テレビをつけた。
別段見たい番組があるわけじゃない。
自然、見るものといえばニュースとなってしまう
ニュースで流れる、誰かの死
普段知ることもない人の名前を、その人の人生を垣間見る
だが、それだけだ。
彼らにとっては人生の終わりであり
家族にとっては深い悲しみであるにも関わらず
僕は、ただ。その人が死んだというコトを知り
興味もなく流す。
故人に対して涙を流すワケもなく
次のニュースが流れれば内容も忘れる。
それが日常。
死は当人や、近しい友人でなければ
誰かの日常を変えることはできない。
そうしてまた、誰かの死の報告を
頭の中に認識し、また消えてゆく
ふと思う
俺も死んだら、全く知らない誰かは
やはりこのように少しも悲しむコトもなく
普段の日常に行くのだろう
それは当然のことで
俺もそう生きてきてた
これからも、俺は知らない誰かの死は
ただの情報として頭を流れてゆくだけだろう
だが、せめて、近しい人たちに対しては
もっと優しく
もっと感謝を込め
後悔のないように。
いや、どんなに精一杯しても
後悔は探せば出てくるものだ。
だからといって、手を抜くことはやめよう。
短い人生の中出会えた貴重な人々に対して
もっともっと、優しくなろう。
それが、俺が人であるということの証明であり
人が優れているという自尊心を支えるものである。
そう思った。
「母さん、飯、今日は、一緒に食べるわ。」
家族と過ごす時間の意味を深く知る。
それがまず第一歩だ。
「牛肉買ってくればいいの?行ってきます。」