今回はMK阿久津先生のアルコイリスを取り上げよう。
キャラクターが自分好みである。絵も好みである。見ていて実に気持ちがいい。
この方は、既に担当編集者がついて、ネームの直しなどをされている段階に入っている方かもしれないので、今更、ぼくが何か論評することもないのだが、編集者の視点では気付かない点があるかも知れないので、あえて、ここで論評させていただいた。
まず、感じるのはMK阿久津先生の漫画は絵が気持ちがいい。最初、何故かよくわからなかくて、何回か読み返した結果、空間表現にその理由があるのではないかと思った。
「そんなの、消失点をちゃんとつくって、背景を描きこめば、空間表現などできるさ」とか思う読者もいるだろう。
MK阿久津先生の空間表現の方法は、実は、それだけではないのである。
MK阿久津先生ご自身、気付いていないかも知れないが、先生は空間表現を遠近法などとは別の方法で行っている。
例えば、視線。
MK阿久津先生の漫画は視線による距離感の表現が頻繁にでてくる。
屋根を見上げる少女の先にいるエルフ。見上げる少女の視線から読者は少女とエルフとの空間的な距離を感じ取る。
読者に視線を向けるキャラクター。読者はキャラクターとの物理的な距離を確かに感じ取り、読者とキャラクターの間にある、空気の存在を意識する。
これは、ぼくの推測なのだが、MK阿久津先生自身が自分の周囲の空間に対して極めて鋭敏な感覚を持っていて、それを漫画に無意識に落とし込んでいるのではないか?
前景に人物がいて、背景がベタのコマの場合ですら、そのベタの部分に確かに空間が存在している。特に背中のあたりに。
読者は、MK阿久津先生の絵に触れると自分自身の周囲にある空間の存在を、強烈に意識させられる。それがMK阿久津先生の漫画の生々しさにつながっていると思う。
空間を目で見て描く人は、かなりいると思うが(殆どの人はそうだと思う。)、
身体に取り込んで、感覚的に漫画として表現できる人はあまりいないのではないか。
この空間に対する鋭敏な感覚が、紙媒体の印刷物まで、通過して読者に届くものなのかは、ぼくにはわからない。
ただ、ぼくの目には、MK阿久津先生の空間に対する鋭敏な感覚は、物凄い強みに見えている。