Neetel Inside ニートノベル
表紙

三人が来る
プロローグ

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 それは二兆と六万五千回目の試行だった。
 天空から落とされた一枚の花弁が丁度人間の死体の上に着地する確率はどれくらいだろうか?
 その花弁のようなものは天空から舞い落ちてきた。
 しかしそれは天空よりもずっと遠いところから来たのだ。
 花弁は白い布地の上に着地した。セーラー服の少女の背中だった。うつ伏せに倒れている彼女の頭からは、殻からはみ出した貝のように脳が零れだしていた。辺りには血と脳漿が飛び散っている。傍らには高校の校舎がそびえたっていて、夜の闇の中でそれは大きな影に見えた。
 少女の飛び散った脳の欠片の一つが、ぴくぴくと震えだした。やがてナメクジのように自分の入っていた頭蓋に向かって這いずり始めた。すると他の欠片も震えだして、一斉に頭蓋の中を目指して動き出した。小さなナメクジたちが頭から零れ出た塊まで辿り着くと、それは一匹の大きなナメクジのようになって頭蓋の中に這いずり込んだ。地面に広がった血の染みも録画の巻き戻しのように収束して、少女が目を開けて立ち上がった時には、地面にほんの微かな血の染みが一点残るばかりだった。
 少女は辺りを見回した。夜風に長い黒髪が揺れた。低い鼻がすんと鳴って夜露の匂いを嗅ぐ。やがて少女は歩きだした。

「こんな時間までどこに行っていたの?」
 少女が家に帰ると靴も脱がないうちから母親の和子がやってきて言った。その言葉は少女を咎めてはいたが、少女に対する心配と安堵の色が隠しきれず滲み出ていた。
「いいじゃないか母さん、キミコも子どもじゃないんだ。でも今度から連絡だけは入れるんだぞ、キミコ」
 玄関から丁度突き当りにあるダイニングから父親の大輔の声がした。
「ごはんは食べたの? まだならお父さんと一緒に食べちゃいなさい」
 促されるままキミコがダイニングに行くと、テーブルについて夕飯を食べている大輔と目が合った。眼鏡をかけた痩せ型の彼は、人を安心させる温かい笑顔を浮かべていた。キミコも微笑み返した。
 キミコがテーブルにつくと、その前に和子がすぐ食事を並べた。湯気を立てるクリームシチューの中に、緑色のほうれん草とオレンジ色のにんじんが浮かんでる。
「キミコが遅いから、お母さん先に一人で食べちゃったわ」
 と言いながら和子もテーブルについた。
「母さん、おかわりいいかな」
 大輔が茶碗を差し出して、座ったばかりのキミコは文句を言いつつ立ち上がったが、その顔は微笑んでいた。
「食べないのか? キミコ。今日のシチューはいつも通り絶品だぞ」
「まあ、見え透いたことを言って」
 和子が茶碗を大輔に渡す。キミコはスプーンでシチューを口に運んだ。


 夕飯が済むとキミコは風呂に入り、すぐにベットに横になった。
 寝言も鼾もなく、寝返りもうたない。まるで死体のようにただ横たわっていた。
 夜も深まり、誰もが寝静まる時間になった。音はなくしんとしている。
 キミコは数時間前から寸分も動かないままベットの上にいたが、ふとキミコの部屋のドアノブが微かな音を立て、ドアがゆっくりと開いた。真っ暗な部屋にドアの隙間から灯りが挿し込む。その光が床に黒い影を映した。大輔が立っている。
 彼はそっとドアを閉じるとベットに近付いて、おもむろにその中に潜り込んだ。手を伸ばしてキミコの体を背中から抱きしめる。彼はキミコの耳元で囁いた。
「今日は本当に、どこに行っていたんだい? キミコ。もしかして、彼氏でもできたのかい?」
 キミコのパジャマのボタンが一つずつ外されていく。
「もしもキミコにお父さん以外の彼氏ができたなら、お父さんはすごく悲しいなぁ」
 ひどく甘ったるい声。慣れた手つきで指先がキミコを愛撫し始める。
「キミコ、ああ、キミコ。優しいキミコ、可愛いキミコ、キミコはずっとお父さんのものだ」
 しばらく愛撫を続けた後、大輔はキミコの中に侵入した。後背位から始まった結合はやがて向きを変えて正常位になり、汗ばんだ大輔の体から蒸れた熱気が立上った。キミコは一声も発さず動きもしなかったが、彼は気にしなかった。それはいつものことだからだ。キミコは恥かしがり屋だから、と彼は信じている。ただ今日は、いつもに増して声が少ないかもしれない。
 それまでぐったりとしていたキミコが、突然大輔の両頬を手の平で包んだ。キミコが彼を見つめて微笑んでいる。
「お父さんは気持ち良いのが大好きなのね」

 深い眠りの中にいた和子は、大きな悲鳴に目を覚ました。何度も何度も繰り返される悲鳴が確かに家の中で響いている。彼女はすぐに、ついに恐ろしいことが起こってしまったのだと悟った。隣に眠っているはずの夫はいない。彼女は夫が毎晩、娘の部屋に行っていることを知っていた。ただ今の生活が壊れることを恐れて、それを黙認していたのである。
 悲鳴は娘の部屋の方から聞こえている。その声は男のものと思われた。夫が娘の部屋で悲鳴を上げているのだ。しかしその悲鳴は異常だった。何度も何度も、執拗に繰り返されるのだ。仮にキミコが過剰な反撃をしたとしても、夫がこんな悲鳴を上げるだろうか。
 和子は強烈な恐怖を感じたが、今まで目を逸らし続けていたことから、ついに逃げられなくなったのだというある種の責任感が彼女を支えた。とにかく娘の部屋へ行かねばならない。寝室を出て短い廊下を挟んだはす向かいが娘の部屋である。和子が廊下に出ると、悲鳴は一層はっきりと聞こえた。彼女はその悲鳴が、一種の嬌声のように艶を含んでいることに気付いた。
 彼女は娘の部屋のドアノブをゆっくりと下ろして微かにドアを開けた。娘の背中が見えた。何事もないように立っているので、和子はわずかに安堵した。しかし夫の悲鳴は続いている。和子がドアをさらに開く前にキミコの呟き声が聞こえた。
 ――何をしたのよ?
 ――ちょっと性的な嗜好をいじっただけさ。
 ――はは、この男、もう夢中だな。
 いつもの娘とはまるで違う口調だった。しかも一人で話しているのに、まるで数人で話しているように言葉の度に口調が変わった。それがひどく和子をゾッとさせた。震えた手が図らずもドアを押して、ゆっくりと部屋の全景が現れた。
 和子は叫び声を上げようとして、あまりの驚愕に喉を詰まらせた。
 立っている娘の向こうにあるベットの上には裸の夫がいて、裁ちばさみを自分の腹に何度も突き刺していた。両手で掴んだ裁ちばさみを高く振り上げ、自分の腹部へ振り下ろす。はさみが根元まで突き刺さる度、夫は嬌声を上げ、引き抜いてはまた突き刺す。血が白いベッドを赤く濡らし、引き抜く勢いで千切れた肉片が散乱する。一際深々と突き刺さったはさみを引き抜くと刃に挟まった臓物がねじけたホースのようにずるりと引きずり出た。夫の顔が恍惚に染まる。血まみれの腰が堪えきれない様子でくねっている。臓物の絡まるのも気にせずに彼はなおもはさみを突き立て続けた。
 キミコが振り向く。異常な状況とそこで平然としている娘に対して、和子は純粋に恐怖を感じて後ずさりした。キミコが微笑む。和子には目の前にいる娘が、今朝までとははっきり別人だと感じられた。キミコが一歩近付くと、和子は本能的に逃げ出した。一階の玄関に向かって階段を降りようとして、足をもつれさせた。そのまま転げ落ちる。階下まで落ちて身を起こした時、和子の意識は一瞬自分が何をするべきか忘却した。それから今何が自分に起きたのか思い出そうとした。階段から落ちたのだと思った。しかし、本当だろうか? 今自分が本当に階段から転げ落ちたのか確かめねばならない。そう思って和子は階段を一番上まで上ると、もう一度転げ落ちてみた。途中で口を段の角にぶつけて前歯が折れた。痛みと血の味が口の中に広がったが、それよりも自分が階段を落ちた、という感覚が信じられず、それを確認しようという意識が強かった。彼女はもう一度上って、再び転げ落ちた。額が割れて血が流れ出した。彼女は首を捻りながらまた階段を昇り、また同じことを繰り返した。七回か八回目で段の角に当たって右目がつぶれた。それでも納得できないらしく彼女はいつまでもそれを繰り返すのだった。それを愉快そうにキミコは眺めていた。背後の部屋の中では、さすがに動きが鈍くなり悲鳴が呻きに変わったものの、まだ彼女の父親が腹部を刺し続けている。
 ――あははっ! あはははっ! あははははっはははっははははははははははははっはははははははははははははははははははっはははははっは……飽きちゃった。寝ましょう。
 ――ずいぶんうるさいが、明日の朝には静かになっているだろう。
 ――明日から忙しくなるぞ。

       

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