僕らが天文部を立ち上げてから一ヶ月近くが経過した。
その間にやった活動といえば、天体観測を何回かしただけ。部活というのはもっと忙しいイメージがあったのだが、実際にやってみるとそうでもなかった。天文部という部活の性質上、特に工夫をしない限りはどうしてもゆるい活動になってしまうのかもしれない。
しかし活動がほとんどないと言いながらも、放課後になると部員は集まってくる。そしてそれぞれ思い思いの場所に座り、適当に本を読んだり勉強をしたりする。
明日香はよく星座占いの本を読んでいる。雑誌なんかにあるようなものではなく、かなり分厚い専門的な本だ。
そして部長の透はどうしているかと言うと、彼女は彼女で宇宙工学系の本を読んでいる。こちらも妙に分厚く、数式や図がぎっしり書かれているなかなかハードなものだ。星を見るだけでは満足できず、ロケットでも飛ばそうと思っているのだろうか。普通の高校生ならありえないだろうが、なんとなく透なら本気でそう考えていそうな気がする。
そして僕は、最近は星座について調べている。
それぞれ星座には物語がある。神話だとか伝説だとかの物語について、以前は古臭い退屈なものだと思っていたが、調べているうちに段々面白いと思うようになってきた。確かにそういったものは古臭いのだが、その中に時々、最近のエンターテイメントには無い独特の人間らしさを感じることがある。そういった部分が僕の興味を引いているのだ。
とにかくそうして、僕らは好き勝手に本を読んだりして過ごしていた。
そんなある日のことだ。
いつもどおりの放課後を過ごした後、僕と透は高校から家に向かって歩いていた。
少し前まではこの時間になると綺麗な夕焼けを見ることができていたのだが、最近ではまだ日が高い。夏が近づき、日照時間が増えてきているのだろう。
二人で雑談をしながら歩いている途中、ふと彼女は言った。
「夏休みに入ったら、天文部で合宿をしてみない?」
「え? 合宿?」
「そうよ。楽しそうじゃない」
「まあ、確かに楽しそうだけど。……でも、天文部の合宿って何をするんだ? キャンプでもしながら星を見たりとか?」
「キャンプ!!」
僕が言った途端彼女は叫んだ。
……なんだか最近、前よりも透の性格が子供っぽくなっているような気がする。後輩の明日香の影響だろうか。
「キャンプ! それもいいわね! というよりそれにしましょ。色々と活動内容を考えていたけど、それが一番面白そう!」
「……」
僕の何気ない一言でキャンプをすることが決定してしまった。
とにかくそうして二人で、その夏休みのキャンプについて色々と話していると、
「――あれ?」
唐突に、透は不思議そうな声を出して立ち止まった。僕も思わず足を止める。
透の視線を追うと、そこには僕らと同年代くらいの女の子が立っていた。
彼女は立ち止まった僕らに気づき、こちらをちらりと見て――――そして、何か大切なものを見つけたような笑みを浮かべた。
「お久しぶりです! 透さん!」
言いながらこちらにやってくる。
「――ああ、茉莉。久しぶりね」
「はい!! ……って、『久しぶり』じゃないですよ!」
そして突然彼女は怒り始めた。
どうやら透の知り合いのようだが、いったい誰なんだろうか?
「引っ越しをするなら、その住所くらい教えてくれてもいいじゃないですか! というか、その前日になって『そういえば私、明日引っ越すから。さようなら』っておかしくないですか!? ぽかーんとしている間にもういなくなっちゃってるし、部活の先輩たちに聞いても行き先は知らないし、わけわかんないですよ!!」
「ご、ごめんね。ちょっと落ち着いて」
「落ち着けるわけないじゃないですか! だいたい透さんは周りのことを考え無さ過ぎなんですよ! 私だけじゃないです。みんな突然のことに驚いてましたよ! そもそもなんで引っ越しなんかするんですか。家族ぐるみで引っ越しをするのかと思ったら、そういうわけでもないみたいだし……」
段々と落ち着いてきたのか、その声量は小さくなってくる。
「……あれ? そういえば、そっちの男は?」
今になって気づいたのか、僕のほうをじろりと見ながら言った。……それは何か敵意のようなものを感じる視線だった。
「正人のこと?」
「正人!!」
何やらひどく驚いたようだ。
「こいつ、透さんに下の名前で呼ばれてやがる……。しかも男……」
「え? 何? ちょっと聞こえなかったけど」
ちょうどタイミング良く強い風が吹いて聞きとれなかったらしいが、僕にはバッチリ聞こえていた。その怨念の篭った声を。
もしかすると、彼女はかなり危険な女の子なのかもしれない。
「――それで、二人の関係は何なんですか? まさか、恋人なんてことは……」
「なっ!! こ、こ、こ」
ごほんと咳払いを一つ。
「こ、恋人なんてことはないわ。ただの幼馴染です」
顔が真っ赤になっている。
「へぇ、幼馴染ですか……」
「そうなのよ。小さい頃によく一緒に遊んでいて」
「けっ……。高校生になってまでベタベタしてる幼馴染なんてありえるかよ……」
「え? 何か言った?」
そして再びタイミングよく強風が吹いたらしい。しかし僕の方には聞こえている。
……この女の子、とんでもない猫かぶりだ。
「だいたいこの引っ越しも怪しいもんだ。まさかとは思うが、こいつが理由じゃねぇだろうなぁ?」
「え? また何か言った?」
なんて都合が良く風が吹くんだろう。
彼女から鋭い視線が僕に突き刺さっている。全身が軽く硬直してしまう。経験したことはないが、森で熊を前にした人間の反応に恐らくは似ている。
「――まあ、なんでも良いわ。それより茉莉、せっかく遠くからここまでやって来てくれたんだから、うちで食事をしていきなよ。お母さん、きっと歓迎してくれるから」
「わあ! ありがとうございます!」
「……」
にこやかに礼を言う彼女に、僕は戦慄を憶えずにはいられなかった。
彼女の名前は如月茉莉というらしい。
透が以前通っていた高校の生徒で、透とは同じ学年だそうだ。透に対して敬語を使っているところから、もしかすると後輩なのかもしれないと勝手に想像してたのだが、どうやら違ったらしい。彼女はただ透に対する尊敬の念から、敬語を使っているみたいだ。
どうして尊敬しているのかが疑問に思ったのだが、僕は怖くて茉莉に質問することができなかった。食事中はすごく機嫌が良さそうに談笑していたのだが、先程の凶悪な目つきを見た後では、その機嫌の良さに一層の恐怖を感じてしまう。
とにかくそうして何の理由か透のことを尊敬している茉莉は、まともな理由を教えることなく唐突に引っ越してしまった透に会うためにここまでやってきたのだと言う。彼女の性格の良し悪しについて僕は判断しかねるが、尊敬しているということ自体は本当らしい。
やがて普段よりも賑やかな食事が終わると、透の母が、
「どうせならうちに泊まっていく? 遠くから来て大変でしょう?」
「いえいえ大丈夫です! 私、駅前にホテルをとってますから、心配しないで下さい」
透が以前いた町はここから随分遠い。到底日帰りで済ませられるような距離ではない。茉莉は最初からホテルに泊まる予定だったのだろう。
「今日は透さんが元気だということが分かっただけで十分です。でも明日、また来ますから、その時こそ引っ越しした理由をちゃんと教えて下さいね!」
「あ、あはは……。うん。頑張るよ」
「別に頑張る必要はないです! 普通に教えてくれれば。……それじゃあ私はもう行きます。今日はありがとうございました」
「うん、こっちこそありがとう。また明日ね!」
そして茉莉は佐々木家を後にした。……そして困ったことに、彼女と同じように客として食事をしていた僕もまた、彼女と一緒に外に出ることになった。
「…………」
「…………」
無言で二人、家の前に立ち尽くす。
「……あ、あの」
沈黙が恐ろしくなって口を開いた僕に、
「あぁ?」
どう考えても気質の人間が出すことができないような声を彼女は発した。いやむしろこれは恫喝か。
僕はもしかしたら今日で死ぬのかもしれない、と咄嗟に覚悟を決めてしまう。
「……透さんがどうして引っ越したのか、その理由ははっきりとは分からなかったが……。まぁ、大まかには見当がついた」
「……」
「お前だろ?」
「………………………………………………多分」
実際のところ僕は、透がこっちに戻って来た理由を知らない。
彼女は七年前、父の転勤のためにこの町を出て行った。だとすれば真っ先に、再びその父の仕事の都合によってこちらに戻って来た、ということを考えることができるのだが、実際にはそれは違う。
戻って来ているのは透とその母だけで、父はまだ向こうにいるのだ。
一年生と二年生の間という中途半端なタイミング。茉莉と透の話を聞いている限り、向こうで何かトラブルに巻き込まれたというわけでもないらしい。
だから恐らく、彼女自身には引っ越す理由などどこもないのだ。
だとすれば、その理由は……。
「何が多分だ。分かってる癖に無知を装うのか。卑怯者が」
彼女は鋭く僕を睨みつけた。
僕は何も言うことができなかった。こういったことをあやふやなままにしている僕は、確かに卑怯なのかもしれない。
「まあいい。それよりお前の家、ここから近くなんだろ? 案内しろ」
「……家に?」
「そうだ。……透さんが何を考えているのか、お前を調べるのが一番手っ取り早い」
有無を言わせぬその口調に、僕は彼女を家に連れて行かざるを得なかった。
玄関を開けると、彼女はさっさと靴を脱いで上がっていく。
やがてリビングに入り、茉莉はきょろきょろと部屋を見渡す。
「誰か家族はいないのか?」
「いないよ」
むしろ家族がいたらこの子はどうしていたんだろう? それでもこの強気な態度を崩さないつもりだったんだろうか?
「僕は一人で暮らしてるんだ」
「一人暮らし!? 高校生で!?」
「……確かに、珍しいかもしれないけど」
「この年齢で一人暮らしとか、まともじゃねぇな……」
どう考えてもこの子の性格のほうがまともじゃない。
「家事とかどうしてる? 食事は? 自炊か?」
「洗濯とかは自分で。……食事は、まあ、透のところで一緒にさせてもらってる」
「透さんと、だと?」
ギラリと睨まれる。
「何ていい暮らしをしてるんだてめぇは! ここは天国か? あぁ!?」
「ほ、本当にありがたいと思ってるよ」
「そりゃそうだこの馬鹿!」
肩を強く叩かれる。
本当になんなんだろうこの性格は。
「それで、どうしてこんな暮らしをしてんだ? こんな天国みたいなよ」
「それは……」
家族が皆死んでしまったから。
だけどどうしてか、その真実を言いたくないと僕は思った。そのことを知らない彼女には、できるだけ隠しておきたいと。
そうこうしているうちに、茉莉はどんどん先に進んでいく。
「二階にはお前の部屋があるのか?」
「え? ああ、うん」
「ふん。見せてもらうぞ」
そして階段を上がっていく。彼女はすぐ手前にある部屋の扉を開ける。ちょうどそこは僕の部屋だった。
「ここが、お前の部屋か?」
「ああ、そうだけど」
「…………面白みのない部屋だな」
小学生の頃からずっと使っている勉強机に、教科書と参考書、そして本棚には流行りのマンガと小説。我ながら普通すぎる部屋だと思う。ベッドの下に変なものを隠していたりとか、そういうこともない。
「つまらんな。お前の性格みたいだ」
「……そりゃどうも」
「まったく、どうしてこんな奴に透さんが……」
ブツブツ言いながら部屋を出る。そして、
「こっちの部屋は何なんだ?」
「あ、そこは……」
「開けるぞ」
茉莉は躊躇いなく扉を開ける。そこは僕の妹、由紀の部屋だった。
「ここは……」
彼女は戸惑いの声を漏らす。
僕の部屋と違い、由紀の部屋には沢山のものがある。大量のマンガと大量のCD、そして大量のペンギン。ぬいぐるみやらキーホルダーやら、その他いろいろなペンギンが部屋の一角を占めている。由紀は生前、中毒なんじゃないかと思えるほどペンギンを好んでいたのだ。
「……なんだ? この部屋。お前、一人暮らしじゃなかったのか?」
心なし彼女の声量は小さくなっているような気がした。
――やっぱり、最後まで隠しきれるはずもなかった。
「ここは、僕の妹の由紀の部屋だ」
「じゃあどうして一人暮らしなんて」
「もう死んだんだ」
彼女の動作が止まる。
「由紀だけじゃない。父も母も、皆、交通事故で死んでしまった。だから僕は一人で暮らしている」
「…………」
茉莉は沈黙した。先ほどまでの気迫が無くなっていく。
僕が家族の死を隠したいと思ったのは、これが理由だった。
家族が皆死んでしまったという、その事実はあまりにも凶悪だ。直前まで強気でいた人間も、それを知った途端にしおれてしまう。彼女に限らず、きっと誰もがそうなのだろう。この事実を知った途端、どうしても態度を変えざるを得ないのだ。
これは呪いのようなものだと思う。
僕はこれからもずっと、この事実を背負って生きていく。相手を驚かせ、自分も悲しみ、そしてその度に家族の死を思い出す。
この呪いから逃れるためには、きっと、僕が家族の死という出来事を受け入れなくてはならないのだ。それを完全に過去のものにして、大丈夫にならなくてはならないのだ。
だけど今の僕にはそうなった自分が想像できない。到底、受け入れられそうにない。
時間と共に心の傷は癒えていくという。だけどきっとこの傷を完全に癒しきるには、僕の人生全ての時間が必要になるのではないか。
何の根拠もなく、僕はそう思っている。
「…………そうか、家族は、もう亡くなってるのか」
「うん」
「だから、なのか。透さんが、こっちに来たのは」
「……」
多分、そうだ。
透はすごく優しいから。かつての幼馴染がこういう状態に置かれているのを、放っておくことができなかったのだろう。だから僕のところにやって来た。そして力になろうとした。
実際に彼女の口から聞いたわけではないが、なんとなくその思いは分かっていた。
「…………………………ごめん」
長い沈黙の末、茉莉は謝った。
僕は彼女に謝ってほしくなかった。できることなら、事実を知った後でも強気でいて欲しかった。だけどやっぱり、それはできないのだ。
無言の時間が過ぎていく。やがてその時間を動かしたのは、雨の降る音だった。
次第にその雨音は大きくなり、叩きつけるような土砂降りに変わっていく。こんな強い雨が降るのは久しぶりだ。
「雨、強くなってきたね」
「……ああ」
「……今日は、うちに泊まっていく?」
「え?」
「駅のホテルって言ってたけど、ここからだと結構遠いから」
「……いいのか?」
「こんな雨の中、外に放り出すなんてできないよ」
「…………」
やがて茉莉は、
「……ありがとう」
その性格に似合わず、僕に頭を下げた。
リビングのテーブルを動かし、空いたスペースに敷いた布団で茉莉には眠ってもらった。
この家に空き部屋はあるにはあるが、それらはもともと僕の家族が使っていたものだ。亡くなった人の部屋で眠るというのは、やはり落ち着かないだろう。
「それじゃあ、おやすみ」
最後にそう言い、僕は自分の部屋に戻って眠ることにした。
しかしどういうわけか、うまく寝付くことができなかった。何度も寝返りをうって、ようやく微かな眠気がやってくる。
眠るまでの間に色々なことを考えた。既に死んだ家族のこと、戻って来てくれた幼馴染のこと、星空、そして天文部。眠くなるにつれてそれらはぐにゃぐにゃと歪み、混ざり合い、やがては一つの漠然としたイメージに変わっていった。
やがてそのイメージは、僕の中に溶けていった。
そうして気づけば朝になっていて、僕は目をさました。そのまま十分ほどぼんやりしてからベッドから這い出し、一階のリビングに向かった。
そこでは如月茉莉がまだ眠っていた。性格的にかなり破綻している子だが、こうして眠っているのを見ると歳相応の女の子だと分かる。
彼女をそのままに、キッチンに行って水を飲む。時計を見るともう七時を過ぎている。
今日は休日のため、学校に行く必要はない。が、佐々木家の朝食の時間は平日も休日も同じだ。彼女の家の食事にお世話になり始めてからずっと、この時間には支度を済ませて家を出るようにしている。
だけどこの子はどうしよう?
茉莉はホテルに泊まると言っていたわけだから、いくら透の母が面倒見の良い人であっても、彼女の分の朝食は用意されていないだろう。それでも起こして連れて行った方がいいだろうか?
そうして悩んでいると、家のインターホンが鳴った。
玄関を開けると、そこには予想通り透の姿がある。
「おはよう。支度は……できてないわね」
「うん。ごめん。今から顔を洗ってくるから」
とりあえずまだ寝ている茉莉のことはそのままに、僕は洗面所に向かった。しかし僕が顔を洗い始めて少しすると、
「ええっ!?」
驚くような透の声が聞こえた。
何があったのだろうと急いでそちらに向かう。僕がリビングに入ると、ちょうど布団から上体を起こそうとしている茉莉を見て透は固まっていた。
「ま、ま、ま、ままま、茉莉?」
やがて透はとんでもなく狼狽した様子で友人の名前を呼んだ。
「と、透さん! こ、これは」
対する茉莉もまた普通ではない。何故か随分と焦っているように見える。
……この雰囲気はなんだろう?
「ま、まさか茉莉、最初からこういうつもりだったの?」
「え?」
「ホテルに行くって言って、そして、こうして正人の家で――」
「ちち、違う! いや、違います!」
乱暴になりかけた口調を慌てて戻す。
「そんな、二人は、いつの間に……」
「違います! 違いますって、これは! ――――おいお前! 突っ立ってないでお前から説明しろ!」
「え? 何を?」
「『え? 何を?』じゃねーだろうが!! 空気読めよ! どう考えても誤解されてるだろーが!」
「……誤解? 何を?」
「何を? だとおぉぉぉ!?」
「ひいぃ」
よくわからないけど滅茶苦茶怒っている。何が理由だ? 昨日、話の途中で意気消沈したその反動がきたのか!?
僕には二人がこんなに動揺する理由がさっぱり分からなかった。
「いいからお前は土下座しろ!! ほら! ちゃんと額を床につけて!」
「え? ちょっ――――!」
「いいのよ私は別に、二人が幸せなら……」
「違うんです! 違うんです透さん!」
「痛い、痛いから離してっ」
いつもに比べて、随分と賑やかな朝だった。