さて、今回はねこた半袖先生の「されど我らが「失われた」日々」を取り上げよう。この漫画も、かなり批評が難しい。
実録系のWEB漫画に、はずれがないという印象を ぼくは持っているのだが、この漫画も例外ではない。面白いのである。ただ、何が面白いのかと聞かれると、よくわからない。いや。違う。結論はもうわかってるのだ。水木しげる先生の絵柄で、この漫画だから面白いのだ。ただ、なぜ水木しげるの絵だと面白いと感じるかがわからない・・ああ。循環論法だ。
とりあえず、分析のために、ねこた先生に対する個人的な印象を述べよう。
1 ねこた先生は善人である。
漫画や書いている文章を読むと、ねこた先生はとても、善人に思える。
新都社の実録系の漫画を描いている人々で、悪人から善人まであえて序列をつけると、
GAS先生 > 後藤健二先生 > ねこた先生
と言った感じになると思う。もちろん、左に行くほど、悪人で、右に行くほど
善人である。ちなみに、ここで言う悪人から善人へのバリエーションの意味は、以下を参考していただければ、だいたい納得がいくと思う。
女の子が、今まさに電車に飛び込もうとしているときの反応
ねこた先生 → 思わず助ける。
後藤健二先生 → 思わず助けたあと、助けたことをブログに書く。
GAS先生 → 助けるべきかどうか、考える。
こんな感じだろうか。
このことからも、ねこた先生が嫌味のない善人であるというのは、間違いないと思う。
2 ねこた先生はスペックが高い。
これは、特に説明の必要はないだろう。極めて高い知性と画力の持主である。
漫画の基本的な技術も、ほとんど習得してしまっているようだ。
3 ねこた先生の漫画の特徴
次に、ねこた先生の実録系漫画について分析してみよう。
ネームの書き方は、たぶん、後藤健二先生とよく似てる。セリフとモノローグが
先にあり、そこにコマと絵を当てはめていっている感じである。
違いがあるとすると、後藤先生の漫画が実録系の週刊誌を読んでいるような印象を受けるのに対して、ねこた先生はどちらかと言うと文学よりだと思う。哲学的な思考が垣間見える。ただし、後藤健二先生の漫画にあるようなおかしみや、レズ風俗の体験漫画みたいな、えぐさはあまり感じられない。
ただ、ねこた先生の新作漫画は、コマワリで、ストーリを構成しているので、この実録系漫画の、この方法は、狙って書いているものだと思われる。
ねこた先生は、本当に、非常に器用な人なのだ。
4 ねこた漫画における生存バイアスの位置づけ。
いろいろ、検討してみたが、どうも、「されど我らが」の本質にたどり着けない。何が、ねこた先生に、実録系の漫画を描かせたのか、その動機がよくわからない。
試しに後藤先生の動機を、分析してみよう。
これは、わかりやすい。
後藤先生の場合は、サバイバーとしての誇りが、後藤先生にあの自伝を書かせたのである。言い方を変えると、生存バイアスに取りつかれた男の狂気があの濃厚な漫画を描かせたのである。
ねこた先生の場合も、たぶん、描き始めた当初は、その動機は、この生存バイアスだったのではないかと思う。きっと後藤先生の熱気、狂気に煽られて、描き始めたのではないか思う。
で、同じような方法で、ネーム切ってるのに、読後の印象って、随分違うんだよね。
この読後感の違いって何なんだろうと、ずっと考えてたのだが、はっと気づいた。
それは、ノスタルジーの有無である。
5 ねこた漫画はとても懐かしい。
「されど、我らが」を読んでいると、なぜかほろっとさせられる瞬間があるのだが、これの正体ってノスタルジーだったのだね。なぜ、水木しげるなの?とずっと不思議に思ってたのだが、これがたぶん、正解だ。ねこた先生は、ずっと懐かしい感覚を追求してたのだ。
あの漫画の神様の絵柄を、そっくりコピーした田中圭一が、当の漫画の神様に対して、まったく愛情を感じてないように思えるのに対して、ねこた先生は、素直な水木愛を、感じる。なぜかわからないのだが、ぼくにとっても水木しげるはとても、懐かしい。
6 さて、では、ねこた先生の新作は
そのような視点で考えたとき、ねこた先生の新作が、始まったばかりなのに、いきなり懐かしさを醸し出すのは、必然的であると思う。ねこた先生は、何を描いても、ノスタルジーが発生するという不思議な才能の持ち主である。
7 最後に
ということで、「水木しげる = ノスタルジー」という発見をさせていただいたところで、「されど我らが」の批評は終わりにしようと思う。ねこた先生も絵を描く職業に就かれたようだ。今後の活躍が楽しみである。ノスタルジーで是非、読者を悶絶させて欲しい。