カオリは胸の騒めきを抑えることができなかった。
「キミコが生きていればね」
ノゾミの言葉がやけに気になった。ちょっとした冗談かもしれない。しかし、何か恐ろしいことが起こるのではないかという予感が湧いて出て、不思議と拭い去ることができなかった。
カオリは座っていられなくなって、教室を出てキミコの教室に向かったであろうノゾミの後を追った。しかし廊下にはすでにノゾミの姿はない。キミコの教室を覗いても、三人とも見当たらなかった。傍にいた生徒に尋ねると、答える顔が歪んでいた。カオリは気に掛けない素振りで池に急いだ。
キミコのクラスの生徒は皆、キミコの話を嫌がる。しかし今の生徒の表情にはより独特の感情が含まれているとカオリは見て取っていた。それはカオリに対する嫌悪と非難、そして非難して然るべき相手を前にしたある種の優越感だとカオリには思えた。
彼等はカオリが卑劣な裏切り者であることを知っている。そしてサユリと違って、見下しても噛みつかない臆病者であることも。カオリは歯を噛み締める。
「どこ行くんだ、もう授業始まるぞ」
階段の直前で女教師とばったり出くわして、カオリは少しどきりとした。国語教師のヤマベだった。文系の教師であるのに体育教師のような短髪で、はっきり開いた目や少し大きめの口が、見るからにその快活な性質を表している。カオリが一瞬硬直したのは、昨日、キミコとヤマベの間にあったことを知っているからだった。
「すいません、気分が悪くて、保健室に」
カオリは咄嗟に出まかせを言った。ベタだが悪くない言い訳だった。ヤマベはまるで疑うことなくカオリの体調を案じた。心配性で、おせっかいな人間なのだ。カオリはヤマベのそういうところを煩わしく思っていたが、他の生徒の間では人気があった。
「そう言えば、カシマと仲良かったよな」
不意にヤマベが言った。キミコの苗字だった。カオリは胸の奥を刺されたような苦しさを感じたが表に出さず肯定の返事をした。半年程前までは、確かにその通りだったのだ。ヤマベは少し考えるようにしてから言った。
「今日のあいつ、何か変わったとこないか?」
昨日のことを気にしているのだ、とカオリは思った。
「いいえ、特に」
カオリは話を切ってノゾミを早く追いたかったが、ヤマベがさらに訊いた。
「最近、シラギともよく話してるよな」
今度はノゾミの苗字だった。何故今ノゾミの話が出るのかわからない。まさかノゾミや自分達がキミコにしていることがばれたのだろうか。カオリは密かに息を飲んだ。
「あいつも繊細なところがあるからさ、何か悩んでたら話を聞いてやってくれよ。すまん、体調悪いのに引き留めて悪かったな」
ヤマベはそれだけ言ってカオリとすれ違った。どうやらただの、いつものおせっかいだったようだ。カオリは足早に歩きだす。
ノゾミが繊細だって? カオリはヤマベの勘の悪さに苛立った。
シラギノゾミは狂っている。
実際、その狂気の隠し方は見事である。カオリ自身、以前はキミコを攻撃しているのはサユリだけだと思っていた。その背後にノゾミがいるなどとは思いもしなかった。
しかし、知ってしまえば、どうしてその狂気を隠し通していられるのかわからない程、ノゾミは狂っているように思えた。
二ヶ月程前、ノゾミがカオリにウォークマンで音声を聴かせた。イヤホンからは女の喘ぎ声と興奮した男の声が流れていた。聞いてすぐカオリは嫌悪感を覚えた。こんなものをわざわざ持ち歩いて聴かせるとは、なんて悪趣味なのだろうと思った。しかしその音声がカオリに特別な衝撃を与えたのは、男の声が紡ぐ言葉をふと聞き取った時だった。
「キミコ、可愛いキミコ」
男の声は確かにそう言っていた。カオリは自分の脈が速まるのを感じた。よく聞くと、その男の声には聞き覚えがあった。そして女の喘ぎ声は、キミコの声と酷く似ているのだった。カオリは問うようにノゾミを凝視した。ノゾミは事もなげに言った。
「キミコに父親を誘わせてみたらさ」
ノゾミはどこか悲しい調子で、しかし微笑んでいた。
「まさか本当にこんなことになるなんて」
言葉と裏腹に、ノゾミの表情に後悔など微塵も感じられなかった。
ノゾミのキミコに対する仕打ちは常軌を逸している。どうしてキミコにそこまでするのだろうか。きっとキミコに限らないのだろう。たまたま今回はキミコだというだけなのだとカオリは考えていた。ノゾミは人を徹底的に苦しめるのが好きなのであり、自分をノゾミが利用するのもその一環なのだ。
カオリはキミコと小学校からの友人だった。お互いの家に良く遊びに行ったし、泊まったこともある。その関係は永遠に続くものだと思っていた。キミコが、ノゾミの標的になるまでは。
キミコがサユリに痛めつけられた時、カオリはそれを助けることができなかった。自分でも信じられなかったが、暴力に晒されるキミコを前にして、カオリの体は恐怖に竦み、一歩も動けなかったのである。
苦しめられているキミコから、カオリは目を逸らし、耳を塞いだ。友人の危機を前にして、逃げ出したのだ。毎日毎日罪悪感がカオリを苛んだ。しかし、そこまでなら、まだどん底ではなかったのだ。
あの音声を聞かされた日から、さらに二三ヶ月程前のことになる。カオリはノゾミに女子トイレへ連れていかれた。そこにはサユリとキミコがいた。この時初めてカオリはノゾミが関わっていることを知った。
キミコはトイレの床に座り込んでいて、カオリをじっと見つめていた。その目は助けを求めているようでも、恨んでいるようでもあった。
サユリがキミコの背中を突いて、キミコの頭が和式便器の中に入るようにして土下座の姿勢をとらせた。ノゾミがカオリの耳元で囁いた。
「踏んで」
カオリは今キミコに向けられている狂気が、自分に向けられることが怖くてならなかった。
いつかノゾミの狂気が抑制を欠く日が来るのではないかとカオリはずっと思っていた。そして今、それが今日なのではないかという予感がカオリの中に膨らんでいた。
下駄箱まで辿り着くと、丁度そこにキミコがいた。特に怪我のない様子に、カオリは安堵した。何か言いかけて、自分にはもはやかけるべき言葉がないのに気付いた。目を伏せている間に、キミコはカオリの横を通り過ぎて行った。
その後で、カオリは違和感に気付いた。まだ自分はサユリと会っていない。いつもなら、苦しむキミコを放置してサユリは先にその場を後にする。だから、普通ならキミコに会う前にサユリと出くわすはずなのだ。どこかで行き違いになったのだろうか。あるいは、サユリとキミコは一緒ではなかったのだろうか。確かに一緒にいたにしてはキミコが無傷すぎるが、キミコのクラスの生徒の話では、二人で池に向かったということだった。
きっとノゾミも池に池に行ったはずだ。それで何かあったのかもしれない。違和感が拭えず、とりあえず池までカオリは行くことにした。外に出て少し歩くと、池に続く曲り角のところに人が立っているのに気付いた。ノゾミの後ろ姿だった。
カオリが近付いていくと、ノゾミが気が付いて振り向いた。いつも通りの、優しい微笑みが浮かんでいる。やはり何も問題はなかったのだろう。違和感は気のせいだったのだとカオリは思った。
ノゾミが普段と変わらない調子でカオリに話しかけた。
「丁度良かった。昼休み、頼みたいことがあるんだけど、いつもの場所、理科準備室にね、キミコを閉じ込めてほしいの。ただしあなた達は準備室に入っちゃ駄目。キミコだけを入れて、出られないようにして。サユリにも伝えておいてくれる?」
自分の用件だけ言い終わると、サユリはすぐに歩いて行ってしまった。何事もなかったことには安心したが、またキミコを痛めつけるための命令をされて、カオリは気分が重くなった。自分が結局それに従うことも良くわかっていた。
しかし、わざわざサユリへの言付けを頼むということは、サユリはすぐ近くの池にはいないのだろうか? カオリは不思議に思いながら、池へ続く角を曲がった。
チャイムが鳴った。録音の、若干ノイズの入った鐘の音が響く。
カオリは目の前の光景に立ちすくんだ。池の淵から、傍の地面は赤く染まり、細かい肉片が散らばっている。池の生臭さの中に、それとは別の生々しい匂いが混ざっていた。