昂奮であるとか恐怖であるとか、とにかく何かの心理的な要因で眠れないとき、私は自分の血の音に耳を傾ける。
仰向けでなく、
そうすると、聞こえるのだ。ザッザッ、という音。何かの足音のような。心拍に合わせて繰り返される、血流の音。
初め速かった拍動が、落ち着いてくるにつれてゆっくりになるのを聞いていると、私の思考もゆっくりになって、やがて止まり、眠りにつくことができた。
だが今晩、今の私の心臓は落ち着く兆しも見せず、したがって私も眠れずにいた。今日――いやもう昨日のことか。夕方に見たものが幾度も頭に浮かび、そのたび鼓動が跳ね上がるのだ。
夏の夕方は暑い。昼間よりは幾分マシだけれど。
冷房を効かせた部屋に篭るのに飽いた私は、アイス片手に外へ出た。
じゃりじゃりと、コンクリの上に散らかった砂をサンダルで踏みながら、私は近所の神社へ向かう。
別に昨日、そこで祭りがあったわけでもない。特段の用事があったわけでもなかった。普段から通る散歩のコース……というわけでもない。本当に本当の、『ただ何となく』。
夕陽の橙と、夜の紫がせめぎあっているのを見上げながら、神社の長い階段を上る。
以前に何度か来たときと同じく、境内は閑散としていた。
古く、ところどころ壊れたままのこの神社。狭いし、きっとこんなところで祭りなど行わないだろう。そもそも工業地帯にポツンとあるような神社だし。地元民もそれなりにはいるが、それにしたってここで祭りは、ない。
そんなことをぼぅやり考えながら、もう食べきったアイスの棒だけを噛んでうろついていると、いつの間にか空は暗くなっていた。紫は過ぎ、深い紺が空を覆っている。夏の空は夜でも青っぽく見えるのが不思議だ。
暗闇の中、安っぽいプラスチックのベンチのそばだけが、灯りで照らされていた。私はそこには行かず、幾らか距離をとって、ただ街灯を眺めていた。これも、『ただ何となく』。
強いて言うと、暗い中で一箇所だけ照らされている場所など、もし人目があれば注視されるだろう、という思いがあったせいか。私は、人に見られるのが好きではない。それは「もし」という話であっても同じことだ。
しばらくの間の後、こん、こん、という音で意識がはっきりした。灯りを眺めているうちにまた、ぼぅやりとしてしまったらしい。どれだけ立ち尽くしていたのだか、時間の感覚が分からなくなっていた。また、こんこんと叩くような音がして、今度は正体に気付く。街灯に大きな蛾のぶつかる音だった。
気温も随分
ザッ
砂利を踏む足音が聞こえた。私の立てた音ではない。私はまだ歩を進めていない。
ザッ
また聞こえる。一歩の間が妙に長い。それ以上は速く歩けない、というように。
ザッ
照らされたベンチに吸い寄せられるように、一人の女性が現れた。二十代か、いやもっと若いか? 私には判別がつかない。つかないが、ともかく女性の様子はただごとではなかった。
衣服は乱れ、身体は震え、口元を押さえて息を殺している。ベンチに腰を下ろすと震えた足の下で砂利が音を立てた。周りを見る余裕もないのか、少し離れた位置にいる私に気付いてはいないようだ。
はて、強姦でもされかけたかと、その時の私は思った。女性は結構な薄着であったし、またスタイルもよかった。顔は……恐れか怯えか、そんなような感情で歪み、さらには口元が手で隠れているために、よくは分からなかったが、可能性としてそんなことを考えた。
だが、違和感がある。辛うじて強姦から逃げのびた状況だとして、周りに注意を向けないのは何故か?
助けを求めるにせよ、犯人の追跡を警戒するにせよ、周りを見るのが普通だと私は思った。動転してそんなこともできなくなっているのか?
いや、むしろ彼女は、自分の体内に注意を傾けているように見えた。
そうすることが、どうしても必要であるかのように。
彼女が何らかの疾患を抱えていることを想定した。口元を押さえているのは吐き気をこらえているようにも見える。体内に集中するのも頷ける話だ。私もしばしば体調を悪くすることがあるので、気持ちは分かる。
これは声をかけて助けてやったほうがいいか、と思い、足を彼女に向けて踏み出そうとして――
ケホッ
女性が、軽く咳き込んだ。音からして、空咳きだと思った。
だが女性は、口から離した掌を見るや、驚愕に目をカッと見開き、口を大きく開け――はしなかった。いや、目を見開きはしたが、口は逆に閉じた。中のものを出しはすまい、という意志が感じられた。
ん? と私は気付く。口の端から黒いものが垂れている。まさか、血が?
違う。
黒いものは動いた。彼女の顔面を歩いた。そして耳の中へと消えていった。
あれは――
蟻だ。
途端、彼女の様子が豹変する。
露わになった肩から腕にかけて、黒くなっていくのが見えた。
彼女が身体をくの字に曲げ、顔を突き出し獣のように呻く。その顔も墨を塗ったように黒くなっていく。
やがて。
ゾロッ
口から鼻から耳の穴から、眼球の裏から頭皮から爪の間から、全身の黒が、噴出した。
蟻だった。体長は一cmにも満たないだろう蟻が、彼女の身体から無数に湧き出したのだ。
私は走った。走って逃げた。そうせざるを得なかった。
あの女性はよもや、生きてはいまい。ならば己が命を守ろうとするのは、自然な流れであるはずだ。
気がつけば私は、自分の家の玄関に立っていた。
足元にサンダルはなく、左足の薬指に爪がなかった。
それからノロノロと怪我の手当てをして、風呂に入り、飯を食おうとして吐き、その始末をして床につき、今に至るというわけだ。
変わらず、私は寝つけずにいた。
ザッザッザッ
私は私の身体の中に集中する。聞こえる血の音は、やはり速いままで。
ザッ
不意に、私は気がついてしまった。
彼女も、私と同じように、自分の中の音を聞いていたのではないか。
ただし、血の音ではなく、体内に蠢く蟻の足音を――
まさか、と思い私は手の甲を見た。
そこに、一cmもないような黒い影が一瞬見えて、また消えていった。
ある種の蟻は、女王でなくても子を産むという。
もしあの時、蟻が私の体内に入ったのだとしたら。
ザッザッ
なおも聞こえる血の音は、もはや眠りを妨げる異音でしかなかった。