Neetel Inside 文芸新都
表紙

肥溜め
地獄の青春

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それはまあ何と虚しく、地獄のように薄っぺらい3年間だったのだろう。
私は同じ駅から学校に通い続けたというのに、とうとう駐輪場のおじさんの顔を一切見ることがなかった。

私は人の顔を見ることが出来ない。

一体、いつごろからこんな風になったのかは今となっては分からない。
また、原因に関しても、これだ、と思えるようなものはない。

例えば、誰もいない通りを歩いているときでも、
私は「あの曲がり角から歩行者が現れるかもしれない」と考えて警戒している。
目線をずっと下に向けておいて、いざ本当に曲がり角から人が現れても、そちらを見ない。

例えば、向こうからこちらへ歩いてくる歩行者がいる時、
自分の目線と相手の目線の間に木立などが入るように速度や角度を調節しながら歩く。
車道の端を歩いて、相手との間に電柱が入るようにする。

例えば、必要もないのに、ごく自然な素振りで
向かいの歩道まで車道を横断したり、曲がり角を曲がったりして、
人とすれ違うのを避ける。

とにかく、私は人とすれ違いたくないのだ。
すれ違うときに、鼻をすすられたり、咳払いをされたり、舌打ちをされたり、
何か聞き取れない言葉を発せられただけで、私は少なくとも三日は
憂鬱と苛立ちが入り混じった糞虫のような気分で過ごさなくてはいけない。

人とすれ違う時に、相手を全く見ないというのは不自然なのだ。
だから、私が相手を見なければ見ないほど、相手は私を警戒する。
本当にすれ違うその一瞬、自分のことを見てくると警戒する。
しかし、私は相手を見れば目が合うことが分かっているから、決して相手を見ない。
あてが外れた相手は、見られることを不必要に警戒した臆病さを無意識のうちに自覚して
負け惜しみに鼻をすすったり、舌打ちをしたり、不快感をまぎらわそうと咳払いをするのだ。
お前らなんて死んでしまえ!

私の地獄をさらに悲惨なものにしたのは、あの十代特有の敵対心だった。
見知らぬ同年代をむやみに敵視する、あの十代の意味不明な心理。
彼らは、同年代とすれ違う時に、必ずにらむ。
睨まないと負けなのだ。
臆病だと思われるのが怖いのだ。
しかし、臆病だと思われるのが怖いこと自体が臆病の証明ではないか。
私は、人と目をあわすのが嫌だった。
しかし、同年代の人間が睨んでくるのを無視するのは、それだけではなかった。
彼らが低脳であることだけは、私は知っていたのだ。
意味もなく敵視しあい、睨みあう、その知性の無い世界に仲間入りするのは御免だった。

違う! 違う! 違う!
私は、自分の、視線を怖がる性質まで利用して、
同年代が睨んできた時に睨み返さない臆病さを言い訳しているのだ。
単なる臆病を、精神性の高さに巧妙に摩り替えるその手口!
私はお前のずるがしこさに吐き気を催す。

他人にどう思われるかなどは、本来のところどうでもいいのだ。
笑われて、馬鹿にされようが、それが私自身に何の影響があるというのだろう?
しかし、笑い声がそもそも聞こえない程に強くないのであれば、
強者を気取るのは醜悪だ。
むしろ、つばを吐きかけ、喧嘩を売り、返り討ちに合う人間のほうが清潔だ。
私にはその度胸がないのだ。

私は臆病者だ。
臆病の上に、卑怯だ。
でも、これらは言葉の上で本当であったとしても、本心ではない。
私は私を保身なしに語ることが出来ない。
でも、全てがどうでもいいのだ。

       

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