不完全ツーリズム
本編
≪不完全ツーリズム≫
作:笹塚とぅま
【Page1:Repetition!】
「いやぁー、みなさん。ようこそわが国にいらっしゃいました」
太陽がちょうど真上に来る時間、国の関門を通る一人と二匹はそこでの審査を終え、その先に待っていた警官と名乗る制服を着た男性に快く迎い入れられる。
「…………」
「いえいえー、お仕事ごくろうさまー」
大きなリュックを背負った少女は無言でぺこりと頭を下げる。上は袖のある白いタートルニットに下は裾が余りまくっているサスペンダー付きのデニムパンツ。そして足元はスニーカー、とまあ服装だけ見るとなんともだらしのない少年に見えなくもない。しかしそれでも深くかぶった深緑色のニット帽から肩へとかかる、風に吹かれ柔らかくほどけていく栗色の髪がなんとか少女を女性だと判断させた。
彼女の足元では、尻尾のない虎猫が軽い調子で男性に挨拶をし、また彼女の後ろを歩く、背丈が主である彼女をとうに超え、その姿を見た者はハッと心奪われてしまうような銀の毛皮をまとうオオカミはその大きな尻尾を振って挨拶に代える。
「それで皆さんはここまでは徒歩で?」
「そうだよー、あ、たまにヒッチハイクもしたかな」
「それはさぞかし長い旅だったでしょう」
高低差一・五メートル強はある、虎猫と男性の会話はなめらかに続く。
「それで、みなさんは何か目的があって我が国に?」
「あー、それはね、彼女、ナディは訪れた国の歴史を記して回ってるの。あとちょっとした探し物かな」
「はぁ、歴史ですか。それは感心です」
虎猫の言葉の前半だけを取り上げた彼はあごに手を当て、ふむぅ、となにやら思案顔。しばらくして、はっ、妙案思いついたのか笑顔でナディと呼ばれた少女に向けて一つの提案をする。
「旅人さんは何日の滞在で?」
「んー、ナディが満足するまでかなぁ」
少女に対する質問に虎猫が平然と答える。
「あ……そ、そうですか。では、みなさん。今日はもう宿でお休みになられますか?」
「そうだねー、かなり歩いたから疲れちゃったよー」
そうですよね、虎猫を労わる彼の言葉にオオカミが反応し、グルルル、と何か物申したいご様子。というのも、この虎猫、旅の道中のほとんどをこのオオカミの背中で過ごしていたのだから、本来彼の言葉はこのオオカミに向けられるべきものだったのだ。これでは彼が面白くないのもうなずける。
それに気付いた少女は何も言うことなくオオカミの頭をやさしくなでた。
「それで、みなさんが良かったらでいいのですが、明日、どうかこの私に国の案内をさせてもらえませんか?」
「あ、じゃあさ、始め図書館とか資料館とか案内してよ。ナディは基本文献から入るからね」
男性の申し出に対して虎猫は注文を入れると、でしょ? と少女を見る。少女もそれに応えこくりと頷く。
しかし、男性は、困ったなぁ、とつぶやくと彼女らの前で頭を下げた。
「大変申し訳ありません。なんせ私たちの国はできてまだ十数年経つか経たないかのかなり若い国でありますから、そのような施設等はまだなんですよ」
楽しみにしていたのに申し訳ありません、男性は繰り返した。
「そーなんだー、それじゃあしょうがないよね。……ナディ、どうする、お願いする?」
足元から向けられる視線に少女は、むむぅ、と一度考えるようなしぐさをした後に、
「お願いします」
はっきりとした口調でぺこりと頭を下げる。それを聞いた男性は、ぱぁっ、と笑顔になった。
「ありがとうございます。では、明日お迎えに上がります」
「いえ、今からお願いします」
では、今から宿の方までご案内しますね、と言いかけた男性は予想外の返しに思わず聞き直してしまう。「え? 今からです、か?」
「ナ、ナディ、ほんと!?」
驚きを隠せない様子の男性と虎猫を無視して少女はすたすたと先に国の中へと向かって歩き出してしまう。そんな彼女の背中を「あ、ではっ」と男性が追う。虎猫も置いていかれてはかなわんと、彼女のあとにくっついて歩くオオカミの背に乗ろうとするも尻尾ではじかれてしまい、やむなく自分の脚で歩いていた。
正午を少し過ぎた街の大通りはどこも活気にあふれており、あちこちから話し声、食べ物のいい匂いがしていた。男性が先頭を務める形で一行は、人と人、店と店の合間を縫うように歩く。案内役の彼はところどころ立ち止まり、そこにあった建物や碑について説明を加える。
そうこうしているうちに時間もだいぶ経って日もほとんど沈みかけてきた頃、今日の最後にと彼は街の中心部から少し外れた道路のわきに無造作に止められた、はたまた乗り捨てられた何台もの大型トラックに彼女らを案内した。運輸用だったのか八本の巨大なタイヤを備えたトラックは相当年代物らしく、塗装はほとんどはがれ錆びつき、実際試さなくても、もう動かない廃車であることはすぐにわかった。
「えーと、このボロ……いや年代を感じさせる車は?」
自分の何百倍も大きな鉄の塊を前に虎猫はおそるおそるたずねる。男性はというと、あたり一帯に充満するツンとした鉄の匂いと湿ったカビの匂いを放つ物体を複雑な表情で見つめたまま、おもむろに口を開いた。
「そういえば、みなさんにはまだこの国の成り立ちについて話していませんでしたね。……そうですね、もともとこの国は私たちのものではなかったんです」
「え、どういうこと?」
はてと首を傾げる虎猫。男性はトーンを落とした声でゆっくりと話し始める。
「私たちはかつて特定の場所に住んだりはせず、国から国へと移動しながら暮らす規模の大きな行商人の集団でした。それが十数年前、当時の長が不慮の病に倒れそのまま帰らぬ人となった時、これからも今までの行商生活を続けるかもう行商は辞めて定住し落ち着いた生活をするかでグループは大きく二つに割れました。大人たちはどちらにするか昼夜、議論に議論を重ねたそうですがなかなか結論は出ず、そうこうしている間にも多くの者が団から抜けていきました」
「あ、でも最終的には定住になんたんだよね? よく決まったよねー」
虎猫ののんきな相槌に男性は思いっきり苦い顔をする。
「それなんですが……当時定住に反対だった大人たちが、ある日全員亡くなってしまったんです。原因は食中毒でした」
「えーと、あのーそれってもしかして……」
「…………」
男性はうつむいて何も言わなかった。それがすべてを語っていた。
「……そうして、定住することになったんですが、定住を決めたからにはどこか場所を探さないといけません。それで一番手っ取り早いのが……」
「……もともとあった国を乗っ取ること」
男性の言葉を少女がつなぐ。それに彼は無言でうなずいた。
「え、あれ? そこは混ぜてもらうんじゃなくて?」
下からくる率直な疑問に男性は悲しそうに首を振る。
「幸い、人数が減ったその時でも団員は千人をはるかに超えていました。当時、まだまだ幼く大人たちから戦力にならないと他の子どもたちと一緒にトラックの荷台の荷物の中に隠れさせられた私は武器を抱えた大人たちの背中を見送ることしかできませんでした。それから大きな爆発音が荷台をトラックごと振動させた直後、おびただしいほどの怒声や叫び声、大小さまざまな破壊音、破裂音が私の鼓膜をぶちました。怖くて耳を塞いでもそれは私の脳の中を揺さぶり続け、何もできない自分たちは終始ことが終わるのをひたすら耐えていました」
くるりと少女らに背を向けて話す男性がどんな顔をしているかはわからない。
「そして、どれくらいたったでしょうか、気付いた時には外が嘘のように静かになっていて、『もう出てもいいぞ』との指示で久しぶりに見た外の世界はまさに血の海、肉の海と言う表現がぴったりの惨たらしい光景が一面に広がっていました。その時に嗅いだ血や焦げた肉の臭いは今でも忘れられません……あ、すみません。こんなこと話すつもりではなかったんですけどね」
「いえ、貴重なお話ありがとうございました」
振り返り、ははは、と自嘲する男性に対し、リュックからいつの間にかノートを取り出し、がりがりとメモを続ける少女が顔も上げずに言葉だけ返す。そのあとしばらくノートと向かい合ってパタンと閉じた彼女ははっきりと告げたのだった。
「ここの国のだいたいの経緯はわかりましたので、私たちは今日で出国します」
☆
「ねー、ナディー。本当によかったの? まだいれたはずだよ? あの国で探し物してないよ?」
どうも道が悪く、がたがたと床からの振動が激しいトラックの荷台で、小さくなっていく国の城壁をぼんやりと眺めていた少女はどうも『心ここにあらず』といった感じで、彼女の膝の上に乗る虎猫の矢継ぎ早の質問にまったく反応を示さない。
「おい、ルーよ。きっとご主人にもなにかお考えになることがあったのだろう。あれこれ聞くのでない」
彼女の足元で伏せていたオオカミがチラと彼女の膝の上へと視線をあげる。しかし虎猫はというと彼の言った内容よりも、「あ、もうしゃべんないかと思った」などと違う方に反応してしまっていた。
実際のところ、オオカミ自身、少女の突然の宣言には少なからずびっくりしていた。しかし、案内をかってでた男性はわかっていたようで、「そうですか……」と言っただけ。そして、そのあとまっすぐ彼らを国の入り口、関門の所まで連れて行き、丁寧にも次に彼女たちが向かう国への車も手配してくれた。
自分が今まで抱えていたものを誰かに打ち明けられた、聞いてもらえたからなのか、最後彼らを見送るときに見えた男性の顔はどこか吹っ切れた表情をしていたのをオオカミは思い出した。それから、国の歴史にはいろいろあり、この少女はこんなことを記しているのだな、などと思っていると、突然、今までとは比べ物にならないレベルの揺れと音が彼らを襲う。
「え? なに、なになに、なにがあったのー!?」
彼女のひざを降り、虎猫は荷台の脇から顔をのぞかせ、「ひゃあ!」と短い奇声をあげた。というのも彼らが乗ったトラックの前方には道の幅いっぱいを使ってどでかいトラックがこっちに向かっているのであった。しかもその数は二十を超える。
少女らを乗せるトラックは道を譲るために一度道を外れ草むらの中に一度停車する。しばらくして、その横を、体を芯から揺さぶる地響きとともに巨大な鉄の蛇がエンジン音と大量の砂埃を周囲にまき散らしながら何台も連なって通り過ぎていった。
☆
「――……うっわー、すごかったねー」
いやぁ、圧巻だったよ。と感嘆の息を吐く虎猫。静かになったところで再び彼女らを乗せたトラックは元の道に戻る。こころなしかさっきの大型トラックの集団に踏み固められたせいか、最初よりも揺れはひどくない。
「私たちと反対の方向に行ったということは、つまり彼らはさっきまで私たちがいた国に用事があったというわけだな」
オオカミの確認ともとれる発言に少女は何か気付いたのか、突然リュックからノートを取り出すと一心不乱に書き加え始めた。それに猫は「あらー」と何か察した様子で、オオカミに説明し始める。
「いやさ。さっきすれ違った時に向こうのトラックの荷台が見えてね、そこにたーくさんの人が乗ってたんだ」
それから、トラックの集団が向かった方、つまりさっき彼らが訪れた国の方を向いて、
「そう、それでさ……そのみんながみんな、武装してたんだよねー」
(終)
作:笹塚とぅま
【Page1:Repetition!】
「いやぁー、みなさん。ようこそわが国にいらっしゃいました」
太陽がちょうど真上に来る時間、国の関門を通る一人と二匹はそこでの審査を終え、その先に待っていた警官と名乗る制服を着た男性に快く迎い入れられる。
「…………」
「いえいえー、お仕事ごくろうさまー」
大きなリュックを背負った少女は無言でぺこりと頭を下げる。上は袖のある白いタートルニットに下は裾が余りまくっているサスペンダー付きのデニムパンツ。そして足元はスニーカー、とまあ服装だけ見るとなんともだらしのない少年に見えなくもない。しかしそれでも深くかぶった深緑色のニット帽から肩へとかかる、風に吹かれ柔らかくほどけていく栗色の髪がなんとか少女を女性だと判断させた。
彼女の足元では、尻尾のない虎猫が軽い調子で男性に挨拶をし、また彼女の後ろを歩く、背丈が主である彼女をとうに超え、その姿を見た者はハッと心奪われてしまうような銀の毛皮をまとうオオカミはその大きな尻尾を振って挨拶に代える。
「それで皆さんはここまでは徒歩で?」
「そうだよー、あ、たまにヒッチハイクもしたかな」
「それはさぞかし長い旅だったでしょう」
高低差一・五メートル強はある、虎猫と男性の会話はなめらかに続く。
「それで、みなさんは何か目的があって我が国に?」
「あー、それはね、彼女、ナディは訪れた国の歴史を記して回ってるの。あとちょっとした探し物かな」
「はぁ、歴史ですか。それは感心です」
虎猫の言葉の前半だけを取り上げた彼はあごに手を当て、ふむぅ、となにやら思案顔。しばらくして、はっ、妙案思いついたのか笑顔でナディと呼ばれた少女に向けて一つの提案をする。
「旅人さんは何日の滞在で?」
「んー、ナディが満足するまでかなぁ」
少女に対する質問に虎猫が平然と答える。
「あ……そ、そうですか。では、みなさん。今日はもう宿でお休みになられますか?」
「そうだねー、かなり歩いたから疲れちゃったよー」
そうですよね、虎猫を労わる彼の言葉にオオカミが反応し、グルルル、と何か物申したいご様子。というのも、この虎猫、旅の道中のほとんどをこのオオカミの背中で過ごしていたのだから、本来彼の言葉はこのオオカミに向けられるべきものだったのだ。これでは彼が面白くないのもうなずける。
それに気付いた少女は何も言うことなくオオカミの頭をやさしくなでた。
「それで、みなさんが良かったらでいいのですが、明日、どうかこの私に国の案内をさせてもらえませんか?」
「あ、じゃあさ、始め図書館とか資料館とか案内してよ。ナディは基本文献から入るからね」
男性の申し出に対して虎猫は注文を入れると、でしょ? と少女を見る。少女もそれに応えこくりと頷く。
しかし、男性は、困ったなぁ、とつぶやくと彼女らの前で頭を下げた。
「大変申し訳ありません。なんせ私たちの国はできてまだ十数年経つか経たないかのかなり若い国でありますから、そのような施設等はまだなんですよ」
楽しみにしていたのに申し訳ありません、男性は繰り返した。
「そーなんだー、それじゃあしょうがないよね。……ナディ、どうする、お願いする?」
足元から向けられる視線に少女は、むむぅ、と一度考えるようなしぐさをした後に、
「お願いします」
はっきりとした口調でぺこりと頭を下げる。それを聞いた男性は、ぱぁっ、と笑顔になった。
「ありがとうございます。では、明日お迎えに上がります」
「いえ、今からお願いします」
では、今から宿の方までご案内しますね、と言いかけた男性は予想外の返しに思わず聞き直してしまう。「え? 今からです、か?」
「ナ、ナディ、ほんと!?」
驚きを隠せない様子の男性と虎猫を無視して少女はすたすたと先に国の中へと向かって歩き出してしまう。そんな彼女の背中を「あ、ではっ」と男性が追う。虎猫も置いていかれてはかなわんと、彼女のあとにくっついて歩くオオカミの背に乗ろうとするも尻尾ではじかれてしまい、やむなく自分の脚で歩いていた。
正午を少し過ぎた街の大通りはどこも活気にあふれており、あちこちから話し声、食べ物のいい匂いがしていた。男性が先頭を務める形で一行は、人と人、店と店の合間を縫うように歩く。案内役の彼はところどころ立ち止まり、そこにあった建物や碑について説明を加える。
そうこうしているうちに時間もだいぶ経って日もほとんど沈みかけてきた頃、今日の最後にと彼は街の中心部から少し外れた道路のわきに無造作に止められた、はたまた乗り捨てられた何台もの大型トラックに彼女らを案内した。運輸用だったのか八本の巨大なタイヤを備えたトラックは相当年代物らしく、塗装はほとんどはがれ錆びつき、実際試さなくても、もう動かない廃車であることはすぐにわかった。
「えーと、このボロ……いや年代を感じさせる車は?」
自分の何百倍も大きな鉄の塊を前に虎猫はおそるおそるたずねる。男性はというと、あたり一帯に充満するツンとした鉄の匂いと湿ったカビの匂いを放つ物体を複雑な表情で見つめたまま、おもむろに口を開いた。
「そういえば、みなさんにはまだこの国の成り立ちについて話していませんでしたね。……そうですね、もともとこの国は私たちのものではなかったんです」
「え、どういうこと?」
はてと首を傾げる虎猫。男性はトーンを落とした声でゆっくりと話し始める。
「私たちはかつて特定の場所に住んだりはせず、国から国へと移動しながら暮らす規模の大きな行商人の集団でした。それが十数年前、当時の長が不慮の病に倒れそのまま帰らぬ人となった時、これからも今までの行商生活を続けるかもう行商は辞めて定住し落ち着いた生活をするかでグループは大きく二つに割れました。大人たちはどちらにするか昼夜、議論に議論を重ねたそうですがなかなか結論は出ず、そうこうしている間にも多くの者が団から抜けていきました」
「あ、でも最終的には定住になんたんだよね? よく決まったよねー」
虎猫ののんきな相槌に男性は思いっきり苦い顔をする。
「それなんですが……当時定住に反対だった大人たちが、ある日全員亡くなってしまったんです。原因は食中毒でした」
「えーと、あのーそれってもしかして……」
「…………」
男性はうつむいて何も言わなかった。それがすべてを語っていた。
「……そうして、定住することになったんですが、定住を決めたからにはどこか場所を探さないといけません。それで一番手っ取り早いのが……」
「……もともとあった国を乗っ取ること」
男性の言葉を少女がつなぐ。それに彼は無言でうなずいた。
「え、あれ? そこは混ぜてもらうんじゃなくて?」
下からくる率直な疑問に男性は悲しそうに首を振る。
「幸い、人数が減ったその時でも団員は千人をはるかに超えていました。当時、まだまだ幼く大人たちから戦力にならないと他の子どもたちと一緒にトラックの荷台の荷物の中に隠れさせられた私は武器を抱えた大人たちの背中を見送ることしかできませんでした。それから大きな爆発音が荷台をトラックごと振動させた直後、おびただしいほどの怒声や叫び声、大小さまざまな破壊音、破裂音が私の鼓膜をぶちました。怖くて耳を塞いでもそれは私の脳の中を揺さぶり続け、何もできない自分たちは終始ことが終わるのをひたすら耐えていました」
くるりと少女らに背を向けて話す男性がどんな顔をしているかはわからない。
「そして、どれくらいたったでしょうか、気付いた時には外が嘘のように静かになっていて、『もう出てもいいぞ』との指示で久しぶりに見た外の世界はまさに血の海、肉の海と言う表現がぴったりの惨たらしい光景が一面に広がっていました。その時に嗅いだ血や焦げた肉の臭いは今でも忘れられません……あ、すみません。こんなこと話すつもりではなかったんですけどね」
「いえ、貴重なお話ありがとうございました」
振り返り、ははは、と自嘲する男性に対し、リュックからいつの間にかノートを取り出し、がりがりとメモを続ける少女が顔も上げずに言葉だけ返す。そのあとしばらくノートと向かい合ってパタンと閉じた彼女ははっきりと告げたのだった。
「ここの国のだいたいの経緯はわかりましたので、私たちは今日で出国します」
☆
「ねー、ナディー。本当によかったの? まだいれたはずだよ? あの国で探し物してないよ?」
どうも道が悪く、がたがたと床からの振動が激しいトラックの荷台で、小さくなっていく国の城壁をぼんやりと眺めていた少女はどうも『心ここにあらず』といった感じで、彼女の膝の上に乗る虎猫の矢継ぎ早の質問にまったく反応を示さない。
「おい、ルーよ。きっとご主人にもなにかお考えになることがあったのだろう。あれこれ聞くのでない」
彼女の足元で伏せていたオオカミがチラと彼女の膝の上へと視線をあげる。しかし虎猫はというと彼の言った内容よりも、「あ、もうしゃべんないかと思った」などと違う方に反応してしまっていた。
実際のところ、オオカミ自身、少女の突然の宣言には少なからずびっくりしていた。しかし、案内をかってでた男性はわかっていたようで、「そうですか……」と言っただけ。そして、そのあとまっすぐ彼らを国の入り口、関門の所まで連れて行き、丁寧にも次に彼女たちが向かう国への車も手配してくれた。
自分が今まで抱えていたものを誰かに打ち明けられた、聞いてもらえたからなのか、最後彼らを見送るときに見えた男性の顔はどこか吹っ切れた表情をしていたのをオオカミは思い出した。それから、国の歴史にはいろいろあり、この少女はこんなことを記しているのだな、などと思っていると、突然、今までとは比べ物にならないレベルの揺れと音が彼らを襲う。
「え? なに、なになに、なにがあったのー!?」
彼女のひざを降り、虎猫は荷台の脇から顔をのぞかせ、「ひゃあ!」と短い奇声をあげた。というのも彼らが乗ったトラックの前方には道の幅いっぱいを使ってどでかいトラックがこっちに向かっているのであった。しかもその数は二十を超える。
少女らを乗せるトラックは道を譲るために一度道を外れ草むらの中に一度停車する。しばらくして、その横を、体を芯から揺さぶる地響きとともに巨大な鉄の蛇がエンジン音と大量の砂埃を周囲にまき散らしながら何台も連なって通り過ぎていった。
☆
「――……うっわー、すごかったねー」
いやぁ、圧巻だったよ。と感嘆の息を吐く虎猫。静かになったところで再び彼女らを乗せたトラックは元の道に戻る。こころなしかさっきの大型トラックの集団に踏み固められたせいか、最初よりも揺れはひどくない。
「私たちと反対の方向に行ったということは、つまり彼らはさっきまで私たちがいた国に用事があったというわけだな」
オオカミの確認ともとれる発言に少女は何か気付いたのか、突然リュックからノートを取り出すと一心不乱に書き加え始めた。それに猫は「あらー」と何か察した様子で、オオカミに説明し始める。
「いやさ。さっきすれ違った時に向こうのトラックの荷台が見えてね、そこにたーくさんの人が乗ってたんだ」
それから、トラックの集団が向かった方、つまりさっき彼らが訪れた国の方を向いて、
「そう、それでさ……そのみんながみんな、武装してたんだよねー」
(終)
≪不完全ツーリズム≫
作:笹塚とぅま
【Page.2: Silent!! 】
「わーお。外の城壁からもわかったけど、大きい国だねー」
国の入り口である大きき立派な門をくぐり関所の脇を通り抜け、尻尾のない虎猫は石でできた置物の上にひょひょいと乗ると、国全体を一望し、第一声に感嘆の声をあげる。
「さらに面白い形に加えこの風景! こんなのは初めて見たよ。 聞いた話の通りだね。ナディ!」
虎猫が立っている場所がおそらくこの国で一番高いところ。というのもこの国の形を一言で表すとまさに『すり鉢型』。人がゴマになってしまうほどの巨大なすり鉢だ。置物が立っている地面がちょうどすり鉢のふちにあたり、そこからなだらかな下りの斜面が長く続いている。底はどうも広場になっているらしいが、そこもかなり広く、その広場にあるモノが彼らの位置からは小さくぼんやりとしかとらえることができない。
虎猫の興奮した問いかけには、少女が関所のところですでにノートを取り出し立ったまま書き物に没頭していたため、代わりに少女の隣に控えていたオオカミが相手をする。
「話によると、ここはもともと小さい国だったらしく、武器の生産、輸出がメインだったそうだ。やはり武器は高く売れるからな。戦時中は相当儲けたらしくそれで国も潤ったらしい」
「ふーん、なるほどねー」
虎猫は歴史に関してはあまり興味のない様子で、耳半分で聞いて、視線は目下に見える風景に向けられていた。そんな猫の反応はいざ知らずオオカミの流暢な説明は続く。
「そして国が豊かになると、人が集まる。人が増えると国は大きくなり、大きくなると隣国に対する対抗力、競争力がつく。そして地位を求めたこの国は軍事に資産・労働・原料すべてを注ぎ込み、今までにない大規模な軍隊を整えた。幸い武器は自分たちで作っていたからな、すぐに体制は整い、今まで武器を輸出していたいわば『お客様』であったまわりの隣国へ次々と戦争を仕掛けていったそうだ」
「ほーほーそれでー」
「そして、武力をもってここら一帯の大陸の覇者になったこの国は、その特権を使いいっそう栄えたそうだ」
「おおーまさに黄金時代だー」
パックスローマーナ! いや、この場合はなんだろう? 虎猫は嬉しそうに叫ぶものの、オオカミには虎猫の言うことがさっぱり理解できない。
「まあ、とにかく。頂点に君臨し、絶頂期を迎えていたこの国の王様が変わったのが今から五年前でな、そのと」
「あっ、ナディ終わった?」
虎猫の興味は完全にぱたんとノートを閉じた少女に移っていた。そのため、虎猫の興味からはじき出される形で説明を途中で切られる羽目になったオオカミは、「んごぉぅ」と自分でもどのように出たかがわからない音を発する。
虎猫の問いに、器用に背中に背負っているリュックにノートをしまった少女はこくりと頷き、二匹に目配せすると国の中へ入ると思いきや、先ほどの巨大な門、つまり国の外へ向かって歩き出す。
耳をピクリと動かしたオオカミは立ち上がるとすぐに彼女の後に続いた。虎猫も置物から降り、今度はオオカミの背中に乗ろうとするがさっとかわされる。
「んー、たしかに『話にあった』通りの国だったねー」
門をくぐる途中、ちょこちょこと細かく動かしていた足を止め、虎猫は振り返る。
「でも、やっぱさ……生きてる人がいないと、さびしいよねー」
それで、先ほどから皆でずっと見ていた光景――斜面全部に隙間なく、それでいて整然と並べられた無数の『墓標』――を最後に一瞥し、かつて国だったモノに別れを告げるのだった。(終)
作:笹塚とぅま
【Page.2: Silent!! 】
「わーお。外の城壁からもわかったけど、大きい国だねー」
国の入り口である大きき立派な門をくぐり関所の脇を通り抜け、尻尾のない虎猫は石でできた置物の上にひょひょいと乗ると、国全体を一望し、第一声に感嘆の声をあげる。
「さらに面白い形に加えこの風景! こんなのは初めて見たよ。 聞いた話の通りだね。ナディ!」
虎猫が立っている場所がおそらくこの国で一番高いところ。というのもこの国の形を一言で表すとまさに『すり鉢型』。人がゴマになってしまうほどの巨大なすり鉢だ。置物が立っている地面がちょうどすり鉢のふちにあたり、そこからなだらかな下りの斜面が長く続いている。底はどうも広場になっているらしいが、そこもかなり広く、その広場にあるモノが彼らの位置からは小さくぼんやりとしかとらえることができない。
虎猫の興奮した問いかけには、少女が関所のところですでにノートを取り出し立ったまま書き物に没頭していたため、代わりに少女の隣に控えていたオオカミが相手をする。
「話によると、ここはもともと小さい国だったらしく、武器の生産、輸出がメインだったそうだ。やはり武器は高く売れるからな。戦時中は相当儲けたらしくそれで国も潤ったらしい」
「ふーん、なるほどねー」
虎猫は歴史に関してはあまり興味のない様子で、耳半分で聞いて、視線は目下に見える風景に向けられていた。そんな猫の反応はいざ知らずオオカミの流暢な説明は続く。
「そして国が豊かになると、人が集まる。人が増えると国は大きくなり、大きくなると隣国に対する対抗力、競争力がつく。そして地位を求めたこの国は軍事に資産・労働・原料すべてを注ぎ込み、今までにない大規模な軍隊を整えた。幸い武器は自分たちで作っていたからな、すぐに体制は整い、今まで武器を輸出していたいわば『お客様』であったまわりの隣国へ次々と戦争を仕掛けていったそうだ」
「ほーほーそれでー」
「そして、武力をもってここら一帯の大陸の覇者になったこの国は、その特権を使いいっそう栄えたそうだ」
「おおーまさに黄金時代だー」
パックスローマーナ! いや、この場合はなんだろう? 虎猫は嬉しそうに叫ぶものの、オオカミには虎猫の言うことがさっぱり理解できない。
「まあ、とにかく。頂点に君臨し、絶頂期を迎えていたこの国の王様が変わったのが今から五年前でな、そのと」
「あっ、ナディ終わった?」
虎猫の興味は完全にぱたんとノートを閉じた少女に移っていた。そのため、虎猫の興味からはじき出される形で説明を途中で切られる羽目になったオオカミは、「んごぉぅ」と自分でもどのように出たかがわからない音を発する。
虎猫の問いに、器用に背中に背負っているリュックにノートをしまった少女はこくりと頷き、二匹に目配せすると国の中へ入ると思いきや、先ほどの巨大な門、つまり国の外へ向かって歩き出す。
耳をピクリと動かしたオオカミは立ち上がるとすぐに彼女の後に続いた。虎猫も置物から降り、今度はオオカミの背中に乗ろうとするがさっとかわされる。
「んー、たしかに『話にあった』通りの国だったねー」
門をくぐる途中、ちょこちょこと細かく動かしていた足を止め、虎猫は振り返る。
「でも、やっぱさ……生きてる人がいないと、さびしいよねー」
それで、先ほどから皆でずっと見ていた光景――斜面全部に隙間なく、それでいて整然と並べられた無数の『墓標』――を最後に一瞥し、かつて国だったモノに別れを告げるのだった。(終)
《不完全ツーリズム》
作:笹塚とぅま
【3:What did you bury at that time?】
○月×日
今日、担任の先生からクラスのみんなに、タイムカプセルを埋めよう、との提案が出た。
わたしを含め、タイムカプセルを知らないみんなに、先生は、タイムカプセルというのは自分の大切なものを入れ、何十年後、埋めたことすら忘れていたそんな時期に皆で集まってそれを掘り起こし、その中に入ってる自分が昔いれたものを、懐かしんだり、それについて語り合うものだと説明してくれた。
そんなことして何が面白いのか? 友人の一人が手を上げ質問をしたが先生は肩をすくめ、「そうだな……大人にならないとわからないかもね」とだけ言って笑っていた。
わたしも意義はよくわからなかったが、教室での退屈な授業やきつい訓練をつぶしてやるので、正直、面白いかそうでないかはどうでもよかった。
○月△日
タイムカプセルを埋めるのは早いもので、明後日の午前中になった。
帰りの集会で、先生が埋めるモノを今日と明日のうちに親と相談し決めておくようにと言っていた。
下校中、学校のみんながみんなタイムカプセルの話をしていた。
どうも学校全体の催しごとのようだ。
帰った私は夕食を済ませまっすぐと机に向かう。
出来たら今日中に何を入れるか決めたかったけど、訓練で疲れた私にそんな体力は残されていない。
これを書いているのもやっとなほど。
何にしようか。
いいや、明日決めよう。
○月□日
先生が、決まったか? と聞いていた。
タイムカプセルを埋めるのを明日に控えた今日の帰りの集会。
決まっている子もいたし、まだ決まってない子もいた。
隣の子は決まっているよう感じだったので、私は、「何したの?」と小声でたずねたが、その子はなぜか口元をゆがめた。いままでに見たことの無い、苦く険しい顔をするその子に私は心底戸惑った。
いったいどうしたのだろうか、悪いことでも聞いてしまったのだろうか。その子の様子気付いたに周りも騒ぎはじめ、ますます何と声を掛けたらよいかわからなくなった私に先生が近寄ってきて、「おいおい、まあ何年先になるかわからないけど、何を入れたかは掘り起こすその時まで内緒だぞ。みんなもわかったか?」と騒然としかけた教室の空気をあっという間になごませた。
それから先生は、一人一人に、筆箱ほどの大きさの直方体の箱を配った。
表面が粗く削られ鈍い光沢を放った金属製のそれ。
説明だと、決めたモノをこれに入れて埋めるらしい。
そのあと、明日の集合場所や持ってくるもの、遅れた時の連絡先、そして明日の行事のことは必ず親に伝え、一緒に埋めるモノを考えるようにと念押しし、その日は下校となった。
帰り道、「さて、何にしようかな?」、とまだ決めてないクラスメイトが話す声が聞こえた。
私は、もう決めている。
いや、正確に言うと、もう決めていてくれるだろう。
というのも、今日の朝、事情を母に話したところ、明日の朝までに私の大切なものを準備してくれると約束してくれたのだ。
だから何も心配する必要はない。
どのみちいつも通り訓練で疲れ、考える暇などないのだから。
同じように、皆はどうなのだろう。
まあ、考えても仕方ないか。
明日も早いためそろそろ寝よう。
……しかし。ふと私は思う。
あの時、先生により場が収まったものの、その子はその後もずっとうつむいていた。
チラと見えたその横顔はとても悲しそうだった。
○月※日
今日はタイムカプセルを埋める日だった。
朝、母が準備してくれた中身が入りずっしりと重くなった箱をバックにしまい家を出ていく。その時、「あんまり揺らしちゃダメよ」と母の声が背中で聞こえた。
……なるほど、壊れやすいものか。
私は急かす気持ちと戦いながらゆっくりと慎重に歩いた。
集合場所に着いた私は驚く。というのも、私の学校の生徒だけでなく、ほかにも知らない生徒がわんさかとそこに集まっていたのだ。
後から聞いた話が、どうもこの行事はここら辺一帯の学校が皆で企画したそうだ。
わたしたちは簡単な説明の後、その広い平野に横一列に並ぶ。大人数がこのように並ぶためため、それだけで時間がかかる。
そしてできた人間の列は数キロに及んだ。わたしの視界には前も後ろも、どこまでも人の頭が見えた。
わたしは持参したシャベルで穴を掘り始める。
あまり深くなくていいそうだ。
足首の深さまで掘ったそれに、私はカバンから例の箱を母の指示通りゆっくりと取り出すとそっと置く。そしてやさしく砂をかぶせ穴をもとに戻した。
最後、何年後かに見つけやすいよう、目印として、ここに向かう途中で拾ったドングリを、箱が埋められたところの少し後ろに埋めた。
これで作業は終わり。
顔を上げ周りを見ると他の子たちはすでに終わっており、もう興味がないらしく、埋めた辺りからから割と離れたところでそれぞれの時間を過ごしているのが見えた。
わたしはもう一度、色が周りよりも濃い地面を眺める。
この下に埋めたドングリが大きくなったとき、果たして自分は埋めたことを覚えているだろうか。そして仮に覚えていたとして、掘り起こした際、母が入れてくれたものに私はどんな思いが胸をよぎるのだろうか。
そんな風に、何年後になるかわからない未来を想像して、私はうれしくなるのだった。
○月#日
今日は、放課後皆で私の家に集まってお菓子を作った――
「――うっわ……こ、これは酷いねー」
「……うん」
「たしかにな」
この地を訪れた少女と虎猫、オオカミの一人と二匹は三者三様の感想をもらす。
彼女らが見ているモノ。
それは視界の右から左へと横一直線に隆起した地面。
それは横に切って見た際に隆起・陥没・隆起しており、あたかも戦時中、兵士が相手の銃弾を避けつつ待機するために掘られた溝のようにも見える。
そして、これだけではない。
その周辺に無造作に転がっているもの。
ぶにぶにとした赤黒い塊、塊、塊。
記憶にある、似たようなものに照らし合わせると、それはまさに腕や脚、そして頭等々。
人間の身体だった。
一部、動物に食べられたのかで白骨化しているものもあるが、ほとんどがここで出来てまだ新しく、皮肉にもしっかりと元の形、表情さえも確認できる。
あまりに散らばりすぎて人数は把握できないが、わかることでは彼らすべてが迷彩服を着ていた。
あたりにツンと漂う鉄のにおいは高い湿度もあってか、鼻の粘膜にべっとりまとわりついて離れない。
「……ご主人。そう言えば、前の国で、隣国へ調査にでた軍隊の一隊と連絡が取れなくなったと噂で聞いてはいましたが」
「……彼らが、そう」
高い嗅覚故、やはりきついのかオオカミは顔をそむけるがあまり変わらないらしい。鼻にしわを寄せ、少女の方を向く。
「……ここを進むのは危険」
「そうですね。ここら一帯がそういう区域なのかもしれませんし」
少女の結論に、オオカミが賛同する。
「えー! 目の前に目的の国があるってのにー」
尻尾のない虎猫はため息をつく。
「ねえ、どこか安全に通れそうな道はないの? 遠回りとかやだよ? ……あ、ほら! そこにある木の所なんかどう?」
虎猫の視線は目の前に盛り上がった地面の一点に向けられる。
そこだけがなぜか隆起も陥没もしておらず、盛り上がった山と山との切れ目になっていた。
青々とした葉っぱを茂らせた樹木がその平らな地面に一本。
「ほら、あそこの木の所とか大丈夫そうじゃない?」
自分の脚元から向けられる虎猫の視線に少女は首を横に振る。
「……ダメ」
「いい加減諦めろ。第一、不自然だろ。考えるに、おそらく木の根元なんかに……」
「はーい……」
そうして一行は目的地の国の領地を目の前にして、安全面からぐるりと遠回りする道を選ぶ。
最後、諦めきれない虎猫は振り返ろうとするも、自分の背後でざわざわとその木が鳴らす不気味な音を聞き、それと一緒に何とも言えない悪寒を感じたらしく、ぶるっとその小さな体を震わせたのだった。
☆月◇日
これを書くのは果たして何年振りだろうか?
ということで、数えてみたところ、なんと七十年ぶりだそうだ。
なぜいきなり、こんな昔の古いノートを漁ってきて、こんなふうに何十年の間を経て書き始めるに至ったか。それにはわけがある。
――先日不思議なことがあった。
ポストを開けた私は、そこに舞い込んでいた一通の便箋を手に取った。
宛先を見て私はびっくりした。なんでもそれは我が国王様からだったからだ。
おそるおそる封を開け、中身を読んでみると、それはどうも感謝の文のようで、『あなた方が昔なさったことのおかげで国が一国の危機を乗り越えることが出来ました。本当に感謝申し上げます』と記されていた。
はて? 何のことだ?
手紙を読み終わった私は首をひねる。
国の危機? 知らないな。
ちなみにわたしの家にはテレビやラジオの類はない。
小さい頃からそうだ。
まあ、今更あったところでもう耳が聞こえなわたしには不要なものだ。
昔になにかしただろうか? はて? ……昔……あ、ああそうだ。そうだった!!
私は遠い昔に書いたノートの存在を思い出す。そうするといてもたってもいられなくなり、ずっと開けていなかった押入れをこじ開け、それ以上に触ってさえもいなかった段ボールを取り出し漁った。
その中に果たしてノートはあった。
私は時を忘れ、読み耽ったのだった――
……ここまでがこのノートを見つけ、再び書き始めるまでの経緯だ。
呼んで、私は、はっきりと思い出した。
あんな昔のことなのに、いまでも鮮明によみがえってくる。
まったく、あれほど楽しみにしていたのに、何で今まで忘れていたのだろう。
みんな元気だろうか。
おそらく、いなくなってしまった人の方が多いかもしれない。
そうだ。いい機会だ。いい加減、あのタイムカプセルでも掘り起こしに行こうかな。
でもあの手紙だと、一部はもう掘り起こされてしまったようだ。
自分が埋めたのがその中にあるのだろうか?
確かめたい。
七十年前のあの日、今は亡き母はタイムカプセルにいったい何を入れてくれたのだろう。
歳からか、当時の状況はもうあまりよく覚えていない。
鮮明に覚えてるのは、わたしの国は軍がすべての中心の国だった。それで代々軍家系だった私は当然のように軍の学校に通い毎日訓練に明け暮れていた。
もちろん軍人として定年までその身を国防に捧げた。
努力あってか、戦争は一度も起きなかった。
引退してからもう早いもので二十年近く経つ。
わたしは、当時に比べ、ずっと弱くなった腰を上げると、小さなシャベルを片手に外へ出た。
空は快晴。絶好の採掘日和だ。
場所は、そう。隣の国との国境線上のどこか。
でも、心配はいらない。
目印にドングリの木を植えていたはずだから――(終)
作:笹塚とぅま
【3:What did you bury at that time?】
○月×日
今日、担任の先生からクラスのみんなに、タイムカプセルを埋めよう、との提案が出た。
わたしを含め、タイムカプセルを知らないみんなに、先生は、タイムカプセルというのは自分の大切なものを入れ、何十年後、埋めたことすら忘れていたそんな時期に皆で集まってそれを掘り起こし、その中に入ってる自分が昔いれたものを、懐かしんだり、それについて語り合うものだと説明してくれた。
そんなことして何が面白いのか? 友人の一人が手を上げ質問をしたが先生は肩をすくめ、「そうだな……大人にならないとわからないかもね」とだけ言って笑っていた。
わたしも意義はよくわからなかったが、教室での退屈な授業やきつい訓練をつぶしてやるので、正直、面白いかそうでないかはどうでもよかった。
○月△日
タイムカプセルを埋めるのは早いもので、明後日の午前中になった。
帰りの集会で、先生が埋めるモノを今日と明日のうちに親と相談し決めておくようにと言っていた。
下校中、学校のみんながみんなタイムカプセルの話をしていた。
どうも学校全体の催しごとのようだ。
帰った私は夕食を済ませまっすぐと机に向かう。
出来たら今日中に何を入れるか決めたかったけど、訓練で疲れた私にそんな体力は残されていない。
これを書いているのもやっとなほど。
何にしようか。
いいや、明日決めよう。
○月□日
先生が、決まったか? と聞いていた。
タイムカプセルを埋めるのを明日に控えた今日の帰りの集会。
決まっている子もいたし、まだ決まってない子もいた。
隣の子は決まっているよう感じだったので、私は、「何したの?」と小声でたずねたが、その子はなぜか口元をゆがめた。いままでに見たことの無い、苦く険しい顔をするその子に私は心底戸惑った。
いったいどうしたのだろうか、悪いことでも聞いてしまったのだろうか。その子の様子気付いたに周りも騒ぎはじめ、ますます何と声を掛けたらよいかわからなくなった私に先生が近寄ってきて、「おいおい、まあ何年先になるかわからないけど、何を入れたかは掘り起こすその時まで内緒だぞ。みんなもわかったか?」と騒然としかけた教室の空気をあっという間になごませた。
それから先生は、一人一人に、筆箱ほどの大きさの直方体の箱を配った。
表面が粗く削られ鈍い光沢を放った金属製のそれ。
説明だと、決めたモノをこれに入れて埋めるらしい。
そのあと、明日の集合場所や持ってくるもの、遅れた時の連絡先、そして明日の行事のことは必ず親に伝え、一緒に埋めるモノを考えるようにと念押しし、その日は下校となった。
帰り道、「さて、何にしようかな?」、とまだ決めてないクラスメイトが話す声が聞こえた。
私は、もう決めている。
いや、正確に言うと、もう決めていてくれるだろう。
というのも、今日の朝、事情を母に話したところ、明日の朝までに私の大切なものを準備してくれると約束してくれたのだ。
だから何も心配する必要はない。
どのみちいつも通り訓練で疲れ、考える暇などないのだから。
同じように、皆はどうなのだろう。
まあ、考えても仕方ないか。
明日も早いためそろそろ寝よう。
……しかし。ふと私は思う。
あの時、先生により場が収まったものの、その子はその後もずっとうつむいていた。
チラと見えたその横顔はとても悲しそうだった。
○月※日
今日はタイムカプセルを埋める日だった。
朝、母が準備してくれた中身が入りずっしりと重くなった箱をバックにしまい家を出ていく。その時、「あんまり揺らしちゃダメよ」と母の声が背中で聞こえた。
……なるほど、壊れやすいものか。
私は急かす気持ちと戦いながらゆっくりと慎重に歩いた。
集合場所に着いた私は驚く。というのも、私の学校の生徒だけでなく、ほかにも知らない生徒がわんさかとそこに集まっていたのだ。
後から聞いた話が、どうもこの行事はここら辺一帯の学校が皆で企画したそうだ。
わたしたちは簡単な説明の後、その広い平野に横一列に並ぶ。大人数がこのように並ぶためため、それだけで時間がかかる。
そしてできた人間の列は数キロに及んだ。わたしの視界には前も後ろも、どこまでも人の頭が見えた。
わたしは持参したシャベルで穴を掘り始める。
あまり深くなくていいそうだ。
足首の深さまで掘ったそれに、私はカバンから例の箱を母の指示通りゆっくりと取り出すとそっと置く。そしてやさしく砂をかぶせ穴をもとに戻した。
最後、何年後かに見つけやすいよう、目印として、ここに向かう途中で拾ったドングリを、箱が埋められたところの少し後ろに埋めた。
これで作業は終わり。
顔を上げ周りを見ると他の子たちはすでに終わっており、もう興味がないらしく、埋めた辺りからから割と離れたところでそれぞれの時間を過ごしているのが見えた。
わたしはもう一度、色が周りよりも濃い地面を眺める。
この下に埋めたドングリが大きくなったとき、果たして自分は埋めたことを覚えているだろうか。そして仮に覚えていたとして、掘り起こした際、母が入れてくれたものに私はどんな思いが胸をよぎるのだろうか。
そんな風に、何年後になるかわからない未来を想像して、私はうれしくなるのだった。
○月#日
今日は、放課後皆で私の家に集まってお菓子を作った――
「――うっわ……こ、これは酷いねー」
「……うん」
「たしかにな」
この地を訪れた少女と虎猫、オオカミの一人と二匹は三者三様の感想をもらす。
彼女らが見ているモノ。
それは視界の右から左へと横一直線に隆起した地面。
それは横に切って見た際に隆起・陥没・隆起しており、あたかも戦時中、兵士が相手の銃弾を避けつつ待機するために掘られた溝のようにも見える。
そして、これだけではない。
その周辺に無造作に転がっているもの。
ぶにぶにとした赤黒い塊、塊、塊。
記憶にある、似たようなものに照らし合わせると、それはまさに腕や脚、そして頭等々。
人間の身体だった。
一部、動物に食べられたのかで白骨化しているものもあるが、ほとんどがここで出来てまだ新しく、皮肉にもしっかりと元の形、表情さえも確認できる。
あまりに散らばりすぎて人数は把握できないが、わかることでは彼らすべてが迷彩服を着ていた。
あたりにツンと漂う鉄のにおいは高い湿度もあってか、鼻の粘膜にべっとりまとわりついて離れない。
「……ご主人。そう言えば、前の国で、隣国へ調査にでた軍隊の一隊と連絡が取れなくなったと噂で聞いてはいましたが」
「……彼らが、そう」
高い嗅覚故、やはりきついのかオオカミは顔をそむけるがあまり変わらないらしい。鼻にしわを寄せ、少女の方を向く。
「……ここを進むのは危険」
「そうですね。ここら一帯がそういう区域なのかもしれませんし」
少女の結論に、オオカミが賛同する。
「えー! 目の前に目的の国があるってのにー」
尻尾のない虎猫はため息をつく。
「ねえ、どこか安全に通れそうな道はないの? 遠回りとかやだよ? ……あ、ほら! そこにある木の所なんかどう?」
虎猫の視線は目の前に盛り上がった地面の一点に向けられる。
そこだけがなぜか隆起も陥没もしておらず、盛り上がった山と山との切れ目になっていた。
青々とした葉っぱを茂らせた樹木がその平らな地面に一本。
「ほら、あそこの木の所とか大丈夫そうじゃない?」
自分の脚元から向けられる虎猫の視線に少女は首を横に振る。
「……ダメ」
「いい加減諦めろ。第一、不自然だろ。考えるに、おそらく木の根元なんかに……」
「はーい……」
そうして一行は目的地の国の領地を目の前にして、安全面からぐるりと遠回りする道を選ぶ。
最後、諦めきれない虎猫は振り返ろうとするも、自分の背後でざわざわとその木が鳴らす不気味な音を聞き、それと一緒に何とも言えない悪寒を感じたらしく、ぶるっとその小さな体を震わせたのだった。
☆月◇日
これを書くのは果たして何年振りだろうか?
ということで、数えてみたところ、なんと七十年ぶりだそうだ。
なぜいきなり、こんな昔の古いノートを漁ってきて、こんなふうに何十年の間を経て書き始めるに至ったか。それにはわけがある。
――先日不思議なことがあった。
ポストを開けた私は、そこに舞い込んでいた一通の便箋を手に取った。
宛先を見て私はびっくりした。なんでもそれは我が国王様からだったからだ。
おそるおそる封を開け、中身を読んでみると、それはどうも感謝の文のようで、『あなた方が昔なさったことのおかげで国が一国の危機を乗り越えることが出来ました。本当に感謝申し上げます』と記されていた。
はて? 何のことだ?
手紙を読み終わった私は首をひねる。
国の危機? 知らないな。
ちなみにわたしの家にはテレビやラジオの類はない。
小さい頃からそうだ。
まあ、今更あったところでもう耳が聞こえなわたしには不要なものだ。
昔になにかしただろうか? はて? ……昔……あ、ああそうだ。そうだった!!
私は遠い昔に書いたノートの存在を思い出す。そうするといてもたってもいられなくなり、ずっと開けていなかった押入れをこじ開け、それ以上に触ってさえもいなかった段ボールを取り出し漁った。
その中に果たしてノートはあった。
私は時を忘れ、読み耽ったのだった――
……ここまでがこのノートを見つけ、再び書き始めるまでの経緯だ。
呼んで、私は、はっきりと思い出した。
あんな昔のことなのに、いまでも鮮明によみがえってくる。
まったく、あれほど楽しみにしていたのに、何で今まで忘れていたのだろう。
みんな元気だろうか。
おそらく、いなくなってしまった人の方が多いかもしれない。
そうだ。いい機会だ。いい加減、あのタイムカプセルでも掘り起こしに行こうかな。
でもあの手紙だと、一部はもう掘り起こされてしまったようだ。
自分が埋めたのがその中にあるのだろうか?
確かめたい。
七十年前のあの日、今は亡き母はタイムカプセルにいったい何を入れてくれたのだろう。
歳からか、当時の状況はもうあまりよく覚えていない。
鮮明に覚えてるのは、わたしの国は軍がすべての中心の国だった。それで代々軍家系だった私は当然のように軍の学校に通い毎日訓練に明け暮れていた。
もちろん軍人として定年までその身を国防に捧げた。
努力あってか、戦争は一度も起きなかった。
引退してからもう早いもので二十年近く経つ。
わたしは、当時に比べ、ずっと弱くなった腰を上げると、小さなシャベルを片手に外へ出た。
空は快晴。絶好の採掘日和だ。
場所は、そう。隣の国との国境線上のどこか。
でも、心配はいらない。
目印にドングリの木を植えていたはずだから――(終)
《不完全ツーリズム》
作:笹塚とぅま
【Page4.:Fiction】
――昔ある国に、一組の夫婦とその間に一人の息子がいました。
優しい母親と真面目な父親、特別裕福ではないものの、親子三人幸せに暮らしていたそうです。
そんなある日、父親は自分の会社が税務署へ不正申告していることに気付いてしまい……――
――昔ある国に、一組の夫婦とその間に一人の息子がいました。
優しい母親と真面目な父親、特別裕福ではないものの、親子三人幸せに暮らしていたそうです。
そんなある日、青果店に行った母親がデザートを梨かリンゴどちらか選択していると目の前に、店のご主人が大きな桃を持ってくるではありませんか! ……――
――昔ある国に、一組の夫婦とその間に一人の息子がいました。
優しい母親と真面目な父親、特別裕福ではないものの、親子三人幸せに暮らしていたそうです。
そんなある日、遅刻ギリギリの息子が学校に行く途中ふと空を見上げると、なにかが降ってくる! よく目を凝らしてみるとそれは……び、美少女!? ……――
《――昔ある国に、一組の夫婦とその間に一人の息子がいました。
優しい母親と真面目な父親、特別裕福ではないものの、親子三人幸せに暮らしていたそうです。》
『続きをご自由に書いてお貼りください』
「へーおもしろいねー。自分でお話の続きを書くんだー」
この国で一番大きな公民館のホールの壁の前。
壁一面に貼られたはがき程度の大きさの紙に書かれている各作品――それぞれの物語――を旅人の少女と、彼女の付添であるオオカミと虎猫の二匹が眺めていた。
「ご主人も一つどうです?」
「あ、ナディの書いた話見たいかもー……ってどうしたの?」
「……これ」
銀色の毛並みを持つ大型のオオカミと尻尾のない虎猫の声に少女はというと、たくさん貼られているものの中の一枚を指差す。
それは壁の下の隅にひっそりと貼られており、読んだ二匹は同時に声をあげたのだった。
「わーお、偶然もあるもんだー」「これって……」
――昔ある国に、一組の夫婦とその間に一人の息子がいました。
優しい母親と真面目な父親、特別裕福ではないものの、親子三人幸せに暮らしていたそうです。
そんなある日、その国と隣の国で戦争が起きました。
もちろん、国から兵隊を出すことになるのですが、その時ですでに50代後半の父親は戦力にならないと徴兵されることはありませんでした。
しかし、当然ですが若く働き盛りの息子が兵隊として駆り出されました。
そして出兵当日。
『必ず帰ってくる』と残した息子を父母は泣く泣く送り出したのでした。
それから八年の月日が流れました。
その間に、戦争はいっそう激しくなり、両国ともたくさんのモノを破壊し破壊され、たくさんの人を殺し殺されました。
結果、兵は疲弊し、資源が尽き、これ以上戦争を続けられなくなった両国は休戦協定を結びこの長い戦争に区切りをつけることを選びました。
こうして長かった戦争はこうしてすべてのモノを失い、だれの笑顔なくその幕を下ろしたのでした。
しかし、夫婦の下に息子が戻ってくることはありませんでした。
一年二年と過ぎても息子は帰ってくることはなく、不幸にも、息子の姿を見ないまま病気で父親はこの世を去りました。
それでも、残された母親は一時も息子のことを忘れず、必ずや帰ってくると信じていました。
そうして二十年の歳月が経ったある日。
母親がリビングで書き物をしていると、家の玄関のドアが叩かれました。
まさか! もう六十を越えかなりのおばあさんになった母親は期待が滲む顔でドアを開けます。
しかし、すぐにその顔は失望に変わりました。
そこに息子はいませんでした。
代わりにそこにいたのは、猫とオオカミを連れた、自分の身体と同じくらいの大きさのリュックサックを背負った可愛い女の子でした。
深緑色のニットを被り、サスペンダーが付いたデニムのパンツ、全体的にだぼっとした服装の少女は背負っていた大きなリュックサックをおろしそこから小さくボロボロのカバンを一つ取り出すと、驚く老夫婦に無言でそれを老夫婦に渡します。
受け取った母親がおそるおそる中を確認すると、そこには分厚く束になった紙が入っていて、その最初の一ページには『これを拾った方へ、どうかここに書いてある住所に届けてほしい』とあり、記述通りすぐ下にはどこかの住所が記されています。
「これって……ここじゃない。まさか……!」
一枚めくるとそこには紙いっぱいにびっしりと文字が並んでいます。
母親は食い入るように、無我夢中でそこに書かれた文字を追っていきます。
それは感謝と謝罪が書かれた手紙。
どれもが夫婦二人に当てたモノで、送り主の名は最後のページに小さく入れられていました。
少女はこれを、この国へ来る途中の森で見つけた、大分古い白骨化した死体の近くにあったことを拾ったと伝えました。
母親にとって、いや夫婦にとっての戦争が本当の意味で終わった瞬間でした。
「そうか……うん、わかってた。君、わざわざありがとうね」
「……いえ……では、私はこれで」
「本当に……本当にありがとう」
無理やりだとわかる笑顔を向ける母親に、そう返した少女はくるりと玄関の方を向く。
ゆっくりと後ろ手で扉を閉めた少女。その背中には、我慢の席が壊れてしまった母親の、いろんな感情をそのまま表したかのような泣き声が聞こえてきます。
「……たしかに届けました」
遠く空を見つめ、ここに存在しない者に向かって少女は小さくつぶやいたのでした。――(終)
作:笹塚とぅま
【Page4.:Fiction】
――昔ある国に、一組の夫婦とその間に一人の息子がいました。
優しい母親と真面目な父親、特別裕福ではないものの、親子三人幸せに暮らしていたそうです。
そんなある日、父親は自分の会社が税務署へ不正申告していることに気付いてしまい……――
――昔ある国に、一組の夫婦とその間に一人の息子がいました。
優しい母親と真面目な父親、特別裕福ではないものの、親子三人幸せに暮らしていたそうです。
そんなある日、青果店に行った母親がデザートを梨かリンゴどちらか選択していると目の前に、店のご主人が大きな桃を持ってくるではありませんか! ……――
――昔ある国に、一組の夫婦とその間に一人の息子がいました。
優しい母親と真面目な父親、特別裕福ではないものの、親子三人幸せに暮らしていたそうです。
そんなある日、遅刻ギリギリの息子が学校に行く途中ふと空を見上げると、なにかが降ってくる! よく目を凝らしてみるとそれは……び、美少女!? ……――
《――昔ある国に、一組の夫婦とその間に一人の息子がいました。
優しい母親と真面目な父親、特別裕福ではないものの、親子三人幸せに暮らしていたそうです。》
『続きをご自由に書いてお貼りください』
「へーおもしろいねー。自分でお話の続きを書くんだー」
この国で一番大きな公民館のホールの壁の前。
壁一面に貼られたはがき程度の大きさの紙に書かれている各作品――それぞれの物語――を旅人の少女と、彼女の付添であるオオカミと虎猫の二匹が眺めていた。
「ご主人も一つどうです?」
「あ、ナディの書いた話見たいかもー……ってどうしたの?」
「……これ」
銀色の毛並みを持つ大型のオオカミと尻尾のない虎猫の声に少女はというと、たくさん貼られているものの中の一枚を指差す。
それは壁の下の隅にひっそりと貼られており、読んだ二匹は同時に声をあげたのだった。
「わーお、偶然もあるもんだー」「これって……」
――昔ある国に、一組の夫婦とその間に一人の息子がいました。
優しい母親と真面目な父親、特別裕福ではないものの、親子三人幸せに暮らしていたそうです。
そんなある日、その国と隣の国で戦争が起きました。
もちろん、国から兵隊を出すことになるのですが、その時ですでに50代後半の父親は戦力にならないと徴兵されることはありませんでした。
しかし、当然ですが若く働き盛りの息子が兵隊として駆り出されました。
そして出兵当日。
『必ず帰ってくる』と残した息子を父母は泣く泣く送り出したのでした。
それから八年の月日が流れました。
その間に、戦争はいっそう激しくなり、両国ともたくさんのモノを破壊し破壊され、たくさんの人を殺し殺されました。
結果、兵は疲弊し、資源が尽き、これ以上戦争を続けられなくなった両国は休戦協定を結びこの長い戦争に区切りをつけることを選びました。
こうして長かった戦争はこうしてすべてのモノを失い、だれの笑顔なくその幕を下ろしたのでした。
しかし、夫婦の下に息子が戻ってくることはありませんでした。
一年二年と過ぎても息子は帰ってくることはなく、不幸にも、息子の姿を見ないまま病気で父親はこの世を去りました。
それでも、残された母親は一時も息子のことを忘れず、必ずや帰ってくると信じていました。
そうして二十年の歳月が経ったある日。
母親がリビングで書き物をしていると、家の玄関のドアが叩かれました。
まさか! もう六十を越えかなりのおばあさんになった母親は期待が滲む顔でドアを開けます。
しかし、すぐにその顔は失望に変わりました。
そこに息子はいませんでした。
代わりにそこにいたのは、猫とオオカミを連れた、自分の身体と同じくらいの大きさのリュックサックを背負った可愛い女の子でした。
深緑色のニットを被り、サスペンダーが付いたデニムのパンツ、全体的にだぼっとした服装の少女は背負っていた大きなリュックサックをおろしそこから小さくボロボロのカバンを一つ取り出すと、驚く老夫婦に無言でそれを老夫婦に渡します。
受け取った母親がおそるおそる中を確認すると、そこには分厚く束になった紙が入っていて、その最初の一ページには『これを拾った方へ、どうかここに書いてある住所に届けてほしい』とあり、記述通りすぐ下にはどこかの住所が記されています。
「これって……ここじゃない。まさか……!」
一枚めくるとそこには紙いっぱいにびっしりと文字が並んでいます。
母親は食い入るように、無我夢中でそこに書かれた文字を追っていきます。
それは感謝と謝罪が書かれた手紙。
どれもが夫婦二人に当てたモノで、送り主の名は最後のページに小さく入れられていました。
少女はこれを、この国へ来る途中の森で見つけた、大分古い白骨化した死体の近くにあったことを拾ったと伝えました。
母親にとって、いや夫婦にとっての戦争が本当の意味で終わった瞬間でした。
「そうか……うん、わかってた。君、わざわざありがとうね」
「……いえ……では、私はこれで」
「本当に……本当にありがとう」
無理やりだとわかる笑顔を向ける母親に、そう返した少女はくるりと玄関の方を向く。
ゆっくりと後ろ手で扉を閉めた少女。その背中には、我慢の席が壊れてしまった母親の、いろんな感情をそのまま表したかのような泣き声が聞こえてきます。
「……たしかに届けました」
遠く空を見つめ、ここに存在しない者に向かって少女は小さくつぶやいたのでした。――(終)
《不完全ツーリズム》
作:笹塚とぅま
【Page.5:Trading!!】
「それでは良い旅を」
「おねーちゃんばいばーい」
とある日のとある国。
宿の支配人の男性とその娘に出発を見送られ、街中を歩くのは緑のニット帽をかぶり上は白のタートルネック、下はサスペンダーが付いたジーンズ、スニーカー、そして自分の身体ほどある大きさのリュックサックを背負った全体的にだぼっとした印象を与える少女。今彼女は自分の手の中のものを眺めかくんと首を傾げる。
そんな少女の隣をちょこちょこと歩いていた尻尾のない虎猫はなにごとかと尋ねる。
「ナディ、それなにー」
「ん……ネジ?」
「ネジ、ですか。それはまたどうしたのですか?」
少女の後ろを銀色の毛並みをなびかせながら歩く大型のオオカミは少女と同じように首を傾げる。
「まさかナディに拾い癖があったとはねー。忘れないようにメモしとこーっと……ってボク文字かけなからナディ、代わりに書いといてー」
「……で、ご主人。何でそんなものをまた」
「無視!?」
「……これ」
「わー随分大きなネジ……ってこれはボルトだねー」
「復活早いな」
「ふふん。それくらいでめげたりはしないよ。で、この大きさだと、随分大きなものを留めておくためのおそらく特注ものだから、落とした人は数が足りなくて相当困ってるはず――」
「――ちょ、ちょっと君。君が手に持っているもの見せてくれないかな?」
「ほーら来た」
シャツからはち切れんばかりの日に焼けた筋肉をまとった大柄のいかにも建設業である男性が重そうにこっちへと走ってくるのが確認できた。
額に汗をびっしりと浮かべた彼は少女の前で足を止めると、ふぅと息を吐いて呼吸を整えると、しゃがみこんで少女の手の中をのぞき込んで声をあげる。
「ああやっぱりだ! これだ、これ。よかったーほんと現場監督になんて言い訳したらいいか困ってたんだよー」
男性は、少女の手からひょいとボトルを取りあげると、元来た道をまた重そうに走っていった。
「……なんか、嵐のようだったねー」
「でも、持ち主が見つかってよかった……ん」
「――おーい、さっきの君!」
「ほー戻ってきたー」
先ほどの男性が再びこっちに向かって走ってくる。男性は少女の前で足を止めると今度は息を整う間もなくしゃべり始める。
「すまない。君が拾ってくれたんだよね。これ、お礼と言うわけではないんだけど、是非受け取ってくれ」
そして男性はしゃがみこんで少女の手にそのお礼を握らせると、来た道を次は全力疾走で返っていった。
☆
「相変わらず、嵐のようだったねー」
街中を歩き続け、先ほど口を挟めなかった虎猫が感心の声でつぶやく。「エコと対極な生き方だ」
「ご主人何をもらったのですか?」
「……これ」
少女は握っていたものを二匹に見せる。それは鉄製の円柱で側面はゴシック体の文字がラべリングがされていた。
「缶ジュースかー……そして、いかにもって感じだねー」
「ん? 中身はなんなんだ?」
「コーヒー」
「うっ」
なにか良くない思い出でもあるのか、鼻の上にしわを寄せるオオカミ。
「しかも、無糖」
「ご主人は飲め……なそうですね」
実際に見なくてもオオカミには少女が苦い顔で全力で首を振っているのがわかった。
「となると、いらないのをもらったわけか……ご主人。売ってお金にしたらどうです?」
「ちょっ、なんてこと言うの! 人が感謝の心であげたものだよ? それを売るだなんて……信じられない!」
あまり見ない虎猫の本気の口調に、オオカミは今まで見えてなかった自分の浅はかさに気付いてしまう。
「それもそうだな……すまない。私は人の善意を金にだなんて、なんて心が汚いんだ。ありがとう、ルゥ。まさかお前に教えられるとは……そうだ。ご主人も私も飲めないからルゥが好きに飲んでいいぞ」
「ねえナディ、いくらで売れるかなー?」
「……売ったこと、ない」
「まあ、そりゃそうだよねー」
「おい」
「あ、ヴォルフはいくらだったら買いたい?」
「そっちじゃない」
少しでも心動かされた自分が馬鹿だったという羞恥と後悔を材料に怒りを練成するオオカミだが、いつものことなので冷静に怒った方が負けだと諦める。
「はぁ……で、いくらで買いたいと聞かれても、欲しくもないモノに値段なんて……それは欲しい人に聞く質問だろ」
「そーかー、だよねー。あーどこかにコーヒー欲しい人いないかなー」
「そんな都合よく――」
「――その缶コーヒー……私が買おう」
「おーいたー」
「んごうっ!」
自分でもどう出たかわからない声で咳き込み、唖然に取られるオオカミ。
声の主は、先ほどの男性とは対照的に、ひょろりとやせぎすの白衣を着た――研究員であろう――白い顔に目の下の濃い隈が印象的な男性だった。
「その、その缶コーヒー……私が買おう。ちょうど切れてしまってな……学会まであと少しなんだ……」
ふらふらと、足取りがおぼつかない男性。きっと何日も寝ていないのだろう。
そこまでして頑張る姿にオオカミは心打たれてしまう。
「ご主人、是非彼に缶コーヒーを……」
「そうだねー、でも……お兄さん。この缶コーヒー少し高いよー?」
「んぐあ! お前なんてことを!」
「っく……そ、そうなのかっ!」
「え!?」
困ったと頭を抱える男性。どう見ても普通の缶コーヒーなのだが、こもりっきりの生活をしているせいか感覚が少しずれているのかもしれない。そして自分が返す言葉をすべて虎猫に取られ、会話に完全に乗り遅れている少女は片手に缶コーヒーを握る置物と化していた。
「まいった……今そんなに持ってないからな……ん? あっ、これがあるじゃないか! うん、き、君! これをやるからコーヒーを譲ってくれ!」
そして男性は少女の返事を待たずに彼女の手から缶コーヒーを抜き取ると、代わりに自分のポッケから出した小型の箱を二つ握らせる。
「それ、開発途中でできたやつだから安全は保障できないけど、威力だけは上からのお墨付きだから! ほんとありがとう!」
最後、不穏な言葉を残した男性は交換で得た缶コーヒーを飲みながらあっという間に去って行ったのだった。
☆
「ナディー、それなにー」
「……っ!」
「ご主人……」
まったく会話に交ざれず、意識だけがどこか遠くに行ってしまっていたらしい少女。そんな自分の主人にオオカミは気の毒な気持ちでいっぱいになった。
ぶつからないように注意し街中を再び歩き始め、少女は自分が握っているものを確認する。
「? ……??」
しかし、というよりもさっきまで自分の手元にあった缶コーヒーが違うものにすり替わっている状況がいまだ処理できていない様子。
「……これ?」
少女の手のひらに収まるほど小さい箱が二つ。
「なんか、安全がどうとか威力がどうとか言ってたよー」
片方には赤いボタンとそれが簡単に押されないための透明なケースがついていた。
誰の目にもその正体がわかった。
「……これ、爆弾」
「そのようですね」
ちなみにオオカミは臭いでわかった。
「どうする? 押しちゃう?」
「馬鹿を言え……それにしても、これは私たちの手に余るな……だからってこんな物騒なもの欲しい人なんてそうそう現れな――」
「――爆弾? 今、あなた爆弾、爆弾って言いました?」
「んがぁっ!」
「いこともなかったねー」
声は道の脇に留められた一台のトラックからだった。
乗っていたのは二十前後の若く背の高い女性が一人。話してみると彼女は単独で動く行商人らしく、この国で商売をし終わってちょうど出国を考えていたところだったそうだ。
運転席の窓から身を乗り出していた女性は少女らが自分に気付くと車を降り、荷台を漁るとそこから木製の箱を持って少女たちのところへとやってくる。
「ちょうどよかったよ! 聞くところによると今、国を出てきたの道で岩が道路を塞いでるらしくてね。他の行商人らが立ち往生してるそうなんだ。だから、君の持っているそれでなんとかしたいんだよね。ふふっ、それで奴らからお礼をがっぽり……いや、同胞が困っているのがわかっているのに助けないのは人間が廃るからねっ! ……と言うわけで、ねえ、あなた。その爆弾とこの箱に入った壺を交換しない?」
にっこりと裏には年密に計算された下心をはらんだ笑顔で取引を提示する女性。これが商人なのかとオオカミは苦笑いしつつ、心の奥で敵に回したくないと誓った。
「……壺……怪しい……」
こういう状況は慣れているのか、少女は静かだが確かに警戒心を持った目で女性を見る。これには、さすが長く旅をしていないなとオオカミは感心する。
「そっかー残念だなー……この壺は口には出せない危険を伴う極秘のルートで手に入れた……なんか歴史あるたいそうな壺らしいんだけど――売ったら一生遊んで暮らせるほどの値がつくとか」
「……はい、どうぞ」
「ご主人……」
すんなりと爆弾とそのスイッチを差し出す少女。どうも、物欲に対し冷静な警戒心は無力だったらしい。
「ほんと!? ありがとー」
女性は少女から爆弾を受け取ると約束通り壺が入っているらしい箱を手渡す。女性はともかく、少女の箱を抱きしめるその表情は心なしか満足げに見える。
「うふふ、これで予定外の儲けが……い、いや助かるよ! 旅をしてたらまた会うかもね!」
女性は早口に別れを告げトラックに飛び乗ると、まるで逃げるかのようにエンジンをふかせアクセル全開で街路を突っ走りあっという間に見えなくなってしまった。
「……ご主人。これでよかったんですか」
「……っ!」
欲から今やっと我に返った自分の主人にオオカミはそれ以上尋ねられなかった。
☆
「今回は何も言わなかったんだな」
邪魔にならない薄暗い裏道に移動した一行。
後悔からかうつろ目でも一応中身の確認のために箱を開ける主を遠くから見守る虎猫にオオカミが話しかける。
「んーまあ、たしかにあの壺が本物とも限らないけど、ボクらが持ってた爆弾が本当に爆弾だとも限らないし。勝手にボクらがそう言っていただけだからね。そしてさらには本物でも不発弾だって可能性も捨てられない。まあそもそも、拾ったものから始まったんだしどのみちボクらは得することはあっても絶対に損はしないんだよねー。ナディはそれをちゃんと込みで取引したんだよ」
「そ、そうならいいんだ」
現在の少女を囲む雰囲気は絶対そうじゃない、虎猫もそれがわかってる。それだけはオオカミにもわかった。
「なにー気になるんだったら聞いてみるー?」
「やめてくれ」
「それよりも、気付かない?」
「なにがだ? ……あ、ルゥよ。お前なんかこの状況を楽しんでいるな?」
「まあ、ボクが知ってる話と同じ状況にいるからそれもあるけど……じゃなくて、えーほんとに気づかないのー」
ありえなーいといった顔の虎猫は腹立たしいが何も思い当たるモノが無いオオカミは何も言うことができない。
「もーほら、ナディ最近表情豊かになったよね」
「あ、言われてみれば……」
確かにそうだとオオカミは少女を見る。彼女は今、箱の封を解き蓋に手をかけたところだった。
オオカミは少女と出会った最初のころを思いだす――
「……あ」
二匹の耳に蓋を開けた少女が小さくつぶやくのが聞こえ、オオカミの回想は始まる前に終わった。
「どう? ……ってあららー……」
「ま、まあ、そんなもんですよ」
箱の中からゴロリと転がり出てきたのは土の塊だった。それはどの角度から見ても、どの距離から見ても、どう目を細めて見ても変わることはなかった。
「…………」
二匹は駆け寄ったものの、地面に手をつき完全に落ちこんでしまっている少女に何と言ってあげたらよいか考えあぐねいているもよう。
「ナディって、たまーにだけどちょっとだけ抜けてるとこあるよねー」
「今はそんな場合じゃないだろ……ってご主人何を!?」
「…………」
無言で土の塊を頭上高く持ち上げた少女にオオカミが叫ぶ。
「――ちょっと、ちょっと。待ってください!」
「……ん?」
人がいない裏通りに突然と響く声に少女が腕を降ろすと、その隙をついたかのように誰かがその手から土の塊をかすめ取る。
「あ、危なかった……」
その誰か――土の塊を大事そうに抱える執事服を着た初老の男性はふうと一息つくと少女たちの前で深々と頭を下げた。
「旅人の方でいらっしゃいますでしょうか、このたびは突然の失礼大変申し訳ございません」
「――じいや! 見つかったの?」
「はい、お嬢様! やっと見つけました!」
明るい表通りからの声に、じいやと呼ばれた男性は嬉しそうに返事をする。
それから、コツ、コツと音が響き声の主が今はっきりとその姿を少女たちの前に現わす。
「あなたたちが我が一族の家宝を見つけてくれたのね。まず当主として礼をいうわ」
それは身体のラインに沿う赤くシンプルなドレスをまとった女性。そのまとうオーラは明らかに一般人のそれと異なりオオカミは一瞬だが人間と向き合っていることを忘れる。少女が目を凝らすと表通りからこちらを見ているおつきのメイドが控えているのが確認できた。
いわゆる『富豪』とカテゴライズされるような類の方だった。
「いやいやーこちらこそお礼を言いたいところかなー?」
平気でしゃべる虎猫にオオカミは安心するとともに、虎猫の言葉通りこの執事が止めに入らなかったら自分の主人が家宝を壊していたという事実に全身が震えた。
「そ、そう」
虎猫の言葉の意味がわかるはずがない女性はあいまいな返しをするが、もちろん二匹がそのことを教えるはずはない。
「……えっと」
「なにかしら?」
「……それが、家宝なん、です、か……?」
今は執事が大切そうに抱く土の塊を少女が震える指で尋ねる。
「あなた、幼いのに失礼ね。……いや幼いからかしら。『そんな、土塊を大事にするだなんてよっぽど変わっている一族だ』と思いっきり顔に書いてあるわ。でも、そうね……誤解されたままだと一族の恥になりかねないし、この際いいわ。見せてあげる。じいや! それを私に課してちょうだい」
「はい! お嬢様」
女性は執事から土の塊を受け取ると、さっき少女がしたように頭上高く持ち上げて……
ゴトン。
地面に思いっきり叩きつけた。
「「ええーっ!」」
オオカミと執事の声が重なる。
「きっとこの塊はこうなる運命だったのかもねー」
虎猫ののんきな声がそれに続く。
「なんで、じいやまで驚いてるのよ……ほら見なさい」
女性は壊れた土の塊をゆっくり拾い上げると他の皆に見せる。
「これは……驚きました」
割れた隙間から、何かに綺麗な模様が入っているのが見えた。
「そういうことよ……って私としては長年わが家に仕えているあなたが知らなかったことに驚きよ」
そう言うとゴッ、ゴッ、ゴッと塊を地面にぶつけさらに土を落としていく女性。
「こうやってっ、先代はっ、土で固めることで価値あるモノをっ、価値の無いものにしたのよっ……ほら、こんなもんでいいかしら」
そうして女性の手に残ったのは両手に乗るサイズの壺。陶器製のシンプルな形とは対照的に白い下地に赤青緑で複雑な模様が幾重にも重なっている。
「これでわかったでしょう。ついでだから言っておくと、これの価値は売った場合だと一生遊んで暮らせるくらいのお金が手に入るわ。ほんと、泥棒に入られたかでなくなったことを知った時は私、心臓が止まりかけたわ」
「私もお嬢様と同じお心でしたよ」
「いいえ、じいやは実際に止まったわ」
「なるほど、道理で三日ほどの記憶がうまく思い出せないのですね」
和やかに笑う二人。しかしその内容は決して笑えるものでない。
「ちょ、泥棒って」
二人の会話に聞き捨てならない単語が混じっていたことに気付いたオオカミ。その脳裏には何分か前に出会ったトラックに乗った行商人の女性の顔が浮かんでいた。
「あ、別にあなたたちを疑っているわけじゃないわよ。そう、こうして戻って来てくれれば正直どうだっていいのよ」
そう言って女性は手元に戻ってきた家宝に頬ずりをする。
「さーて。お礼をしないとね……なにがいいかしら……あ、そうだ――」
☆
「あの……これは、えっと、いったい……」
男性は混乱で頭の整理が追いついていないのか、上手く言葉が出てこない。
しかし、それでも頬を流れる涙が今の状況に対する彼の感情を的確に表現していた。
「おかえり、あなた。……少しやせたんじゃない?」
男性と向かい合う女性は、久しぶりに見る昔よりやつれた夫の顔にフフッと笑った。
「そんな、お前だって……」
ひどく疲れきった様子の妻に男性も心配の声をかける。
「どうして……お前の家系は一生をあの家に仕えて……」
「そうね……どうしてかしら?」
女性は後ろに立っている少女たちをチラと見る――
少女がお嬢様と呼ばれる女性からお礼としてもらったのは専属のメイドだった。彼女曰く『いると何かと便利だから、一人くらいは持っておくべき』だそうだ。突然の解雇にメイドの方は何も言わず元主に軽く会釈をしただけで、すぐに少女たちの方を向くと『よろしくお願いしますお嬢様』と深々と頭を下げたのだった。
そうして、メイドを手に入れた少女一行。想定してなかった事態に驚き慌てる虎猫とオオカミだったが、少女は考えるところがあるのか、ふむりと少し考えた後、自分のリュックから自分がいつもつけている分厚いノートを取り出すとパラパラとめくりお目当てのページを読み込むとメイドの顔を見て、うんうんとなにか確信する。そしてノートをもどしリュックを背負うと少女は「行くよ」と皆に残し歩き始める。
そして、日がとっぷり暮れたころ、少女の後について一行がたどり着いたのは、昨日少女たちが泊まり今日出発したあの宿だった。
「――つまり、そこの旅人さんがお前をここに……」
「そういうことね。運命というかこんな偶然もあるのね」
宿のフロント前の休憩所。
支配人である男性の言葉に説明を終えた女性は肩をすくめた。
「ねーナディ。何でメイドさんがここの奥さんだってわかったのー?」
「これ……」
虎猫の言葉に少女はフロント横の棚の上に飾られたカメラと一緒にある写真立てを指差した。
そこに映るのは三人。
支配人の男性と、生まれたばかりの娘。
そして男性の隣で我が子を抱いていたのが、今少女たちの目の前にいるメイドだった。
「ほんとよく見てたねナディ」
虎猫が感心の声をあげていると廊下からペタペタと足音が聞こえてくる。
「パパどーしたの……?」
廊下の扉を開け出てきたのは、寝ているところを起こしてしまったらしく片方の手で眠い目をこすりながらもう一方で無為ぐるみを引きずった宿のひとり娘だった。
「……っ!」
その瞬間、メイドの女性はゆっくりとその子のところまで歩くと目線の高さが合うように膝をつきしっかりとその顔を見る。
本来絶対に交わるはずのない道を歩く運命のもとにいた二人の間に生まれた子。
そして長年一時も忘れず、しかし会いたくても会えなかった我が子。
「お……大きくなったね……」
女性はその存在を確かめるかのように力いっぱい抱きしめたのだった。
「マ、マ……? ママ!? ママ! ねえパパ! ママが、ママがかえってきた!」
突然のことに戸惑いながらも、娘はしっかりと母の顔を覚えていた。
「ずっと、ずっと会いたかった……」
「ねえパパ、ママがかえってきた!」
母の目からも、そして娘の目からも溢れこぼれる雫。それは今まで必死に耐えていたさびしさの涙だった。
そんな母と子の再会に同じように涙でぐしゃぐしゃの支配人の男性が少女の手を握る。
「旅人さん。本当に、本当にありがとうございます……もう、何とお礼したらよいか……」
「お礼だってーナディ」
「はい。できる限りのことをさせてもらいます!」
支配人の言葉に口元に手を当てふむうと考える少女。
しかし、なかなか思い浮かばないのか、眉間にしわ、口がへの字とだんだんその表情が険しくなっていく。
「おねーちゃん」
「……ん」
「ありがとー!」
「……!」
呼ばれ、ふと顔を上げた少女は「あっ」と声をあげそうになる。
彼女の目に映っていたのは、再会を喜びあう父と母と娘。
それは本来なら一緒になるべきの『家族』で、本来なら一緒になれなかった『家族』で、
――ようやく一緒になれた『家族』だった。
「……決めた」
少女はつぶやくと棚のカメラを手に取った。
「……写真……写真を撮らせてください」(終)
作:笹塚とぅま
【Page.5:Trading!!】
「それでは良い旅を」
「おねーちゃんばいばーい」
とある日のとある国。
宿の支配人の男性とその娘に出発を見送られ、街中を歩くのは緑のニット帽をかぶり上は白のタートルネック、下はサスペンダーが付いたジーンズ、スニーカー、そして自分の身体ほどある大きさのリュックサックを背負った全体的にだぼっとした印象を与える少女。今彼女は自分の手の中のものを眺めかくんと首を傾げる。
そんな少女の隣をちょこちょこと歩いていた尻尾のない虎猫はなにごとかと尋ねる。
「ナディ、それなにー」
「ん……ネジ?」
「ネジ、ですか。それはまたどうしたのですか?」
少女の後ろを銀色の毛並みをなびかせながら歩く大型のオオカミは少女と同じように首を傾げる。
「まさかナディに拾い癖があったとはねー。忘れないようにメモしとこーっと……ってボク文字かけなからナディ、代わりに書いといてー」
「……で、ご主人。何でそんなものをまた」
「無視!?」
「……これ」
「わー随分大きなネジ……ってこれはボルトだねー」
「復活早いな」
「ふふん。それくらいでめげたりはしないよ。で、この大きさだと、随分大きなものを留めておくためのおそらく特注ものだから、落とした人は数が足りなくて相当困ってるはず――」
「――ちょ、ちょっと君。君が手に持っているもの見せてくれないかな?」
「ほーら来た」
シャツからはち切れんばかりの日に焼けた筋肉をまとった大柄のいかにも建設業である男性が重そうにこっちへと走ってくるのが確認できた。
額に汗をびっしりと浮かべた彼は少女の前で足を止めると、ふぅと息を吐いて呼吸を整えると、しゃがみこんで少女の手の中をのぞき込んで声をあげる。
「ああやっぱりだ! これだ、これ。よかったーほんと現場監督になんて言い訳したらいいか困ってたんだよー」
男性は、少女の手からひょいとボトルを取りあげると、元来た道をまた重そうに走っていった。
「……なんか、嵐のようだったねー」
「でも、持ち主が見つかってよかった……ん」
「――おーい、さっきの君!」
「ほー戻ってきたー」
先ほどの男性が再びこっちに向かって走ってくる。男性は少女の前で足を止めると今度は息を整う間もなくしゃべり始める。
「すまない。君が拾ってくれたんだよね。これ、お礼と言うわけではないんだけど、是非受け取ってくれ」
そして男性はしゃがみこんで少女の手にそのお礼を握らせると、来た道を次は全力疾走で返っていった。
☆
「相変わらず、嵐のようだったねー」
街中を歩き続け、先ほど口を挟めなかった虎猫が感心の声でつぶやく。「エコと対極な生き方だ」
「ご主人何をもらったのですか?」
「……これ」
少女は握っていたものを二匹に見せる。それは鉄製の円柱で側面はゴシック体の文字がラべリングがされていた。
「缶ジュースかー……そして、いかにもって感じだねー」
「ん? 中身はなんなんだ?」
「コーヒー」
「うっ」
なにか良くない思い出でもあるのか、鼻の上にしわを寄せるオオカミ。
「しかも、無糖」
「ご主人は飲め……なそうですね」
実際に見なくてもオオカミには少女が苦い顔で全力で首を振っているのがわかった。
「となると、いらないのをもらったわけか……ご主人。売ってお金にしたらどうです?」
「ちょっ、なんてこと言うの! 人が感謝の心であげたものだよ? それを売るだなんて……信じられない!」
あまり見ない虎猫の本気の口調に、オオカミは今まで見えてなかった自分の浅はかさに気付いてしまう。
「それもそうだな……すまない。私は人の善意を金にだなんて、なんて心が汚いんだ。ありがとう、ルゥ。まさかお前に教えられるとは……そうだ。ご主人も私も飲めないからルゥが好きに飲んでいいぞ」
「ねえナディ、いくらで売れるかなー?」
「……売ったこと、ない」
「まあ、そりゃそうだよねー」
「おい」
「あ、ヴォルフはいくらだったら買いたい?」
「そっちじゃない」
少しでも心動かされた自分が馬鹿だったという羞恥と後悔を材料に怒りを練成するオオカミだが、いつものことなので冷静に怒った方が負けだと諦める。
「はぁ……で、いくらで買いたいと聞かれても、欲しくもないモノに値段なんて……それは欲しい人に聞く質問だろ」
「そーかー、だよねー。あーどこかにコーヒー欲しい人いないかなー」
「そんな都合よく――」
「――その缶コーヒー……私が買おう」
「おーいたー」
「んごうっ!」
自分でもどう出たかわからない声で咳き込み、唖然に取られるオオカミ。
声の主は、先ほどの男性とは対照的に、ひょろりとやせぎすの白衣を着た――研究員であろう――白い顔に目の下の濃い隈が印象的な男性だった。
「その、その缶コーヒー……私が買おう。ちょうど切れてしまってな……学会まであと少しなんだ……」
ふらふらと、足取りがおぼつかない男性。きっと何日も寝ていないのだろう。
そこまでして頑張る姿にオオカミは心打たれてしまう。
「ご主人、是非彼に缶コーヒーを……」
「そうだねー、でも……お兄さん。この缶コーヒー少し高いよー?」
「んぐあ! お前なんてことを!」
「っく……そ、そうなのかっ!」
「え!?」
困ったと頭を抱える男性。どう見ても普通の缶コーヒーなのだが、こもりっきりの生活をしているせいか感覚が少しずれているのかもしれない。そして自分が返す言葉をすべて虎猫に取られ、会話に完全に乗り遅れている少女は片手に缶コーヒーを握る置物と化していた。
「まいった……今そんなに持ってないからな……ん? あっ、これがあるじゃないか! うん、き、君! これをやるからコーヒーを譲ってくれ!」
そして男性は少女の返事を待たずに彼女の手から缶コーヒーを抜き取ると、代わりに自分のポッケから出した小型の箱を二つ握らせる。
「それ、開発途中でできたやつだから安全は保障できないけど、威力だけは上からのお墨付きだから! ほんとありがとう!」
最後、不穏な言葉を残した男性は交換で得た缶コーヒーを飲みながらあっという間に去って行ったのだった。
☆
「ナディー、それなにー」
「……っ!」
「ご主人……」
まったく会話に交ざれず、意識だけがどこか遠くに行ってしまっていたらしい少女。そんな自分の主人にオオカミは気の毒な気持ちでいっぱいになった。
ぶつからないように注意し街中を再び歩き始め、少女は自分が握っているものを確認する。
「? ……??」
しかし、というよりもさっきまで自分の手元にあった缶コーヒーが違うものにすり替わっている状況がいまだ処理できていない様子。
「……これ?」
少女の手のひらに収まるほど小さい箱が二つ。
「なんか、安全がどうとか威力がどうとか言ってたよー」
片方には赤いボタンとそれが簡単に押されないための透明なケースがついていた。
誰の目にもその正体がわかった。
「……これ、爆弾」
「そのようですね」
ちなみにオオカミは臭いでわかった。
「どうする? 押しちゃう?」
「馬鹿を言え……それにしても、これは私たちの手に余るな……だからってこんな物騒なもの欲しい人なんてそうそう現れな――」
「――爆弾? 今、あなた爆弾、爆弾って言いました?」
「んがぁっ!」
「いこともなかったねー」
声は道の脇に留められた一台のトラックからだった。
乗っていたのは二十前後の若く背の高い女性が一人。話してみると彼女は単独で動く行商人らしく、この国で商売をし終わってちょうど出国を考えていたところだったそうだ。
運転席の窓から身を乗り出していた女性は少女らが自分に気付くと車を降り、荷台を漁るとそこから木製の箱を持って少女たちのところへとやってくる。
「ちょうどよかったよ! 聞くところによると今、国を出てきたの道で岩が道路を塞いでるらしくてね。他の行商人らが立ち往生してるそうなんだ。だから、君の持っているそれでなんとかしたいんだよね。ふふっ、それで奴らからお礼をがっぽり……いや、同胞が困っているのがわかっているのに助けないのは人間が廃るからねっ! ……と言うわけで、ねえ、あなた。その爆弾とこの箱に入った壺を交換しない?」
にっこりと裏には年密に計算された下心をはらんだ笑顔で取引を提示する女性。これが商人なのかとオオカミは苦笑いしつつ、心の奥で敵に回したくないと誓った。
「……壺……怪しい……」
こういう状況は慣れているのか、少女は静かだが確かに警戒心を持った目で女性を見る。これには、さすが長く旅をしていないなとオオカミは感心する。
「そっかー残念だなー……この壺は口には出せない危険を伴う極秘のルートで手に入れた……なんか歴史あるたいそうな壺らしいんだけど――売ったら一生遊んで暮らせるほどの値がつくとか」
「……はい、どうぞ」
「ご主人……」
すんなりと爆弾とそのスイッチを差し出す少女。どうも、物欲に対し冷静な警戒心は無力だったらしい。
「ほんと!? ありがとー」
女性は少女から爆弾を受け取ると約束通り壺が入っているらしい箱を手渡す。女性はともかく、少女の箱を抱きしめるその表情は心なしか満足げに見える。
「うふふ、これで予定外の儲けが……い、いや助かるよ! 旅をしてたらまた会うかもね!」
女性は早口に別れを告げトラックに飛び乗ると、まるで逃げるかのようにエンジンをふかせアクセル全開で街路を突っ走りあっという間に見えなくなってしまった。
「……ご主人。これでよかったんですか」
「……っ!」
欲から今やっと我に返った自分の主人にオオカミはそれ以上尋ねられなかった。
☆
「今回は何も言わなかったんだな」
邪魔にならない薄暗い裏道に移動した一行。
後悔からかうつろ目でも一応中身の確認のために箱を開ける主を遠くから見守る虎猫にオオカミが話しかける。
「んーまあ、たしかにあの壺が本物とも限らないけど、ボクらが持ってた爆弾が本当に爆弾だとも限らないし。勝手にボクらがそう言っていただけだからね。そしてさらには本物でも不発弾だって可能性も捨てられない。まあそもそも、拾ったものから始まったんだしどのみちボクらは得することはあっても絶対に損はしないんだよねー。ナディはそれをちゃんと込みで取引したんだよ」
「そ、そうならいいんだ」
現在の少女を囲む雰囲気は絶対そうじゃない、虎猫もそれがわかってる。それだけはオオカミにもわかった。
「なにー気になるんだったら聞いてみるー?」
「やめてくれ」
「それよりも、気付かない?」
「なにがだ? ……あ、ルゥよ。お前なんかこの状況を楽しんでいるな?」
「まあ、ボクが知ってる話と同じ状況にいるからそれもあるけど……じゃなくて、えーほんとに気づかないのー」
ありえなーいといった顔の虎猫は腹立たしいが何も思い当たるモノが無いオオカミは何も言うことができない。
「もーほら、ナディ最近表情豊かになったよね」
「あ、言われてみれば……」
確かにそうだとオオカミは少女を見る。彼女は今、箱の封を解き蓋に手をかけたところだった。
オオカミは少女と出会った最初のころを思いだす――
「……あ」
二匹の耳に蓋を開けた少女が小さくつぶやくのが聞こえ、オオカミの回想は始まる前に終わった。
「どう? ……ってあららー……」
「ま、まあ、そんなもんですよ」
箱の中からゴロリと転がり出てきたのは土の塊だった。それはどの角度から見ても、どの距離から見ても、どう目を細めて見ても変わることはなかった。
「…………」
二匹は駆け寄ったものの、地面に手をつき完全に落ちこんでしまっている少女に何と言ってあげたらよいか考えあぐねいているもよう。
「ナディって、たまーにだけどちょっとだけ抜けてるとこあるよねー」
「今はそんな場合じゃないだろ……ってご主人何を!?」
「…………」
無言で土の塊を頭上高く持ち上げた少女にオオカミが叫ぶ。
「――ちょっと、ちょっと。待ってください!」
「……ん?」
人がいない裏通りに突然と響く声に少女が腕を降ろすと、その隙をついたかのように誰かがその手から土の塊をかすめ取る。
「あ、危なかった……」
その誰か――土の塊を大事そうに抱える執事服を着た初老の男性はふうと一息つくと少女たちの前で深々と頭を下げた。
「旅人の方でいらっしゃいますでしょうか、このたびは突然の失礼大変申し訳ございません」
「――じいや! 見つかったの?」
「はい、お嬢様! やっと見つけました!」
明るい表通りからの声に、じいやと呼ばれた男性は嬉しそうに返事をする。
それから、コツ、コツと音が響き声の主が今はっきりとその姿を少女たちの前に現わす。
「あなたたちが我が一族の家宝を見つけてくれたのね。まず当主として礼をいうわ」
それは身体のラインに沿う赤くシンプルなドレスをまとった女性。そのまとうオーラは明らかに一般人のそれと異なりオオカミは一瞬だが人間と向き合っていることを忘れる。少女が目を凝らすと表通りからこちらを見ているおつきのメイドが控えているのが確認できた。
いわゆる『富豪』とカテゴライズされるような類の方だった。
「いやいやーこちらこそお礼を言いたいところかなー?」
平気でしゃべる虎猫にオオカミは安心するとともに、虎猫の言葉通りこの執事が止めに入らなかったら自分の主人が家宝を壊していたという事実に全身が震えた。
「そ、そう」
虎猫の言葉の意味がわかるはずがない女性はあいまいな返しをするが、もちろん二匹がそのことを教えるはずはない。
「……えっと」
「なにかしら?」
「……それが、家宝なん、です、か……?」
今は執事が大切そうに抱く土の塊を少女が震える指で尋ねる。
「あなた、幼いのに失礼ね。……いや幼いからかしら。『そんな、土塊を大事にするだなんてよっぽど変わっている一族だ』と思いっきり顔に書いてあるわ。でも、そうね……誤解されたままだと一族の恥になりかねないし、この際いいわ。見せてあげる。じいや! それを私に課してちょうだい」
「はい! お嬢様」
女性は執事から土の塊を受け取ると、さっき少女がしたように頭上高く持ち上げて……
ゴトン。
地面に思いっきり叩きつけた。
「「ええーっ!」」
オオカミと執事の声が重なる。
「きっとこの塊はこうなる運命だったのかもねー」
虎猫ののんきな声がそれに続く。
「なんで、じいやまで驚いてるのよ……ほら見なさい」
女性は壊れた土の塊をゆっくり拾い上げると他の皆に見せる。
「これは……驚きました」
割れた隙間から、何かに綺麗な模様が入っているのが見えた。
「そういうことよ……って私としては長年わが家に仕えているあなたが知らなかったことに驚きよ」
そう言うとゴッ、ゴッ、ゴッと塊を地面にぶつけさらに土を落としていく女性。
「こうやってっ、先代はっ、土で固めることで価値あるモノをっ、価値の無いものにしたのよっ……ほら、こんなもんでいいかしら」
そうして女性の手に残ったのは両手に乗るサイズの壺。陶器製のシンプルな形とは対照的に白い下地に赤青緑で複雑な模様が幾重にも重なっている。
「これでわかったでしょう。ついでだから言っておくと、これの価値は売った場合だと一生遊んで暮らせるくらいのお金が手に入るわ。ほんと、泥棒に入られたかでなくなったことを知った時は私、心臓が止まりかけたわ」
「私もお嬢様と同じお心でしたよ」
「いいえ、じいやは実際に止まったわ」
「なるほど、道理で三日ほどの記憶がうまく思い出せないのですね」
和やかに笑う二人。しかしその内容は決して笑えるものでない。
「ちょ、泥棒って」
二人の会話に聞き捨てならない単語が混じっていたことに気付いたオオカミ。その脳裏には何分か前に出会ったトラックに乗った行商人の女性の顔が浮かんでいた。
「あ、別にあなたたちを疑っているわけじゃないわよ。そう、こうして戻って来てくれれば正直どうだっていいのよ」
そう言って女性は手元に戻ってきた家宝に頬ずりをする。
「さーて。お礼をしないとね……なにがいいかしら……あ、そうだ――」
☆
「あの……これは、えっと、いったい……」
男性は混乱で頭の整理が追いついていないのか、上手く言葉が出てこない。
しかし、それでも頬を流れる涙が今の状況に対する彼の感情を的確に表現していた。
「おかえり、あなた。……少しやせたんじゃない?」
男性と向かい合う女性は、久しぶりに見る昔よりやつれた夫の顔にフフッと笑った。
「そんな、お前だって……」
ひどく疲れきった様子の妻に男性も心配の声をかける。
「どうして……お前の家系は一生をあの家に仕えて……」
「そうね……どうしてかしら?」
女性は後ろに立っている少女たちをチラと見る――
少女がお嬢様と呼ばれる女性からお礼としてもらったのは専属のメイドだった。彼女曰く『いると何かと便利だから、一人くらいは持っておくべき』だそうだ。突然の解雇にメイドの方は何も言わず元主に軽く会釈をしただけで、すぐに少女たちの方を向くと『よろしくお願いしますお嬢様』と深々と頭を下げたのだった。
そうして、メイドを手に入れた少女一行。想定してなかった事態に驚き慌てる虎猫とオオカミだったが、少女は考えるところがあるのか、ふむりと少し考えた後、自分のリュックから自分がいつもつけている分厚いノートを取り出すとパラパラとめくりお目当てのページを読み込むとメイドの顔を見て、うんうんとなにか確信する。そしてノートをもどしリュックを背負うと少女は「行くよ」と皆に残し歩き始める。
そして、日がとっぷり暮れたころ、少女の後について一行がたどり着いたのは、昨日少女たちが泊まり今日出発したあの宿だった。
「――つまり、そこの旅人さんがお前をここに……」
「そういうことね。運命というかこんな偶然もあるのね」
宿のフロント前の休憩所。
支配人である男性の言葉に説明を終えた女性は肩をすくめた。
「ねーナディ。何でメイドさんがここの奥さんだってわかったのー?」
「これ……」
虎猫の言葉に少女はフロント横の棚の上に飾られたカメラと一緒にある写真立てを指差した。
そこに映るのは三人。
支配人の男性と、生まれたばかりの娘。
そして男性の隣で我が子を抱いていたのが、今少女たちの目の前にいるメイドだった。
「ほんとよく見てたねナディ」
虎猫が感心の声をあげていると廊下からペタペタと足音が聞こえてくる。
「パパどーしたの……?」
廊下の扉を開け出てきたのは、寝ているところを起こしてしまったらしく片方の手で眠い目をこすりながらもう一方で無為ぐるみを引きずった宿のひとり娘だった。
「……っ!」
その瞬間、メイドの女性はゆっくりとその子のところまで歩くと目線の高さが合うように膝をつきしっかりとその顔を見る。
本来絶対に交わるはずのない道を歩く運命のもとにいた二人の間に生まれた子。
そして長年一時も忘れず、しかし会いたくても会えなかった我が子。
「お……大きくなったね……」
女性はその存在を確かめるかのように力いっぱい抱きしめたのだった。
「マ、マ……? ママ!? ママ! ねえパパ! ママが、ママがかえってきた!」
突然のことに戸惑いながらも、娘はしっかりと母の顔を覚えていた。
「ずっと、ずっと会いたかった……」
「ねえパパ、ママがかえってきた!」
母の目からも、そして娘の目からも溢れこぼれる雫。それは今まで必死に耐えていたさびしさの涙だった。
そんな母と子の再会に同じように涙でぐしゃぐしゃの支配人の男性が少女の手を握る。
「旅人さん。本当に、本当にありがとうございます……もう、何とお礼したらよいか……」
「お礼だってーナディ」
「はい。できる限りのことをさせてもらいます!」
支配人の言葉に口元に手を当てふむうと考える少女。
しかし、なかなか思い浮かばないのか、眉間にしわ、口がへの字とだんだんその表情が険しくなっていく。
「おねーちゃん」
「……ん」
「ありがとー!」
「……!」
呼ばれ、ふと顔を上げた少女は「あっ」と声をあげそうになる。
彼女の目に映っていたのは、再会を喜びあう父と母と娘。
それは本来なら一緒になるべきの『家族』で、本来なら一緒になれなかった『家族』で、
――ようやく一緒になれた『家族』だった。
「……決めた」
少女はつぶやくと棚のカメラを手に取った。
「……写真……写真を撮らせてください」(終)
《不完全ツーリズム》
作:笹塚とぅま
【p6:Never forget】
「ねぇー、飽きたよー、暇だよー」
舗装された大きな道の脇にはなだらかな丘があり、その頂上にぽつんと立つ木の根もとで少女が一人、大きなリュックサックを机にして書き物をしていた。だが少女といっても上は袖のあるタートルニットに、下はだぼだぼのデニムパンツでスニーカー。服装だけ見ると、だらしのない少年にも見えなくもない。しかしそれでもニット帽の下からのびる栗色の長い髪がなんとか彼女を女性に見せていた。そんな彼女を一匹の尻尾がない虎猫がニットの袖を咥え引っ張って邪魔をする。
少女は何も言わず、それでいて虎猫の方も見ずに、黙々と辞典のような厚さのノートの空白を文字で埋めていく。
「やめんかルー。ご主人が迷惑してるだろ」
それでも、彼女の妨害行為を続ける虎猫に、彼女の近くで伏せて昼寝をしていた銀色の毛並みが美しい大きなオオカミが片目だけを開け、ギロリと虎猫の声がする方を睨む。
「だってさー、もう一週間はここにいるよ? ねえ、もういいじゃんかさぁー。帰ろうよー」
「すべてはご主人が決めることだ。大人しくしてろ」
「ねぇー、ナディー」
「しつこいぞ。だいたいお前には辛抱が――」
「……静かに」
さっきまで黙っていた、ナディと呼ばれた少女が、小さく注意の言葉をこぼした。それは聞き逃してしまいそうなほどの小さい声だったが、最終的に言い争いに発展しそうな二匹の声はぴたりとやむ。そしてそのすぐ後、一人の人物が道を外れ、彼らがいる丘の上に向かってくるのを一人と二匹は確認した。
「あのー……あ、こんにちは。えーと、もしかしてあの国の住民の方ですか?」
上がってきたのは、見た目ではどうもいくつにも見えてしまう妙齢の女性で、薄手のロングコートを着た彼女もまた、少女に負けないくらいの大きなバックを背負っていた。女性は少女に向かって笑顔で挨拶をすると、この丘からも見える大きな国を指さしながら、さっきの質問をぶつけた。
「…………」
しかし少女はというと、女性の方を向いたまま何の反応もない。じーっと何も発することなく、それでいて書く手を止めずに自分を見る彼女に女性は最初こそ戸惑ったものの、すぐにそれは訝しむ顔に変わる。
「えっと……どうかしました?」
「いえ、すみません。先ほどの質問に対する答えですが、私たちは先ほどまであの国に滞在していた旅人で、今はその帰り、ちょっとここで一休みしていたところです」
「そうそう。いい国だったよー」
おおっと! これは驚いた。黙っていた少女がいきなりしゃべったのもあるが、まさかその彼女の膝にいた虎猫が話せる猫だなんて。女性は虎猫をもの珍しそうに眺め、そのあと少女の方に向き直る。オオカミの方は目をつぶったままだが、耳がぴくぴくと動いているので、どうやら寝ているわけではないようだ。
「あ、それで、旅人さんにお聞きしたいことがあるんですが……その、あの国で連続無差別の殺人鬼の噂なんか聞いたりしませんでしたか? 実は私、それが怖くて昔国から出ていった者なんです。もう……そうですね、二十年くらい前のことなんですが……どうですか?」
女性は不安げな顔で少女の他にも虎猫、そしてなにを期待したのか、オオカミにも視線を投げる。その視線に少女は書く手を止め口元へと当てる、猫も少しだけ首をひねり。
「……いいえ、ありません」
「そうだねー、えっと二十年だっけ? さすがに捕まってるでしょー」
「そうですか……。ええ、ですよね。もう二十年ですものね」
一人と一匹の答えを聞いてほっと胸をなでおろした様子の女性。少女らの言葉に心から安心したようだ。そして、彼女はオオカミからも何か返事が来るのではないかと視線を送り待ったものの、結局何も返ってこなかった。
「まあでもねー、仮に捕まったとして、殺人鬼でしょ? 終身刑だったらまだ牢屋かもしれないけど、普通は死刑だよね」
「そうであることを望みます」
虎猫の発言に対し女性は爽やかな笑顔で返す。その顔からは彼女が抱えていた悩みはすべて吹っ切れたように見えた。そして、まだ諦めきれないのかオオカミを一瞥し、最後に少女と向かい合う。
「ではでは、旅人さん。私はこれから国に戻ろうと思います。お時間ありがとうございました。あなた方の旅が安全で素敵なものになりますように」
「……ありがとう」
「お姉さんもねー」
少女はさっきまでのはきはきした口調から一変、もごもごとした口調で返し、虎猫は地面に降りると嬉しそうに跳び撥ねた。
ぺこりとおじぎをした女性は、くるりと少女らに背を向けると登ってきた丘を下り、来た道へと戻る。彼女の背負っていたリュックが左右にゆっさゆっさと揺れるのが少女たちのところからいつまでも見えた。
「行っちゃったねー」
女性の姿が見えなくなって三十分後、木陰から出て日向で昼寝をしていた虎猫は、んぐぅ、と伸びをしながらつぶやく。オオカミは、ふあぁ、と大きなあくびをしてそれに応える。
「そうだな」
「ねぇ、起きてたくせに何で黙ってたの?」
「わからないか。まったく、これだから猫と言うものは、いいだろう説明――」
「あ、ナディ、終わったー? で、どーだった?」
ぐぬぅぉ、と言葉を飲み込んでしまったオオカミのことなど気にも留めず、虎猫は、さっきからずっと小型の箱のような機械を片耳に当て、どこかと連絡をとっていた少女にたずねる。
耳から機械を離した彼女は虎猫の問いに、無言で、ただ首をこくりと縦に倒した。
「……ルーよ、それでご主人はなんと?」
「よーし戻ってお礼をもらいに行こーっ!」
今日のご飯はきっと豪華だぞーっ、と虎猫は質問には答えずオオカミの背中にひょいと乗るもののオオカミが立ち上がった拍子に振り落とされる。少女もリュックサックに先ほどまで書いていた分厚いノートをしまうと、一度、リュックを背にして地面に座る。それから肩紐に腕を通し、しっかり握ると、えいっ! と反動をつけ一気に立ち上がる。
二、三歩よろめき、何とか姿勢が安定した彼女は二匹の前に歩み出ると、そのまま国の方角へと進む。彼女の後に続きゆっくりと歩くオオカミの隣で、ちょこちょことせわしなく足を動かす虎猫は主の背中に話かける。
「それにしてもさ、人って自分がしたことは忘れるけど、されたことって結構覚えているよね」
少女は答えない。虎猫も別に返答が欲しいわけではなかったらしく話を続ける。
「どうも、あの人は二十年という歳月に埋もれて忘れ去られると思っていたみたいだけどさ」
そして嘲笑にも失望にもとれる息遣いが聞こえた。
「そんなわけないのにね」(終)
作:笹塚とぅま
【p6:Never forget】
「ねぇー、飽きたよー、暇だよー」
舗装された大きな道の脇にはなだらかな丘があり、その頂上にぽつんと立つ木の根もとで少女が一人、大きなリュックサックを机にして書き物をしていた。だが少女といっても上は袖のあるタートルニットに、下はだぼだぼのデニムパンツでスニーカー。服装だけ見ると、だらしのない少年にも見えなくもない。しかしそれでもニット帽の下からのびる栗色の長い髪がなんとか彼女を女性に見せていた。そんな彼女を一匹の尻尾がない虎猫がニットの袖を咥え引っ張って邪魔をする。
少女は何も言わず、それでいて虎猫の方も見ずに、黙々と辞典のような厚さのノートの空白を文字で埋めていく。
「やめんかルー。ご主人が迷惑してるだろ」
それでも、彼女の妨害行為を続ける虎猫に、彼女の近くで伏せて昼寝をしていた銀色の毛並みが美しい大きなオオカミが片目だけを開け、ギロリと虎猫の声がする方を睨む。
「だってさー、もう一週間はここにいるよ? ねえ、もういいじゃんかさぁー。帰ろうよー」
「すべてはご主人が決めることだ。大人しくしてろ」
「ねぇー、ナディー」
「しつこいぞ。だいたいお前には辛抱が――」
「……静かに」
さっきまで黙っていた、ナディと呼ばれた少女が、小さく注意の言葉をこぼした。それは聞き逃してしまいそうなほどの小さい声だったが、最終的に言い争いに発展しそうな二匹の声はぴたりとやむ。そしてそのすぐ後、一人の人物が道を外れ、彼らがいる丘の上に向かってくるのを一人と二匹は確認した。
「あのー……あ、こんにちは。えーと、もしかしてあの国の住民の方ですか?」
上がってきたのは、見た目ではどうもいくつにも見えてしまう妙齢の女性で、薄手のロングコートを着た彼女もまた、少女に負けないくらいの大きなバックを背負っていた。女性は少女に向かって笑顔で挨拶をすると、この丘からも見える大きな国を指さしながら、さっきの質問をぶつけた。
「…………」
しかし少女はというと、女性の方を向いたまま何の反応もない。じーっと何も発することなく、それでいて書く手を止めずに自分を見る彼女に女性は最初こそ戸惑ったものの、すぐにそれは訝しむ顔に変わる。
「えっと……どうかしました?」
「いえ、すみません。先ほどの質問に対する答えですが、私たちは先ほどまであの国に滞在していた旅人で、今はその帰り、ちょっとここで一休みしていたところです」
「そうそう。いい国だったよー」
おおっと! これは驚いた。黙っていた少女がいきなりしゃべったのもあるが、まさかその彼女の膝にいた虎猫が話せる猫だなんて。女性は虎猫をもの珍しそうに眺め、そのあと少女の方に向き直る。オオカミの方は目をつぶったままだが、耳がぴくぴくと動いているので、どうやら寝ているわけではないようだ。
「あ、それで、旅人さんにお聞きしたいことがあるんですが……その、あの国で連続無差別の殺人鬼の噂なんか聞いたりしませんでしたか? 実は私、それが怖くて昔国から出ていった者なんです。もう……そうですね、二十年くらい前のことなんですが……どうですか?」
女性は不安げな顔で少女の他にも虎猫、そしてなにを期待したのか、オオカミにも視線を投げる。その視線に少女は書く手を止め口元へと当てる、猫も少しだけ首をひねり。
「……いいえ、ありません」
「そうだねー、えっと二十年だっけ? さすがに捕まってるでしょー」
「そうですか……。ええ、ですよね。もう二十年ですものね」
一人と一匹の答えを聞いてほっと胸をなでおろした様子の女性。少女らの言葉に心から安心したようだ。そして、彼女はオオカミからも何か返事が来るのではないかと視線を送り待ったものの、結局何も返ってこなかった。
「まあでもねー、仮に捕まったとして、殺人鬼でしょ? 終身刑だったらまだ牢屋かもしれないけど、普通は死刑だよね」
「そうであることを望みます」
虎猫の発言に対し女性は爽やかな笑顔で返す。その顔からは彼女が抱えていた悩みはすべて吹っ切れたように見えた。そして、まだ諦めきれないのかオオカミを一瞥し、最後に少女と向かい合う。
「ではでは、旅人さん。私はこれから国に戻ろうと思います。お時間ありがとうございました。あなた方の旅が安全で素敵なものになりますように」
「……ありがとう」
「お姉さんもねー」
少女はさっきまでのはきはきした口調から一変、もごもごとした口調で返し、虎猫は地面に降りると嬉しそうに跳び撥ねた。
ぺこりとおじぎをした女性は、くるりと少女らに背を向けると登ってきた丘を下り、来た道へと戻る。彼女の背負っていたリュックが左右にゆっさゆっさと揺れるのが少女たちのところからいつまでも見えた。
「行っちゃったねー」
女性の姿が見えなくなって三十分後、木陰から出て日向で昼寝をしていた虎猫は、んぐぅ、と伸びをしながらつぶやく。オオカミは、ふあぁ、と大きなあくびをしてそれに応える。
「そうだな」
「ねぇ、起きてたくせに何で黙ってたの?」
「わからないか。まったく、これだから猫と言うものは、いいだろう説明――」
「あ、ナディ、終わったー? で、どーだった?」
ぐぬぅぉ、と言葉を飲み込んでしまったオオカミのことなど気にも留めず、虎猫は、さっきからずっと小型の箱のような機械を片耳に当て、どこかと連絡をとっていた少女にたずねる。
耳から機械を離した彼女は虎猫の問いに、無言で、ただ首をこくりと縦に倒した。
「……ルーよ、それでご主人はなんと?」
「よーし戻ってお礼をもらいに行こーっ!」
今日のご飯はきっと豪華だぞーっ、と虎猫は質問には答えずオオカミの背中にひょいと乗るもののオオカミが立ち上がった拍子に振り落とされる。少女もリュックサックに先ほどまで書いていた分厚いノートをしまうと、一度、リュックを背にして地面に座る。それから肩紐に腕を通し、しっかり握ると、えいっ! と反動をつけ一気に立ち上がる。
二、三歩よろめき、何とか姿勢が安定した彼女は二匹の前に歩み出ると、そのまま国の方角へと進む。彼女の後に続きゆっくりと歩くオオカミの隣で、ちょこちょことせわしなく足を動かす虎猫は主の背中に話かける。
「それにしてもさ、人って自分がしたことは忘れるけど、されたことって結構覚えているよね」
少女は答えない。虎猫も別に返答が欲しいわけではなかったらしく話を続ける。
「どうも、あの人は二十年という歳月に埋もれて忘れ去られると思っていたみたいだけどさ」
そして嘲笑にも失望にもとれる息遣いが聞こえた。
「そんなわけないのにね」(終)
《不完全ツーリズム》
作:笹塚とぅま
【p7:Do you hope a luck?】
「あららー。これ昨日より強くなってるよー」
朝、一匹の尻尾のない虎猫が額を窓ガラスにつけつぶやく。その姿はいまにも、「退屈ー」や「つまんなーい」が飛び出してきそう。
というのも、窓の外ではまさにバケツをひっくり返したような土砂降りだった。
許容量をオーバーした堤防からは茶色の水が溢れ、あっという間に地面を浸食、本来そこにあったはずの道路は水路へと変貌を遂げている。
それに窓や屋根を細かく叩く音は昨日に比べ段違いに大きく、寝ていた人々の多くはその轟音に、敵襲か!? と勘違いさせられたほどだ。
「そもそも、これ大丈夫なのー?」
「いや、ダメだろ。……ご主人、この状態では、今日の外出も控えた方がよろしいですよ」
まさかここまで雨脚が強くなるとは、オオカミは彼の定位置である少女の足元から彼女を見上げる。
部屋に備え付けられていた椅子に座り、珍しくペンもノートも出さず、虎猫と同じように外の様子を眺める少女からは特にこれと言った感情は読み取れない。だからというものの、何も考えてないわけでもなさそうだ。
一人と二匹が、川に挟まれたこの国に入ったのは一週間前。関所の人が教えてくれたのには、この国はその隣にそびえたつ二つの山の間を流れる太い川が上流で二本に分かれ、その二本の川の間にできた広くて長い三角形の土地に建っているそうだ。そしてこのような国ではしばしばこのように大雨になると冠水してしまうそうで、そのため床への浸水を防ぐためにこの国の建築法では地面から一メートル以上ある土台を作ってその上に建てることが義務付けられているらしい。
入国時点ですでに無視できない程度の雨が降っていたので、一行は、調べ物は明日に回そうと、この宿にチェックインしたのだが、次の日も、そのまた次の日も、またまた次の日も……雨は一向にやむ気配がなく、日に日に強くなっていくばかり。結果、こもりっきりの生活が現在進行形で続いていたのだ。
特にすることを決めてないので、宿にいる間、一人と二匹は各自で自由に過ごしていた。虎猫はオオカミの尻尾をサンドバックにみたててあそび、飽きたら部屋を抜け出て宿泊客や従業員、宿の猫や犬などに積極的に話しかけては驚かせていた。そして時折いきなり部屋に飛び込んでは、『で、ででで、出た! 出たんだよ! あの黒々とした、せかせかとした、わさわさとした! 嗚呼、僕の口からはとても言えない! ……決めた。僕もうこの部屋から出ない』……とまあ、それなりに楽しんでいるようだった。
少女はというと、虎猫が部屋を出たり入ったりしてる間、なんの文字で書かれているかわからない古い本や地図を自分のリュックから取り出して読んだり、また自分で書いたノートを読み返してはまた戻り、また読んでは考え込むを繰り返していた。それから、猫とは別行動で宿の人の話を聞くために宿内を歩いたり、雨の中外へと出かけ、丸々一日帰って来なかったりする日もあった。
オオカミに関しては、少女について回り、行動のほとんどを彼女とともに過ごした。
「あ、でさでさー、昨日一緒に泊まってる人に面白い話聞いたんだけどさー、ナディはもう知ってる?」
朝食をとるために一行が宿の一階へと階段を下りる中、虎猫は少女にたずねる。
「……――のこと?」
「あ、なんだ。知ってんのかー」
そっかー、まあ、そうだとは思ってたけどねー、虎猫が先頭で食堂入り口にかかる暖簾をくぐる。ここでの食事もすでに慣れたもの、まっすぐとすでに指定されている、この一週間ずっと変わらない、『自分ら』の席へ座り、皆がそろったらところで、「いただきまーす」と準備されている料理を食べ始める。ここの宿は毎朝同じメニューを出すようで、一週間となった今、もう食べなくてもどんな味かわかる。ラインナップは、ご飯に焼いた魚や卵、味噌のスープにお漬物というもので、もちろんこれは少女にだけで、虎猫には猫専用の――おそらく宿の猫とおなじなのだろう――魚の缶詰が、オオカミには業務用と書かれた大きな袋から横から見ると台形の皿へとたんまりと盛られた――おそらく宿の犬と同じなのだろう――肉を乾燥させ圧縮した固形物が用意されている。
最初こそ二匹は難色を示したが今はもう何も言わずに皿に向かう。しかしさすがに飽きたのか、虎猫はオオカミの、オオカミは虎猫のを少しもらって食べていた。
「うっわー、トップかよ……今日は部屋に籠ろう」
「残念だったな。俺なんか今日は最下位だぜ」
「ラッキーアイテムは魚か……おい、俺の食べてくれよ」
「おっ、俺は、『人からのもらい物に注意』だってさ。いいぜ、もらってやるよ」
当たり前だが、この宿に泊まっているのはなにも彼女らだけじゃない。ここのところの雨で彼女らと同じく足止めを食らった人が多く泊まっていた。今の会話はつなぎを着た若い男性二人が食堂の天井につるされた箱型の機械が映しだす映像を見てしていたものだ。
少女たちもつられて、箱の映像に目を向ける。映像には縦に一位から十二位まで書かれおり、数字の横に『解説』と『ラッキーアイテム』が書かれていた。
「やだわー、『今日は運命の人と出会えるかも?』ですって。困るなー」
「えー、あんたはまだいいよ。あたしなんか、『今日はいいことが起きそう!』だよ。どストレートでこれはないよねー」
「あ、でも『積極的に外に出るのが幸運の第一歩』だってさ。二人ともよかったじゃん。この雨じゃ外に出れないからついてるもなにもないよ」
「でもなー。これじゃ今日中に隣の区まで荷物届けられないよねぇ」
「まあ、運よく届けられた方が困るけどね」
笑い声。
こちらは三人の女性だ。三人ともスタイルが良く、日に焼けた肌が健康的。会話からどうも商人か配達人であるようだ。少女たちの隣のテーブルに座る彼女らもまたつるされた箱を見ていた。
「それでさー聞いてよ。この前行った配達先がさーっておっと」
彼女らの中の一人がテーブルの中央に置いてあった調味料の瓶を取ろうと手を伸ばしたとき、誤って腕が汁椀に置いてあった箸の一本に引っかかってしまう。カラン、とテーブルに落ちた箸はそこで終わればよかったものの、ころころとテーブルを転がり始め、ついには端から空中へとその身を投げ出してしまう。
「あちゃー、やっちまった……お?」
投身自殺を図った箸は、その身を床に叩きつけることはなかった。と言うのも、落ちるのを見たオオカミが瞬時に床と箸の間にある空間に自分の身体を滑り込ませたのだ。目論見を阻まれた箸は降参とばかりに大人しく、オオカミの背中の彼の美しい銀の毛に埋もれている。
「お、ファインプレー!」
オオカミの皿から顔を離した際、その瞬間を目撃した虎猫は嬉しそうに、今はない尻尾を振る勢いで彼に賞賛を送る。
しかし、彼女、落とした張本人はそうでなかった。彼女はオオカミの背中からさっと箸を拾い上げると彼に感謝の言葉もニコリとした笑顔もなく一言。
「最悪」
そう言って、取った瓶から匙で香辛料を少しすくって乱暴に焼いた卵にかけると今さっきオオカミが救った箸を使い不機嫌そうに食べ始める。しかし、しばらくすると他二人との会話が弾んだため、『で、そこのセクハラ親父がよ~』とその表情には笑顔が戻っていた。
いつの間にか画面は切り替わっており、そこでは男性が今年の雨は観測上最高だと伝える。
「どんまいっ! そう言うこともあるさー、なんてったって英雄は叩かれて強くなるもんだからね」
「意味がわからん。……ご主人。どうやら、先ほどの話は本当のようですね」
少女が座るテーブルに戻ってきたオオカミは虎猫の謎のフォローを受けつつ彼女に一言。少女は無言でうなずくと若干しょんぼりと肩を落としている彼の頭をやさしくなでた。
さっきの女性はというと、取り換えもせず件の箸を使っている。
となると、別にあの女性は自分の口に入る物が動物に触れたことに対し嫌悪したわけではないのだろう。じゃあ、彼女はオオカミが嫌いだった、はたまたアレルギーか? だったら同じ空間にいるだけでも不快であるはずだから、これも違う。
虎猫は、こりゃ面白いものを見―ちゃった! とばかりに目を輝かし、この疑問に対する答えを口にした。
「ははー、本当にここの国では、大小関係なく、『ついていること』そのものを嫌うんだね」
宿で滞在している間、彼女らが従業員や宿泊客に聞いた話はこういうものだった。
この国では国教というものが存在し、なんでも、国民全員が信仰を義務付けてられているそうだ。法律でそう定められているために、信じない者、教に背くものは逮捕、最悪国外追放にさえなる。というのも、なぜそこまで尊まれているかと言うと、その宗教は遠い昔にこの地にやってきてこの国を建国した民族が信仰していたものらしく、その歴史的価値は高いところからくるらしい。
で、その内容なのだが簡単に言い表すと、『人が持つ運は有限』というものらしい。
そこでは運とは生まれる前に神様から振り分けられるもので、それで人は個々の決まった量の運を持って生まれてくる。
さらに運は使ったら――つまりついていることがあったら――減ってしまい、補充なんてできない。
じゃあ、運が底ついてしまったらどうなるか。不幸になるのか? いや、この教えでは、運の尽き、それはすなわち死を意味するらしく、したがって、こどもの急死なんかが起きると母親や周りの人は、『この子の死は、もともと神が与えてくれた運の絶対値が小さすぎたためだ』と解釈するそうだ。
以上から、運を使うこと、すなわちラッキーなことが自分の身に起きることは自分の寿命を縮めることに直結する。だから運の要素が大きくかかわってくるゲーム、たとえば籤やビンゴ、じゃんけんに似たようなものは全部、命を懸けたギャンブルとして扱われ、この国で最も危ない娯楽としてカテゴライズされている。しかしそうは言っても、命とお金、両方が賭けられるそのリスクから、これらは案外人気があることもその人は教えてくれた。
他にも、この国では、『いいことは必ずそれに見合った対価、犠牲を払っている』という意味で、『宝くじが当たった人は早死する』ということわざがあったり、賞などをいただいた時には、『いやぁ、まぐれですよぉ』と言うのはタブーで、このときは必ず、『はい、実力ですっ!』と答えなきゃならなかったり、『あーついてるなぁ』なんてうっかり人前で発言した暁には、『え? あなた死にたいの?』と返され、白い目で見られる……などなど、この国ではとにかく、ついていること幸運ラッキーは最大の悪、反対についてないこと不幸アンラッキーは大大歓迎なのだ。現にこのことを教えてくれた従業員の男性も、
『僕がなによりも望むものは自分の不幸です! やっぱ長生きしたいですからね。え、この仕事を全部一人でやるのかだって? そうだよ当たり前じゃないか。誰かの助けなんていらないね。え? それではつらくないかって? いやいや、だってそれじゃ僕が助かっちゃうじゃないか。そんなんで、あとどれくらいあるかわからない自分の運を使いたくはないよ。いやぁ、でもね、これだけの仕事を一人で夜までに全部終わらせるなんて、べらぼうについてなさすぎだとは思うってはいるよ? でも……無謀で人手が足りない仕事を押し付けられるたび、あまりの嬉しさにぞくぞくするんだ……』
と、なんとも勤労意欲溢れる方で、特に労働に陶酔する目、顔に浮かんだ恍惚な表情がなんとも印象的だった。……とまあ、最後のは男性個人的な発言であまり国の教えとは関係ないのだが、それでも、彼の話からいかに国民がその教えを基盤にし、それに準じて自分らの思考を展開しているかをうかがい知ることができたのだった。
「――でさー、ナディはこの国の宗教についてどう思ってんのー?」
食堂から部屋へと戻る途中、虎猫は自分の前を歩く少女にたずねる。
「ルーよ、お前はどう考えるのだ?」
階段を上っている最中、虎猫の問いに口に手を添えて考え込み始めた少女。いや、考えると言うよりは、もう考えはまとまっているのだがそれをどう言葉に表し説明したらよいかそれに思考を巡らせているようだ。そんな少女の様子を敏感に察したオオカミは彼女の代わりに会話をつなぐ。
「んー僕はねぇ……特にないなー。あ、でも、幸運を嫌い避け続ける、そんな人生はなんだかかわいそうな気もするけどねー」
「そうだな。そもそも、運なんていう実体のないものは使おうと思って使えるものでもないし減ってるのだってわからない。ましてや、なくなると死ぬってのは少し極端で強引な教えだとは思うがな」
まあ、それでも、人によって運の偏りがあることは認めるし、その教えが国民の統一に役立っているなら、それはそれで悪いことではないだろうな、自室の鍵を開ける音がし、オオカミは少女を一瞥してから、虎猫に自分の考えを語ってみせた。
「ほほー。端っから間違ってる、と言いたい訳ではなさそうだね」
まあ僕もだいたいそんな感じかなー、間延びした声で返答し虎猫は続ける。
「まあ、なんていうんだろ……つまり……そのね……」
「つまり?」
「つまり……ここの国民でない僕らには関係ない教えってことかなーっ」
あははー、考えるのに疲れたのか、はたまた飽きてしまったのか、もうこの話は終わりとばかりに適当な返しで締めると、虎猫は開けられた扉から勢いよく自室に飛び込みベッドに直行するとその頭を枕に突っ込む。
「本能に忠実だな……って、ん? なんだ?」
「だって動物だもん。お腹いっぱいで眠くなるのは当然だもんねー……ってなに? どうかし――ぎゃああああああああ!!」
虎猫の絶叫が部屋中、いや、宿中にこだまする。二匹の視界をすごい勢いで横切って行ったのは昆虫界でも最速のスタートダッシュができると噂の生物。黒光りするボディをもち、その姿はまさに黒い弾丸。しかも、今回、床を縦横無尽に進むその弾丸は一発だけで終わらなかったのだ。
「い、いやあああああ! なんで? ここは聖域。サンクチュアリのはずだよ? いや、いや、いやあああああ!」
もはや、さっきまでの、のんきな虎猫の姿はそこになかった。ベッドの上で阿鼻叫喚して跳ね回る虎猫に対してオオカミは呆れたとばかりに大きなため息をつく。
「おい、落ち着け、たかが昆虫だろ? そんな怖がる必要はどこにも……」
「たかが昆虫だって? 笑らわせてくれるよ、いや笑ってないけどもさ! こいつらは飛ぶんだ! 走るんだ! チキチキと鳴くんだ! もう、嫌悪には十分だよ! ここまでの不快な思いをさせるものはもはや昆虫じゃないよ! やつらは害虫で昆虫じゃない! じゃあ、ここで、もう一度聞こう。こいつらはなんだ!?」
「はあ……いや、だから、昆虫だと――」
興奮で、もはや自分が何を言っているのかわかってないんだろうな、オオカミは自分が冷静に相手することにより、早口でまくしたてる虎猫を落ち着かせようと試みるが、
「ナディ! もう宿替えよう? てかこの国出よ? いや、ごめん。調べものまだだったね・じゃあ、やっぱ宿だけでも替えて、今すぐ替えて。ほんとお願い、僕もう無理。もう、やだよぉ……」
オオカミの言葉は虎猫の声で遮られる。
その虎猫はというと、言いたいことすべてを吐き出し、布団に潜り込み大人しくなったものの、メンタルに致命的な傷を負ってしまったらしい。これは再起までかなりの時間とケアが必要っぽいなとオオカミは悟った。
「ご主人……これ、どうします?」
彼は先ほどからじーっと窓に張り付く勢いで外を眺めている少女に問う。外は相変わらずの雨で、そんな彼女の様子は今さっき室内で起こっていた騒動などまるで別世界の出来事だったかのよう。もちろんオオカミの言う『これ』とは虎猫のことだ。
少女は窓から体をはがすとようやく視線を室内へと向ける。そして二匹を一瞥すると、手早くベッドの上にあったリュックに机上のノートや筆記用具やらをしまいこんだ。
「ご主人、まさか……」
少女が目で見て思ったものを、オオカミは耳で感じ、そして彼女の考えた結論に至る。
「……この国を出ます」
リュックを背負った少女はこくりと頷き、布団をぽぽんと叩くと中の虎猫に小さく、「いくよ」と伝える。
「……え、ナディ、ほんと!?」
よっしゃー、と布団から飛び出し、すごい勢いで元凶巣食うこの部屋を飛び出す虎猫は、思ったよりもかなり早い完全復活を遂げたのだった。
それからすぐ、廊下から再び叫び声が聞こえた。
「あのーご説明いただけますか?」
雨が全身を濡らし、ゆっくりだが確実に体温を奪っていくなか、少女を見下ろす形で初老の男性が彼女の前に立っている。その顔には困惑といささかの不快が混じっていた。
今から二時間ほど前、国を出ることを宣言した少女は出国するにあたってオオカミと虎猫にあることを命令した。
「どうしてこのような雨の日に、こんなところに国民全員を連れてきていったいどういうつもりですか?」
男性の声には若干の怒りが見え隠れし、彼に傘を差す側近の前髪からはぽたぽたと水滴が落ちている。彼だけじゃない、ここにいる人のほとんどが急な展開に雨具などを準備できずに濡れ鼠と化している。
「ご主人、ここまでくれば大丈夫でしょう」
「そうだねー、あ、王様、ほら、国が見えるよー」
少女の隣にいたオオカミと虎猫が、それぞれに話しかける。少女は頷き、王様と呼ばれた男性は、だからなんだ、と言わんばかりに鼻で笑った。
「だいたいね、君たちが『国民全員の命の危険がある』と朝宮廷まで来て言うから、てっきりなにか大変なことが起きるもんだと思って急きょ緊急信号を出し、こんな山の高いとこまで避難させて来たってのにまったくなんなんだ!」
まさか騙したのか! 国王はもう完全に怒っていた。そう、彼の言う通り、彼女たち、いや国民全員は王様の発した緊急の号令により国を出て、近くにある山の中へ、しかもできるだけ高いところへと避難していたのだ。家畜などの動物たちは少女の命令を受けたオオカミと虎猫らに誘導されここに来ている。
山の中でも少し開けた場所に彼らは固まるように集まり、そこから一望できる広い土地のなかにポツリと建つ自分らの国を見下ろしている。
「思えば途中で気付くべきだったな、自然災害といっても雨は朝ほどひどくはないし、川になっていた道も見れば引いているだろ、だったら、川の氾濫だって心配もない。ほら、だってあんなに穏やかに戻ってるじゃないか」
彼の指さす先はたしかにこの一週間見てきた中で最も静かに流れていた。
「そもそも、我が国は水害には強いことを自負している。現に法律で高床の家を義務付けているくらいだ、水害だったら逆に外に逃げずに建物の中にいた方が安全だったのだよ。あー、まったく。私としたことが、寝ぼけて正しい判断ができなかったのだな」
いかんなぁ、と自分の頭を軽くはたき、仕事があるんでな、と少女に背を向け人をかき分けるように帰ろうとする王様はぴたりとその足を止める、「……な、なんだ、この音は?」
……ォ……ォォ……ゴゴゴ……ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ!!
鼓膜を揺さぶる低音が遠くからこちらに向かってくる。それは聞く者の身体、森の木々、地面までもと、ここら一帯のものすべてを盛大に揺らす。
「な、なにが起きてるんだ!?」
皆が動揺する中、誰かが叫んだ。
「お、おい! あれをみろ!!」
ここにいる誰もが叫び主が指さす方を見た。その先にあったのはまさに川に挟まれた土地に建つ自分たちの国。
その背後に茶色の、巨大な波が押し寄せていた。その姿はまさに大地を這う巨大な生物。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……ゴゴ……ゴォォォォォ……ォォ……ォ……
それは彼らの目の前でいとも簡単に国を飲み込んで見せた。一瞬だけ彼らの目の前に茶色い海が出現し、すぐにそれは消え、同時に轟音も遠くへと去って行った。
全てが一瞬の出来事であった。
まだかすかに音が聞こえてくる。それとも耳に残ってるのか。誰も何も発しない。いや正しくは発することができなかった。彼らはただ、波が過ぎ去った後のなにも残ってない、かつて国があった大地をただ呆然と眺めることしかできなかったのだ。
「……ぁ……ああぁ……」
うまく言葉が出てこない国王に、少女はひどく説明的な口調で話し始める。
「鉄砲水です。朝、宿にいた私は外を見ておかしいと思いました。大雨で数十分前には川になってしまうくらいに水が溢れていた道が、雨が止んでもないのにその水が引きその姿が現れる。その理由はさっき王様が言った通り川の水が落ち着いたから。では、なんでこんな短時間に川の水量は減ったのでしょう?」
ここで説明を区切る少女は視線を目下の光景から遠く山と山の間へと向ける。
「それは川がせき止められていたからです。おそらく上流でしょう。ダムってご存知ですか? 本来の川の流れに細工をし、そこに水がたまるようにしたものです。それがここのところの雨で緩んでいた地盤が土砂崩れ、はたまた地滑りでも起こしたのでしょう。それで川がせき止められてしまい、結果、上流には自然のダムができていたのです」
よって、ダム下の私たちがいつも見る川の水の量は減ったのです、少女は言う。
「あれほどの大きい川をせき止めるくらいだからよほど大きな土砂崩れ、地滑りだったのかもしれません。そうしてできた巨大な自然のダムにはどんどん、大量の水が溜まっていきます。しかし、そもそも自然にできたダムはそれほど耐久に優れたものではありません。故に、増していく水の重さに耐えられなくなったダムは……」
「どかーんっ、と決壊! 溜められた水は堰を切ったように勢いよく下流へとどーんっ!」
虎猫が言葉をつないだ。それに少女は頷く。
「……これが鉄砲水の原理です」
そして説明は終わり、と少女は再び目線を下へとさげ、土砂と流れ着いた上流の木々が無造作に、そして乱雑に横倒しになって刺さっていたりする地面を眺める。その表情には憂いや同情などはなく、ただ事実を事実だと認識しているだけという感じだった。
自分の国の変わり果てた姿に国王は、がくりと膝から折れると顔に手を当てうなだれる。そんな彼の姿が見てられなかったのだろうか、虎猫は慰めの言葉を探して言う。
「ま、まあ、『命あっての儲けもん』って言うし、元気だそうよー、ね?」
「もっと、適当な言葉があっただろうに……」
これにはオオカミのツッコミが入る。どうも虎猫がしゃべるとどんな内容でも深刻に聞こえないから不思議だ。
「……っ……ははっ、はははっ、はははははっ!」
唐突な笑い声。それはなんと崩れた国王の手の隙間から漏れていた。いや国王からだけじゃない、あちらこちら、いたるところから笑い声が少女たちの耳に届いてくる。
「おっと? これは予想外だなー?」
笑い声は次第に集まって大きくなり、ついには国民全員の笑いが山全体を包んだのであった。
「みんなどうしちゃったのっ!?」
自嘲には到底思えない笑いにさすがに虎猫も怖くなったのか、彼らを見る目に恐怖が、声に震えが混じる。
「はははっ……いやぁ、すまないすまない。あまりに嬉しいことでね。私としたことが、笑いが止まらなかったよ」
国王は立ち上がり少女らに向き合う。そして国民全員の笑いがこだまする中、一国の王は両手を天に突出すと自慢げに、そして誇り高く叫ぶのだった。
「皆の衆よ! たしかにその眼に焼き付けたであろう! 我が国、我が故郷、我が母が自然の猛威を前に一瞬で消し飛ばされてしまったではないか!! では聞こう。これ以上の不幸が今後の人生にあるだろうか、いや! 断じてないだろう! 皆よ、喜ぶがよい! 我らは国を失った、住む場所、食うもの、着るもの、どれをとっても不自由だ! ここに宣言しよう! 我らは今この段階で、世界で最高についてない、最高に不幸で最高に恵まれてない民族になったのだ!!」
「ねえ、ナディ。あれでよかったの?」
進路を北へ、道なりに沿って森の中を歩く最中、前を歩く虎猫が振り向いてたずねる。しつこかった雨はさすがにもういいらしく、雲は退却、空は晴天。しかし、それでも雨はしっかり置き土産を残していた。数日間の雨を吸った地面は固体と言ってよいのか微妙なところで、着地面は沈みおまけにすべる、さらに斜面を登るのは一苦労、と歩きやすさではまだ固体である氷の道を歩いたほうがいくらかましだった。
「『あれで』って、よかったじゃないか、皆が助かったんだから」
虎猫の言葉が気にかかったのか、少女より先に彼女の隣を歩くオオカミが返す。
「んーそうだけどー、でも本当に『最高についてない民族』だったら、あの時濁流にのまれてないとダメなんじゃないかなーって思ったんだ。というのもね、あそこの国の人は最高についてない出来事と同時に『急死に一生を得た』という最高についている機会も同時に得ていたんだよ。結局プラスマイナスゼロで、彼らはやっぱり不幸ではない、どちらかと言えばとついているくらいだよ」
やっぱ命あっての儲けもんだよねー、虎猫は先ほど国王に向けた言葉を口にしたあと、
「まあ、何が言いたいかっていうとね。つまり、幸運と不幸ってのは結局表裏一体の関係でさ、生きようとする以上、最高に不幸の選択をしたつもりでも、結局はどこかで最高に幸運な結果を迎えているんだよね」
今回の出来事でより国民同士のきずなが強くなったんじゃないかな、そう虎猫は締めくくると他の一人と一匹の反応を待たずに前を向いてしまう。
「うむ……よくわかるようで、わからないような……」
「僕もよくわからないよー? さっきのはただなんとなく気分と勢いで言ってみただけだから、今聞かれたらたぶん違う答えを返すかもしれないねー」
「……じゃあ、今はどう考えてるんだ?」
「んー今ねー、そうだなー、濁流であの黒々集団が一掃されたのは気持ちよかったねー」
「……そうか」
「そうだよ。あ、ナディ。次の国で泊まるところはぜっっっったたいアレが出ないとこにしてね。じゃないと僕――おわっ!」
急な斜面を他が一歩一歩確かめながら歩いている中、一匹よそ見しながら登っていた虎猫はぬかるみに足を滑らせる。しかし、オオカミがすばやく察知し虎猫を支えたので、泥まみれにならずに済んだ。
「まったく、何をやってる、何を」
呆れるオオカミに虎猫はすごい形相で叫ぶのだった。
「ああー、もう、最悪! 勝手に僕に運を消費させないでよっ!! ああ、もうありえない! あーあ、寿命縮まっちゃったー…………なんてね。冗談だよ、冗だ……ってあれ? ごめん! 置いてかないでー!」
虎猫はいつの間にか遥か遠くにその姿がある少女とオオカミを追いかける、そしてオオカミの背中に乗り、いつも通り、振り落とされる。背中が泥で汚れたオオカミは虎猫の方を睨む。
少女はそんな二匹のやり取りをただ眺めているのであった。相変わらず何を考えているかは表情が乏しいので定かではない。
「おおー、これはすごーい!!」
二匹から感嘆が漏れる。
森を抜けた先には広大な原っぱが広がっていて、ちょうど野草が花をつけていたためちょっとしたお花畑になっていた。水滴をのせた大小さまざまな花から感じる生命力は見るものの心に新しい爽やかな風を吹き込んでくれる。
原っぱを元気よく駆け出した二匹を眺める彼女は、ふふっ、と小さくほほ笑む。
それはどこか悩みが吹っ切れた笑みで。
自然に溢れた、自分の正直な気持ちに、彼女自身が少し驚いていた。
《『自分らの幸運』、そんなことをもしかしたら彼女はずっと考えていたのかもしれない》
そんな推測を、今の少女を見た者はするかもしれない。
しかし生憎なことに、少女の他にここには、
「ナディー、見て見てー」
「おい、だから汚れた足で乗るなっ!」
暢気に花畑の中を駆ける大小二匹意外いないのだった。(終)
作:笹塚とぅま
【p7:Do you hope a luck?】
「あららー。これ昨日より強くなってるよー」
朝、一匹の尻尾のない虎猫が額を窓ガラスにつけつぶやく。その姿はいまにも、「退屈ー」や「つまんなーい」が飛び出してきそう。
というのも、窓の外ではまさにバケツをひっくり返したような土砂降りだった。
許容量をオーバーした堤防からは茶色の水が溢れ、あっという間に地面を浸食、本来そこにあったはずの道路は水路へと変貌を遂げている。
それに窓や屋根を細かく叩く音は昨日に比べ段違いに大きく、寝ていた人々の多くはその轟音に、敵襲か!? と勘違いさせられたほどだ。
「そもそも、これ大丈夫なのー?」
「いや、ダメだろ。……ご主人、この状態では、今日の外出も控えた方がよろしいですよ」
まさかここまで雨脚が強くなるとは、オオカミは彼の定位置である少女の足元から彼女を見上げる。
部屋に備え付けられていた椅子に座り、珍しくペンもノートも出さず、虎猫と同じように外の様子を眺める少女からは特にこれと言った感情は読み取れない。だからというものの、何も考えてないわけでもなさそうだ。
一人と二匹が、川に挟まれたこの国に入ったのは一週間前。関所の人が教えてくれたのには、この国はその隣にそびえたつ二つの山の間を流れる太い川が上流で二本に分かれ、その二本の川の間にできた広くて長い三角形の土地に建っているそうだ。そしてこのような国ではしばしばこのように大雨になると冠水してしまうそうで、そのため床への浸水を防ぐためにこの国の建築法では地面から一メートル以上ある土台を作ってその上に建てることが義務付けられているらしい。
入国時点ですでに無視できない程度の雨が降っていたので、一行は、調べ物は明日に回そうと、この宿にチェックインしたのだが、次の日も、そのまた次の日も、またまた次の日も……雨は一向にやむ気配がなく、日に日に強くなっていくばかり。結果、こもりっきりの生活が現在進行形で続いていたのだ。
特にすることを決めてないので、宿にいる間、一人と二匹は各自で自由に過ごしていた。虎猫はオオカミの尻尾をサンドバックにみたててあそび、飽きたら部屋を抜け出て宿泊客や従業員、宿の猫や犬などに積極的に話しかけては驚かせていた。そして時折いきなり部屋に飛び込んでは、『で、ででで、出た! 出たんだよ! あの黒々とした、せかせかとした、わさわさとした! 嗚呼、僕の口からはとても言えない! ……決めた。僕もうこの部屋から出ない』……とまあ、それなりに楽しんでいるようだった。
少女はというと、虎猫が部屋を出たり入ったりしてる間、なんの文字で書かれているかわからない古い本や地図を自分のリュックから取り出して読んだり、また自分で書いたノートを読み返してはまた戻り、また読んでは考え込むを繰り返していた。それから、猫とは別行動で宿の人の話を聞くために宿内を歩いたり、雨の中外へと出かけ、丸々一日帰って来なかったりする日もあった。
オオカミに関しては、少女について回り、行動のほとんどを彼女とともに過ごした。
「あ、でさでさー、昨日一緒に泊まってる人に面白い話聞いたんだけどさー、ナディはもう知ってる?」
朝食をとるために一行が宿の一階へと階段を下りる中、虎猫は少女にたずねる。
「……――のこと?」
「あ、なんだ。知ってんのかー」
そっかー、まあ、そうだとは思ってたけどねー、虎猫が先頭で食堂入り口にかかる暖簾をくぐる。ここでの食事もすでに慣れたもの、まっすぐとすでに指定されている、この一週間ずっと変わらない、『自分ら』の席へ座り、皆がそろったらところで、「いただきまーす」と準備されている料理を食べ始める。ここの宿は毎朝同じメニューを出すようで、一週間となった今、もう食べなくてもどんな味かわかる。ラインナップは、ご飯に焼いた魚や卵、味噌のスープにお漬物というもので、もちろんこれは少女にだけで、虎猫には猫専用の――おそらく宿の猫とおなじなのだろう――魚の缶詰が、オオカミには業務用と書かれた大きな袋から横から見ると台形の皿へとたんまりと盛られた――おそらく宿の犬と同じなのだろう――肉を乾燥させ圧縮した固形物が用意されている。
最初こそ二匹は難色を示したが今はもう何も言わずに皿に向かう。しかしさすがに飽きたのか、虎猫はオオカミの、オオカミは虎猫のを少しもらって食べていた。
「うっわー、トップかよ……今日は部屋に籠ろう」
「残念だったな。俺なんか今日は最下位だぜ」
「ラッキーアイテムは魚か……おい、俺の食べてくれよ」
「おっ、俺は、『人からのもらい物に注意』だってさ。いいぜ、もらってやるよ」
当たり前だが、この宿に泊まっているのはなにも彼女らだけじゃない。ここのところの雨で彼女らと同じく足止めを食らった人が多く泊まっていた。今の会話はつなぎを着た若い男性二人が食堂の天井につるされた箱型の機械が映しだす映像を見てしていたものだ。
少女たちもつられて、箱の映像に目を向ける。映像には縦に一位から十二位まで書かれおり、数字の横に『解説』と『ラッキーアイテム』が書かれていた。
「やだわー、『今日は運命の人と出会えるかも?』ですって。困るなー」
「えー、あんたはまだいいよ。あたしなんか、『今日はいいことが起きそう!』だよ。どストレートでこれはないよねー」
「あ、でも『積極的に外に出るのが幸運の第一歩』だってさ。二人ともよかったじゃん。この雨じゃ外に出れないからついてるもなにもないよ」
「でもなー。これじゃ今日中に隣の区まで荷物届けられないよねぇ」
「まあ、運よく届けられた方が困るけどね」
笑い声。
こちらは三人の女性だ。三人ともスタイルが良く、日に焼けた肌が健康的。会話からどうも商人か配達人であるようだ。少女たちの隣のテーブルに座る彼女らもまたつるされた箱を見ていた。
「それでさー聞いてよ。この前行った配達先がさーっておっと」
彼女らの中の一人がテーブルの中央に置いてあった調味料の瓶を取ろうと手を伸ばしたとき、誤って腕が汁椀に置いてあった箸の一本に引っかかってしまう。カラン、とテーブルに落ちた箸はそこで終わればよかったものの、ころころとテーブルを転がり始め、ついには端から空中へとその身を投げ出してしまう。
「あちゃー、やっちまった……お?」
投身自殺を図った箸は、その身を床に叩きつけることはなかった。と言うのも、落ちるのを見たオオカミが瞬時に床と箸の間にある空間に自分の身体を滑り込ませたのだ。目論見を阻まれた箸は降参とばかりに大人しく、オオカミの背中の彼の美しい銀の毛に埋もれている。
「お、ファインプレー!」
オオカミの皿から顔を離した際、その瞬間を目撃した虎猫は嬉しそうに、今はない尻尾を振る勢いで彼に賞賛を送る。
しかし、彼女、落とした張本人はそうでなかった。彼女はオオカミの背中からさっと箸を拾い上げると彼に感謝の言葉もニコリとした笑顔もなく一言。
「最悪」
そう言って、取った瓶から匙で香辛料を少しすくって乱暴に焼いた卵にかけると今さっきオオカミが救った箸を使い不機嫌そうに食べ始める。しかし、しばらくすると他二人との会話が弾んだため、『で、そこのセクハラ親父がよ~』とその表情には笑顔が戻っていた。
いつの間にか画面は切り替わっており、そこでは男性が今年の雨は観測上最高だと伝える。
「どんまいっ! そう言うこともあるさー、なんてったって英雄は叩かれて強くなるもんだからね」
「意味がわからん。……ご主人。どうやら、先ほどの話は本当のようですね」
少女が座るテーブルに戻ってきたオオカミは虎猫の謎のフォローを受けつつ彼女に一言。少女は無言でうなずくと若干しょんぼりと肩を落としている彼の頭をやさしくなでた。
さっきの女性はというと、取り換えもせず件の箸を使っている。
となると、別にあの女性は自分の口に入る物が動物に触れたことに対し嫌悪したわけではないのだろう。じゃあ、彼女はオオカミが嫌いだった、はたまたアレルギーか? だったら同じ空間にいるだけでも不快であるはずだから、これも違う。
虎猫は、こりゃ面白いものを見―ちゃった! とばかりに目を輝かし、この疑問に対する答えを口にした。
「ははー、本当にここの国では、大小関係なく、『ついていること』そのものを嫌うんだね」
宿で滞在している間、彼女らが従業員や宿泊客に聞いた話はこういうものだった。
この国では国教というものが存在し、なんでも、国民全員が信仰を義務付けてられているそうだ。法律でそう定められているために、信じない者、教に背くものは逮捕、最悪国外追放にさえなる。というのも、なぜそこまで尊まれているかと言うと、その宗教は遠い昔にこの地にやってきてこの国を建国した民族が信仰していたものらしく、その歴史的価値は高いところからくるらしい。
で、その内容なのだが簡単に言い表すと、『人が持つ運は有限』というものらしい。
そこでは運とは生まれる前に神様から振り分けられるもので、それで人は個々の決まった量の運を持って生まれてくる。
さらに運は使ったら――つまりついていることがあったら――減ってしまい、補充なんてできない。
じゃあ、運が底ついてしまったらどうなるか。不幸になるのか? いや、この教えでは、運の尽き、それはすなわち死を意味するらしく、したがって、こどもの急死なんかが起きると母親や周りの人は、『この子の死は、もともと神が与えてくれた運の絶対値が小さすぎたためだ』と解釈するそうだ。
以上から、運を使うこと、すなわちラッキーなことが自分の身に起きることは自分の寿命を縮めることに直結する。だから運の要素が大きくかかわってくるゲーム、たとえば籤やビンゴ、じゃんけんに似たようなものは全部、命を懸けたギャンブルとして扱われ、この国で最も危ない娯楽としてカテゴライズされている。しかしそうは言っても、命とお金、両方が賭けられるそのリスクから、これらは案外人気があることもその人は教えてくれた。
他にも、この国では、『いいことは必ずそれに見合った対価、犠牲を払っている』という意味で、『宝くじが当たった人は早死する』ということわざがあったり、賞などをいただいた時には、『いやぁ、まぐれですよぉ』と言うのはタブーで、このときは必ず、『はい、実力ですっ!』と答えなきゃならなかったり、『あーついてるなぁ』なんてうっかり人前で発言した暁には、『え? あなた死にたいの?』と返され、白い目で見られる……などなど、この国ではとにかく、ついていること幸運ラッキーは最大の悪、反対についてないこと不幸アンラッキーは大大歓迎なのだ。現にこのことを教えてくれた従業員の男性も、
『僕がなによりも望むものは自分の不幸です! やっぱ長生きしたいですからね。え、この仕事を全部一人でやるのかだって? そうだよ当たり前じゃないか。誰かの助けなんていらないね。え? それではつらくないかって? いやいや、だってそれじゃ僕が助かっちゃうじゃないか。そんなんで、あとどれくらいあるかわからない自分の運を使いたくはないよ。いやぁ、でもね、これだけの仕事を一人で夜までに全部終わらせるなんて、べらぼうについてなさすぎだとは思うってはいるよ? でも……無謀で人手が足りない仕事を押し付けられるたび、あまりの嬉しさにぞくぞくするんだ……』
と、なんとも勤労意欲溢れる方で、特に労働に陶酔する目、顔に浮かんだ恍惚な表情がなんとも印象的だった。……とまあ、最後のは男性個人的な発言であまり国の教えとは関係ないのだが、それでも、彼の話からいかに国民がその教えを基盤にし、それに準じて自分らの思考を展開しているかをうかがい知ることができたのだった。
「――でさー、ナディはこの国の宗教についてどう思ってんのー?」
食堂から部屋へと戻る途中、虎猫は自分の前を歩く少女にたずねる。
「ルーよ、お前はどう考えるのだ?」
階段を上っている最中、虎猫の問いに口に手を添えて考え込み始めた少女。いや、考えると言うよりは、もう考えはまとまっているのだがそれをどう言葉に表し説明したらよいかそれに思考を巡らせているようだ。そんな少女の様子を敏感に察したオオカミは彼女の代わりに会話をつなぐ。
「んー僕はねぇ……特にないなー。あ、でも、幸運を嫌い避け続ける、そんな人生はなんだかかわいそうな気もするけどねー」
「そうだな。そもそも、運なんていう実体のないものは使おうと思って使えるものでもないし減ってるのだってわからない。ましてや、なくなると死ぬってのは少し極端で強引な教えだとは思うがな」
まあ、それでも、人によって運の偏りがあることは認めるし、その教えが国民の統一に役立っているなら、それはそれで悪いことではないだろうな、自室の鍵を開ける音がし、オオカミは少女を一瞥してから、虎猫に自分の考えを語ってみせた。
「ほほー。端っから間違ってる、と言いたい訳ではなさそうだね」
まあ僕もだいたいそんな感じかなー、間延びした声で返答し虎猫は続ける。
「まあ、なんていうんだろ……つまり……そのね……」
「つまり?」
「つまり……ここの国民でない僕らには関係ない教えってことかなーっ」
あははー、考えるのに疲れたのか、はたまた飽きてしまったのか、もうこの話は終わりとばかりに適当な返しで締めると、虎猫は開けられた扉から勢いよく自室に飛び込みベッドに直行するとその頭を枕に突っ込む。
「本能に忠実だな……って、ん? なんだ?」
「だって動物だもん。お腹いっぱいで眠くなるのは当然だもんねー……ってなに? どうかし――ぎゃああああああああ!!」
虎猫の絶叫が部屋中、いや、宿中にこだまする。二匹の視界をすごい勢いで横切って行ったのは昆虫界でも最速のスタートダッシュができると噂の生物。黒光りするボディをもち、その姿はまさに黒い弾丸。しかも、今回、床を縦横無尽に進むその弾丸は一発だけで終わらなかったのだ。
「い、いやあああああ! なんで? ここは聖域。サンクチュアリのはずだよ? いや、いや、いやあああああ!」
もはや、さっきまでの、のんきな虎猫の姿はそこになかった。ベッドの上で阿鼻叫喚して跳ね回る虎猫に対してオオカミは呆れたとばかりに大きなため息をつく。
「おい、落ち着け、たかが昆虫だろ? そんな怖がる必要はどこにも……」
「たかが昆虫だって? 笑らわせてくれるよ、いや笑ってないけどもさ! こいつらは飛ぶんだ! 走るんだ! チキチキと鳴くんだ! もう、嫌悪には十分だよ! ここまでの不快な思いをさせるものはもはや昆虫じゃないよ! やつらは害虫で昆虫じゃない! じゃあ、ここで、もう一度聞こう。こいつらはなんだ!?」
「はあ……いや、だから、昆虫だと――」
興奮で、もはや自分が何を言っているのかわかってないんだろうな、オオカミは自分が冷静に相手することにより、早口でまくしたてる虎猫を落ち着かせようと試みるが、
「ナディ! もう宿替えよう? てかこの国出よ? いや、ごめん。調べものまだだったね・じゃあ、やっぱ宿だけでも替えて、今すぐ替えて。ほんとお願い、僕もう無理。もう、やだよぉ……」
オオカミの言葉は虎猫の声で遮られる。
その虎猫はというと、言いたいことすべてを吐き出し、布団に潜り込み大人しくなったものの、メンタルに致命的な傷を負ってしまったらしい。これは再起までかなりの時間とケアが必要っぽいなとオオカミは悟った。
「ご主人……これ、どうします?」
彼は先ほどからじーっと窓に張り付く勢いで外を眺めている少女に問う。外は相変わらずの雨で、そんな彼女の様子は今さっき室内で起こっていた騒動などまるで別世界の出来事だったかのよう。もちろんオオカミの言う『これ』とは虎猫のことだ。
少女は窓から体をはがすとようやく視線を室内へと向ける。そして二匹を一瞥すると、手早くベッドの上にあったリュックに机上のノートや筆記用具やらをしまいこんだ。
「ご主人、まさか……」
少女が目で見て思ったものを、オオカミは耳で感じ、そして彼女の考えた結論に至る。
「……この国を出ます」
リュックを背負った少女はこくりと頷き、布団をぽぽんと叩くと中の虎猫に小さく、「いくよ」と伝える。
「……え、ナディ、ほんと!?」
よっしゃー、と布団から飛び出し、すごい勢いで元凶巣食うこの部屋を飛び出す虎猫は、思ったよりもかなり早い完全復活を遂げたのだった。
それからすぐ、廊下から再び叫び声が聞こえた。
「あのーご説明いただけますか?」
雨が全身を濡らし、ゆっくりだが確実に体温を奪っていくなか、少女を見下ろす形で初老の男性が彼女の前に立っている。その顔には困惑といささかの不快が混じっていた。
今から二時間ほど前、国を出ることを宣言した少女は出国するにあたってオオカミと虎猫にあることを命令した。
「どうしてこのような雨の日に、こんなところに国民全員を連れてきていったいどういうつもりですか?」
男性の声には若干の怒りが見え隠れし、彼に傘を差す側近の前髪からはぽたぽたと水滴が落ちている。彼だけじゃない、ここにいる人のほとんどが急な展開に雨具などを準備できずに濡れ鼠と化している。
「ご主人、ここまでくれば大丈夫でしょう」
「そうだねー、あ、王様、ほら、国が見えるよー」
少女の隣にいたオオカミと虎猫が、それぞれに話しかける。少女は頷き、王様と呼ばれた男性は、だからなんだ、と言わんばかりに鼻で笑った。
「だいたいね、君たちが『国民全員の命の危険がある』と朝宮廷まで来て言うから、てっきりなにか大変なことが起きるもんだと思って急きょ緊急信号を出し、こんな山の高いとこまで避難させて来たってのにまったくなんなんだ!」
まさか騙したのか! 国王はもう完全に怒っていた。そう、彼の言う通り、彼女たち、いや国民全員は王様の発した緊急の号令により国を出て、近くにある山の中へ、しかもできるだけ高いところへと避難していたのだ。家畜などの動物たちは少女の命令を受けたオオカミと虎猫らに誘導されここに来ている。
山の中でも少し開けた場所に彼らは固まるように集まり、そこから一望できる広い土地のなかにポツリと建つ自分らの国を見下ろしている。
「思えば途中で気付くべきだったな、自然災害といっても雨は朝ほどひどくはないし、川になっていた道も見れば引いているだろ、だったら、川の氾濫だって心配もない。ほら、だってあんなに穏やかに戻ってるじゃないか」
彼の指さす先はたしかにこの一週間見てきた中で最も静かに流れていた。
「そもそも、我が国は水害には強いことを自負している。現に法律で高床の家を義務付けているくらいだ、水害だったら逆に外に逃げずに建物の中にいた方が安全だったのだよ。あー、まったく。私としたことが、寝ぼけて正しい判断ができなかったのだな」
いかんなぁ、と自分の頭を軽くはたき、仕事があるんでな、と少女に背を向け人をかき分けるように帰ろうとする王様はぴたりとその足を止める、「……な、なんだ、この音は?」
……ォ……ォォ……ゴゴゴ……ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ!!
鼓膜を揺さぶる低音が遠くからこちらに向かってくる。それは聞く者の身体、森の木々、地面までもと、ここら一帯のものすべてを盛大に揺らす。
「な、なにが起きてるんだ!?」
皆が動揺する中、誰かが叫んだ。
「お、おい! あれをみろ!!」
ここにいる誰もが叫び主が指さす方を見た。その先にあったのはまさに川に挟まれた土地に建つ自分たちの国。
その背後に茶色の、巨大な波が押し寄せていた。その姿はまさに大地を這う巨大な生物。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……ゴゴ……ゴォォォォォ……ォォ……ォ……
それは彼らの目の前でいとも簡単に国を飲み込んで見せた。一瞬だけ彼らの目の前に茶色い海が出現し、すぐにそれは消え、同時に轟音も遠くへと去って行った。
全てが一瞬の出来事であった。
まだかすかに音が聞こえてくる。それとも耳に残ってるのか。誰も何も発しない。いや正しくは発することができなかった。彼らはただ、波が過ぎ去った後のなにも残ってない、かつて国があった大地をただ呆然と眺めることしかできなかったのだ。
「……ぁ……ああぁ……」
うまく言葉が出てこない国王に、少女はひどく説明的な口調で話し始める。
「鉄砲水です。朝、宿にいた私は外を見ておかしいと思いました。大雨で数十分前には川になってしまうくらいに水が溢れていた道が、雨が止んでもないのにその水が引きその姿が現れる。その理由はさっき王様が言った通り川の水が落ち着いたから。では、なんでこんな短時間に川の水量は減ったのでしょう?」
ここで説明を区切る少女は視線を目下の光景から遠く山と山の間へと向ける。
「それは川がせき止められていたからです。おそらく上流でしょう。ダムってご存知ですか? 本来の川の流れに細工をし、そこに水がたまるようにしたものです。それがここのところの雨で緩んでいた地盤が土砂崩れ、はたまた地滑りでも起こしたのでしょう。それで川がせき止められてしまい、結果、上流には自然のダムができていたのです」
よって、ダム下の私たちがいつも見る川の水の量は減ったのです、少女は言う。
「あれほどの大きい川をせき止めるくらいだからよほど大きな土砂崩れ、地滑りだったのかもしれません。そうしてできた巨大な自然のダムにはどんどん、大量の水が溜まっていきます。しかし、そもそも自然にできたダムはそれほど耐久に優れたものではありません。故に、増していく水の重さに耐えられなくなったダムは……」
「どかーんっ、と決壊! 溜められた水は堰を切ったように勢いよく下流へとどーんっ!」
虎猫が言葉をつないだ。それに少女は頷く。
「……これが鉄砲水の原理です」
そして説明は終わり、と少女は再び目線を下へとさげ、土砂と流れ着いた上流の木々が無造作に、そして乱雑に横倒しになって刺さっていたりする地面を眺める。その表情には憂いや同情などはなく、ただ事実を事実だと認識しているだけという感じだった。
自分の国の変わり果てた姿に国王は、がくりと膝から折れると顔に手を当てうなだれる。そんな彼の姿が見てられなかったのだろうか、虎猫は慰めの言葉を探して言う。
「ま、まあ、『命あっての儲けもん』って言うし、元気だそうよー、ね?」
「もっと、適当な言葉があっただろうに……」
これにはオオカミのツッコミが入る。どうも虎猫がしゃべるとどんな内容でも深刻に聞こえないから不思議だ。
「……っ……ははっ、はははっ、はははははっ!」
唐突な笑い声。それはなんと崩れた国王の手の隙間から漏れていた。いや国王からだけじゃない、あちらこちら、いたるところから笑い声が少女たちの耳に届いてくる。
「おっと? これは予想外だなー?」
笑い声は次第に集まって大きくなり、ついには国民全員の笑いが山全体を包んだのであった。
「みんなどうしちゃったのっ!?」
自嘲には到底思えない笑いにさすがに虎猫も怖くなったのか、彼らを見る目に恐怖が、声に震えが混じる。
「はははっ……いやぁ、すまないすまない。あまりに嬉しいことでね。私としたことが、笑いが止まらなかったよ」
国王は立ち上がり少女らに向き合う。そして国民全員の笑いがこだまする中、一国の王は両手を天に突出すと自慢げに、そして誇り高く叫ぶのだった。
「皆の衆よ! たしかにその眼に焼き付けたであろう! 我が国、我が故郷、我が母が自然の猛威を前に一瞬で消し飛ばされてしまったではないか!! では聞こう。これ以上の不幸が今後の人生にあるだろうか、いや! 断じてないだろう! 皆よ、喜ぶがよい! 我らは国を失った、住む場所、食うもの、着るもの、どれをとっても不自由だ! ここに宣言しよう! 我らは今この段階で、世界で最高についてない、最高に不幸で最高に恵まれてない民族になったのだ!!」
「ねえ、ナディ。あれでよかったの?」
進路を北へ、道なりに沿って森の中を歩く最中、前を歩く虎猫が振り向いてたずねる。しつこかった雨はさすがにもういいらしく、雲は退却、空は晴天。しかし、それでも雨はしっかり置き土産を残していた。数日間の雨を吸った地面は固体と言ってよいのか微妙なところで、着地面は沈みおまけにすべる、さらに斜面を登るのは一苦労、と歩きやすさではまだ固体である氷の道を歩いたほうがいくらかましだった。
「『あれで』って、よかったじゃないか、皆が助かったんだから」
虎猫の言葉が気にかかったのか、少女より先に彼女の隣を歩くオオカミが返す。
「んーそうだけどー、でも本当に『最高についてない民族』だったら、あの時濁流にのまれてないとダメなんじゃないかなーって思ったんだ。というのもね、あそこの国の人は最高についてない出来事と同時に『急死に一生を得た』という最高についている機会も同時に得ていたんだよ。結局プラスマイナスゼロで、彼らはやっぱり不幸ではない、どちらかと言えばとついているくらいだよ」
やっぱ命あっての儲けもんだよねー、虎猫は先ほど国王に向けた言葉を口にしたあと、
「まあ、何が言いたいかっていうとね。つまり、幸運と不幸ってのは結局表裏一体の関係でさ、生きようとする以上、最高に不幸の選択をしたつもりでも、結局はどこかで最高に幸運な結果を迎えているんだよね」
今回の出来事でより国民同士のきずなが強くなったんじゃないかな、そう虎猫は締めくくると他の一人と一匹の反応を待たずに前を向いてしまう。
「うむ……よくわかるようで、わからないような……」
「僕もよくわからないよー? さっきのはただなんとなく気分と勢いで言ってみただけだから、今聞かれたらたぶん違う答えを返すかもしれないねー」
「……じゃあ、今はどう考えてるんだ?」
「んー今ねー、そうだなー、濁流であの黒々集団が一掃されたのは気持ちよかったねー」
「……そうか」
「そうだよ。あ、ナディ。次の国で泊まるところはぜっっっったたいアレが出ないとこにしてね。じゃないと僕――おわっ!」
急な斜面を他が一歩一歩確かめながら歩いている中、一匹よそ見しながら登っていた虎猫はぬかるみに足を滑らせる。しかし、オオカミがすばやく察知し虎猫を支えたので、泥まみれにならずに済んだ。
「まったく、何をやってる、何を」
呆れるオオカミに虎猫はすごい形相で叫ぶのだった。
「ああー、もう、最悪! 勝手に僕に運を消費させないでよっ!! ああ、もうありえない! あーあ、寿命縮まっちゃったー…………なんてね。冗談だよ、冗だ……ってあれ? ごめん! 置いてかないでー!」
虎猫はいつの間にか遥か遠くにその姿がある少女とオオカミを追いかける、そしてオオカミの背中に乗り、いつも通り、振り落とされる。背中が泥で汚れたオオカミは虎猫の方を睨む。
少女はそんな二匹のやり取りをただ眺めているのであった。相変わらず何を考えているかは表情が乏しいので定かではない。
「おおー、これはすごーい!!」
二匹から感嘆が漏れる。
森を抜けた先には広大な原っぱが広がっていて、ちょうど野草が花をつけていたためちょっとしたお花畑になっていた。水滴をのせた大小さまざまな花から感じる生命力は見るものの心に新しい爽やかな風を吹き込んでくれる。
原っぱを元気よく駆け出した二匹を眺める彼女は、ふふっ、と小さくほほ笑む。
それはどこか悩みが吹っ切れた笑みで。
自然に溢れた、自分の正直な気持ちに、彼女自身が少し驚いていた。
《『自分らの幸運』、そんなことをもしかしたら彼女はずっと考えていたのかもしれない》
そんな推測を、今の少女を見た者はするかもしれない。
しかし生憎なことに、少女の他にここには、
「ナディー、見て見てー」
「おい、だから汚れた足で乗るなっ!」
暢気に花畑の中を駆ける大小二匹意外いないのだった。(終)
《不完全ツーリズム》
作:笹塚とぅま
【page.8:God who look for the reason】
――ここでもか。
少女はため息をつく。
――わからない。
足元に広がる『モノ』の一つに目を落とす。
苦痛に歪んだ表情を張り付けたそれは首。
その下は見当たらなかった。
視線を他へ向けても同じようなものがごろごろと転がっているだけ。
そのどれもが元あった形を保っていなかった。
少女は再びため息をつく。
鼻につく血の臭いに少しだけ顔をしかめ少女は進む。
足の踏み場がないほどに埋め尽くす死体。
しかし、彼女は困らない。
……なぜか。
落ちているモノを避けて歩く必要が無いからだ。
ここでもし足の着地点にありの死体――生きていてもいい――があったとして、人はそれを避けて通ろうとするだろうか。
……答えは限りなくNO。
おそらくそこに蟻の死体があることすらも気付かないだろう。
少女にとって、死体こそ認知しているものの、感覚で言うとそんな感じだ。
生きてようが、死んでようが構わない。
その程度の関心だ。
彼女が一歩一歩と歩を進めるたび、ぬちゃっと何かつぶれる、えぐり出る、はみ出す音が聞こえてくる。
飛び出たモノがその白いワンピースを、その白く美しい脚を赤黒く染める。
少女はそれを気持ち悪いと思ったりしない。
泥水が引っかかった程度とも思っていない。
そして歩きながら彼女は問う。
――なぜ。 ――どうしてなのだろう。
「おーい、クルー!」
最近自分に与えられた名が少女を思考の深みから現実へと引き戻す。
少女の深い群青を湛えた瞳に再び映る現状。そしてその視線の先、屍の絨毯が切れたところに立つそれは彼女に向かって手を振っていた。
よいしょ、よいしょと、少女と違いその声の主は地面を埋め尽くすそれを避けて少女のもとへ行こう試みるも、数歩で無理だと判断し早々と岸へ引き返す。
そんな様子に少女は何も思わず方向だけはその方へ向け、相変わらずの歩調で歩き続け、ついに岸に上がると彼女は自分の名を呼んだもの――一人の青年の前でその歩みを止めた。
「ここにいたのね……って、それにしてもひどいなあ」
少女よりもずっと高い優男な風貌を持つ青年はその中途半端の長さに切りそろえた栗色の髪をかきあげると少女の背後に広がる光景に思わず感想をもらす。
「来てみたらすでにこの状態だ」
青年の腰丈ほどしかない少女は彼を見上げ、その見た目とは大きく離れている大人びて落ち着いた口調で言う。
「そう……でもそれでもひど……あ」
睨むようにその光景を眺めた青年は、再び視線を少女に戻し――そして固まった。
そしてここら一帯をつんざくような悲鳴がこだました。
「ああぁぁぁあああああ! てか、服! 服!」
「ん? 服がどうかしたか?」
自分を指差し、わななく青年にその意味がわからない少女はぴょこんと首を傾げる。
「『どうかしたか?』じゃないでしょ! こんな汚してっ!」
「ああ、このことか」
「『これ』って……はあ」
高かったのに……と嘆く青年。しかしその少女はというと『自分はそんなしゃべり方しない』と顔をしかめていた。
「……ほら。こっちおいで」
「うむ」
青年は死体の海から少し離れたところに少女の手を引き連れていくと、背負っていた必要最低限のモノすら入らないほどの小さなリュックからタオルを取り出すと、はねた血や肉で汚れた少女の顔や髪、脚を拭う。
「服は落ちそうもないから、次行くところで新しいのを買うしかないね……」
「そうだな」
「ねえ、全然悪いと思ってないでしょ?」
「悪い? 私がか?」
「はぁ……いいよ。……でも、その格好はさすがに怪しまれるかもな」
一通り汚れを取ってあげた青年は少女の赤黒いしみが目立つ白のワンピースを見て、自分が羽織っていた茶色が褪せた厚手の布のローブを少女に着せる。
「これで、まあ大丈夫か」
「ぶかぶかで歩きにくいな」
「それは仕方ない。我慢だよ」
「しかも臭い」
「それはほんとごめんっ! でもすっごい傷ついた!」
くんくんとにおいを嗅ぎ『うへぇ』という顔をする少女にショックを受けるも青年は全力で頭を下げる。
「んー……まあ、この際仕方ないか」
「どうするんだ?」
別にこのままでもいいぞという少女に、いいからと青年は一度着せたローブを脱がせ、そして後ろに手を回し腰のベルトに装着していたハンティングナイフを引き抜いた。
「こうするのっ、と」
ビーっと布が切れ、裂ける音。
その後にボトリボトリと厚い切れ端が地面に落ちる。
「……こんなもんか?」
「おお! ぴったりだ」
当初より約50%の減量に成功したローブをまとい少女はクルリと回る。
「ならよかった」
「まあ、臭いは変わらんがな」
「ははは……それは……よくないね」
「それにしても、だ」
引きつった笑顔の青年に少女は尋ねる。
「これは、なんだ」
少女が指差すこれとは、もちろんあの死体たちのことだ。
「あー。そうそう、クルは何かわかったかい?」
「わからないからこうしてお前に聞いているのだが」
「ははっ、そりゃそうだよね。ごめんごめん」
そう笑い青年は『そうか……』とつぶやいて、
「まあ、ここら一帯はある国とそれとは別の国の境界付近ってのはちょっと前に言ったよね?」
「ああ、しっかり覚えてる」
「さすが。……で、その二国は領地を広げ、最終的にはこの地域一帯の覇権を握りたい、一番上のすべてを管轄する権力の座が欲しいと考えている。そのためには互いが邪魔な存在だった」
ここで少女が口を挟む。
「まて、だからって……だからって殺しあったというのか?」
「そうだよ」
何を当たり前のことを、と言った感じで青年は答えた。
「……わからない」
「? そうかい?」
「そもそも、人間にとって権力ってのはそんなに大事なものなのか?」
「どうだろうね。僕はそこまでの立場じゃないからよくわからいけど」
現実でこうなってるんだからそうなんじゃないの? と青年は肩をすくめた。
「てか、権力云々は『神様』の方が詳しいというか、わかってるんじゃないの」
「ああ……それは違う」
青年の視線に、少女はふるふると首を振った。
「まあ、『神』自体が権力みたいなものだから、あまりそこは考えたりしない」
「そういうもんなのね」
ほへーと、わかっているのかいないのか、そんな反応を返す青年に少女は続ける。
「そこでだ。わたしはなぜ人間が権力を、つまり神が作ったモノがなぜ神そのものを欲するかが気になったんだ」
少女はそこに広がる死体を眺める。
少女にとって人間の生死はほんとどうだっていい。
しかしそれが、少女が人間そのものをどうでもいいと言っていることを示さない。
「なあ、なんで人は殺すまで戦うんだ?」
「というと?」
「そもそも、動物は群れるものだ。そうなるように『私たちが作った』。したがって人間も国を作って群れる」
でも――と少女は続ける。
「他の動物は縄張りをめぐって争うことはあるが、相手の命を奪うまでのことは滅多にしない」――それなのになぜ、
――人間という動物はここまでも、
――同族で殺し合うことができるんだ。
同族同士殺すという、まさに子孫繁栄の仕組みに反する行為をするように動物を作ってはいないはず。
「さっぱり理解できない」
少女は目の前の景色、結果にそう言った。
そんな少女に青年は少し考えたあと、
「…………まあ、そうだけどさ。そもそも人間を他の動物と一緒に考えるのがダメなんじゃない?」
「そうかもしれない。人間はとにかく動物と同じ枠で語れない行動が多すぎる」
つまり例外、イレギュラーばかりだ。
「例えば、お前」
「僕かい?」
びしっと振り向きざま自分に指を差してきた少女の意味がわからず、青年は思わず自分でも自らを指差してしまう。
「お前は他の人間と群れないな。初めて会った時から今までそうだがずっと独りだ」
一瞬きょとんとした青年は次の瞬間にはけらけらと笑っていた。
「やだなークル。僕は独りじゃなくて一人ね」
「いや、お前は独りだ」
「断言しちゃうか……」
微妙なニュアンスをしっかり理解した少女に一刀両断された青年だが、何とか復活し訂正を加える。
「てかね、そもそも僕は一人でもないからね?」
「……ん?さっきまで寝てたわけじゃないだろう?」
「それは僕に『夢の続きを見ているの?』って言いたいのかな?」
心配そうな顔で返す少女に、笑顔の青年にも薄く青筋が浮かぶ。
「そうじゃなくて……ほら。僕とクル、二人じゃん」
「……わたしは人間じゃない」
「でも、今は人間でしょ」
「その形を取ってるだけで本質は違う」
雪のように真っ白なくせっ毛をいじりながら少女は答える。
「んー、そういうもんかねー」
そこらへん難しいのねと青年はそれ以上言及せずに、
「さ、いこうか。今日中に国に着かないと、今日も野宿だよ?」
「そうか……私は別にかまわないが?」
「……すみません。僕が耐えられないので行きましょう」
野宿が何日続いても全然平気な神様に、いろいろと気になることが多くそこまでのタフさはない人間は素直に本音を吐く。
そして少女の手を握り歩き始めようとするが、
「あ……」
ポテンとその場で少女は倒れてしまう。
「…………」
全身に力が入らない。
そしてどこからも力が湧いてこない。
またか、と少女は小さくため息をついた。
「……大丈夫?」
青年はリュックから手のひらサイズの小さな箱を取り出してそれを開封し中から黄色く丸い固形物を取り出した。
「はい。そういや朝ご飯の前にいなくなったから、もしやとは思ったんだ」
「…………全く人間という生き物はつくづく不便だな」
青年が口元に持っていった一口サイズのそれを口に入れ、ゆっくりと咀嚼しながら少女はぼやく。
「これだと、歩くのは無理そうだな。ほれ、食べてすぐ悪いけどいくよ……よいしょっと」
「お、おお……」
見た目の細さとは裏腹に青年は必要なところにしっかりと筋肉がついているため、軽々と少女を背負うとそのままひょいひょいと歩いていく。
青年の広くはない背中に収まる少女はその背中に話しかける。
「なあ、お前」
「お前って……まあいいけどどうしたの?」
「この……今のやつ全然おいしくないな」
「えっ……」
「な、なんだ」
「いや、味とかそういうのは興味ないと思ってた」
背中から伝わってきたあまりの驚きに、少女は自分が人間ごときに馬鹿にされたと感じムッとなり、
「この姿だと人間が感じる味もわかる。今のはお前がいつも作るあのよくわからんものの次くらいにまずかった」
「……ごめんなさい。おいしいのが作れるよう精進します……」
青年がしょんぼりとするのが表情を見なくてもはっきりとわかり、少女は少し面白いと感じた。
「なあ、次の行く国でおいしいのはあるか?」
「んーそれは行ってみないとわからないけど、少なくとも僕が作るのよりはおいしいんじゃない?」
「うむ。それならいい」
満足げに返す少女。それに『どんだけ僕のまずいんだよ……』と暗澹な気分になる青年。
日は西に傾き始めている。
「なあ、お前は私とこうして旅をしていて楽しいか?」
一定のペースを刻む青年の背に揺られながら少女は尋ねる。
「そうだね、楽しいよ。クルはどう?」
「私? 私は――」
『昔あるところに一人の神様がいました。
彼女は初代の神から仕事の引き継ぎを受けそれを全うしていた。
その仕事と言うのが初代の神が作った生命の観察。
この世に存在する、幾多の生命の観察。
そこに神が介入することはない。
各生命の情報はあらかじめ前任から受け取っており、実際ほとんどの生命はその情報通り動いていた。
毎日が同じことの繰り返しである、実に退屈な日々。
しかしある日、神様の目はとある生命にくぎ付けになった。
それは戦うための爪や身を守るための毛を持たずこのように簡単に餓死してしまうほどに脆弱で弱い生き物だった。
初代の神が一番最後に創った生命。
ヒトだった。
神様は最初、こんな生命すぐに滅びると思っていた。
しかし、それは間違っていた。
彼らは、集団を作って、武器を作り、自分らより強い生命を狩った。
服を作るようになった彼らは世界のどこへでも行くようになった。
集団になった彼らは今度は自分らで糧を作り始めた。
そして彼らは言葉を話、出来事を記すために文字を作り、教育も行った。
大きくなった集団は国と呼ばれ、社会と言う概念が一般化され、その中で彼らは他の生命には存在しない、独自の文化と言うものを作り始めた。
彼らの行動を見るのは神様にとって楽しかった。
しかし、一方でここまでに多くのヒトどうしの争いがあり、多くのヒトが殺され死んでいった。
同族が殺し合う。
それは神様にとって新鮮だった。
争いの理由は様々だった。
権力や愛憎、一方的な差別もあれば、価値観の衝突。
そうして神様は人間の本質に興味を持ち始めた。
それを知ることで、
『何でこんなものを前任は作ったのか』
それがわかると思ったからだ。
ここで神様はふと気づく。
神様はいつもヒトを『上から』見ていた。
これは単に神様が上にいたからに過ぎない。
観察にルールは定められていない。
そうして神様はおもむろに立ち上がると、ぴょんと『下』へ降りたのであった』(終)
作:笹塚とぅま
【page.8:God who look for the reason】
――ここでもか。
少女はため息をつく。
――わからない。
足元に広がる『モノ』の一つに目を落とす。
苦痛に歪んだ表情を張り付けたそれは首。
その下は見当たらなかった。
視線を他へ向けても同じようなものがごろごろと転がっているだけ。
そのどれもが元あった形を保っていなかった。
少女は再びため息をつく。
鼻につく血の臭いに少しだけ顔をしかめ少女は進む。
足の踏み場がないほどに埋め尽くす死体。
しかし、彼女は困らない。
……なぜか。
落ちているモノを避けて歩く必要が無いからだ。
ここでもし足の着地点にありの死体――生きていてもいい――があったとして、人はそれを避けて通ろうとするだろうか。
……答えは限りなくNO。
おそらくそこに蟻の死体があることすらも気付かないだろう。
少女にとって、死体こそ認知しているものの、感覚で言うとそんな感じだ。
生きてようが、死んでようが構わない。
その程度の関心だ。
彼女が一歩一歩と歩を進めるたび、ぬちゃっと何かつぶれる、えぐり出る、はみ出す音が聞こえてくる。
飛び出たモノがその白いワンピースを、その白く美しい脚を赤黒く染める。
少女はそれを気持ち悪いと思ったりしない。
泥水が引っかかった程度とも思っていない。
そして歩きながら彼女は問う。
――なぜ。 ――どうしてなのだろう。
「おーい、クルー!」
最近自分に与えられた名が少女を思考の深みから現実へと引き戻す。
少女の深い群青を湛えた瞳に再び映る現状。そしてその視線の先、屍の絨毯が切れたところに立つそれは彼女に向かって手を振っていた。
よいしょ、よいしょと、少女と違いその声の主は地面を埋め尽くすそれを避けて少女のもとへ行こう試みるも、数歩で無理だと判断し早々と岸へ引き返す。
そんな様子に少女は何も思わず方向だけはその方へ向け、相変わらずの歩調で歩き続け、ついに岸に上がると彼女は自分の名を呼んだもの――一人の青年の前でその歩みを止めた。
「ここにいたのね……って、それにしてもひどいなあ」
少女よりもずっと高い優男な風貌を持つ青年はその中途半端の長さに切りそろえた栗色の髪をかきあげると少女の背後に広がる光景に思わず感想をもらす。
「来てみたらすでにこの状態だ」
青年の腰丈ほどしかない少女は彼を見上げ、その見た目とは大きく離れている大人びて落ち着いた口調で言う。
「そう……でもそれでもひど……あ」
睨むようにその光景を眺めた青年は、再び視線を少女に戻し――そして固まった。
そしてここら一帯をつんざくような悲鳴がこだました。
「ああぁぁぁあああああ! てか、服! 服!」
「ん? 服がどうかしたか?」
自分を指差し、わななく青年にその意味がわからない少女はぴょこんと首を傾げる。
「『どうかしたか?』じゃないでしょ! こんな汚してっ!」
「ああ、このことか」
「『これ』って……はあ」
高かったのに……と嘆く青年。しかしその少女はというと『自分はそんなしゃべり方しない』と顔をしかめていた。
「……ほら。こっちおいで」
「うむ」
青年は死体の海から少し離れたところに少女の手を引き連れていくと、背負っていた必要最低限のモノすら入らないほどの小さなリュックからタオルを取り出すと、はねた血や肉で汚れた少女の顔や髪、脚を拭う。
「服は落ちそうもないから、次行くところで新しいのを買うしかないね……」
「そうだな」
「ねえ、全然悪いと思ってないでしょ?」
「悪い? 私がか?」
「はぁ……いいよ。……でも、その格好はさすがに怪しまれるかもな」
一通り汚れを取ってあげた青年は少女の赤黒いしみが目立つ白のワンピースを見て、自分が羽織っていた茶色が褪せた厚手の布のローブを少女に着せる。
「これで、まあ大丈夫か」
「ぶかぶかで歩きにくいな」
「それは仕方ない。我慢だよ」
「しかも臭い」
「それはほんとごめんっ! でもすっごい傷ついた!」
くんくんとにおいを嗅ぎ『うへぇ』という顔をする少女にショックを受けるも青年は全力で頭を下げる。
「んー……まあ、この際仕方ないか」
「どうするんだ?」
別にこのままでもいいぞという少女に、いいからと青年は一度着せたローブを脱がせ、そして後ろに手を回し腰のベルトに装着していたハンティングナイフを引き抜いた。
「こうするのっ、と」
ビーっと布が切れ、裂ける音。
その後にボトリボトリと厚い切れ端が地面に落ちる。
「……こんなもんか?」
「おお! ぴったりだ」
当初より約50%の減量に成功したローブをまとい少女はクルリと回る。
「ならよかった」
「まあ、臭いは変わらんがな」
「ははは……それは……よくないね」
「それにしても、だ」
引きつった笑顔の青年に少女は尋ねる。
「これは、なんだ」
少女が指差すこれとは、もちろんあの死体たちのことだ。
「あー。そうそう、クルは何かわかったかい?」
「わからないからこうしてお前に聞いているのだが」
「ははっ、そりゃそうだよね。ごめんごめん」
そう笑い青年は『そうか……』とつぶやいて、
「まあ、ここら一帯はある国とそれとは別の国の境界付近ってのはちょっと前に言ったよね?」
「ああ、しっかり覚えてる」
「さすが。……で、その二国は領地を広げ、最終的にはこの地域一帯の覇権を握りたい、一番上のすべてを管轄する権力の座が欲しいと考えている。そのためには互いが邪魔な存在だった」
ここで少女が口を挟む。
「まて、だからって……だからって殺しあったというのか?」
「そうだよ」
何を当たり前のことを、と言った感じで青年は答えた。
「……わからない」
「? そうかい?」
「そもそも、人間にとって権力ってのはそんなに大事なものなのか?」
「どうだろうね。僕はそこまでの立場じゃないからよくわからいけど」
現実でこうなってるんだからそうなんじゃないの? と青年は肩をすくめた。
「てか、権力云々は『神様』の方が詳しいというか、わかってるんじゃないの」
「ああ……それは違う」
青年の視線に、少女はふるふると首を振った。
「まあ、『神』自体が権力みたいなものだから、あまりそこは考えたりしない」
「そういうもんなのね」
ほへーと、わかっているのかいないのか、そんな反応を返す青年に少女は続ける。
「そこでだ。わたしはなぜ人間が権力を、つまり神が作ったモノがなぜ神そのものを欲するかが気になったんだ」
少女はそこに広がる死体を眺める。
少女にとって人間の生死はほんとどうだっていい。
しかしそれが、少女が人間そのものをどうでもいいと言っていることを示さない。
「なあ、なんで人は殺すまで戦うんだ?」
「というと?」
「そもそも、動物は群れるものだ。そうなるように『私たちが作った』。したがって人間も国を作って群れる」
でも――と少女は続ける。
「他の動物は縄張りをめぐって争うことはあるが、相手の命を奪うまでのことは滅多にしない」――それなのになぜ、
――人間という動物はここまでも、
――同族で殺し合うことができるんだ。
同族同士殺すという、まさに子孫繁栄の仕組みに反する行為をするように動物を作ってはいないはず。
「さっぱり理解できない」
少女は目の前の景色、結果にそう言った。
そんな少女に青年は少し考えたあと、
「…………まあ、そうだけどさ。そもそも人間を他の動物と一緒に考えるのがダメなんじゃない?」
「そうかもしれない。人間はとにかく動物と同じ枠で語れない行動が多すぎる」
つまり例外、イレギュラーばかりだ。
「例えば、お前」
「僕かい?」
びしっと振り向きざま自分に指を差してきた少女の意味がわからず、青年は思わず自分でも自らを指差してしまう。
「お前は他の人間と群れないな。初めて会った時から今までそうだがずっと独りだ」
一瞬きょとんとした青年は次の瞬間にはけらけらと笑っていた。
「やだなークル。僕は独りじゃなくて一人ね」
「いや、お前は独りだ」
「断言しちゃうか……」
微妙なニュアンスをしっかり理解した少女に一刀両断された青年だが、何とか復活し訂正を加える。
「てかね、そもそも僕は一人でもないからね?」
「……ん?さっきまで寝てたわけじゃないだろう?」
「それは僕に『夢の続きを見ているの?』って言いたいのかな?」
心配そうな顔で返す少女に、笑顔の青年にも薄く青筋が浮かぶ。
「そうじゃなくて……ほら。僕とクル、二人じゃん」
「……わたしは人間じゃない」
「でも、今は人間でしょ」
「その形を取ってるだけで本質は違う」
雪のように真っ白なくせっ毛をいじりながら少女は答える。
「んー、そういうもんかねー」
そこらへん難しいのねと青年はそれ以上言及せずに、
「さ、いこうか。今日中に国に着かないと、今日も野宿だよ?」
「そうか……私は別にかまわないが?」
「……すみません。僕が耐えられないので行きましょう」
野宿が何日続いても全然平気な神様に、いろいろと気になることが多くそこまでのタフさはない人間は素直に本音を吐く。
そして少女の手を握り歩き始めようとするが、
「あ……」
ポテンとその場で少女は倒れてしまう。
「…………」
全身に力が入らない。
そしてどこからも力が湧いてこない。
またか、と少女は小さくため息をついた。
「……大丈夫?」
青年はリュックから手のひらサイズの小さな箱を取り出してそれを開封し中から黄色く丸い固形物を取り出した。
「はい。そういや朝ご飯の前にいなくなったから、もしやとは思ったんだ」
「…………全く人間という生き物はつくづく不便だな」
青年が口元に持っていった一口サイズのそれを口に入れ、ゆっくりと咀嚼しながら少女はぼやく。
「これだと、歩くのは無理そうだな。ほれ、食べてすぐ悪いけどいくよ……よいしょっと」
「お、おお……」
見た目の細さとは裏腹に青年は必要なところにしっかりと筋肉がついているため、軽々と少女を背負うとそのままひょいひょいと歩いていく。
青年の広くはない背中に収まる少女はその背中に話しかける。
「なあ、お前」
「お前って……まあいいけどどうしたの?」
「この……今のやつ全然おいしくないな」
「えっ……」
「な、なんだ」
「いや、味とかそういうのは興味ないと思ってた」
背中から伝わってきたあまりの驚きに、少女は自分が人間ごときに馬鹿にされたと感じムッとなり、
「この姿だと人間が感じる味もわかる。今のはお前がいつも作るあのよくわからんものの次くらいにまずかった」
「……ごめんなさい。おいしいのが作れるよう精進します……」
青年がしょんぼりとするのが表情を見なくてもはっきりとわかり、少女は少し面白いと感じた。
「なあ、次の行く国でおいしいのはあるか?」
「んーそれは行ってみないとわからないけど、少なくとも僕が作るのよりはおいしいんじゃない?」
「うむ。それならいい」
満足げに返す少女。それに『どんだけ僕のまずいんだよ……』と暗澹な気分になる青年。
日は西に傾き始めている。
「なあ、お前は私とこうして旅をしていて楽しいか?」
一定のペースを刻む青年の背に揺られながら少女は尋ねる。
「そうだね、楽しいよ。クルはどう?」
「私? 私は――」
『昔あるところに一人の神様がいました。
彼女は初代の神から仕事の引き継ぎを受けそれを全うしていた。
その仕事と言うのが初代の神が作った生命の観察。
この世に存在する、幾多の生命の観察。
そこに神が介入することはない。
各生命の情報はあらかじめ前任から受け取っており、実際ほとんどの生命はその情報通り動いていた。
毎日が同じことの繰り返しである、実に退屈な日々。
しかしある日、神様の目はとある生命にくぎ付けになった。
それは戦うための爪や身を守るための毛を持たずこのように簡単に餓死してしまうほどに脆弱で弱い生き物だった。
初代の神が一番最後に創った生命。
ヒトだった。
神様は最初、こんな生命すぐに滅びると思っていた。
しかし、それは間違っていた。
彼らは、集団を作って、武器を作り、自分らより強い生命を狩った。
服を作るようになった彼らは世界のどこへでも行くようになった。
集団になった彼らは今度は自分らで糧を作り始めた。
そして彼らは言葉を話、出来事を記すために文字を作り、教育も行った。
大きくなった集団は国と呼ばれ、社会と言う概念が一般化され、その中で彼らは他の生命には存在しない、独自の文化と言うものを作り始めた。
彼らの行動を見るのは神様にとって楽しかった。
しかし、一方でここまでに多くのヒトどうしの争いがあり、多くのヒトが殺され死んでいった。
同族が殺し合う。
それは神様にとって新鮮だった。
争いの理由は様々だった。
権力や愛憎、一方的な差別もあれば、価値観の衝突。
そうして神様は人間の本質に興味を持ち始めた。
それを知ることで、
『何でこんなものを前任は作ったのか』
それがわかると思ったからだ。
ここで神様はふと気づく。
神様はいつもヒトを『上から』見ていた。
これは単に神様が上にいたからに過ぎない。
観察にルールは定められていない。
そうして神様はおもむろに立ち上がると、ぴょんと『下』へ降りたのであった』(終)