「キミコ、体操着が汚れてるんじゃないの?」
二時限目の体育を前にして、サユリが言った。サユリはキミコの机に掛かっている体操着袋を手に取った。
「洗ってあげる」
サユリはそのまま女子トイレに向かうと、キミコの目の前で和式便器の中に体操着袋を落とし洗浄レバーを踏みつけた。袋は便器の口に詰まり、せき止められた水と空気が騒がしい音を立てた。そのまま行き場を無くした水は便器に溜まり体操着をじっとりと濡らした。
笑いながらサユリはトイレを後にした。しかしトイレの扉が閉まるとその顔はすぐに歪んだ。通り過ぎる時横目で見たキミコの表情がまるで応えていなかったせいである。いつもなら涙を堪えた馬鹿面を晒しているのに、今日は微かに笑っているようにさえ見えた。
どすどすと足を踏み鳴らしながら教室に戻ると、サユリは手早く着替えて玄関に向かった。着替えている途中で戻ってきたキミコにサユリは嘲笑の表情を浮かべて見せたが、キミコは見向きもしなかった。
キミコの前では余裕を演じていたが、サユリの内心は波立っていた。キミコの態度は彼女を苛立たせるのに十分だったし、ネズミを踏みつけたキミコに少なからず狼狽えさせられたことは彼女の自尊心を確かに傷付けていた。下駄箱につくとサユリはキミコの運動靴の中にバラバラと画鋲を入れ、何食わぬ顔で外に出た。多くの生徒は下駄箱に通学用のローファーと体育用の運動靴を両方入れていた。サユリはキミコのローファーの内側がべっとりと赤黒く汚れていることには気が付かなかった。
キミコが校庭に来たのは授業開始の直前だった。濡れたままの体操着を着ているのは見てわかったが、靴の画鋲をどうしたかはわからなかった。どうしたにせよ、サユリに対して何の反応も示さないのが不愉快だった。授業の途中で教師がキミコの体操着の異常に気付いたが、キミコは淀みなく言い訳した。サユリのことは言わなかったが、仕返しを怖れているような様子は微塵もなかった。サユリは強烈に腹が立った。
授業が終わるとサユリは足早に下駄箱へ向かった。キミコが来る前に上履きを処分してやろうと思った。このタイミングでは誰かに見られるかもしれないが、どうせ誰も何も言わないだろう。サユリはキミコに何かする時は建前上人目を避けたが、実際周りは皆黙認していた。
キミコの下駄箱を前にして、サユリは一瞬躊躇した。上履きは内側が真っ赤に染まり、荒い生地に肉片が刷り込まれている。ネズミの入っていた右側だけでなく、左側も赤く汚れていた。サユリが注意深く下駄箱を観察したなら、ローファーも同様に汚れていると気が付いただろう。しかしサユリには、キミコが左足でもネズミを踏みつけたとしか考えられなかった。
わざわざそんなことをするキミコを思うとひどくおぞましかった。しかし怒りが思考を断ち切った。もし自分がキミコに怖れでも抱こうものなら、それこそおぞましいことだ。
ネズミの死骸はそれと分からないほどぐちゃぐちゃになっていたが、土踏まずの辺りには大きな残骸があって、赤く染まっていてもその毛羽立った皮が見て取れた。生地に刷り込まれてぐずぐずになった肉にはいくつかの色があって、それが筋肉だったのか内臓だったのか、元々の部位によって色が違うのだった。細かくなった骨は布地のあちらこちらに突き刺さるようにめり込んでいる。上履きからはみ出ていた尻尾と足は周りになかった。歩いている内にどこかに落ちたのだろう。
サユリは上履きをあまり見ないようにしながら手に取ると、再び玄関を出て観察用の人工池に走った。校舎脇の日当たりの悪い場所にある人工池にわざわざ訪れる生徒はほとんどいない。池の中には灰色の鯉が数匹暮していて、落ち葉でも何でも水面に落ちようものなら餌と勘違いして群がり、汚れた水を透かしてその陰鬱な姿を見せるのだった。
池は生臭い匂いがして、近くにいるだけで不快だった。サユリは手に持ったおぞましい上履きを池の真ん中あたりに放った。音を立てて水が撥ねた。すぐに群がる鯉の影が見えた。上履きから剥がれたネズミの破片を貪るのだろう。サユリはあまり想像しないようにして、池を後にしようと振り返った。
キミコが立っていた。
思わずたじろいだ次の瞬間、脳みそがぐるりと引っ繰り返ったような吐き気がサユリを襲った。堪える暇もなくサユリは振り向いて池の中に嘔吐した。ほとんど消化された朝食が口から溢れ出し、音を立てて池に落ちていく。あまりに突然の出来事で、サユリは吐いてからその吐き気を自覚した。
いつの間にかキミコが隣に立っていた。キミコは微笑んで言った。
「一緒に保健室行こうか」
サユリの吐瀉物に鯉達が慌ただしく群がっていた。