もしかするとこれは究極のエンターテイメントなのではないか、と生と死の境を疾走しながら僕は思った。
生と死の境を疾走しているというのはつまり、透の運転するバイクに乗っているということである。
今日は土曜日で、透と出かける約束をしていた。行き先はとなり町にあるプラネタリウム。それ自体にはなんの異論もなかったのだが、問題なのはその後だ。
この日の朝になり、彼女とそのバイクを見た時、僕はようやく思い出した。
今までに一回しか乗ったことがなかったため、すっかり忘れてしまっていた。そういえば彼女はバイクの免許を持っていたのだ。そしてその運転は、控えめに言っても地獄の淵を彷徨うようなものなのだ。
もちろんそれを思い出した僕は、バイクで行くことを拒絶した。電車で行こうと何度も主張した。
が、結果は見ての通りだ。
僕は彼女の胴体にしがみつき、そして死者の世界に片足を突っ込みかけている。
信じられないほどの猛スピード。どれだけの速度がでているのかまったく見当もつかない。背筋はもうキンキンに冷えている。今から一秒後、無事に生きているという保証がない。
訳がわからなかった。
小さい頃はおとなしかった彼女が、七年経った今ではこんなことをしでかすくらいになっている。三つ子の魂百までと言うはずなのに、いくらなんでもこれは、かつての彼女と結びつかなさすぎる。
綺麗な顔の内側に、これほどまでに激しい情動を隠しているというのが信じられない。
バイクに乗っている間、一体彼女のどういう部分がこんな行動の原因になっているのかについて考えた。何かを考えて現実逃避をしていなければ、とてもじゃないが正気でいられそうになかった。あまりにも恐ろしすぎる。
やがて、永遠に近い時間を経て、バイクは止まった。
「――着いたよ」
着いたよ!? なんだその普通すぎる一言目は!!
……などと怒鳴ってやりたかったのだが、今はそんな元気がない。代わりに口からはふにゃふにゃとした情けない声が漏れた。
「あれ? どうしたの? 酔っちゃった?」
酔うとか酔わないとかそういう問題ではない。
「正人ってこんなに乗り物に弱かったっけ?」
「……」
そうした状態から回復するのに、随分と長い時間が必要になった。
「それにしても、やっぱり本物は違うわね」
プラネタリウムに行った後、近くのファーストフード店で遅い昼食を摂っていると彼女は言った。
「違うって?」
「私じゃ到底作れそうにないってこと。以前の高校で作ったのも、高校生にしては良く出来てると思うけど、全然足りないわ」
「いや、あそこはちゃんとお金をとってるところなんだから。比較をしても仕方ないよ」
高校生が作れる程度のもので、あの高い入場料が取れるとは思えない。
比べること自体が間違いなのだ、と僕は思うのだが、
「でも、そうは言っても、やっぱり悔しいじゃないの」
「そうなの?」
「そうよ」
しっかり勉強を積み重ねた人達がその技術を使って作ったものだ。それと比べて悔しがる彼女を僕は不思議に思ったが、もしかすると、これは彼女の器の大きさを表しているのかもしれない。
「じゃあ来年は、もっと良いプラネタリウムを作らないとね」
「うん。もちろんよ」
「でもそうなったら今回以上に、透に頼りっぱなしになるかな。プログラムを組んだりとか、さっぱりできそうにないし」
「それは、私だって一から組むことはできなかったけど……。だけど、頑張ったらできると思うわ」
「大変そうだな」
「でもそうやって作るんだとしたら、やっぱり前に作ったのを改良したほうがいいわね。……あれはそもそも完成していなかったから、まずは完成させて……。地球の裏側の星空を見ることができたら、やっぱり素敵よね」
透はそう言いながら思考に没頭していった。すでに計画を立て始めているのだろうか。
僕は少し彼女から目を逸らした。
透を見ていると、なんだかやわらかい気持ちになってくる。僕と透がつい先日恋人同士になったことを考えれば、それは当たり前のことなのかもしれない。しかしふと疑問に思う。
世界というものは、こんなにも優しいものだったのか?
あるいは今の僕が、ただの幸せボケをしているだけなのか?
気付かなかっただけで最初から世界がこんなに優しかったのだとしたら、今まで僕が見ていたものはなんだったのだろう。
半年前に沢山のものを失ってから、僕の見る世界は靄がかかったようになっていた。しかしその靄がかかる前でさえ、これほど優しい世界を見てはいなかったと思う。
じゃあ、そのずっと前はどうだろう? 例えば、今から七年以上前。透がまだ引っ越しをする前の時は。
考えて、僕は自然と苦笑いをしていた。
意識していなかっただけで、きっと随分前から、彼女の存在は僕の中で信じられないくらい大きくなっていたのだ。つい最近になって、それをやっと自覚しただけ。もともと僕は、佐々木透というレンズを通せば、すごく優しい世界を見ることができていたのだ。
「――――どうしたの? 正人。なんか難しい顔してる」
「ん?」
「何か考え事? 悩みとかだったら相談に乗るよ?」
「いや、そういうのじゃなくて……」
僕は一瞬だけ、彼女に今考えていたことを伝えようかと思った。しかしそれはあまりにも恥ずかしかったので、それを実行することはできなかった。
それからしばらく雑談をしてから、僕らはそのファーストフード店を後にした。
そして僕と透は自分たちの住む町へと戻った。
帰り際、思いきり文句を言ったら、彼女は渋々バイクのスピードを落としてくれた。彼女に対する文句の後半、僕は完全にプライドを捨て、まるで子供が駄々をこねるみたいになっていたのだが、生きるためには多少の犠牲は仕方がないと思うことにした。
それから僕と透は、以前行ったことのある小さな丘に向かった。
時間はもう夕方を過ぎている。太陽は沈みかけており、そろそろ星が輝き始める頃合いだ。
そして丘に着いた時にはちょうどいい時間になっていた。
何度見ても飽きることがない、あの星空がそこにある。
最初にここに来たのは半年ほど前だ。あれから僕はどんどん星が好きになっていった。そして、今僕の隣にいる女の子のことも、また。
ふと見ると、彼女はこちらを見て笑っていた。
「な、何?」
何か変な顔をしていたのではないかと心配になってそう尋ねる。
「いや、なんとなく、正人は変わったなぁって思って」
「そうかな?」
「最初にここに来た時は、もっとどんよりしてたのに。なんか、すっきりした顔をしてる。ずっと一緒に居たら気づかないけど、やっぱり変わってるんだね」
その言い方に僕はなんとなく恥ずかしくなったので、
「だとすれば、それは透のおかげだよ」
「そ、そんなこと」
僕は透も照れさせてやることにした。
そして訪れる僅かな沈黙。それは決して悪い沈黙ではなかった。何か言わなくても、黙っていても、どこかでつながっているような感じがしている。
しかしそれだけでは足りないと僕は思った。どうせだから、思っていることを全部話してみよう。恥ずかしいけれど、今はそれでもいい。
「透は知っていると思うけど、家族が死んで、僕だけが一人残された後、ずっと僕は眠っているみたいな生活を送ってたんだ」
唐突に始まった僕の独白を、透は黙って聞いている。
「家族が死んで、一人で家の中で暮らしていると、だんだんと変な気分になってくる。……うまく伝えられないかもしれないけど、僕は多分、このまま消えてしまってもいいんじゃないかって思ったんだ。いや、もう消えてしまっていると言ったほうが正確なのかもしれない」
僕以外の誰もいないということは、僕がいないということと同じなのではないかと、あの頃はよく考えた。
「消えているはずなのに、僕はまだ生きている。そこに大きな違和感があった。だからいっそのこと、僕も本当に消えてしまおうかと思ったこともある。それはもちろん、僕もまた死ぬってことなんだけど、当然ながら、僕はそんなことをしたくない。それじゃあどうすればいいんだって、僕は考えていた」
できないと言いながらも、僕は一度無意識のうちにそれを実行しかけたことがある。電車の踏切での出来事だ。あの時は透が助けてくれた。しかし誰も助けてくれなかったのだとしたら、僕は本当に消えていたのだろう。
あの出来事の後、僕は何度かその結末を想像したことがある。すると、すごく悲しくなるが、それと同じくらい安心もするのだ。歪んでいたものが元に戻ったというような、妙な安定感がある。
「――だけど、今はもうそんなこと考えなくなった。何か明確なきっかけだとか区切りがあったわけではないだろうけど、それはきっと透のおかげなんだと思う。透と一緒に天文部で活動したことは、どこにでもあるありふれた事だったんだろうけど、僕はきっと、それによって変わったんだ」
そうして僕は、胸の中にあった全部を話し終えた。
すると、話している途中は忘れていた恥ずかしさがだんだんとこみ上げてくる。
「と、とにかく僕は、透に礼を言いたかったんだ。透が戻って来てくれなかったら、僕は多分ダメになってたと思うから」
彼女は黙っている。
その表情を見るのが怖くて、僕は透に背を向けた。すると、目の前に夜の町が広がった。高校の屋上から見る景色も素晴らしいが、それと較べても遜色ない。美しい夜景だ。
そうしてぼんやりと、人の営みによる光と自然による星の光を見比べていると、唐突に体が柔らかいものに覆われた。
「あ、え?」
驚いて声をあげてしまうが、すぐに透が後ろから抱きついてきたのだと分かった。
「……」
「……」
そして僕らは何も言わない。ただじっと、風が通り過ぎる音だとか、どこか遠くで車の走る音だとかを聞いている。
かなりの時間が経った後、透はとても小さな声で、
「好きだよ」
きっと僕の顔は、恥ずかしくて真っ赤になってしまったと思う。
そうして、彼女と共に楽しく優しい時間を過ごすようになった、そんなある日の事。
ふと唐突に、僕は目を覚ました。
時計を見ると、今はまだ真夜中だ。外では激しい雨が降っていて、時折窓を叩いて大きな音を立てる。きっとその音に起こされてしまったのだろう。
寝返りをうって再び眠りにつこうとするが、どういうわけかうまく眠ることができなかった。
しばらくそうしてもぞもぞした後、仕方なく僕はベッドから出ることにした。水でも飲めば落ち着くかもしれない。
リビングに行き、キッチンで水を飲む。
雨音が響いている。
そして突然、リビングの固定電話が鳴った。
僕はその音にドキッとした。鋭い緊張感が背筋を一瞬で駆け抜けた。それもそのはず、激しい雨と電話というセットは、僕の嫌な記憶そのものだ。
僕は恐る恐るその受話器を取った。
「正人くん?」
聞こえてくるのは透の母の声だ。切羽詰まって焦っているような、それでいてどこか疲れきっているような、そんな様子が伝わってくる。
その時点で、僕には透の母が何を伝えるために電話をしてきたのか、分かってしまった。
そして彼女は、予想通りのことを述べた。
僕はパジャマ姿のまま家を出て、自転車を引っ張りだした。そしてその自転車に跨がり、中央病院へと向かう。
自転車を漕いでいる途中、ふと自分が過去の世界に戻ってしまったかのような錯覚を抱いた。
僕が病院にたどり着いた時には、もう僕の大切な人は死んでいる。僕はたった一人残される。そんなこれから先の展開が克明に思い出される。だけど、どうにもできない。
また、なのか。
ようやく、うまく行き始めたところなのだ。今まで僕から離れてしまっていたあらゆるものが、ようやく元の位置に戻りつつあるのだ。そうして、僕の新しい人生が始まろうとしているのだ。
だけど、また、壊れるのか。
――透の母が伝えた事実は、すごくシンプルだ。
透が事故にあって、救急車で運ばれた。今は手術を受けている。しかしかなり危うい状態らしい。最悪の出来事も覚悟しておいたほうがいい、と医者は言う。だから正人くんにも連絡をした。
あの時と、まったく同じなのだ。事故にあって、手術をしていて、僕は病院に向かう。
もしかして、夢でも見ているのか?
過去のその出来事が、無意識から浮上してきて、夢になって現れているのか?
先ほど一度目を覚まして、それから寝ようとした時に、本当はきちんと眠りにつくことができていたのかもしれない。そしてその眠りの中で夢を見ているのだ。
しかし、顔に叩きつけられる雨の感触が、夢の中のものだとは到底思えない。……いや、夢の中にいる時、ほとんどの場合はそれを現実だと思うはずだ。目が覚めてから思い返して、ようやくその違和感に気づく。そういうものではないか?
つまり今、夢か現実かを確かめる手段はない。
やがて僕は病院に辿り着いた。自転車を適当な位置に止め、中に入る。以前と同じように僕はずぶ濡れで、廊下に水滴を垂らしながら進んでいく。
そしてその場所に辿り着いた。
薄暗い廊下の長椅子に、透の母がじっと座っている。すぐ近くには集中治療室。その組み合わせを見て、僕は頭の奥がくらくらした。
「――あ、正人くん」
彼女は僕に気づいたらしく、顔を上げた。その顔には焦燥がありありと浮かんでいる。――夢だとしたら、なんというリアリティだろう。こんな表情の彼女を、僕は今まで見たことがない。
「こんな夜遅くに、ごめんなさいね。それにそんなに濡れて。……だけど、透が」
「はい」
僕は彼女の横に腰を降ろした。
ぐしゃりという水音が聞こえた。そしてぽたぽたと水が滴る音。全部、水浸しになったまま長椅子に座った僕の音だ。
「夕飯の時のこと、覚えてる?」
「……はい」
今日の夕食の後のこと、透は僕に一緒に星を見に行かないかと言った。しかし僕は、朝の天気予報で、今日は夜になったら雨が降るということを知っていたため、それを拒否した。透はそれでも、今がこんなに晴れてるんだから、雨なんて降るはずないわ、と言い張った。
実際、その時はすごく晴れていて、星がよく見えていた。だけど僕はそれでも断った。もし雨が降ったとしたら、水で濡れた路面を、透のバイクで走るということになるのだ。
僕を乗せる時は、比較的おとなしい運転をするように最近ではなっていたのだが、それでもやはり恐ろしい。水でタイヤがスベったりとか、普通に運転をしている人でもありそうな話だ。
そういうわけで、僕は頑なにその誘いを断った。
しかし彼女はその後、バイクで一人あの街外れの小さな丘に向かったのだという。
そして、雨が降り始めた。それも激しく、強い雨が。
「……私がしっかりと止めておけばよかった……。行きたいと言われて、それをいつもどおりに見送ってしまった自分が、本当に恨めしい……」
「…………それなら、止めなかった僕も同じですよ」
その会話を最後に、僕らは黙り込んだ。
十分か二十分か、しばらくそうしていると、やがて集中治療室のドアが開いた。そして中から看護師らしき女性が出てくる。
そして彼女は、今まで手術を行ってきたが、あまりその結果は芳しくなく、かなり危険な状態にあることを述べた。
そして、入って会ってあげて下さい、と彼女は言った。
はっきりとは言わなかったが、それはつまり、最後の別れをしろということだ。
僕と透の母は、その集中治療室に足を踏み入れた。
目に入ったのは沢山の機械と、それに囲まれてベッドに横になっている透。彼女は眠っているかのように目を閉じている。
看護師の人は、透の耳元で何かを言った。家族の方がやってきたとか、そういう類の言葉だろう。
するとやがて、ゆっくりと透は閉じていた瞼を開いた。その視線はふらふらとさまよった後、僕とその隣にいる透の母に焦点を当てた。
彼女と目があった瞬間、僕の胸の奥で感情が爆発しそうになった。しかし僕はそれを力づくで抑えた。今は自分の感情に狼狽えている場合ではないのだ。
彼女はゆっくりと緩慢な動作で口を開いた。が、そこから声が出ることはなかった。
ここに入る前に看護師の人が言っていたことを思い出す。彼女は肺を激しく損傷していて、まともに会話をすることはできないだろう、ということを。
しかし、耳は聞こえているはずだ。だから何かを言わなければ。
だけど何を言えばいい?
家族を失った時、僕はその瞬間に居合わせることはできなかった。慌てて病院に駆けつけた時には全てが終わっていた。だから分からないのだ。これから死にゆく人に、なんと声をかければよいのか。
死ぬなと叫べばいいのか。悲しいという感情を伝えたらいいのか。あるいは今まで一緒にいてくれた事に感謝をすればいいのか。……色々と考えたが、どれもこの場にふさわしくないような気がした。
何を言えばいいんだ。どうすればいいんだ。
声を出すことができないのは透だけではなかった。僕も、彼女の母も、声を出すことができなかった。
しかしその沈黙を破壊するかのように、ゆっくりと彼女の手は動いた。ふわりと動き、またぱたんとベッドの上に落ちる。手を握って欲しいのだと、僕は直感的に分かった。
僕は無言でしゃがみ、彼女の手を両手で包み込んだ。それは紛れも無く、柔らかい彼女の手だった。そしてまだ温かかった。
彼女はじっと僕を見ていた。僕はそれに応えるため、
「透」
とただ名前を呼んだ。
すると彼女は、ゆっくりと、本当にゆっくりとした緩慢な動作で、微笑んだのだ。
――どうして、笑う?
どうして、幸せそうに笑う?
自分の人生は幸福だったとでも言うのか?
ふざけている。こんなの、全然幸福ではないではないか!
少なくとも僕の方は、今、幸福から最もかけ離れた位置にいるはずだ。それこそどん底にいるはずなんだ。なのに彼女は、幸せだと?
ふざけるな!
悲しみと、憤りと、そしてもう自分では正体のわからない激情が胸の中を埋め尽くした。僕は顔を下に向けて彼女から表情を隠した。きっと僕は今ひどい顔をしている。
それから僕は彼女の手を離した。そして僕と入れ替わり、透の母がその手を握る。
彼女は透の手に触れ、何かを言った。僕はこの時、何もかもが強い感情に覆われていて、彼女が何を言っているのかを聞き取ることはできなかった。
やがてその面会時間は終了した。
これからまだ手術は続くが、覚悟はしておいたほうがいい、というようなことをやんわりと看護師は言った。
そして彼女の言葉通り、それから二時間ほどで佐々木透は死亡した。
その知らせを受けた時、僕は全身から力が抜けていった。そしてそのまま壁と長椅子に全ての体重を預けた。
ひどく冷たい。そういえば、僕は全身が濡れていたのだ。
残されている体温がどんどん吸収されていく。このまま命まで吸い取られてしまえば、彼女のところにまで行けるのだろうか。
僕は目を閉じた。
そこで僕は目を覚ました。
頭の奥がガンガンする。
ひどい夢を見ていた。
あたりを確認すると、そこは僕の家のリビングだった。僕はソファの上で今まで眠っていたらしい。
「あ、起きた?」
聞き慣れた声がし、そちらに顔を向けるとそこには透がいた。
――そういえば今日は、透が手料理を作ってくれるって話だったんだ。
急速に記憶が戻ってくる。
彼女がキッチンに立って調理を始めると、なんだかその音が心地よくてウトウトしてしまって、そのまま眠ってしまったのだ。なんとも幸せなことだ。こんな時にあんな夢を見るなんて、僕はどうかしている。
「あれ? どうしたの正人。なんか顔色がよくないよ?」
「いや、ちょっと変な夢を見てて……」
「変な夢?」
少し躊躇ったが、結局自分が見た夢について彼女に話すことにした。
彼女は驚き、そして優しい顔になった。
「そんなことは起こらないよ。前に言ったでしょう? 私、スピードは出してるけど、そういうところはちゃんと考えてるんだって」
「うん、言ってた」
「それに正人のまわりだけでそんなに事故が多発したりとか、普通に考えておかしいよ」
「その通りだ。確かに、リアリティが無い」
夢というのは蓄積された記憶が組み合わさってできるものだと言う。きっと、家族を失ったという過去の経験と、今の幸せな状態を繋げてしまっただけだろう。
「だけど、すごく安心した」
僕は息を吐いた。ここでようやく、目が覚めた時からずっと呼吸が浅くなっていたことに気がついた。軽い緊張状態にあったのだろう。
だけど、本当に良かった。
僕は家族を失った。そしてそれがようやく大丈夫になりかけていたのに、そこで透まで失ってしまうなんて、悪夢以外のなんでもない。あれが夢で本当に良かった。
緊張から解放された直後だからか、気づけば僕はぺらぺらと彼女にその内心について話していた。
そしてその話を聞いて、透は不思議そうな顔をした。
「それって、どういうこと?」
「え?」
「もしかして、すっごく長い夢を見てたの? だって、正人の家族って――――」
そこで、ばたばたと足音が聞こえてきた。二階から勢い良く下に降りてくる。
聞き慣れた足音だった。
そしてすぐにリビングの扉が開き、そこから彼女の顔だけが突き出て、
「今から病院に行ってくるからね!」
「――――――――」
僕は声を失った。
「あ、透さん、兄貴をお願いしますね。馬鹿な兄だけど、愛想尽かさないでやって下さい」
「はいはい。分かってるよ」
透は笑顔でそれに応えた。すると彼女――僕の妹である由紀はそのまま家から出て行った。
僕が呆然とそれを見ていると、
「正人の家族は、みんな生きてるよ」
「――――――――」
「確かに大きな事故で、怪我も酷かったらしいけど、由紀ちゃんもお父さんももう退院したでしょう? お母さんがまだ入院してるから、由紀ちゃんはほとんど毎日お見舞いに行ってるけど。でも、誰も死んでなんかいない」
「………………そんな」
僕は愕然とした。
僕の中にはしっかり記憶が残っている。これが全部夢? そんなことはありえない。だって、かなりはっきりと思い出すことができるんだから。
だけど透が嘘を言っているようには思えない。そして実際、僕は今、由紀をこの目で見たはずだ。
だとすれば、僕の記憶能力だとか認知能力が狂っているのか? ありもしない出来事を、確かな現実だと認識してしまっている?
……分からない。今の僕には、何が真実なのか。
しかし、できることなら、僕が狂っていたほうが良いと思う。
なぜなら、僕が正常だとするならば、この世界こそが狂っているということになるからだ。
「はい。出来たよ」
彼女はそう言って僕の前にクリームシチューを置いた。
僕はスプーンでそれを掬い、口に運んだ。
「どう? おいしい?」
僕は首を振った。
――残酷なことに、狂っていたのは、この世界の方だった。
おいしいも何も、味がついていない。まったくの無味。ただどろっとした食感だけは再現されている。
味がないのも当たり前。だって僕は、透の作ったクリームシチューを食べたことなど、一度もなかったのだから。
眼を開くと、薄暗い世界に微かな白い光が差し込んでいた。
全身が冷えきってる。水浸しのままうとうととしていたのだから、それも当然だ。
……ひどく醜い夢を見ていた。これ以上ないくらい醜悪な夢を。
「正人くん」
透の母の声が聞こえた。僕は緩慢な動作でそちらに顔を向ける。
「そんな濡れた服のままだと風邪を引いてしまうわ。正人くんは帰りなさい。これからのことは、後で連絡をするから」
「……はい」
僕は頷き、立ち上がった。全身がひどく重たかった。目を覚ましたのは頭の方だけで、体の方はまだ眠っているような感じだ。
そのままふらふらと病院を出た。
停めてあった自転車に乗って家に帰ろうとしたのだが、どういうわけか数メートル進んだところで倒れてしまった。足がうまく動かない。それにバランス感覚も弱っている。
僕は仕方なく自転車を引いて歩いて帰ることにした。
雨はもう止んでおり、足元には沢山の水たまりができている。そこにばしゃばしゃと足を突っ込みながら歩いて行く。
目を覚ました時からずっと、体の芯が凍りついたような感じになっている。頭の奥はすごく冴え渡っている。しかしそんな状態でありながら、なぜか何も考えることができない。透の死について考えようとするのだが、そのたびにぽろぽろと思考がこぼれ落ちていくのだ。
「……ようやく、幸せに、なれそうだったのになぁ……」
これからだったのに。これから、全部うまく行きそうな気がしていたのに。
僕のまわりだけでそんなに事故が多発するなんておかしい、と夢の中で透は言った。僕もそう思った。そりゃさすがに不自然だ。夢にしてもリアリティが無い、なんてことを思った。
だけど違う。本当の現実ではこういうことが起こる。明らかに不自然だったとしても、そういうことは実際に起こる。おかしな話だが、リアリティの無い現実など、いくらでも存在するのだ。
ばしゃばしゃという自分の足音だけが耳に入る。
ふと急に、世界が眩しくなった。僕は手をかざして光を遮りながら遠くを眺めた。
太陽が昇り始めている。そして朝の神聖な光で町を覆い尽くそうとしている。
僕は俯いた。その太陽の光は、あまりにも眩しすぎた。