永遠の洞窟
まとめて読む
気づけばくるぶしより下の感覚が無くなっていた。
足元の感覚が無いというのは、思っていたよりも大変だった。水中の小石やでっぱりなどに躓くことが多くなった。ただ歩くだけにしても、人間は足の裏の感覚に随分と頼っているらしい。
辺りには静寂が漂っている。その中、俺が水の上を進むざぶざぶという音だけが聞こえている。ずっと、もうどれだけの間この音だけを聞いてきたのか。
何時間歩いたのだろう。あるいは何日、何週間かもしれない。
この洞窟はすごく不思議で、俺に疲労と言うものを感じさせない。ずっと歩き続けているはずなのに、息が上がったりはしない。精神的な疲労はずいぶんと溜まっているが、肉体的には元気なものだ。
ざぶざぶと、俺はただ進み続ける。
しかし目の前の光景は一向に変わらない。ただ洞窟だけが真っ直ぐに伸びている。分かれ道などは存在しない。変化の無いところを歩いていると、自分が立ち止まっているかのような錯覚に陥る。あるいは、自分が進んだ分だけ地面が下がっているのかもしれない。ちょうどウォーキングマシンのように。
ざぶざぶ。
気づいた時には、もう俺はこの洞窟の中にいた。そして前と後ろにはずっと洞穴が続いていた。
この洞窟はひどくジメジメしている。壁に触れるとひんやりと冷たい。そして地面は水没しており、足元は常に水の中にあるような状態だ。それは人間が住むのに適した環境ではない。しかしそれでいながら、俺はこの場所にどこか居心地の良さを感じていた。
静かなのだ。
俺が暮らしている町には、こんなに静かな場所はない。どこに行っても、沢山のモノが雑然とつめ込まれている。ふとした瞬間に、それらのことを不快に思うなんてことはよくあった。
それに比べて、ここは秩序が保たれている。静かだ。余計な情報など何もない。もしかするとこれこそが、"聖域"という場所なのかもしれない。
しかしそういった居心地の良さは、俺にとって危険だった。だから俺は、この洞窟から出るために、前に向かって進むことにした。……もっとも、どちらが前なのかなど、俺には分からないのだが。
ざぶざぶ。
ただずっと前に向かって歩いていると、頭の奥に靄がかかったような状態になってくる。そして次第に、得体のしれないよく分からないものが、意識の奥から浮上してくるのだ。
それを言葉で表すとしたら、不安とか、恐怖とか、怒りとか、そういうものになるのだろうと思う。しかし浮かび上がってすぐのそれらは、そうやって明確に区切ることができない。ありとあらゆる感情の源泉みたいなものだ。
そのぼんやりとしたものは、俺の意識を覆い尽くしていく。
そして様々な映像が脳裏に映し出される。それは俺が生まれてから今までに経験してきた沢山の出来事だ。いわゆる走馬灯というものに似たものだろう。
普通に生まれ、普通に生きてきた。沢山の楽しいことと嫌なことがあった。そのどちらに分けることもできないこともあった。だけどそれらの出来事自体には、何の意味もないのだと、過去を思い返しながら俺は思った。
ふと、思春期の頃にずっと考えていた問いが、突然蘇ってきた。
"俺はどうして生きているんだろう?"
当時の俺は、いくつかの答えを思いついていた。しかしその中に、しっくり納得のいくものは無かった。その頃の俺は、いつも頭の隅でその答えを探していた。そういう時期だったのだ。
しかし気づけばいつの間にか、それを探し求めることはなくなっていた。考えないようになっていた。
こうして、何かを考えることを止めることを、人は大人になると言うのではないか。
ざぶ。
だんだんと進むことが嫌になってきて、やがて俺は立ち止まった。すると、唯一耳に届いていた水音が消えることで、世界は完全な静寂に包まれた。
少し休みたいと思った。しかし、どうやって休めばいいのかが分からない。
足元は完全に水に浸っており、座って休もうとすることもできない。せめて壁にもたれようなんてことも思うのだが、壁はとんでもなく冷えていて、もたれたらそのまま体の芯まで凍ってしまいそうだった。
結局俺は、ただ立ち止まることしかできなかった。
何も聞こえない。何もない、洞窟。
無。
やはり、この"無"は美しい。
何も起こらず、ただ静かに、秩序を保ち続ける。そのあり方に、憧れずにはいられない。それが、本来の人間の性質から外れていると分かっていたとしても。
ただ立ち尽くしていると、次第に自分がこの洞窟と同化したかのような気になってくる。俺は一つの大きな岩だ。誰に意識されることもなく、ただここにいるだけの。
気づけば心の中は空っぽになっていた。全身が軽くなったように感じる。
何かに引き寄せられるように俺は歩き出した。
するとすぐに、その場所に辿り着いた。
広い空洞が広がっていた。上はあまりにも高く、真っ暗な闇に閉ざされていて天井は見えない。天井とは違い、横の壁は見ることは出来るのだが、それもあまりに遠い。これほどまでに広い空間を、俺は今までに見たことが無かった。
俺はざぶざぶと音を立てながら、水に浸っていない場所に上陸した。
きちんとした地面があるという安堵に、俺はそのままそこに座り込んだ。そしてほっと一息つく。
「新しい人かい?」
突然聞こえたその声に、俺は思わず飛び上がりそうになった。
慌ててそちらに目をやると、そこには一人の男が立ち、こちらを見ていた。
歳は若い。外見で言うなら二十代前半の俺と同じくらいだ。
少し違和感があるのは、彼の表情だ。彼の顔には感情がほとんど現れていない。無表情と言っても良い。口調や声から、なんとなく楽しんでいるような雰囲気は感じられるのだが、それが顔に反映されていない。少し不気味だった。
「僕はヨン」
彼はそう言った。ヨンというのは名前だろうか?
「正確には僕の名前じゃあないけれど、ここに四番目に住むようになったということで、そう名乗ってる。こっからは見えないけど、あっちのほうにイチ、ニ、サンもいるよ」
「……」
なんと返せばいいか分からずに黙っていると、彼は続ける。もともと饒舌なのかもしれない。
「ここに誰かが来るのは久しぶりだ。前にゴとロクがいたんだけど、今はもう出て行ったから、今度は君がゴになるのかもしれないね」
そして続ける。
「ところで、君はどうやってこの洞窟に入ってきたか憶えている?」
「……いや、何も。気がついたらここにいたんだ」
「やっぱり」
ヨンは納得したように頷いた。
「ここに来た人間は皆、自分がなぜここに来たのかを憶えていない。来る人来る人皆が、気がついたらここにいた、なんてことを言うんだ。イチもニもサンも、そして僕もそうだ」
「皆……? ここは、そんなに沢山の人が来るのか?」
「沢山っていうほどかは分からないけど、それなりにはね。ほとんどの人は、一時的にここで休んでから、また先へと進んでいく。ずっとここにいようとしているのは、僕ら四人だけだ」
「……先?」
「え? ああ、もしかして君はここが終点だと思ったのかい? 違うんだ。ほら、水路はずっと向こうまで続いているだろう? 先にはまた同じような洞窟があって、道は続いているんだ」
「道が続いているって……。それは、このまま進んでいけば、どこかにたどり着くことができるということなのか?」
「さあ」
彼は首をかしげた。
「僕は行ったことがないから分からない。それに、一度出て行って、戻って来た人は一人もいないしね」
その、とんでもなく広い空洞に到着してから、どれだけの時間が経ったのだろう。
俺はここに来てからずっと、水路から少し離れた位置で、ただじっと座って過ごしていた。
長い間同じ姿勢をしていても、疲労はまったく感じない。空腹もない。体の調子はよくも悪くもなく、ただ一定を保っている。
じっと座っていると、時々ヨンが会話をしにやってきた。そしてとりとめのない雑談をする。
ヨンはいつも水路の入り口の近くに座っている。聞けば、新しい誰かがやってくるのを待っているのだと言う。新しくやってきた人間と一言二言話すことが、ここでの楽しみの一つだと言っていた。
ここに来てから一度、この空洞をぐるっと歩き回ったことがある。ヨンの言っていた、イチ、ニ、サン、という人達と、少し会ってみようと思ったからだ。
まず、イチというのは若い女性だった。
それもどこかでモデルでもやっていたのかと思うような、美しい女性だった。彼女は壁に背を預け、ただじっと座っていた。
軽く声をかけたのだが、彼女はぴくりとも反応しなかった。死んでいるのではないかと思ったが、一応呼吸はしているらしく、胸元がほんの微かに上下に動いていた。
ニというのはしわくちゃのお爺さんだった。
彼は快活に俺に話しかけてきた。何歳なのか、何をしているのか、仕事は、家族は、趣味は。沢山の質問をされた。俺が返答するたびに、彼は楽しそうに笑った。
しかし快活なその話し方とは反対に、じっとしている彼の姿は、まるで本当に洞窟の一部になったかのように見えた。岩が置いてあるかのようだ。
そしてサンという人は見つからなかった。何度か空洞をぐるぐると回ったのだが、その人影はまったく見えなかった。
ヨンが言うには「隠れることが上手い人なんだよ」ということらしい。
よく分からないが、きっと変わった性格をしているのだろう。
そうして空洞全体を見て回ったのだが、そこにいる人以外に特筆すべきことは何もなかった。ただひんやりした地面と壁があるだけの空間だ。それ以外には何もない。
俺は冷たい地面に座りながら、ぼんやりとこの場所について考えた。
どうして俺はこんな場所に来てしまったのか、それはまったく分からない。ただ一つ言えるのは、ここが、今まで俺が生きてきた場所とは正反対の場所だということだ。
この場所の時間は止まっている。停滞。停止。あるいは、永遠。それは、あらゆる人が無意識のうちに求めながらも、決して見つけることができないものだ。
ここは平和に満ちている。
この場所を表現するのに最も適した言葉は、"理想郷"だ。
気づけば俺がここに来てから随分と長い時間が経っていた。いつの間にか、ヨンは俺のことをゴと呼ぶようになっていた。
もう、何年も何十年もこうしているような気がする。しかし、俺の周りは何一つ変わっていなかった。そして俺自身も、また。
ざぶざぶと、水をかき分ける音が聞こえた。
どうやら新しい人がこの空洞に到着したらしい。すぐにヨンがその人のところに駆けつけ、何かを話し始める。いつも通りの光景だ。
俺がここに来てから、何人かがこの空洞に到着した。彼等は皆、少しの間だけここで休むと、すぐにまた元の道に戻っていった。
俺も何度か、またあの道に戻って歩き続けてみたらどうかと思ったことがある。
しかし行くだけの決心はつかなかった。ここには全くと言っていいほど何もないが、ただ唯一、妙な安心感のようなものだけはあるのだ。
歩き続ければいつか外に出られるという確信があるのなら別だが、実際には永遠に道が続いているだけという可能性もある。そして歩き出したら最後、またこの場所に戻ってくるなんてことができなくなるかもしれない。こんな不思議な場所なのだから、そういうことだって十分に考えられるのだ。
そしてそもそも、この洞窟の外に出られたとして、それが良いことなのかどうかが分からない、ということもある。
俺が生きていた世界は、そんなに楽しい場所では無かった。
もちろん、思い返してみれば楽しいことも嬉しい事も確かにあった。しかしそれらは皆、どこかわざとらしさがあった。何か大切なものを隠しているような、そんなよそよそしさを感じることがあった。
俺はそんな世界のことが、決して好きではなかった。だから改めて考えてみれば、無理に頑張ってここから脱出する必要もないのだ。ここでこうして、特に不自由なく過ごせているのだから。
とにかくそういうわけで、俺は結局、出ようと考えるだけで、実際に行動に移したことはなかった。
つい先程この空洞にやって来た誰かも、今までと同様、少しだけ休憩した後またもとの道に戻っていった。
その去っていく背中を、俺はただぼんやりと眺めた。
ふと目を開けたことで、俺は自分が今まで眠っていたことに気がついた。
はっきりしない意識のまま、ただ目の前の闇を眺める。そこには天井があるはずなのだが、やはり高すぎて見えない。
「や」
声の方に顔を向けてみれば、そこにはヨンがいた。
「また、何か話をしに来たのか?」
俺は上体を起こして返事をする。
「そうだよ。時々こうして、無性に誰かと話したくなるんだ。ゴが来るまではずっとニが話し相手だったんだけど、やっぱり年齢がああまで違うとうまく話せないね。同じくらいの年齢の君が一番だ」
「そうか。で、何の話をするんだ?」
「そうだな……。じゃあ、青春時代の話なんてどうだい?」
「青春時代?」
「中学生や高校生の時に感じた色々なことだ。何かあるだろう? どこかドラマチックな、甘酸っぱい経験がさ」
「……」
記憶を探るまでもなく、そんな経験は俺にはなかった。ただ憶えているのは、あのまとわりつくような、嫌な雰囲気だけだ。
あの頃はとにかくずっと憂鬱だった。何か特別嫌なことがあったわけでもないのに、ずっと。
「なんだ、まったく無いのか? 寂しい奴だなぁ。……仕方ない、じゃあ俺のとっておきの話をしてやろう」
そして彼は、高校時代に付き合っていた恋人との話をし始めた。
彼の口調は仰々しかった。演劇の舞台にでも立っているかのように、やたら大げさな物言いと動作をする。これは本当に彼の記憶なのだろうか? 適当なつくり話をしているだけのような気もする。
俺はその話を聞き流しながら、当時ずっと頭にあったあの問いを思い出していた。
やがて気づけば彼の話は終わっていた。俺はただ聞き流していただけなのだが、それでも彼は満足したようだった。
彼は元の場所に戻り、俺はまた一人になった。
"俺はどうして生きているんだろう?"
その本当の答えは、結局どこにあるのだろう。最終的に考えることをやめてしまっていたこの問いについて、今なら答えを見つけることができるかもしれない。今の俺には、永遠に近い時間があるのだから。
そうして、その懐かしい問いについて考えようとして、はたと気づいた。
俺には、この問いの答えは絶対に見つからない、ということに。
当たり前のことだ。今の自分の状況を見返してみれば分かる。洞窟の中に居座り、ひたすらに時間が過ぎるのを待つ。そんな俺は、生きているという状態からきっと正反対にあるはずなのだ。
俺は今、生きていない。ならばどうして、生きていることの理由を見つけることができるのだろうか。
それを理解した時、俺は胸の奥に強い熱を感じた。それはここしばらくずっと感じたことのないものだった。
マグマのようなその熱は、じわじわと広がりながら、上に昇ってくる。俺の中にまだこんな感情があったのかと感心していると、唐突にその熱は爆発した。
「あ」
涙をこらえられなくなって、俺は両手で顔を覆った。
自分が生きているという状態ではないということが、とんでもなく寂しかった。それは完全な孤独だった。周りを見渡しても人間は一人もいない。みんな、どこかに行ってしまった。
俺をここに残したまま、生きているのだ。
「あ、あ、あ」
言葉にならない声が漏れる。それはいわゆる嗚咽だった。
こんなに泣いたのはいつ以来だろう。この洞窟に来てからはもちろんのこと、それより前にもそんな記憶はまったくない。
一人でいる時でも、俺はあまり泣いたりしたことはなかった。だからきっと、最後にこんなに本気で泣いたのは、小学生か、あるいはそれ以前にまで遡るだろうと思う。
俺の中にあるそういった部分は、いつの間にかもう死んでしまったのだと思っていた。だけどまだ、こうして生きていた。
次から次へと流れる涙を、俺は両手で拭った。
ぽろぽろと溢れるその雫は、もしかすると、人が生きる理由そのものなのかもしれない。
まずイチのところに向かった。
彼女は前に見たのとまったく同じ姿勢で壁にもたれかかっていた。声をかけてみるが、その反応も前とまったく同じだった。そもそも俺の存在に気づいていなさそうだ。
次にニのところに向かった。
彼は俺の姿を見ると微笑んだ。俺がこれからこの空洞を出ようとしていることを告げると、彼は微かに驚いたような顔をした。しかしすぐに、頑張れ、という旨の言葉を俺に放った。俺は小さく頭を下げてから、彼の元を去った。
今度こそサンに会おうと思い、空洞をぐるぐると回ってみたのだが、今回もやはり見つけることはできなかった。それが少し残念だった。
最後に、ヨンと顔を合わせた。
「君はここから出て行くんだろう?」
「ああ」
「やっぱり。……実を言うと、最初に見た時から、僕はそんな感じがしていたんだ。他の人と同じで、君もすぐにここを出て行くだろう、ってね。ただ、思っていたよりもずっと時間がかかったけれども」
「ヨンはここに残るのか?」
「出る理由が無いからね」
「どっちが正しいんだろう」
俺が言うと、彼は微かに目を閉じて思案し、また開いた。
「きっとここは、ただの休憩所みたいなものなんだ。……君はもしかすると、ここが永遠そのものだと思っているんじゃないのか?」
俺は頷く。
「違う。永遠なんて無いんだよ。ここにも、無い。どんなものも、変わらずにはいられないんだ。それは、僕らもまた例外ではないと思う。それがいつなのかは分からないけれど、きっと僕も気が変わって、ここを出ていこうと思う時が来るような気がする」
「……」
「今は多分、その時のために休んでいる時期なんだ。ここは確かに理想郷だけれども、それは決して、停滞を意味しているわけではないんだから」
それから俺とヨンは軽く手を振ってその場で別れた。
俺は水路へと向かう。
水の中に足を入れる。冷たく、どこか神聖な感じがする。
動く時のざぶざぶという音が、今は心地よい。俺はもう一度だけその大空洞を見渡してから、その水路の先に向かって歩き出した。
少しの間歩き続けてから、俺はふと後ろを振り返った。そこには闇だけがあって、長い間俺が過ごしたあの場所はもう見ることができなくなっていた。
微かな寂しさを覚えながら、俺はまた歩き出した。
了