残った画鋲を抜くと、キミコの手の平に二個の画鋲が転がった。
キミコの足元にはサユリが左手を抱えてうずくまっている。キミコは池の淵から腰を上げると、震えるサユリの肩を叩いた。
サユリはびくりと一度体を硬直させ、恐る恐る顔を上げた。途端に視界が真っ暗になった。眼球に圧力がかかるのを感じ、一瞬遅れて激痛が訪れた。体の底から喉を震わせて声が飛び出した。目から液体が溢れだすのがわかったが、それが涙なのか他の体液なのかはわからなかった。反射的に閉じた瞼の裏の皮膚がゴリゴリとこすれて画鋲の背の感触を伝えた。
絶叫してのたうつサユリの口をキミコの足が踏みつけた。生乾きの湿り気と砂利の感触。生臭い匂いがし、足の裏から口内に零れ落ちた砂利は鉄の味がした。
「黙れ」
キミコが言った。しかし顔を踏まれたのを感じて一層サユリはパニックに陥った。
「黙れ」
キミコの足に体重が乗った。キミコの声色が変化していたが、サユリはそれに気付く余裕もなく、暗闇の中で怯えきっている。
「黙れよ」
ばきっと折れる音をサユリは確かに聞いた。口の中に濃い鉄の味がばっと広がった。舌先に固い破片が触れ、そのまま奥に転がった破片が喉に引っかかってサユリは思いきり咽込んだ。口から赤く染まった唾液と尖った歯が飛び出し、サユリの悲鳴は中断した。そして口にかかり続けている圧力への恐怖がその再開を阻んだ。
サユリが叫ばないことを確認するようにしばらく間を置いて、足がどいた。叫ぶ気力をもはやサユリは持たなかった。むしろ激しい恐怖と痛みのために図らずも漏れてしまう微かな呻き声が、キミコを刺激しないかを気にした。どうか声よ止まってくださいと祈りながらサユリは暗闇の中で震えた。
突然手を取られて、サユリはびくりとした。手を引かれ立つように誘導される。素直に誘導に従って、サユリは二三歩進み池の淵に腰を下ろした。
「すまなかった。どうにも手荒でね」
キミコが言った。口調の変化に今度はサユリも気付いた。
「どうか落ち着いてほしい。ガムでも噛むかい? ガムを噛むと心拍数が抑制されて気が落ち着くのさ。あいにくガムはないが、代わりになりそうなものがある」
キミコの態度の変化の意図がサユリには理解できなかった。口に何かを押し当てられる感触があり、唇の隙間からそれが口の中に入った。それは明らかにガムではなかった。
サユリの舌はいくつかの感触を味わった。ミミズのように細長いもの、ごわごわとした毛、そしておそらく、小さく硬い、尖った爪。サユリはそれが何かすぐ理解した。
「さ、存分に噛みたまえ」
サユリが吐き戻そうとした瞬間、サユリの頭は池の中に押し込まれた。サユリにもしも余裕があったなら、キミコの独り言が聞こえたかもしれない。
――割り込まないでくれ。
――先に割り込んだのはそっちだろ。
――君は暴力的過ぎさ。彼女も今落ち着くところだったのに。
――はっ。
――何でも良いけど、もうこの娘、飽きちゃったわ
――最後は俺にやらせろよ。良いだろ?
――お好きに。
しかしサユリには余裕などまるでなかった。吐き出した分だけ口の中に濁った池の水が流入し、思わずサユリは飲み込んだ。唐突に呼吸を禁じられたことがサユリを混乱させ焦らせた。手足をむちゃくちゃに振り回すが頭を沈めるキミコの手は緩まない。そしてサユリに襲い掛かった問題は呼吸だけではなかった。
顔のすぐそばで何かが動くのをサユリは感じた。そしてサユリの唇にペンチで挟みつぶされたような痛みが走った。水の中で叫び声を上げサユリは再び水を飲み込んだ。いくつもの口がついばむように自分の顔をつついているのがわかった。あれだけ餌を撒いたのだ。開け閉めを繰り返す口々が、時折サユリの肉を上手く加えることに成功して、そのまま挟みつぶした。
サユリが気を失う寸前で、キミコの手がサユリの頭を引き上げた。
水を吐き出して咳き込むサユリの顔は惨憺たるあり様だった。ぐしょぐしょに濡れた髪は乱れてゴミが絡みついていた。唇は全体が紫色だったが所々が欠けて、口から吐き出される体液と一緒になって、涎とも吐瀉物ともつかない赤黒い汁を垂らしていた。唇だけでなく精気を失った顔は所々が欠けており、右瞼が欠けているせいで目を閉じていても鈍く光る画鋲の背が露出していた。
サユリはもうほとんど何も考えられなかった。それは痛みと恐怖から逃れるための防衛本能のせいでもあったかもしれないが、頭が朦朧とし、思考は鈍重だった。そんな状態にあったサユリが、自分の顔になお違和感を感じた。
最初は顔がひどく浮腫んでいるような感覚だった。しかしそれはすぐ「浮腫んでいる」という言葉では言い表せなくなり、端的に言って、顔がどんどん「膨らんでいる」のだった。強烈な吐き気と耳鳴りがサユリを襲ったが、しかしそれに耐えるまでもなく、サユリの頭は弾け飛んだ。
サユリの頭は骨も肉も細切れになって、放射状に飛び散ったのである。
――ストップ!
しかしその破片は地面に落下することはなく、弾け飛んだ状態のまま空中に停止した。脳漿も、頭蓋も、眼球も、停止ボタンを押した録画映像のように、弾け飛ぶ勢いをその姿に残したまま、ぴたりと止まっていた。
――邪魔するなよ。もう飽きたんだろ?
――今の面白かった。もっかい見たい。
――はっ。
――何、研究熱心なのは良いことさ。
――今直すから、もっかいやってよ。
空中に浮いていた破片はゆるゆると震え出し、巻き戻るように放射の起点に集合を始め、サユリの頭を再現した。
サユリは突然目が覚めたような気分だった。いきなり途切れた意識が、またいきなり復活したのである。自分に何が起きているかまるでわからなかった。しかし、彼女が今理解すべきことはたった一つだったし、すぐ彼女もそれを悟った。
つまりもう一度、同じ苦痛を味合わねばならぬということだった。
「今度はゆっくりやってよ」
「うるせぇな」
まるで二人で会話しているようなキミコの独り言が聞こえた。そしてまた、顔が浮腫み始めるのがわかった。言葉通り、今度はゆっくりと進行した。
顔の膨らみが一定を超えると、激しい頭痛と吐き気、耳鳴りが始まった。先程はすぐに終わったそれに、サユリはじっくりと耐えねばならない。サユリは呻き声を上げたが、やがて顔面の皮膚が張り詰めると、口を動かすこともできなくなり、ただ喉の奥だけを震わせて、声とも言えぬ悲鳴を弱々しく上げるしかなかった。骨が軋み、筋肉が伸び切っていく。限界を超えた皮膚に裂傷が生じ赤い肉が露わになると、またその肉がみちみちと音を立てて断裂していく。細かい繊維から切れ始め、毛細血管はもちろん、太い血管も裂け、体まで赤く染めていく。サユリの体ががくがくと痙攣し、池の淵のサユリが座っている部分に水分が滲んで跡を付けた。微かに異臭も漂い出したが、池の生臭さの中では目立たなかった。
そしてエキスパンダーのように緊張した筋肉が、ついに限界を迎えた。
解放された力が放射状に肉を撒き散らす。サユリの周りに多量の肉片が落下し、池にも音を立てて沈んだ。その後、サユリの体が傾き、大きな飛沫を上げて池の中に飲み込まれた。
キミコがため息をついた。
「もっかい見たら大したことなかったわ」
キミコは玄関に向かって歩き始めた。校舎の側面を辿り角を曲がった時、キミコは一人の女生徒と鉢合わせた。
髪の長いその女生徒の目には、はっきりとキミコへの怒りが現れていた。女生徒が言った。
「あなた、どうして生きてるの?」