がそう言って首を傾げた。少しだけその黒い髪が揺れる。
「人が一生を生きるのに必要なお金だよ。もちろん日本で暮らした場合のだけどね」
 折花は一瞬驚いた表情をしたけれど、それはすぐに失望したものに変わった。そして、しばらくの沈黙のあと、小さく呟く。
「そう……それは、少ないわね」
 そのとおりだった。その金額はあまりに少ない。投資の世界では小さな単位でしかなく、たった一秒間に当たり前のように動かされている。実際、父もぼくの目の前でその金額を簡単につくりあげてみせた。ぼくたちが足を突っ込んでいるのは、そのような世界だ。
「それが、ぼくの出した損失の額だ」
「え?」
 折花はまた驚いた表情をした。けれど今度はその表情が失望に変わることはなかった。
「それが、あなたが投資をやめた理由?」
 ぼくは折花の方を向いてから頷く。
「……大きすぎるわ」
 さっきは少ないと言っていた金額を、今度は大きいという。矛盾しているようで、折花のその感覚は正しかった。結局のところぼくたちは、投資家であり、高校生なのだ。
「中学に入った頃から、ぼくは現実の市場で取引をしていた」
「取引って、学校はどうしてたの?」
「ちゃんと学校には行ってたよ。当然日本の時間じゃ取引に参加できない。ぼくが潜っていたのは、NY市場だ」
 ニューヨークの取引は日本時間で23時頃から朝6時まで続く。ぼくは毎日帰って仮眠を取り、朝までパソコンの画面と睨み合う生活を二年以上やっていた。折花もそんな生活を容易に想像できたのだろう。納得しながらも、どこか複雑な表情を浮かべていた。
「どうしてそんなことを……」
「無茶だってことはわかっていたよ。それでも、ぼくはやらなきゃいけなかった」
 生きるためには、お金を稼がないといけない。そんな単純な原理が、世界の端に立つとひどく歪んで見える。いまでもあのときのことを思い出すと、捩れるように全身が痛む。でも、その痛みは知らなきゃいけないものだったと、いまではそう思えた。お金を増えす。その単純な行為が、どれだけ複雑かってことを。
「中学生のうちに500万を5億に増やす。それがぼくが投資家になるための条件だった」

       

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Neetsha