まだ八つの娘に教えるにはわりに難しいことを女は話した。まだ八つのわりに、八つの癖に、達観しすぎというか、何をしていても不満げに構えるきらいがあったからだ。
春馬と呼ばれた娘は切れ長の瞳の奥をどろっと曇らせて女の眼をまっすぐ見つめた。あるいは“睨む”というニュアンスの方が近いかもしれない。いずれにしろ、親が見せたいつになく真剣な表情に対したじろぐ様子はまったくなかった。春馬はゆっくりと吟味するように母の至言を咀嚼して、そしてやがて口を開いた。
「なるほど。だから左翼の人たちは馬鹿なのね?」
○
十年後である。北海道は札幌である。
コンクリートはまだ雪に覆われている。ふー、と吐き出した息は白みを帯び、三分と外にいれば頬は赤らむ、年度を跨いでもまだまだ寒い北海道の春先である。
北海道大学の入学式から一週間が経っていた。十八になった
「だからよ、お前。人間、大事なのは好奇心とチャレンジ精神なワケですよ。ウジウジと自分の殻に籠ってばかりじゃ人生損しますよ?」
春馬は、いつものキモい口調でそう語る男に一瞥もくれてやることなく、スマートフォンの画面に目を落としていた。
「なるほど。だから右翼の人たちは馬鹿なのね?」
腰ほどまで届きそうな黒髪に、誰かれ構わず威嚇しそうな切れ長の瞳。すらりと長いおみ足をがさつに組んで、春馬はちろりと顔を上げた。
「なんだっけ。サークル見学の話? 興味ないよ、くだらない」
福富春馬は、わりになんでもできた。勉強もそこそこできたし、運動もそこそこできた。高すぎる鼻と鋭い目つきは人を選んだが、まあそこそこモテた。半端な全能感は春馬の人間形成の時期に多大な悪影響を与え、色々とこじらせたまま大学生になった。友人は必ずしも多いとは言い難い。むしろ一人もいないかもしれない。少なくとも、休日に遊びにいくような相手はちょっと思い浮かばない。だが春馬自身、決してこの状況を苦と捉えているわけではなく、むしろ人間関係によって膿まれる様々なしがらみから一線を画すことができるのは好都合だとすら考えていた。つまり、春馬は少し人とは違っていて、平たく言えば人格破綻の社会不適合者なのであった。
目前の男はまるで友人のような面をして勝手に学食を相席しているが、決して仲が良いわけではない。
「そんなこと言わないで~。行きましょうよ、ねえ」
大学生にもなって朝起きたままの不潔な天然パーマ、春馬に頭一つは足りない低身長、深刻なアトピー肌、人を下からじっと見上げるような卑屈な目つき。
葦弔憂忌は、わりと何もできなかった。小学校時代には体育のチーム分けで疎まれ、背も低く、ボロボロのアトピー肌は女子のみならず同性からも一歩退かれる一因となった。勉強が得意な訳でもない。しかし葦弔は人一倍の、うるさいくらいの積極性とコミュニケーション能力を持っていた。それはほとんどの人間からは「ウザい」と一蹴される類のものだったが、唯一、春馬だけは葦弔の話を聞いた。去る者追わず、来る者拒まずのスタンスが葦弔の立場にハマったのだ。こうして、春馬と葦弔は高校でも異端中の異端の存在として確立された。
しかし、いくら受験競争の呑気な北の大地とは言え、仮にも道内一である北大にまで葦弔がついて来るとは、春馬に相手をしてもらえたことが余程嬉しかったのだろう。葦弔が北大を受けると言った時、担任は三つ下のランクの大学を勧めた。それでも、と我を通し今年合格通知を突きつけた時、担任は目を潤ませて葦弔の手を取った。春馬は軽くドン引いた。
「今回僕がオススメしたいのは、やっぱり文芸部なんですけどね。お前も、『
「知らねえよ。気持ち悪い」
春馬は再びスマートフォンに視線を戻した。
とは言え、だ。春馬もその名前は聞いたことがあった。なにしろ北大に入学してからの一週間、一日三回はその名前を耳にしていた。地下鉄で傍の学生が話しているのを聞いたり、学食で近くのグループが口にしているのを耳にしたり、教授と学生が話しているところをたまたま目撃したりと、とにかく何度も聞いた。
「なんなの? 誰なの、それ」
さすがの春馬も少し興味が湧いていた。
「北大の、もはや伝説ですよ。文芸部員の『影文さん』は小説を書いているということが恥ずかしくて決して部室に顔を出したりはしないんだ。いつも、誰かを通して原稿が届けられるだけ。本名も顔も、誰も知らない。しかしその原稿はまさに珠玉の傑作! 部員が勝手に投稿した文学賞では大賞を受賞し、今では毎年本も出版されてる。誰も正体を知らないというミステリアスさも相まって、日本中にファンがいるのさ」
春馬はふーん、と興味無さげに相槌を打つのみに留まった。
「ていうか、北大に入ってくる奴の中でこのこと知らないのなんてお前だけじゃねえの。文芸部のチラシが一番需要ある大学なんて、日本中探してもここだけだろうな」
そう言うと、ほれっ、と一枚のチラシをテーブルに置いた。「文藝部」と大仰な書体で書かれたタイトルの下には六節からなる文章が綴られていた。
――影文さんは。
唯一の感性を以て
二本の
三日の猶予を与えれば
四の傑作をお寄せになる。
五つの影が姿を追う時、
彼は六人目として現れる。