Neetel Inside ニートノベル
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力を持ってる彼の場合は
第三十八話 立ち止まらずに

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 ビシャッと、大量の血液が地面に広がる。
「…………」
 血に染まり真っ赤になったナイフを突き出したまま、日昏が微動だにせず視線を刃が穿った一点に固定する。
「ふうっ……ギリギリ、セーーフッ!」
 俺の左肩のすぐそばで、俺でもなく日昏でもない掌の真ん中に、ナイフの刀身が深々と突き刺さり手の甲から突き出て貫通していた。
「東雲由音…よく動けたな」
 少し意外そうに呟いた日昏に、肩から斬り落とされそうだったところを右手を割り込ませて防いでくれた由音が睨む。
「お前のおかげでな!ちょっと悪霊の使い方がわかった。この…結界?とかいうヤツの中でも、瞬間的にならさっきの要領で“憑依”が使えるってな!代わりに体がぶっ壊れるけど」
 そう言う由音の左足は、おかしな形に捻じ曲がっていた。踏み込んだ反動で破壊されたのだろうか。
 右脚だけで立つ由音が、貫通したナイフの刃を掴んでゆっくり押し返す。
「便利だな、“再生”という能力は。…それで、君は守羽の為にまたその身を張るのか?それとも二人掛かりで挑むか。どっちにしたところで」
「いや!降参だ、まいった!!」
 日昏が言い終わるより前に、由音がそう叫んだ。
「…そうか」
「おう!腕が欲しいならオレのをやるからさ!それで手打ちってことで帰ってくんねえか!?」
 自力でナイフから引き抜いた右腕を日昏の前に差し出す。既に血は止まり、掌を貫いた傷も治り始めている。
「君は勘違いしてるぞ」
「何が?」
「俺は守羽の腕を落とすことに意味を見出している。君は関係ない」
「いいや、じゃあやっぱり関係あるね!!」
 由音は見せつけるように自分の右腕をぐっと持ち上げて、
「オレが守羽の右腕だからだ!だからお前がオレの腕をぶった斬れば、そりゃ守羽の腕を斬ったってことだ!」
「……何言ってんだお前」
 助けてもらってなんだが、思わず俺も溜息が出る。こいつの言うことはいつも滅茶苦茶だ。
「…ふふ」
 だが、その意味不明な発言を受けて日昏はわかりやすく笑っていた。
「そうか、右腕か。そうだな、確かに君は陽向…いや神門守羽の側近みぎうでとして相応しいように思える。覚悟もある上、わりと肝も据わっているようだ」
 由音の血が滴るナイフを軽く振るって血払いしてから懐に戻しつつ、日昏は俺を庇うように眼前に立つ由音へと問い掛ける。
「東雲由音」
「なんだ?」
「俺が守羽を殺すと言ったら、君はどうする?」
「その前にテメエを殺す!」
 由音の全身から黒い邪気が迸る。
「…由音!」
駄目だ、この状況でそれ以上使ったら、戻れなくなる。かつてのように、由音自身が一番恐れている怪物に成り下がる。
 だというのに、由音は“憑依”を使うことになんの躊躇いも見せない。黒い奔流に呑み込まれ掛けている由音の後ろ姿だけが俺に言外の強い意思を見せつけた。
「うん、よろしい」
 火の灯っていない煙草を咥える口元に笑みを浮かべて、日昏はそのまま背中を向けた。
「あん?」
 今まさに戻れなくなる境界線を踏み越えようとしていた由音が、その様子に“憑依”の力を引っ込める。
「帰ってくれんの?」
「君がいるなら、しばらく守羽は大丈夫だと思うからな。東雲、君も“再生”に頼り過ぎな部分があるからその辺りを改善しないことには今後やっていけないぞ」
 知ってるっつの!と吐き捨てるように呟いた由音から、日昏は背中を向けたまま視線だけを俺へ移した。
「…さっきも言ったが、君は全て足りない。まだそこの悪霊憑きの方が君の為という名目で覚悟は決まっていたぞ。見習うといい」
「うる、さい…。お前の指図なんか、受けるかよ…」
 呆れ果てたとでも言わんばかりの吐息と肩を竦める挙動を見せてから、日昏は視線を外して歩き出す。
「大鬼か、四門か、あるいは妖精か。……いずれにしても、そのままなら君は次の戦いで死ぬな」
「っ!」
 去り際の一言に、俺は口内から血が滲み出すほどに強く歯を噛み締めていた。
 負けた、完敗だ。
 本気なら、俺も由音も殺されていた。……いや、違う。
 俺のせいだ。
 由音はきちんと覚悟を持って挑んでいた。俺の為に、日昏を殺すつもりで闘う気概を持っていた。
 俺もあいつを殺す気で、全ての力を全力で発揮し尽くしていれば。あるいは由音との二人掛かりで倒せたかもしれなかった。
 甘えがあった。決定的に。
 余分なものばかり多くて、何も割り切ることが出来なくて、そのくせ覚悟も決まってなくて、口ばかり達者でそれを実現する力を持たない。
 ある程度、腹は決めたはずだった。大事なもんを護る為に、これから先も脅威無き日々を送る為に。今を全力で闘い抜くと。そう決めていたはずだった。
 足りないものがある。足りないものが多すぎる。
 今の俺では、誰にも勝てない。
 何も護れない。



     -----
「よーう、何やってんだてめー?」
 結界を解き、工場から離れ始めていた日昏の前に、一人の女が立っていた。
「四門」
 栗色の髪を三つ編みに束ねた女性が、挑発的な笑みを浮かべて日昏へ鋭い眼光を向けている。
「えっらいザマじゃねーの。お優しいこったな陽向、そんないらん傷を増やしてまであの悪霊憑きを治してやりたかったってか?」
「まあな、だがあれは駄目だ。引き剥がすには一度仮死状態にする必要がありリスクが高すぎる。それに、あの少年自体それを望んでいない。俺の出る幕ではなかったというわけだ」
 真夏だというのに半袖Tシャツの上からスプリングコートを羽織った四門の横を、日昏が適当に受け答えながら通り過ぎようとした時だった。
「ちげーだろ?」
 四門が腰に差していた短刀を引き抜き、すれ違いざまの日昏の首筋にピタリと当てる。
「…どうした、四門」
「てめーがどーした、陽向。神門の戦力を増強させるような真似しやがって、何が目的だ?てめー、初めから神門守羽も悪霊憑きのガキもどうこうする気が無かっただろ」
「……いや」
 いつ首の脈を斬り裂かれてもおかしくない状況で、日昏は動じることなく口を開く。
「最初は被害者だと思っていた、ただの無力な子供だと思っていた。だから祓おうと思ったし、だから迎え入れようと思った」
「…あ?」
「だが違った。祓う必要は無かったし、無力でもない。被害者面するわけでもなく、その意思は高い場所を目指している。強いよ、強くなる。両方共」
「てめー…その為に連中を」
 ぐっ、と首筋に当てられた刃に力が込められる。薄皮が一枚裂ける。
「俺の目的は神門旭だ。お前の狙う旭の子にまで用は無い。陽向の家を継いでもらいたいとは思っているがな。だから」
「ッ」
 ほとんどノーモーションで放たれた拳を四門は躱し、回避ついでに首筋を短刀で斬り裂く。が、その斬撃は日昏の首に致命傷どころか掠り傷の一つすら与えていなかった。
「その点でお前と俺は違えている。狙うのを止めはしないが、守羽は手を焼くぞ。その右腕もまた、な」
 斬られたはずの首の部分をさすりながら、スーツの上着の懐から一枚の紙切れを放る。
 それは人間の体を簡易的に模した形の紙。それが地に落ちると、その首にあたる部分がすっぱりと切れて胴体部分と離れていた。
「一つ作るのも手間と時間が掛かるんだ、あまり無駄に使わせるな」
「チッ…形代かたしろか。うぜー小細工が好きな退魔師らしい小技だな。おら、あと残機いくつだ?ゲームオーバーで画面が暗転するまで殺してやっからよー」
 短刀を逆手に持ち替え、腰を落として臨戦態勢に移った四門に、日昏は片手を前に出して交戦の意思が無いことを示す。
「刃を向ける相手が違うだろう。互いにこんな所で無意味に疲弊するのは好ましくない。特にお前は、これから仕掛けるつもりなんだろ?」
「…そーだなー。それもそうか」
 あっさりと殺意を引っ込めて、四門はさっさと短刀を鞘に納めてだるそうに背筋を曲げる。
「あのクソ悪霊憑きに折られた骨も治ったし、これからだなー。陽向日昏、邪魔すんなよ」
「しないさ。さっきも言ったが、狙うのを止めはしない。忠告はしておくがな」
「余計なお世話だクソが」
 突っ撥ねるように吐き捨てて、コートをなびかせながら四門は歩き去って行った。
 血気盛んで気分屋な女性が立ち去ってから、日昏は歩いてきた道を振り返る。
(ああいう躊躇いも、また父親似か。とことんまで似るのだな、となれば最後には守羽、お前はきっと強くなれる。全て割り切って、全て斬り捨てて。君の父親は、そうして今の平穏を手に入れたのだからな)
 辛い選択や過酷な試練に何度も悔やみ苛まれながら、最後には身内を裏切り独り妖精全体に喧嘩を売ってまで大切なものを手に入れた、あの男のように。
 その果てに行き着く末路は、まだ誰にもわからない。

     

「で、あの退魔師と闘ってみてなんかわかったか?守羽!」
 結界が解けたことで身軽になった由音が、大破させてしまった工場から逃走した俺の隣に並んでいつも通りの調子で問うた。
「ん…ああ」
 訊かれて、俺も自身の状態を把握し直す。
 特に何か大きな変化があったわけではない。だが、
「……少し、掴めたかもな」
 具体的に、何が、というのはわからない。とてもあやふやで曖昧なものだが、俺はあの陽向日昏との交戦で何か本来持っていたものを、錆びついていた刃を研ぎ直すような感覚で取り戻せたように感じた。
 おそらくそれは、退魔の力。
 初めて他人が使う術を目の当たりにし、またそれをこの身で受けることで、俺という存在の半分を占める退魔師の血が僅かに反応を示した。
 頭の中でモヤモヤとしていた霧の一部が晴れたイメージ。
 俺の勝手な予想と認識でしかないが、きっとこれが、

 『残りの答えは自分で見つけろ。ヒントどころか解答なんてそこら中に転がってんだから、手近なとこから拾い集めていけ』
 『いきなり全部とは言わねえ、少しずつ返していく。だからいい加減お前も自分と向き合え』

 これが、『僕』とかいう俺の片割れが言っていたことの意味なのだろう。
「そか!んで、次はどうするんだ?」
 俺の様子に満足そうに頷いた由音が、両手を頭の後ろで組んで楽し気に言う。
「次?」
「おう、全部片付けるんだろ?あの陽向ってのもそうだけど、色々いるじゃんか!シモンに大鬼に妖精とか?それとも手分けすっか?やることいっぱいあるもんな!」
 俺が日昏へ向けて言ったことに対し、由音は当たり前のように自分も加わるつもりでいるらしい。俺が片付けるべき問題なのに。
「言ったろ、これは俺が逃げ続けてきたことへのツケなんだよ。俺がやるべきことなんだ」
 再三に渡って同じようなことを口にすると、やれやれといった具合で由音が首を左右に振るった。
「…なんだよ」
「だからオレも言ってんだろが!地獄の底までついてくって。いい加減わかれよな!」
 そりゃこっちの台詞だ、と返してやりたかったが、やめた。どうせそう言ったところで同じ会話を繰り返すことになるだけだ。もう、由音はどうあったって意見を変えることは無い。最初からこいつはずっと同じ考えと信念を貫いてきてるんだから。
 今更ブレることはない、ということか。
「絶対後悔するぞ」
「しねえよ、するわけがねえ」
 きっぱりと断言してしまう由音に、思わず俺も黙り込む。それが間違いではないと、必ずそうであると信じ切っている声音、語調。
 うるさくない時の由音は、大体そういう調子だ。そうなると、俺の調子が狂う。いやいつも狂わせられっぱなしなんだが。
「……由音。俺にはな、何もかもが足りない。でも、もう立ち止まってる暇はないんだ。弱くても、足りてなくても前に進まないと駄目なんだ。状況はもう後退もしなけりゃ停滞もしない」
 いつからこうなったのかはわからない。だが確実に俺や父さんを基点に事態はこじれてきている。もう戻れない。
 ここから先、俺は足りないものを全て前に進みながら埋めていかなければならない。他を気遣える余裕も、きっと無い。
「だから」
「足りないんなら、オレが補う」
 俺が全てを言い終えるより前に、由音が口を割り込ませた。
「弱いんならオレが力を貸す。進めなくなったら代わりにオレが進む。…いやオレじゃなくたっていい。静音センパイだって同じ風に思ってるだろ。オレが…オレ達がいくらでも支えになる」
 隣を歩く友人の顔は見えない。極力見ないように俺が正面だけを見つめて歩いているからだ。由音の方からも視線は感じない。
 互いに視線を交わさないまま、会話は続く。
「…ほんとにお前は、あれだな。アホだな」
「んなこと言っていいのか?守羽お前、今静音センパイもアホ扱いしたぞ!」
「なんでだよ」
 いつの間にか、空気は和らいでいつもの他愛ない話をするような気安さに戻っていた。
「センパイもオレと同じでお前の為になんでもする覚悟してる人だからな!守羽が静音センパイに何したのかは知らねえけど、オレは……とりあえず一度死んだようなモンだからな!だからオレはオレの考えでお前に尽くす!それがオレの存在意義だっ」
「相変わらずだな、お前は」
 東雲由音は二年前に一度死んだ。こいつにとってはそれは揺るがないらしい。だから俺と関わって得た二度目の生は、俺の為に使う。
 ずっと前から由音は変わらない。ブレブレな俺とは大違いだ。
 こいつのそういうところは、たまに羨ましいと思う。
「……次、か…」
 そんな由音の言っていたことを、口の中で小さく呟いてみる。
「…とりあえず、後手にはもう回りたくねえよな。四門も陽向も、できればこっちから攻められればとは思うが」
 日昏から聞いておけばよかったかな、と思う。おそらく馬鹿正直に教えてくれたりはしなかっただろうけど。
「大鬼も、あの程度のダメージなら無視してすぐにでも来るかもしれない。…妖精レイスもだな、シェリアがいる以上またこの街に戻って来るのは間違いないし」
 問題は、次に来る時に妖精の仲間を引き連れてくるんじゃないかということだ。そうなればさらに面倒になる。
 なんにしても、まずするべきは。
「情報を掻き集めないとだな。敵の居場所、目的、戦力、色々と情報が足りてない」
「…はー、めんどいなーそりゃ」
 俺の言葉に対し途端にやる気を消失させた由音に苦笑を向ける。確かにこいつはそういう方面には向いていない。
 無理しなくていいぞ、と言おうとして由音が自分の頬を両手で引っ叩いた音に遮られる。
「うっしゃ!人外の気配とかなら、オレが探れる!任せとけ守羽!」
 情報収集という、自分にとって不向きな仕事にも前向きに取り組もうとしている由音がじんわりと赤くなった頬をそのままにいつも通りの快活な笑みで俺に向き直った。
「んじゃ、明日から始めるとすっか!今日はもう疲れた!!」
 疲れたのなら大声出すのをやめればいいんじゃないのかと思ったが、こいつは素でそういう声量の持ち主だったのを思い出す。
「早く帰って寝ろ。明日遅刻すんなよ?」
「おう、努力する!」
 俺が片手を挙げたのを合図とするように、由音も同じように片手を振って道を外れる。帰り道は俺と由音では大きく異なる。ほとんど反対側だからな。
(俺も、早く帰って話の続きをしないとな)
 日昏のせいで大事な話の途中で家を出てきてしまった。父さんからはまだ聞かなきゃならないことがたくさんあるんだ。
 いつも意味なく走って帰っていく由音の後ろ姿を眺めながら、俺も小走りで家までの帰路を一歩踏み出した。



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「ああ、ちょっといいかしら。そこのお嬢さん」
「はい?」
 夜の大通りで、片手に買い物袋を、もう片手に学生鞄を持った女子高生が背後から掛けられた声に振り返る。
 肩付近まで伸びている若干茶色がかった地毛を頭の後ろで一本に束ねているポニーテールの少女。釣り目がちな両の瞳から、彼女の勝気な気質が窺い知れるようだった。
 制服を着て学生鞄を持っていることから学校帰りであることがわかるが、この少女は自身が通っている学校の生徒会に所属していた。
 生徒会副会長、井草千香。
 千香は自分に声を掛けてきた女性に目をやる。
 まず目が向いたのは、その長い髪。自分の友人にも黒く艶やかな髪を腰まで伸ばした者がいるが、この女性はそれよりさらに長い。膝裏にまで届きそうなほどの長い長い髪を、束ねるでもなく垂らしている。
 天然ものらしき赤毛の髪は、前髪だけ鳥類の爪を模した髪留めで左右に留めていた。
 ゴロゴロと大きなキャリーバックを引っ張って、呼び止めた女性が千香に近付いて、
「ちょっと人を探してるんだけどさ。悪目立ちする赤茶けた短髪の男、ここらで見なかったかな?」
「赤茶の髪、ですか」
 見た目二十代くらいの女性の質問に、千香は記憶を思い起こす。が、そんな髪の男などは学校の不良ですら見たことが無い。
「見たことないですね」
「そっかー。チィ、どこいんだろアイツー」
 正直に答えた千香の前で、女性は深い茶色の髪をいじる。よくよく見れば、その両目は澄んだ蒼色をしていた。
(外人、かしら?にしては流暢な日本語だけど…)
「あ、ねえお嬢ちゃん。ならさ、イカれた緑色の髪の男は見なかった?それか綺麗な白銀の髪の毛の女の子とか」
(なんかよくわかんないけど、すごいヤバそうな集まりみたいね…)
 この女性を含め、その探し人らもかなりの外見をしているような口振りに千香は表情には出さずに引いていた。当然そんな人達も見たことはない。
「いえ、知らないです」
「マジかー!ほんとに、どこいるのかしらねえ。気配も全然しないし」
 長髪を揺らしてきょろきょろと周囲を見渡すが、そんな近辺に探し人がいるわけもなし。そう千香は思っていたが、不意に女性の瞳がとある一点に止まった。
「おっと?」
 まさか見つけたのだろうかと千香もその視線の先を追う。すると、そこには千香も知っている顔がぽかんとした表情で女性と目を合わせて立っていた。
「…東雲…?」
「…あ、副会長」
 東雲由音という、常日頃から生徒会においても問題視されている騒音の化身のような男がそこにいた。
 最初女性を意味ありげな視線で凝視していた由音は、千香の声に反応して初めて認識したかのように彼女の役職を呟いた。
 それから足早に近寄ってきて、おもむろに千香の前に体を割り込ませた。まるで、女性から千香を庇うような構図で。
「ちょ、なにしてんのアンタは」
「へへえ、こりゃ珍しいものを見た。憑いちゃってるね?憑かれちゃってるね?」
「アンタ、この人に何してたんだ?」
 千香の言葉を完全に無視して、女性の発言にも返さず由音は純粋に疑問をぶつけるように女性へ問い掛けた。
「ん、別に。人を探してたからちょっと訊ねてみただけ。知り合い?」
「同じ学校のセンパイだけど。ほんとに何もしてねえんだな?」
 既に相手が人間の姿をした違う者だと理解していた由音は、用心深く再度訊く。
 女性は、赤毛をいじりながらも由音に対し蒼い双眸を嗜虐的に歪めて口を開く。
「…じゃ、もし何かしてたとしたら、どうするのかなあ?」
「ぶっ殺さないといけなくなるけど、いいんだなテメエ…!?」
「っ東雲!やめなさい、アンタ何言って…っ!」
 物騒な雰囲気を感じた千香は、咄嗟に目の前の由音の腕を掴んだ。掴んでから、ぎょっとする。
 掴んだ腕の、その半袖シャツが真っ赤に染まっていたからだ。しかもよく見れば赤い滲みは全身に広がっている上、生地も引き裂かれたようにボロボロだ。
「副会長、下がっててください。ちょっと危ないかも」
 しかし由音はそんな千香の動揺にはお構いなしで背中を向けたまま顎で下がるように示す。
「ったく、疲れてるってのにな!なんだお前は、また守羽狙いの人外か?」
「おっと、憑かれてるだけに疲れてるってかな?しょうもないけど私は笑いのハードルが低いから特別に七十八点と評価してあげましょう」
 微妙に噛み合っていない会話を展開しながら、瞳を昏く混濁させ始めた由音と長い赤毛の女性とが向かい合って、決して友好的とは呼べない視線を交わす。

     

「…そうか。やはり、あの方はそこにいたか」
「はい」
 ここは周囲を森や花畑で囲われている中にある、神殿のような外観の煉瓦造りの建物。その地下にある彼らの集会所。
 部屋の中央に置かれた円卓と、それを囲う五人の男女。
 等間隔に配置された蝋燭の光に照らされて、報告を終えた青年レイスは静かに頭を下げて着席した。
「さて…状況はレイスが説明した通りだ。皆、どう思うか意見を述べよ」
 レイスの報告に終始相槌を打っていた、実質的なこの集団の長たる役割を負っている白髪の老人、ファルスフィスが死装束のように真っ白な着物の裾を持ち上げて、握っていた杖をコォンと地に叩く。音は思いの外高く長く響いた。
「意見、というと。ファルス、それは彼女についてということでいいのかな?」
 椅子に深く腰掛けて浮いた両足をぷらぷらと振るう小さな男の子、ティトはいつも被っている赤いベレー帽を片手で弄びながら、見た目とは裏腹にとても落ち着いた老齢の雰囲気を纏ってファルスフィスにゆったりと問い掛ける。
「全てについて、だな。彼女のことは当然として、神門のこと、その息子のこと。そしてそれらを鑑みた上での、我らのこと」
「助け出すべきです。少なくとも、自分はそれが正しいと考えます」
 レイスが円卓の上に握り拳を置いて、そうすることが当たり前のことであるかのようにそう断じて発言する。
「助け出す、か」
 それを受けて、ティトはベレー帽を円卓に置いて両手を組む。そして視線だけレイスに向けて、
「彼女は自らの意思で神門と妖精界を去った。…駆け落ちしたものだと、私は認識していたのだけど、違うのかな」
「…ティト殿は、何故そう思われるのですか」
「いやなに、私が単純にそう感じたからだよ。あれは連れ去られたというよりは、王子様がお姫様を取り返したように見えたからね」
 妖精界にて、当時の事件に近い位置で状況を見ていたティトは、その時まだ幼かったレイスよりも冷静に事態を分析していた。
 だが、レイスにとって『あれ』は、どう見ても誘拐にしか見えなかった。
 だからこそ、いつもは取らないであろう反抗的な視線でティトと目を合わせる。
「ティト殿にとっては、そう見えたのでしょう。同じように自分には、あれは違うように見えた」
「であれば…仕方ないね」
 あっさりとティトは引き下がり、それきり口を閉じてしまう。自分の意見は全て出したとでも言わんばかりの態度だった。
 それを見てか、次に口を開いたのは顎に立派な髭をたくわえた寸胴の中年、ラバー。背丈は低いが、発する存在感は五人の誰にも引けを取らない。
「レイスよ。お前、彼女とは会ったか?話をしたか?」
「いえ、会うことは叶いませんでした。神門旭が探知を阻害する結界を張っていたようなので、気配の一片すら感じ取ることは出来なかったです」
「では、結局のところ彼女の意思は判らず終いというわけだな」
 使い込んだ皮のエプロンをした中年の男は、自分の顎鬚をもしゃりと撫でさすってから、
「…いずれにせよ、彼女の意思を確認せんことにはどうしようもない。もし彼女が本当に強引に連れ去られたのだとすれば、俺達は躊躇なく神門らを薙ぎ払い彼女を救い出すこともやぶさかではない」
「じゃあ、まずは会ってみましょうか。彼女に」
 耳に心地良い澄んだ声色が、ラバーに同調して意見を発す。
「それが出来れば俺がもうしている。ラナ、お前はどうやって彼女に会うと言うんだ」
 ラナと呼ばれた金髪の美女は、くすりと微笑んで髪を耳にかける。仕草の一つを取っても、妙な艶っぽさのある女性だ。
「神門にお願いしてみるというのは?」
「論外だ」
「でも頼んではいないのでしょう?」
「お前は聞き入れると思うのか?」
「さあ」
 上品に小首を傾げて見せて、ラナは微笑みを絶やさずに続ける。
「話をしてみなければわからないこともありますわ。特にレイスはそういうことを自分の中で勝手に決めつけて実行を諦める傾向が強いように思います。まずは対話を試してみては?」
「む…」
 数日前に同じようなことをシェリアに言われたことを思い出し、レイスは自身の考えを素直に改める。あの時も、そうしようと心掛けてはいたはずなのだが。どうにも神門旭のことになると冷静にいられなくなってしまう。
「……ひとまずは、接触してみないことには始まらんな。神門についても、彼女についても」
 全員が一通り発言したのを確認して、ファルスフィスが再度杖で地を叩く。
「赴くとしよう、かの地へ。状況は全てそこで発生し、展開し、変移している」
「ここを解いて、その街まで移動するってことかい?」
「そうなる」
「結構好きだったんですけれどね、ここ」
「まあ、仕方あるまい」
 名残惜しそうに言う彼ら彼女らは、それでも否定の言を発することはしない。元々そのつもりでもあったからだ。
「ファルスフィス殿が直々に出なくとも、使いなら自分やラナで済ませられます」
「いや、今回は相手も相手だ。最悪の事態を想定して、全員で出る。それは事前にこちらで済ませおいた話でもあるのでな。あの大馬鹿にも会っておかねばなるまい」
「ああ、そういえばアルもいるんだっけ?」
「ってことはレンもいるということでしょうねぇ」
 懐かしい友人の名前にそれぞれが反応を示す。
「神門を中心としたあの集まりはまだ健在なんでしょうか?なんでしたっけ、なんちゃら同盟」
「『突貫同盟』だ。妖精界に突撃してきた連中としてはシンプルな命名だったな。…そうだ、レイス」
 人差し指を唇に当てて思い出そうとしていたラナに、ラバーが即座に答えてやると何かを思い出したのかそのままレイスに顔を向ける。
「なんでしょうか、ラバー殿」
「シェリアが喧しく言っていた名前だがな、一応暫定的にだが決まったぞ」
 少しの間を置いて、レイスはそれが自分達の集団を指し示す組織名の話なのだと理解して頷いた。そういえば少し前にそんな話をしていた。
「とりあえずは『イルダーナ』とすることにした」
 その名に、レイスは眉を顰めた。
「イルダーナ……それは、太陽神ラーを示す呼び名ですが…」
 まるで自分達妖精には関係の無い名前にレイスは困惑気味に声を漏らすと、ラバーも難しい顔をして腕を組む。
「うむ…。アイルランドの神話から引っ張ってきたのだが、これなら同じ出身のシェリアでも納得するかと思ってな」
「結局あの子が納得しないと決まらないですからね。全知全能でインパクトもあるし」
 確かに、シェリア以外の五人は組織名にはさほど拘りは無い。ようはシェリアが満足する名前ならなんでもいいのだ。
「承知しました」
 だから、レイスもそれ以上言うことはやめた。
「では、これより我ら『イルダーナ』は移動を開始する。レイス、皆の者も発つ準備を整えろ」
 ファルスフィスの一言で、皆椅子から立ち上がり解散となった。堅苦しい空気から解放されて思い思いに背伸びしたり欠伸したりとする中で、レイスだけは未だ険しい表情で円卓の表面に視線を落としていた。
 頭にあるのは、今しがた話に挙がった少女のこと。
(シェリア……か。何事もなく過ごしていればいいが)
 彼らに任せてきたとはいえ、良くも悪くもあの無邪気で純粋な猫娘のことが気になって仕方のないレイスだった。



      -----
「へくちゅっ」
「大丈夫?シェリア」
 静音の部屋で、濡れた頭をバスタオルで丁寧に拭いてもらっていたシェリアが可愛らしいくしゃみをすると、拭いていた手を止めて後ろから静音がシェリアの頬に触れる。
 風呂から上がったばかりの肌はまだ熱を持っていて、とても暖かい。
「んー、だいじょぶ。そんでねシズ!ラバーが作ったクツをまたラナがこわしちゃって、それでラバーがすんごい怒っててねー!」
 一緒に風呂に入り、シェリアはすっかり静音に懐いていた。背中を預けて頭を静音の両手で拭かれるままに任せているその表情は気持ちよさげに蕩けていた。
 シェリアはずっと自分の仲間達の話をしている。楽しそうに話す様子を見るだけで、シェリア達妖精の集団がいかに仲良くやっているかがよくわかる。
「君達は、皆仲良しなんだね」
「うんっ!…あー、でもでもね、仲良しじゃにゃいのもいるんだー!みんにゃ仲良くすればいいのにね、にゃんでできにゃいんだろーね!」
 仲睦まじくお話をする二人は、端から見れば姉妹のようにも映ったかもしれない。
「妖精の間でも、やっぱり不仲とかはあるんだ?」
「そうだよー。アルとかね、みんにゃから裏切りものーって言われてるの。べつにそんにゃ悪いことしたわけじゃにゃいのにね。アルについてったレンもおんなじ」
 名前を聞いてもわからないが、どうもその言い方からするにその二人はシェリアのお話に何度も出てきた『妖精の世界』から出て行ったらしい。何かしたのだろうか。
「仲良くか。……そうだよね」
 無邪気に話すシェリアの髪から水分を拭い取って、静音はそのまま両手をシェリアの首元に回して引き寄せる。
「んにゃ?どしたの、シズ」
 後ろからふんわりと抱き締められたシェリアは、抵抗することもなくされるがまま顔を上げて頭上の静音の顔を見る。
「ううん、なんでも。ただ、皆、仲良くできたらいいねって。そう思ったよ」
「…?うん、そだねっ!」
 僅かに陰のある笑みを浮かべる静音を見上げて、しかしシェリアはその内心を知ることもなく子供そのものの笑顔を返した。



      -----
「あ?なーにやってんだお前」
 由音が臨戦態勢を整え終える前に、まったく意識していない方向から呆れたような声が聞こえた。
 その声の主を由音は知らなかった。だが相手は違った。
「おっと、なんという偶然。おひさーアル」
 赤毛の長髪女性は、その相手を見てから人差し指をびしっと向けて名を呼ぶ。
 焼け焦げたような煤けた赤茶色の髪質をした浅黒い肌の青年が、食材がぎっしり詰まったビニール袋を片手に下げてこちらを見ていた。余った片手は頭上より上に挙げられ、そこに肩車していた者の体を支えている。
「……ネネ」
 肩車されて小さな両手で青年の赤茶けた髪を軽く掴んでいたのは少女というより幼女と呼ぶのが妥当なほどの小さな女の子。その子が眠たげな半眼で赤毛の女性を見て短く呟く。
 その頭髪はこの真夏に雪景色を見ているのではないかと錯覚するくらいに綺麗で儚く、静謐な印象を強く与えて来る白銀のそれだった。
 赤茶色と、白銀色。
 その二つのワードを前に、何故か由音に背中で庇われている千香はすぐにわかった。この二人が赤毛の女性が探していた人だと。
「探したぞまったく。場所だけ教えて適当な呼び出ししないでほしいわー」
「ちゃんと言ったはずなのに適当にしか聞いてなかったテメエが全面的に悪いと思うわー。マジで俺の話一割くらいしか頭に入ってねえじゃねえか鳥頭が」
「はぁん?存在そのものが適当の塊みたいな男に言われたくないんですけどねぇ?相変わらず私のハクちゃんにべたべたしてっしさあ!離れてくれないこの悪魔、ハクちゃんに瘴気が移る」
「誰がテメエのだって…?それにこの子は白埜しらのだ、何度言って聞かせても全然頭に入ってないみてえだから一回病院行ってきた方がいいと思うぞ?人間様の医学結集させてもその鳥頭は治せないだろうけどなぁ!!」
「愛称で呼んでんだからハクちゃんで合ってんでしょうが!ってかよく見たらアンタぁ!ハクちゃんになんて恰好させてんだこの変態ロリコン野郎が!」
 つかつかと歩み寄りながら青年と女性は互いに貶し合う言葉を叩きつけながら目と鼻の先まで接近してから、女性がアルと呼ばれた青年に肩車されている少女の姿を見て驚愕を露わにしながらアルの頭を引っぱたいた。
 白埜というらしき少女は、ぶかぶかのTシャツ一枚しか着ていなかった。いくら真夏とはいえども、いや真夏であってもその恰好は外出に適していなさ過ぎた。
 同じようなTシャツにジーパンというラフな格好のアルも、叩かれた頭を上げて頭上の白埜と顔を見合わせる。
「いや…この子の寝間着なんだよこれ。なんか知らんけど、俺らのシャツ着て寝ると快眠できるんだそうだ。まあ、そういうことだ」
「へーそーなんだー」
「おい真顔で警察呼ぼうとするな」
 なんの感情も無い不気味なほどの無表情で携帯電話から三つの番号をプッシュしようとした女性の腕を軋むほどの握力で掴み上げるアルと女性との攻防が静かに展開されていた。
 そんな中、ぼんやりとそれを肩車された位置から見下ろしていた白埜が掴んでいたアルの髪をくいくいと引く。
「あ?なんだよ白埜」
 未だ腕を掴んで牽制し続けているアルが顔を上げると、白埜がやんわりとアルの頭を撫でて、
「……アル。けんかは、ダメ」
 ぽつりとそう言った。
「そういうわけだ、音々ねね。争いは何も生まない、もうやめよう」
 途端に掴んでいた腕をぱっと離すと自分から数歩後ろへ下がって両手を上げた。
「…アンタ、やっぱり今でもハクちゃんには頭が上がらないのね」
「ふふん、まあな」
 何故か胸を張って答えるアルに、音々という女性もそれ以上は突っかからなかった。
「あ、ごめんねお嬢ちゃん。無事に見つかったからもう大丈夫」
 それまでのやり取りを黙って見ていた由音の背後にいた千香に微笑み掛け、音々は次いで由音の顔をじっと見た。
「……」
 由音はその視線を受けても一言も発さない。ただ警戒してこちらへ近づかないように無言の圧力を掛けている。
「じゃあね、名も知らぬ君。なんかまた会う気がすごくするけど♪」
 敵意とも受け取れる無言の圧力にも調子を変えない音々が、ひらひらと手を振って背を向けた。

「アル、アンタ今から帰るんでしょ」
「ああ。鍋の具材を買いに出てただけだからな、今家でレンが準備してる。お前も食うんだろどうせ」
「おっと悪いわね、いただきます」
「白々しいなーコイツ」
「あと泊めてね、宿が無いから」
「厚かまし過ぎるだろ殺すぞ」
「……アル」
「わかってるよ喧嘩はしないって」
「ハクちゃーん、夜寝るとき一緒の布団で寝ようねー」
「やっぱ殺していいかなテメエ」

 和気藹々と談笑(?)をしながら遠ざかっていく三人を、由音は冷や汗を垂らしながら見送った。
 あの女、そして途中から来た褐色の男。
 肩車されていた少女ですら。
(勝て、ないな。……なんだアイツら、あっぶねえ…!!どうなってんだありゃ)
 纏っている雰囲気で、由音は人外の強さを大まかにだが把握できる。あの三人は全員が人外で、全員が由音の四、五倍は強いのを確信した。おそらくはこちらから先に敵対行動をしていた段階で自分は一瞬間に数回は殺されていただろう。
 手を出さなくてよかった、心底からそう思う。
 この場に居たのは自分だけだったら、あるいは死ぬほどのダメージを受け続けながらでも反撃の一手を考えたかもしれない。相手があの女一人きりだったら、まだ由音の特性を活かして勝ち目を見出せたかもしれない。
 だが、今この場には何も知らない先輩が一人いる。そして相手は三人だった。
 もしも連中に戦う意思があったとしたら、確実に守り切れなかっただろう。当然先輩も無事では済まなかったはずだ。
 何者なのかわからぬままにその脅威を刻み付けて去って行ったあの三人。
 味方ではないとしても、せめて敵であってほしくはない。由音にしては珍しく弱気な考え方で、いなくなった三人の姿を頭の中に焼き付けた。

       

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