Neetel Inside 文芸新都
表紙

いつかノクチルカが

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   ニ アリスになるまで

 晴れた日はベンチに腰掛けて昼食を摂ることにしている。
 すぐ目の前に広がる海岸と、遥か彼方の水平線を眺めながら談笑に耽る。仕事の合間の私の楽しみの一つだ。生憎軍港が近くにあるせいで景観にそぐわない軍艦があったりもするが、それを差し引いても、この職場近くにある公園は居心地の良い場所だ。
「それで貴方、分かりましたって別れることに同意したの?」
 同期の侑子は呆れた表情で言うと、眼鏡を指先で押し上げる。
「私だったら先輩みたいにはなれないなあ」
「実感が湧かないだけだよ」
 後輩の早苗は納得できません、と憮然としてサンドイッチを口にしている。私は言葉に困って首を傾げながら苦笑を浮かべると、珈琲を飲んで誤魔化すように顔を海の方に向ける。
 いつも昼食を買いに寄るショッピングモールと、軍艦、水平線。幼い頃からよく見る景色だ。すぐ側にある米軍基地のせいもあると思う。日本なのに、日本という感じがたまにしないこの風景が私は嫌いではない。かといって愛着があるかと言われると難しい。こんな辺境にいつまでもいたくないとも思うし、今更外の世界に飛び出す必要がある気もしない。
 結局のところ、どっちつかずなのだ。今回の彼にしたってそうだ。私は彼が好きだったというよりは、愛されているという実感に溺れていただけなのだと思う。だから、彼が浮気をしていて、別れを切りだされても、大丈夫だったのかもしれない。
 私は、貴方の恋人だったのだろうか。
 それが多分、実感の湧かない理由。
「侑子はさ、今の人と何年くらいだったっけ?」
 侑子は咥えていたパックジュースのストローから口を離すと、指折り数えて、五年ね、と言った。
「侑子先輩、長いですよね」
 別れる理由がこれといって無いだけよ、と彼女はウェーブのかかった髪を後ろに掻く。
「これだけ長いと、なんていうかもう腐れ縁みたいな感じで、とりあえずまあ続いてるなら続けようか、みたいな感覚になってくるのよね」
「普段恋人さんといる時も、穏やかなで仲良さそうですし、いいなあ」
「人前では気前よくしているだけ。二人っきりになったらしょっちゅう喧嘩してるわよ。まあ大体彼が拗ねて終わるんだけど」侑子は眼鏡の奥の目を細めて笑う。
「私もそういう人見つけたいですよ」
「逆にあんたは節操がなさ過ぎ。この間の彼、もう別れたの?」
「やっぱり合わないなって思っちゃって」
 そう言ってはにかむ早苗の額を侑子は軽く小突く。なにするんですかあ、と早苗がふにゃふにゃした声で侑子に訴えるが、彼女は気にせずもう一度小突く。
「すごくぴったりな人だって思ったんですよー、なんて言ってしょっちゅう惚気けられては別れられてみなさいよ。うんざりするに決まってるでしょう? 大体、早苗は第一印象で全てを決めすぎなの」
「まあまあ」
「まあまあ、じゃないのよ。大体貴方が一番変なのよ? 好きだったんでしょう? 何の問題も無かったのにフラレたんでしょう? なのになんでそんなにふわふわしてられるのよ。私だったらビンタの一発でもカマしてるわ」
「彼に?」
「両方に、よ」
 うわ、怖いと早苗は大袈裟に身を仰け反らせた。彼女の反応を横目にちらりと鋭い目をくれてやってから、私に向き直る。
「それで、彼から連絡は無いの?」
「全然」
「その新しい彼女の姿は見たことあるの?」
 首を振ると、侑子は溜息をついた。
「……まあ私も見たくないわね。もし浮気されて、例えばそれが私より全然な子だったら多分殺意湧くし」
「侑子さんより可愛かったら?」
 一言多いわね、と早苗に鋭い視線を向けながら、侑子は食べ終えたサンドイッチの包み紙をぐしゃり、と潰した。
「もっと殺意湧くわ」
 こわ、先輩こわっ。早苗の大げさな反応にやかましいとまた小突く。
 殺意、という言葉を聞いて、私は野崎の姿を思い出した。アパートの屋上にプレハブを建てて住み込む彼の姿。ノクチルカが見えたら住居を移すという不思議な生活を送っている彼から渡された一丁の拳銃は、とても重たくて、でも手に持てる重さで。
――人の命って、こんな掌に収まる重さなのかと、なんとなく思ったのだ。
「ねえ、もしもだけどさ」
 私の言葉に、じゃれついていた二人の視線が一気に向く。
「もしも、本当に人を殺せる手段が手元にあったとしたら、二人はどうする?」
 物騒な話しね、と侑子は腕組みをして背もたれにどっかりと寄りかかると、足を組む。
「つまりそれは、さっき私が言った殺意が、本当に実行出来るとしたらどうするかってことね?」
 私は頷く。私の顔を見てから、侑子は小さく唸る。
「そうね……。その恋人にどれだけ思い入れがあるかにも依ると思うわ」
「思い入れ?」
「人を殺すってことはさ、まあ現実的な話として罪が発生するじゃない。で、同時に罪とは別に一つの責任が発生すると思うの」
「責任って何ですかあ?」早苗が小首を傾げる。
「命よ」
「命?」私の言葉に侑子は頷く。「だって命を奪うわけでしょう? 奪うってことは手にするとも取れるじゃない? 手にしたものには必ず責任が発生する。だから、もし命を奪ったら、その責任を私が背負うことになる、と」
 そう、なのかな。私は釈然としない気持ちで呟くように答えたが、彼女は構わず指先で中の形を作ると、私の額にその銃口をあてる。
「だから、折角奪うなら、私は私が手にしたいと思う命しか取りたくない。くだらない命の責任なんて持ちたくないからね」
「侑子先輩、結構すごいこと言いますね」
「まあ例えばの話しだから。それに、そうそう殺意なんて湧くものじゃないしね。でも、逆に殺したくなるほど恋をするって、それはそれで幸せだとも思うけれど」
「私には出来ないなあ」
「あんたはマッチみたいな恋しか出来ないものね」
「どういう意味ですか」頬を膨らませる早苗に、侑子は笑って額にデコピンを一発。
「燃え上がるのも、燃え尽きるのも早いってことよ」
 先輩ひどーい。冗談よ冗談。
 愉しげな二人の姿を眺めながら、私はさっき彼女が指で作った銃を自分でも作ってみた。人差し指が銃身から銃口。握った中指、薬指、小指がグリップ。親指が撃鉄。
 その銃口を誰に向けるかを決めなくちゃいけない。
――私をフッた恋人に?
 今私の中で銃口を向ける相手といえば、それくらいしかいないし、侑子や早苗にだって多分殺意を向けるなら彼だと言われるに違いない。殺すかどうかは別として、私は明らかに酷いフラれかたをしたのだから。
 三年、だろうか。同棲をした期間も含めると。
 それくらい一緒にいたのに、どうして私はこんなに何も感じないのだろう。
 もしかして彼は、私の中の彼に対する想いをも綺麗に取り除いて出て行ってしまったのかもしれない。コルクボードの写真すら剥がしていったように、ピンをすっと引き抜いて……。
「多分、あの人に恋をした人は、いつもこんな風になるのかもしれない」
 ぽつり、と口にした言葉に、二人はそういうものかしら、と眉を顰める
「しょっちゅう別れてる私でも、やっぱりフッたにしろフラれたにしろその日は沢山泣きますよ」
「着火から鎮火まで盛大だからね」
「からかわないでくださいよお」
「別れる度に愚痴聞かされる身からしたら、これくらい言ってもバチは当たらないわ」
「せんぱあい」
「はいはいごめんごめん」
 胸元に擦り寄る早苗の頭を撫でながら侑子は呆れた顔を浮かべる。
 しっかり者でサバサバした侑子と、お調子者でほわほわした早苗。多分真逆だからこそ、この二人はうまく噛み合うのだろう。互いに無いものそうやって補っているに違いない。
 私も私で、私に無いものを二人から補ってもらっているのだと思う。
「あまり、考え過ぎないようにしなさいね」
 侑子の言葉に首を傾げると、侑子は私の胸を人差し指で指し示した。
「貴方のそれは、多分何も感じていないわけじゃないから」
「でも、特に泣きたくも怒りたくも無いし……」
「そういうのが一番面倒なの。いざ本心を見つけた時、多分今までで一番苦しむに違いないわよ」
 私からの忠告、と彼女は言うと腕時計を見る。もう時間ね、と侑子は立ち上がり、珈琲を飲み干すと向かいに設置されたゴミ箱にサンドイッチの包み紙と一緒に放り込んだ。早苗も席を立ってゴミをまとめると、ぺろりと下唇を舐め、片目を閉じてよくゴミ箱を狙い、丸めた紙を投げた。
 紙は横薙ぎの風に煽られ、ゴミ箱とはかけ離れた方向へ飛んで行ってしまう。拾って来なさい、と言われ、早苗ははあい、とふわふわ返事をすると、ボールを投げてもらった子犬のように駆け出して紙ゴミを追っていった。
「……もし、なんか思うところがあったら、すぐに言いなさいよ」
「侑子?」
 侑子は駆けて行く早苗の方を見たまま、一応付き合いは長いんだから、と呟くようにして言った。ほんの少しだけ赤らんでいる頬を見て、照れていることがすぐに分かった。
 私はベンチから腰を上げ、彼女の傍に行くと、早苗の方に目を向けた。丁度紙ゴミを回収したところで、早苗は取れましたよーと嬉しそうに手を振っている。私は手を振り返しながら、ありがとうね、と隣に囁いた。
 大したことじゃないわ、と侑子は凛とした表情のまま答えたが、その横顔は、いつもより少しだけ、嬉しそうに見えた。

   ・

 帰宅すると、部屋の扉の前に野崎が紙袋を抱えて立っていた。
 彼は私の姿を見ると歯を見せて笑い、袋の中からワインボトルを取り出す。私は肩を竦めてから頷くと、鍵を開けて彼を部屋に上げる。
「丁度お酒が飲みたい気分になってね。つまみも幾つか買ってきたんだけど買いすぎちゃって。折角なら君も一緒にと思って待っていたんだ」
「部屋の前で待ってる必要はないんじゃないの?」
 屋上から私の部屋を見下ろせば明かりで帰宅したかどうかなんてすぐに分かる筈だし、何より男に扉の前で待たれるのは少し嫌だ。彼のほうはなんとも思わないだろうけど、変な噂が立ったら私が困る。
「適当に準備していて。私はシャワーついでに着替えてくるから」
 彼にそう言ってから着替えを持って脱衣所に向かう。何故彼の為に私の方が配慮しなくちゃいけないんだろう、とも思ったが、多分彼は私が突然着替えだしても別段普段通りでいるに違いない。もしかしたら、意外と慌ててくれるかもしれないが、恐らく前者だろう。
 気にされないのは、気にされないで、気分が良くない。
 衣服を脱いで、脱衣所から浴室に入った。床がまだ冷たい。私はシャワーノズルを手にすると蛇口を捻った。冷たい水からやがて熱湯へ。湯気を沢山吐き出すようになったところで私はノズルを壁に掛け、シャワーを全身に浴びる。
 別に至って変わりのない日常だったし、仕事も普段通りだった。なのになんだかここ最近酷く疲れている。全身が凝固したみたいに固くて、すぐに手足の指先が冷え切ってしまう。シャワーを浴びて特に凝り固まった部分を揉みほぐしながら、私は今日の昼食時の会話を思い出す。
「奪うに値するかどうか、か……」
 ぽつりと口にした言葉は床を打つシャワーの湯の音に掻き消され、熱湯と一緒に排水口へと流れて消える。
 引き出しにしまってある銃に触れておきたいな、と私はなんとなく思った。


 浴室から出ると、支度は既に済んでいた。チーズと薄く切られたパンに、パテやサラダと肉料理、そして似合わないエプロン姿の野崎。
「随分と手の込んだつまみね」
「昔仕込んでもらったんだ」
 仕込んでもらった、というのはどういうことだろう。
 彼がどこでどういう仕事をしているか知らない私からしたら興味を惹くところであったが、彼は恐らく適当に誤魔化すに決っているから、私は何も言わず髪を拭っていたタオルを脱衣所に投げ込むと、椅子に座った。
 野崎は二つのグラスにワインを注いでから向かいの椅子に座った。
「小洒落てる飲み会ね」
「和風が良かった?」
 そっちが良かったと言えば、きっと彼はすぐにそうしてくれるのだろう。だがどちらかと言えばこういう方が私は好きだったから、彼の言葉に首を振って答えた。
「こっちのほうが好き」
 良かった、と野崎はにっこり笑うと、グラスを手に取る。透明なグラスの中で赤い液体が揺れている。私もグラスを手に取ると、彼の差し出したグラスに近づける。
「何にもなかった日に乾杯」
「なにそれ」
「不思議の国のアリス」
 そんなの見るんだ、と私は意外そうに言うと、大好きだよ、と彼ははにかんだ。
「原作も好きだしアニメ映画の方も好きだね。時々、あんな風に不思議な世界へ迷い込めたらどんなにいいだろうって思うことがあるよ」
「貴方がアリスに?」
「そう、僕がアリスにね」
 私はくすくす笑う。
「じゃあドレスを着られるようにならないとね。エプロンもちゃんと似合うものを選ばないと」
「服装とかじゃないよ。あと、エプロンはどうしたって似合わないからもう諦めてる」
「からかっただけよ。そんなにムキにならないで」
 野崎は顔を顰めている。意外とからかわれるのは好きではないらしい。彼の意外な一面を見れたことで少し気分が良くなった。彼が食事を始めたので、私も続いて食べ始める。
 不思議と、彼との会話は弾んだ。彼は聞き上手で、話し上手だ。私は普段侑子や早苗の話を聞いている方で、会話も積極的では無いのだが、野崎と会話している時だけは自分でも驚くほど言葉が次から次へと出る。
 話が弾めば弾むだけ、その分お酒も進んだ。彼の持ってきたお酒はとても美味しかった。銘柄にも値段にも拘らないで適当に気になったのを持ってきているだけ、と彼は言っていたが、多分彼は料理と同様に仕込まれているのだろう。そういうのを探すのもうまいのだ。
 顔が熱い。視界がふわりふわりと揺れる。頭の上から少し抜けだした私が私の後頭部を見ているような、そんな浮遊感があって、とても心地が良い。
「――その侑子さんの考え方、僕は好きだよ」
 昼間の出来事を告げると彼はそう言った。多分野崎はそう答える気がしていたから、別段不思議とも思わなかった。
「それで、君は侑子さんや早苗さんに問いかけた殺意を実行に移せる物を持っているわけだけど、どうしようって思った?」
 問われて、私は俯いてしまう。
「……正直まだ、分からない。でも、貴方があの銃を私に渡したってことは、少なくとも誰かの命に責任を持てって、言ってるのかなと思った」
 奪うなら、奪うに値する、責任の持てる命を。
「侑子の言葉の通りにするなら、私は誰の命を奪うべきなのかな。貴方は、答えを知っているんじゃないの?」
 そう問う私に、野崎は首を振る。
「僕は撃つ必要があるかもしれない人にそれを渡しているだけだ。その銃口が、どこに向かうのかまでは分からない。場合によっては渡しても、撃たないままに終わる人もいるから」
 でも、一つだけ必ず皆考えることがある、と野崎は続ける。
「誰に向けるかより、誰を撃ちたいかで意外と迷うんだ。いざ本当に命を奪えるとなると、自分の抱いていた殺意が本当に殺意なのか分からなくなってしまう。そして、考えている合間に期限が来てしまう」
「ノクチルカを、見るまでという期間が」
 私の言葉に野崎は頷いた。
「君も同じだ。僕は答えを知らない。選択をするのは、やっぱり君だよ」
 言われて、私は自分のグラスに目を落とす。底に少しだけ残ったワインの鮮やかな赤は、部屋の光に照らされてキラキラと輝いている。夜光虫の光は、青だっただろうか。こんな些細な光よりもずっと広く輝くのだろう。
「恋人に、一度会ってみるのも良いんじゃないかな」
 野崎の言葉に、私は顔を上げた。いつもの穏やかで、からかうような表情ではなく、じっと私を観察するような、見極めるような、真剣な眼差しだった。
「侑子さんや早苗さんに話した。それはつまり、君は今一人では選択出来ない状態にあるわけだ。心の中がどうなっているかも分からず、途方に暮れている。凝り固まった想いを溶かす為に、刺激が必要なのかもしれない」
 それに、と野崎はそこでやっといつもの笑みを浮かべる。
「もしもの時は、君の友人を頼れば良い。きっと彼女は君を助けてくれる人だから。あとは僕だってこうして君とお酒を飲んで談笑することくらいなら出来る」
 だから、行っておいで。
 私は、ずっと見つめていたグラスを手に取る。底に小指の先くらいの量の残ったワインを暫く見つめ、やがて一息に飲み干した。渋みと、その先にある芳醇な香りが口いっぱいに広がって、すとん、と身体の奥底へと流れ落ちていった。
 私は席を立つと、玄関に転がしたままだった鞄から携帯電話を取り出す。起動してみると侑子や早苗からのラインや、些細なメールマガジン、上司からの仕事のメールや、同期からの食事の誘いと、色々な連絡が来ていた。
 私はそれらを全て後回しにして、電話帳を起動した。
 名前と、電話番号と、メールアドレス。そして、私と彼の二人が映る写真。
 心の中すら拭い去っていった彼が、唯一知らなかったものがあるとすれば、これだろう。なんだか久しぶりに見る彼の写真を暫く眺めた後、私は電話番号に指先をあてた。
 発信音が鳴る。ワンコール、ツーコール、スリーコール……。
 鳴り続ける携帯を耳に充てながら、振り返って野崎を見ると、彼は私を眺めながら時々グラスを傾けていた。まるで、私が酒の肴にされているような気がして一言言おうとしたが、その訴えは訴える前に頭から消えてなくなった。

――もしもし。

 久しぶりの彼の声を聞いた瞬間、私の胸がとくんと高鳴るのが、はっきりと分かった。


       

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Neetsha