Neetel Inside ニートノベル
表紙

オピオイドの繭
一章「ナッシングス・ゴナ・チェンジ」

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 ヒートアイランド現象というものがある。
 色々な原因や効果があるが、簡潔に言えば都市部に発生する温暖化現象であり、しばしば積乱雲を生み出して局地的大雨を引き起こす。で、自分たちの住んでいた街もそれに似た現象が起こっていて、だから空は曇り、気温も周辺地域より高いのだと思っていた二人は、とんだしっぺ返しを喰らっていた。
「……暑いね」
「うん、暑い」
 ノロノロ走る原付の上で、二人はなんとか会話が成立するレベルの声量で呟いた。
 天気晴朗なれど波高し。街を出ると待ち構えていたのは驚くほどの晴天ぶりで、急激に温度を上げた空気がまとわりつき、数分居るだけで身体中から汗が噴き出てくる炎天下だった。原付に載っているおかげで多少は風が吹いている感触はあったが、ひとたびエンジンを止めるとそこはもう地獄だ。熱を発する原付、太陽光線、熱されたアスファルト、立ち昇る太陽熱。発熱四天王に完全に包囲されている。
 堪らず木陰で一休みしようにも、残念ながら周囲にそんな場所はない。育った街から一歩も外に出られなかった二人は、まさか街の周囲が木立や大木一つ無い田園風景だとは思ってもいなかった。
 少年武藤は、首から下げたペットボトルを恨めしく眺める。
 今ここで過剰に水分摂取してしまうと、今後が思いやられる。それに、自分の後ろで豪快に喉を鳴らして水を飲んでいる明穂の事を考えると、なんとなく自分は飲むのを我慢すべきではないかとも思っていたのだ。
 それにちょくちょくエンジンを止めているのでは、貴重な燃料の無駄遣いにもなる。
 武藤は張り付く熱気に表情を歪めながら、原付を走らせることにした。
「さて、ここで一つ提案がある」
「うん」
 きゅぽん、と明穂はペットボトルから口を話す。
「実はこれからどこに向かうのか凄まじく考えていないんだけど、行きたい所はある?」
「ムノー」間を空けて明穂が言う。原付がふらつく。
「『やっぱり武藤は無能』の台詞をたった三文字に収めるのは勘弁して」
「てっきり何か当てがあって旅に出ようとしてるんだと思ってた」
「失礼な。典型的な引きこもりの僕にそんな当てがあるわけないだろ! いい加減にしろ! ぐぇっ」
 武藤の首が絞められて、原付が蛇行する。あわや転倒する、というところで明穂は手を離した。
「こっ、殺す気か! ワクワクドキドキの旅行開始五分で運転手を殺す気か君は!」
「別に私も運転は出来るから、運転手は必要ないんだけどね」
「この野郎……」
 文句あり気にいいながらも、しっかり武藤の腰に腕を回す明穂。
 はあ、と溜め息を吐いて武藤はハンドルを握りしめる。今のところ風景はほとんど変わらず、延々と田畑が続いているだけだ。アメリカの郊外とかがこんな感じなんだろうか。武藤は嘆息する。
 田園風景と言っても、青春を謳歌できるような風景ではない。
 白いのだ。視界は果てしなく白い。
 広がる田畑は青く萌えているのではなく、細い象牙のような草が乱雑に生えているだけの空き地になっている。二人と原付以外の色素が著しく欠落していて、ラフスケッチの中を走っているような錯覚に襲われる。塩湖めいた白に満ちた風景の中にいると遠近感の喪失が激しく、変わらない風景もあいまって自分たちは一歩も前に進めていないのではという感覚にも陥る。そうなってくると、どうしても眠気が襲ってきてしまう。
 日差しを背に受け、影を追う形で武藤は原付を駆る。
 脱水気味で呆けた意識のまましばらく走っていると、ようやく自分たち以外の色が見えてくるのを感じた。
 と言っても気付いたのは武藤ではなく、呆けていない明穂の方だ。
「ムノー。あそこに見えるの、なんだろう」
 ん、と武藤は明穂の指差す方を向く。
 そこで見えたのは、ひときわ大きなトタン屋根の建物。平屋の形をしていて、眠たげな武藤は「大きな犬小屋みたいだな」と聞こえない声で呟いた。だがその色は失われておらず、周囲とは一線を画す赤錆が目に焼き付いた。
 色付いているということは、恐らく誰か住んでいるに違いない。
 そう考えて、武藤は原付の進路を変更した。
 掘っ立て小屋のようなそれは小さな教会ほどの大きさで、付近からは小さな煙も昇っている。
 誰かが焚き火をしているか、食事を作っているか、それとも救難信号なのか。あわよくば二番目であってほしいと、二人は示し合わさずに同じ考えを浮かべながら建物に近づいていく。
 だが、そこには二人の望んでいたものも、想像していたものも存在していなかった。
 この時点でそれに気付いていたのは、武藤だけだった。
 トタン仕立ての小屋にさしかかる手前で、原付を止める。
「……どうしたの、ムノー」
 予想だにしなかった行動に、明穂は尋ねた。
「明穂。恐らくこの前に待ち受けているのは僕らが散々直面した光景だと思う」
 武藤は答える。
「出来れば、もう二度と出くわしたくないモノだ。それでも君は、この先に立ち入る覚悟がある?」
 明穂は理解した瞬間、すっと血の気が引いていくのを感じた。
 顔を向けずに言う武藤。その表情が悲痛に歪んでいるのは見ずとも分かった。
「分かる……ものなの?」
「当然だよ。元々僕は、それが生業だったからね」
 木陰に原付を停め、武藤は小屋と言うべきそれを見据える。明穂は後ろで、不安げに眉尻を下げている。
「『役割』だ。行ってくるよ。確か明穂も、運転は出来るよね」
 振り返りながら、笑顔を浮かべる武藤。
「何なら僕を置いてどこかへ逃げてくれてもいい。その方が救われるかもしれない」
「待って!」
 遮るようにして、明穂が自分のヘルメットを武藤に投げ渡す。
「私も行く。どうせこれから、遭遇することになるかもしれないでしょ」
「…………まあ、そうだね」
 悲しげに、武藤は言う。
「少なくとも、一度は、ね」
 立ち昇る煙とは違う異質な匂いに、武藤は顔をしかめる。
 苦痛よりも、悲痛を感じさせる表情。その原因は間違いなく、目の前の家屋の中にあった。

     


     

 原付を降りて小屋を見上げた武藤は、さながら町外れの工場と言った感想を持った。
 それほど民家と呼ぶには相応しくない外見だ。田舎の溶接工場なんかこんな感じじゃないだろうか、と独り言つ。
 小屋のそばには、少し広めの空き地がある。砂利が敷かれていて(というよりは何も手を付けていない状態)、入り口のように開けた場所以外は有刺鉄線付きの柵で囲まれている。柵の中には小屋の他に、木製のベンチと大きな木と、燻る焚き火が一つ。誰かが調理をしている可能性など二人の思考からは既に抜け落ちていたので、大きな落胆はなかった。
 人の気配は全くない。火が燃えていたということはつまりさっきまでここには誰かが居たということなのだが、人影はどこにも見当たらなかった。もしかしたら木陰に隠れていて、二人のような流れ者を狙っているとも考えられる。原付に積載していた荷物を全て持っていることを再確認し、武藤は砂利の上へ踏み入る。
 目についたのは、シャッターが全て閉まっている小屋。長年動かしていないのであれば錆び付いていてもおかしくないが、どうも小綺麗で直近に動かした形跡が見られる。それに、風が吹いて自然に散らばったとは思えないほど、ベンチのそばの砂利がなくなって地面が露出している。
 決定的なのは、焚き火の付近に転がっている真新しい何かの小骨。
「決まりだね。ここには誰かが居た」
 武藤はしゃがんで、指先で小骨をつまむ。どうやら魚の骨のようだ。魚の骨があるということは誰かがここで食事をした可能性があるが、それがいつなのかは分からない。骨はそう簡単に風化しない。
 ただ、煙の昇っている焚き火の跡が、それがごく最近であることを示唆していた。
「あくまでも、『居る』じゃなくて『居た』なのね」
 明穂が、武藤の言葉に隠された意味を汲み取る。
「そうだね。嗅覚で分かるというか、まあ『役割』だから仕方がない」
「その人は、もうどこにもいないの?」
「さあ。どこかに行っているかもしれないし、もしかしたらそこにいるかもしれない」
 武藤はシャッターで閉ざされた小屋を指さす。
「僕の予想が正しければ、そこにもう一人いるはずだ。“生きている”方がね」

 二人は忍び足で、小屋に近寄る。
 小屋とは言ってもそれは単なる呼び名で、大きさは一般的な一軒家ほどありそうだ。町工場の残骸か、それとも車のガレージか。何にせよこんな場所に住んでいるということは、ただ者ではなさそうだった。
 なんせ、付近に民家はない。繭化を受けて家から避難しているとかではなく、恐らくは武藤や明穂と同じ旅人だ。
 魚を調達できる程度の生活力はありそうだ、と暢気な考えを浮かべながら、武藤はシャッターの前に立つ。
 かなり横幅の大きいシャッターだ。小屋の横幅のほとんどを占めていて、武藤と明穂の二人が並んで寝そべっても大分余裕がある。これだけのシャッターを持ち上げるには、相当な労力が必要だろう。
 武藤が気になっていたのは、まさにそこだった。
「明穂。君は一人でこのシャッターを上げろと言われて、出来ると思うかい?」
「……こんなか弱い少女を捕まえといて、まだそんなこと言ってるの?」
 明穂はため息混じりに言う。
「無理だと思うよ。シャッターって思っている以上に重いから」
「その口振りからすると、閉まっているシャッターを開けようとした経験がありそうだけど」
「薄幸野垂れ死に時代にね。で、そのシャッターがどうかしたの?」
「うん、実はね」
 随分陽気に暗い過去を語るな、と思いながら武藤は答える。
「原付で近付いた時から思ってたんだ。この小屋、どこを見ても窓がない。屋根の近くに換気口はあるけど、そこから人が出入りしているとは思えない。だからさっき僕が言った“生きている人”は、いつもこのシャッターを開け閉めして生活しているということになる」
「それのどこがおかしいの?」
「おかしくはないよ。ただ、少なくともここに住んでいるのは僕らみたいなガキじゃないってことさ」
「数人の子どもが、徒党を組んでるっていう説は?」
「ないだろうね。それにしては生活感がなさすぎる。小骨の量もせいぜい魚二匹分だったから、子どもの胃袋には割に合わないだろう。それにあの焚き火の中、何本かだけどタバコの吸殻が残っていた。仮に子どもだったとしても、そいつらはタバコを吸う様な子どもだ」
「……大人一人のほうが、まだマシね」
「マシというか、そもそも確定的だと思うよ」
 直後、武藤はシャッターを右手で、ガシャンと叩いた。
「さっきからそこにいるんでしょう? 盗み聞きは良くないですよ」
 武藤がそう言うと、狼狽えている男の声と足音が、シャッター越しにはっきりと聞こえた。
「ど、どうして…………」
「すぐに分かりますよ。呼吸の音、コンクリートと革靴の擦れる音。ストリート・チルドレンじみた生活をしてきたので、どうもそういうことには敏感になってしまうんですよね。どこかのガサツで鈍感な女の子とは違って。ぐへぇ」
 刹那、武藤の脇腹に蹴りが入る。明穂はか弱い少女とはかけ離れたカラテ少女だった。
 武藤を蹴飛ばした明穂は、心底軽蔑するような、汚物を見る目で武藤を見下ろした。
「クノー」
「『クソ野郎かつ無能な武藤』の略語ってことは何となく分かるけど、もうそれ原型残ってないよね」
「き、君たちは一体……」
 突然始まった馴れ合いに戸惑っている様子の人物に、武藤は笑って答える。
「ああ、心配しないで下さい。あなたに危害を加えるつもりはありません。むしろ僕は『救済者』です」
「救済者……?」
「ええ。よければここを開けてくれませんか?」
 武藤は、シャッターの向こう側に微笑みながら。
「僕は武藤。『繭化』に抗うという名目で、旅をしているのです」

     

 繭化が始まったのは、今から三年前の冬だと言われている。
 正確な日付は分かっていない。どの人物を初めて繭化に罹ったのか、誰も定めることが出来なかったからだ。それくらい繭化というのは世界中で急速に広まり、瞬く間に世界を侵食していった。現時点で世界の七割は繭になっているらしく、武藤と明穂の育った街もほぼ全てが繭化してしまっている。

「僕は繭化が始まった頃から、望むと望まざるにかかわらず繭の調査をすることになりました」
「……それは義務というよりも、習慣のような感じなのかい?」
「ええ、言い得て妙ですね」
 シャッターの開けられた廃屋の中で、武藤は水を一口飲んで言う。
「親が小さな葬儀屋をやってまして、人員不足ということで良く駆り出されていたのです。金のかからない従業員というわけですね。だから死体を見ても特別驚きはしませんし、何よりも匂いには敏感になるんです」
「そうか……そういうことか」
 男は何かを理解したようで、溜め息とともに項垂れた。
 武藤はそれ以上追及せず、ペットボトルを元通り首から下げる。
 視界の端では明穂が原付に積んである荷物を弄っていた。外に放りっぱなしではいつ盗まれるか分からないので、男が招き入れてくれた廃屋(男はガレージと言った)に持ってきたのだ。
 見た目通り、ガレージの中はそれなりの広さがあった。二・三台車を入れても問題ないほどの広さがあり、天井の高さも申し分ない。ガレージというよりは外装のみ雑に作られた平屋といった印象で、備え付けとみられる階段の上には比較的綺麗な毛布が敷かれたベッドもある。二人分のそれを見て、武藤は改めて確信した。
「このシャッターは、ご自分で取り付けたんですか?」
「うん、そうだよ。自動車操業が趣味で、車を保管しておくためのガレージとして元々は使っていたんだ」
 男はぼさぼさで白髪交じりの短髪を掻きながら言う。それほど老けているようには見えず、精悍な体つきであるのにもかかわらず白髪の量も多く、肌にもかなり白みがあった。
「それで、繭化が始まって、ここに住まうようになったと」
「正確に言うと、繭化によって妻を失ってからかな。それからはずっとここに籠りっきりだ」
「ああ、やはり」
 武藤は、ばつが悪そうに眉根を寄せる。
「残った骨を、焼いたんですか」
「はは、その界隈の人には分かるものなんだね。うん、その通りだよ」
 苦笑いを浮かべる男。
 神妙な面持ちの武藤は、続けて尋ねる。
「もしかして肉体は、白い蛾になって飛んでいきましたか?」
 それを聞くと男はしばらく押し黙ったが、やがて観念したように口を開いた。
「……繭の調査というのは、本当なんだね。僕はてっきり虚構だと思っていたよ」
「見ず知らずの人に嘘をつく趣味はありません。暴力少女のおべっかを使う事はありますけど。ぐほぉ」
 背中に明穂の回し蹴りがクリーンヒットし、武藤はその場に膝から崩れ落ちる。
「デクノボー」
「『デリカシーの欠片もないクソで無能でボケナスな武藤』?」
「正解」
「こんなことを瞬時に思いつく人間にはなりたくないよ! ……すみません、話が逸れましたね」
 武藤は男の顔を見て笑う。
「話の続きですが、その口振りからして蛾になったのは間違いないですか?」
「ああ、君の言う通りだ」
 男はガレージの天井を見上げ、火の点いてないタバコをくわえる。
「妻が完全に繭になって、二日くらいした時のことかな。今思い出してもぞっとするよ」
 語らう男の口調は、鉛のように重い。
「妻を寝かせていた寝室の扉を開けた途端、おぞましい量の白い蛾が一斉に飛び出して来たんだ。まるで部屋から逃げるように、ものすごい勢いで空の彼方へ消えて行った。後に残っていたのは完全に肉が削げ落ちた成人女性の骨格標本だけだ。僕はとんでもない喪失感に襲われたよ」
「う…………」
 後ろで話を聞いていた明穂が、口を押さえる。
「明穂、君は聞かないほうが良い」
「そうみたいね……ちょっと横になりたい気分」
「すまない。上にお客さん用のベッドがあるから、そこで休むといい」
 ありがとうございます、と会釈しながら明穂は階段を上る。
 武藤は心配そうにそれを見つめていたが、やがて再び口を開く。
「それで、残った骨をガレージの外で焼いたと、そういうわけですね」
「ああ。それからもう三ヶ月は経っているかな」
「三ヶ月……」
 それにしてはやけに骨の匂いが残っているな、と武藤は言葉にせず心中で呟く。
 室内で焼いたのならまだしも、周囲に何もない屋外で焼いたとなると、そこまで匂いが染み付くとは思えない。しかし温厚に見える男がそんなくだらない嘘をついているとは思えず、武藤の頭の中で一つの仮説が浮かび上がる。
 第一、骨の匂いが一番強いのはこのガレージの中だ。
 やはり、そういうことなのだ。
「もう一つだけ、お聞きしたいことがあります」
 武藤は言う。
「もしかしてあなたは、目に見えるものが白く染まって見えていませんか?」
「僕も一つだけ、尋ねたい」
 男が目を丸くして、言う。
「君はエスパーか、もしくは未来からやって来た人間なのかい?」
「いいえ、僕は最期を看取ることを生業とする<葬儀師>です」
「いや、僕にとって君はまさしくそのような存在だ」
「なぜ」
「これ以上苦しまずに済むからだ」
 男がにこやかに笑う。

「君は、終わらせ方を知っているんだろう?」

 眼球に白いノイズが走る。
 微細な白に拠る絞首刑が侵食する。
 男の角膜へ白く線を引くように、細い繭糸が張り巡らされていく。繭糸は加速度的に男から色素を奪っていく。目に見えない蜘蛛が獲物を捕らえるように、男の軆を、白い糸が、糸が包み込んでいく。男の体の造形はそのままに、表皮に象牙の色をした糸が絡みついていく。木乃伊を完成形とするように、漸進的に。
 こうなってしまえばもう手遅れだと、武藤は知っていた。
 骨の焼けるような匂いを発していたのは、男そのものだったのだ。
 それには武藤だけが気付いていた。
 繭化の最期は驚くほど急激で、残酷であることを武藤は知っている。
「何か、この世界に言い残す言葉は」
「言葉……」
 武藤の問いかけに、男はひび割れた口を動かして答える。
「世界はこの三年で、驚くほど豹変してしまった。世界は瞬く間に陥落した。全ては繭が変えてしまった。ざわめく街の気配も、かすかな木々の囁きももうここにはない。驚くほど価値の無い世界に成り下がってしまった。僕の望んでいた世界はもういない。だから残すような言葉も見当たらないよ」
「そうですか」
 武藤の言葉は、どこか冷ややかで。
「ならば僕の口から言います。貴方はこの世界を必要としていなくて、世界も貴方を必要としていない」
 男の体に、急激に亀裂が増える。
 男の動きが止まる。

「貴方が生きている理由はもう――――この世界にはありません」

 直後、ガラスを割る勢いで男の全身が真っ白な蛾に変貌し、シャッターの開いたガレージから飛び出した。
 残されたのは、立ち尽くす武藤と、毛布の中で耳をふさぐ明穂だけ。
 男の亡骸など、どこにも残ってはいない。
「貴方は間違っている。常に変わり続けるということは、つまりは何も変わらないということ。三年という時間が人間にとって残酷に長いものだとしても、世界の生涯においてはほんの数秒にも満たないんだ」
 武藤は寂しげに言う。
「繭化が自然の淘汰であるといっても、何らおかしい話ではない」
 吹き荒ぶ風に、武藤はわずかに身体を震わせる。

     


     

     ■

 男が消えた、夜。
 今日のところはこのガレージに泊まろうと、二人はシャッターを閉めてガレージの中に居た。少しでも体力を温存しておきたい二人の頭の中に、外でキャンプファイアー紛いのことをしたり星を眺めている暇はない。武藤は使えそうな材木を集めて、火おこしの準備をしていた。
「明穂、いつまでそうやって漁るつもりだい」
 シャッターを閉めたガレージの中で、ライター片手の武藤が問いかける。
 かくいう明穂は聞く耳を持たないといった様子でガレージにある収納という収納をひっくり返し、何か使えそうなものがないかと選別していた。
 男がいなくなってしまったのをいいことに、男の日用品を次から次へと漁っているのだ。体調が悪くなっていたというのにこの豹変ぶりは何なんだと、武藤は呆れ混じりの溜め息を吐く。
「だって、明日にはここを立つんでしょ。今のうちに戦利品を確保しておかないと」
「戦利品って……」
 さすがに、それは彼に悪いだろう。
 武藤はそう言い募ろうとしたが、言論で勝った試しがないことを思い、口をつぐんだ。それに、これ以上追及しようものならお得意のハイキックは免れないだろう。諦めて火をおこす作業を再開する。
 ガレージの電灯があるとはいえ、焚き火がなければ夜は冷える。昼間はいつものように灼熱の暑さに満たされているのだが、それでも最近夜は冷え込むようになった。これも繭化の影響なのかと、武藤は考える。
 そして、男はいつもどうしていたのだろうとも考える。
 繭化が起きると暑さ寒さを感じなくなるのだろうか。武藤には分からない。
 己の見聞を広めるために旅に出ると、武藤は明穂に言った。
 それは間違いではない。街を出たことない自分は外の世界について知らないことが多すぎる。だから終わりに歩み寄る世界を生きる上で、最後に世界一周旅行をするのも悪くないと思って旅に出たのも、一理ある。
 だが、目的は他にもあった。
 それは男にも名乗った通り、“葬儀師としての救済活動”だ。
 繭化が始まってから長らくその最期を見取ってきた武藤は、並大抵の学者よりは繭化に詳しい自信があった。だから繭化というものの原因や予防法を知らない人々にそれを伝える義務があると、武藤は深く感じていた。
 だから旅に出て己の見聞を広めつつ、自分の知識も授け、救済を行っていく。
 それによって、未だ解明されていない部分の多い繭化の謎も判ると考えたからだ。
 そのためには、ほとんど誰も居ない町に留まるわけにはいかなかった。
「明穂、君はどうだい」
 振り返らない少女の背中に、語りかける。
「君には僕とともに、世界の果てまで旅を続けていく覚悟は」
「あるから今、ここにいるんでしょ」
 目を向けずに、手を動かしながら、さも当たり前のように明穂は言う。
「どうせならもう少し腕の立つ人が良かったけど」
「はは……。生きている内に理想の人になれるよう、努力するよ」
 武藤は小さく笑い、また沈黙が訪れる。問いかけというよりは、日課の確認作業と言った会話なので、そこからは何も派生しない。
 それもそうだ。
 明穂の命は、武藤が拾い上げてしまったのだから。

「ねえ、明穂」
「なに、ムノー」
「僕と旅に出たことを、君は後悔している?」
「していると言ったら、君はどうするの?」
「どうもしないさ。君の意思は僕の手では変えられないからね。逆に聞くと、明穂と旅をして後悔していると僕が言ったら、明穂はどうする?」
「そんな仮定的な状況、陥ってみないと分からないわ。そんなくだらないことを考えている暇があるなら、明日の宿を考える方が有意義よ」
「だろうね。君ならそう言うと思ってたよ……お、ピンクのフリフリ」
「どさくさに紛れて人のパンツ見るなぁ!」

 空気を薙ぐ蹴りの音。
 明かりが灯るガレージに少年の叫び声が響く。
 終わる世界の果てしない旅は、まだ始まったばかりだ。


     △△

 大雨の中で、その少年は立ち尽くしていた。
 滝のような雨の中でも分かるほど、大粒の涙を流しながら立ち尽くしていた。
 飼い猫が死んでしまった。母に贈る花束を落としてしまった。祖母から貰ったお守りをなくしてしまった。道行く人はそんな想像を巡らせながら、それでも少年に声をかけることなく通り過ぎていった。
 そうではなかった。少年は抱えている悲しみはその比ではなかった。
 少年の手には、小さなリボンがしっかりと握りしめられている。
 泥だらけになった赤いリボンが、ぐしゃぐしゃになったまま握られている。
 少年は嗚咽混じりに、雨に声を掻き消されながら、泣き続けた。
 雨はしばらく降り止もうとしなかった。
 雨はしばらく降り止もうとしなかった。

     ▽▽


       

表紙

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Neetsha