力を持ってる彼の場合は
第四十九話 日記
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『 ○月☓日
今日、僕と彼女の子供が産まれた。
このめでたい日を祝し、僕はこの子の成長記録と共にこの日記を始めたいと思う。』
「く、ふうっ……!!」
「…面白ェ、耐えやがったか」
額をブン殴られ、地面に深く陥没したままオレは鬼の手首を掴む。
頭が揺さぶられ吐きそうだ。
ぐらぐらとする頭の中で、昨日丸一日掛けて読みふけっていた、それを思い返す。
童子切安綱と共に手渡されたのは、日記だった。
父さんにとっても俺にとっても、大事なもの。
何十冊にも渡り書き綴られてきた、この十六年間の記録。
そこには俺の全てが記されていた。
『 ○月△日
いやはや、今日は驚かされた。守羽が、家の庭で大きな木を生やしたのだ。
あれは間違いなく妖精種固有の属性掌握能力だ。驚いた僕を見て悪いことをしたと思ったのか、守羽は半泣きで生やした大木を手から発生させた火で燃やした。
危うく家に燃え移るところだった。泣きたいのは僕の方だったよ…。
しかし、これで人と妖精のハーフにも力が受け継がれてしまうことが明らかになった。この分だと、もしかしたら僕の退魔としての力…それだけでなく異能の力すら継承している可能性がある。
また今回のように無自覚に覚醒してしまうと、人の世で生きる守羽にとっては辛い目に遭うかもしれない。今の内に封じておくべきか…?』
一日も空けることなく、父さんは日々の過程を日記に記していた。どうやら俺は四歳の頃からもう妖精の力に目覚めていたらしい。あまりにも幼い頃のせいで覚えていない…いや、俺が強引に忘れただけなのかもしれない。
酒呑の手首を掴んだまま跳び上がり側頭部を蹴り付けるが、やはりダメージはない。
「“劫火改式・煉旋昇!!”」
蹴りの勢いでそのまま酒呑から弾かれるように距離を取り、酒呑を中心に噴き上げる火炎の衝撃を食らわせる。
噴火にも似た勢いのある火炎も、鬼の着流しを焦がすだけで通じない。
『 ☓月○日
守羽が人に近付いてきている。
元々半分は人間だったが、ここ最近は特に肉体の強度や知識の面で人外としての性質が失われつつある。妖精の力はもう結構前から使っているのを見ないし、『陽向』として先天的に植え付けられた知識の継承も稀薄になっている。
それとなくそのことを訊ねてみたら、守羽は「普通じゃないから」とだけ返した。人間の世界ではこれは普通じゃないから、使うのを止めた。それはわかる。わかるが、この人外性質の消失は使用云々の話で済むものではない。自身の身体構造そのものを変質、弱体させているこの現象は説明するならば封印の類でしか有り得ない。
陽向家には陰陽師の儀礼や所作から意味と現象を抽出し、それを魔に対する術として変革させる改竄の能力がある。僕が前に実行を迷った封印というのも、これに則ったものだ。だが僕はその封印を思い留まって守羽に施していない。
これは自ら望んで自らに施した、守羽の意思か?
だとしたらあまり良くない。これは自己の否定、存在の拒絶だ。いつか破綻してしまう』
「ハァッ!」
「ぁァああ!」
力を込めた大鬼の一撃が空気を押し固め強力な砲弾として射出される。二百倍の裏拳でそれを弾き、さらに全身に“倍加”を巡らせる。
土と、火は、放った。残るは…!
素早く周囲を見渡し、次に放つ術を決める。
「………………ぁ、?」
地面が消え、眼前に太陽が映る。
両脚が浮いている。いや全身。仰向け?宙を舞っている。
一瞬遅れて激痛。何が起きた、右腕が動かない。太陽が隠れる。
鬼の姿が目の前に。不味い、顔を左手で防御する。
防いだ左手ごと顔面を殴打する衝撃が視界をブレさせる。地面をスーパーボールみたいに跳ねて体が横に回転する。目まぐるしく移り変わる視界の端に鬼の拳が見えた。
移動が、攻撃が、何も見えない。
―――くそ、クソ。思い出せ。
口と鼻から笑えないほどの血が滴る。数秒意識が飛んでいたのか、俺は廃ビルの瓦礫に背中を預けていた。なんで昼間なのに日陰にいるんだと思った瞬間、崩れ落ちたビルが直下にいた俺へと豪雨のように降り注ぐ。
「マジか、ちょっと本気だしてコレかよ。オイ『鬼殺し』、死んだか?」
次元が、格が、違う。
単純な身体能力だけでここまでの力を叩き出せる酒呑同時は、間違いなく鬼性種最強…いや、もしかしたら天神種や魔神種と呼ばれる、神話に記載されるクラスの規模で力を振るう人外とも互角に渡り合えるレベルなのではなかろうか。
足りない、足りない、まだ足りない。
全力だ、全開だ、完全を求めろ、完璧を成せ。
『神門守羽』はただの人間じゃない。
一片の欠片すら逃さず、全て手繰り寄せて取り戻せ。
俺は、
僕は、
一体なんだった?
『 □月☓日
まったく、我が息子には驚かされてばかりだ
…今日、自らをミカドと名乗る「僕」とかいう一人称の守羽と話した。』
▲
▼
『
なるほど、改竄によって改変したのは自己ではなく、その内の人格。深層意識にもう一つの「神門守羽」を用意することで、力と知識を統べる管轄者の役割を生み出したというわけか。
自分で生み出したもう一つの人格を敵性対象とし、「僕」たるミカドを否定し拒絶する。これにより持っていた力を思い込みでほとんど力尽くで封じた。
多少以上に強引だが、いつか来る破綻を回避しうる可能性として守羽はその封印方法を選んだらしい。それもおそらく、無意識化でだ。
ここから先は、きっと「僕」が人外としての性質を管理していくのだろう。
……でも、これはたぶん、正しくはない。破綻は止まらない。』
『―――ま、それが詰まるところ僕ってわけだ、守羽』
真っ白な空間。対面に立つのは俺の姿。
現実の俺が酒呑童子の攻撃でダウンしている中、僅かな猶予で精神世界に住まうミカドと俺は会っていた。
何もない純白の世界は以前とまったく同じ。そこにミカドしかいないのも同じ。
ただ、今のミカドはその外見を輪郭以外ほとんど失っていた。
前に会った時も全体的にぼんやり白んで見えたが、今はもう完全に白で埋められている。俺の姿形を切り取っただけの白いシルエット。
それが何を意味するかは、今の俺にはよくわかった。
『僕はお前が自分のことを認めるまで、扱い切れなかった力を押し留め管理する為だけにお前が生んだ人格だ。本来なら僕はもっと前…そうだな、中学生くらいの頃には既に役目を終えて、お前は神門守羽としての全てを受け入れるだけの心構えを整えられる設定にしてあったはずだ』
幼かった当時の俺は、人の世での常識を理解し始めてから自分の存在が異端であることに気付き始めた。だから俺は自分の中の、人としてあってはならない部分を『ミカド』を生み出して封じ、人間らしくあることに努めた。
それは精神の成熟と共に徐々に緩み、ある程度の安定を得た頃合いで解除されるはずだったんだ。そうなるよう、俺は僕と共に考えていたはずだ。
それがこじれたのが、中学二年生の時に発生した事件。
『 □月○日
少し面倒なことになった。
この街に鬼がやって来た。
それも大鬼。鬼性種の中では上位に位置する厄介な人外だ。おそらくはこの街の人間を餌として喰らう為に来たのだと思う。
だが面倒なのはその人外のことじゃない。守羽が、その大鬼と交戦し、倒してしまったことだ。
詳細は不明だが、大鬼を倒した際に守羽はなんらかの言動なり行動なりを受けて心境に大きな変化を引き起こした。
つまり、「人外という存在に対する強い嫌悪感」だ。
人ならざる者は悪い奴、人に害を成す凶悪な化物。どうやら守羽はこの一件をそう捉えてしまったようだ。自身に流れる人外の性質への忌避も一段と強まり、封印は緩まるどころかさらに強固なものとなってしまった。
もう、守羽は自分を妖精だとは絶対に認めないかもしれない。人外と闘う術を身に宿す退魔の家系に関しても同様だろう。
まったく、本当に…あの大鬼は大変なことをしてくれた…。』
『茨木童子だったっけか、アイツにはしてやられたぜ。街を襲ってきたのもあるが、野郎は静音さんを標的にしやがった。そのせいで守羽、大切な人に危害を加えられたことに憤ったお前は人外を極端に嫌い憎むようになった。おかげで僕も表層上に出れることが無くなった。お前が瀕死の重傷を負ったり、力足りずに大事なものを守れなくなりそうになった時は自己封印が多少緩んで助けてやることも出来たけども』
対口裂け女、対酒呑童子。
ここ最近で人外との激闘の最中において出て来た『僕』の存在。異能の力だけでは足りない時、それは決まって出現した。
妖精の力と退魔の力。それを統括する『僕』。
人外の性質が混じっていることを認めたがらなかった俺が、あくまで他人として扱ってきた強大な力。
そして今の俺が完全に受け入れた力。
ミカドが、白い輪郭だけの動きで片手を持ち上げ首をさする。
『そう、そういうことだ。今のお前は、もう妖精を否定しない。退魔を拒絶しない。お前は自分を全て受け入れた。だから、もう大丈夫だろ』
俺の姿をした白の輪郭が、さらに純白の世界に溶け込んでいく。
『お役御免だ。なっがいサービス残業だったが、そろそろ僕は消えるぞ。ピースは揃ったし、答え合わせもいらねえな?』
「……ああ」
言葉にするまでもなく同じ『神門守羽』として意思疎通が出来ていた俺は、それでも最後にようやく口を開いて返事をした。
「ありがとう。今まで、助かった」
『お前も僕も「神門守羽」だ。自分に礼を言うのは不気味だぞ』
輪郭が、身体の線が崩れ始めた。ミカドが声音で笑っていることだけが、かろうじて判別できる。
『勝てよ、「守羽」。完全のお前なら勝ち目はゼロじゃねえ』
「勝つさ。だから『僕』も安心して眠れ」
心の世界が崩壊する。
砕けた純白の中で、最後に俺の姿が片手を振って笑っているのが、見えた。
そうして俺は―――瓦礫の底で、意識を現実に戻す。
▲
▼
特異家系『陽向』の人間は皆、例外なくその名に陽の言葉、あるいはそれに連なる字をあてがわれる。
同時に、その真名に付随する家系の力が与えられる。
陽向日昏は『陽にして昏を落とす者』。魔を祓う太陽に対する太陰を内包した、陽向家の中でも相当な物議を醸した真名保持者だった。
何故なら退魔の家系である陽向家に、討つべき魔の要素である陰を取り入れるのは暗黙の禁忌とされていたからだ。
そしてその禁忌の名は、陰陽道を基盤とする家柄としての完成形を求める古株達の合意の上で実行された。
結果的に、それは成功だったと言えよう。
現に陽向日昏は退魔師として優秀に育ち実績を上げ、そして太陰の真名も完全に扱いこなせていたのだから。
その力は魔に触れ、干渉する。
たとえば悪霊憑きの人間から悪霊を引き剥がしたり。
たとえば昏い闇の世界を自在に行き来できたり、だ。
砕け空に舞う無数の瓦礫の一つに乗った日昏へ、旭が光の玉を一つ撃ち飛ばす。瓦礫は粉砕されたが、そこに日昏の姿は無い。
「―――…」
すぐさま感知した気配を掴み、違う瓦礫へ玉を飛ばすが、やはり瓦礫に届く時にはもう日昏は消えている。
そんなイタチごっこを数十回繰り返す頃には、雨滴の如く細微塵にされた瓦礫の欠片がガラガラと地に落ち始めていた。
しかし日昏はいない。
「!」
真横から飛来したナイフを素手で打ち返すと、突然姿を現した日昏が旭の背後で背中に片手を添えていた。
「劫火壱式・鳳発破」
掌底から発生した爆発に押され体が前方へ吹き飛ぶ。受け身を取りつつ地面を滑って勢いを削いだ旭の体が上空へ跳ねる。
旭の影から飛び出た足が、旭の顎を真下から蹴り上げていたのだ。そのままずるりと影から全体が現れる。正体は言うまでもなく日昏。
浮いた旭へ追撃を仕掛けようとした日昏は、しかし直後に旭の周囲からこちらへ直線的に襲い掛かってきた三つの光玉の攻撃を回避しつつ背後へ退避した。
「いたた…相変わらず厄介だな。『日昏』の能力は」
顎を押さえながら着地した旭が手元に九つの光玉を引き寄せながら悩ましげに呟く。
「陰に干渉できる力だったか。おかげで攻撃が悉く当たらないときた」
陽向日昏は陰影を操る。その力で物体の影を縫い止め動きを制限させたり、影と影の間を瞬間的に移動することで攻防を有利に進められる。
それが『陽にして昏を落とす者』としての真名由来の能力だった。
「…本気を出せ、旭。その気になれば、その程度は容易に封じる手段があるだろう」
不満そうに言う日昏に、旭は力ない苦笑でくしゃりと頭を掻く。
「あんまり、ね。使いたくないんだ。『神門』に鞍替えしたせいか、『陽向』としての真名解放が前より億劫になってしまって。とても疲れるんだ」
言いつつ、旭は周囲の光玉の内から四つを飛ばし、自分と日昏の周囲四方に配置した。
次の瞬間、その四つの光玉から目を細めるほどの光が放たれ、真昼の空から落ちる陽光と同じレベルの光量が真横から二人を照らす。
旭とはすなわち『九つの日』のこと。
陽向旭とはすなわち、圧縮された小型の太陽を九つ統べる退魔師の真名である。
これも、歴代陽向家の中では破格の威力を誇るトップクラスの名。
真上と四方。計五つの太陽に照らされ彼ら二人の周囲の影が一切取り払われる。
「これ、で…っ。君の影移動はほぼ封じた。あとは」
顔に張り付く疲労の色を隠しきれず汗を流す旭を、日昏は黙って見据えたままナイフを構える。
「……百八十倍!」
残った五つの光玉を侍らせ、全身に巡らせるは自身の異能力“倍加”。意図せずして自らの息子に退魔と共に継承されてしまった力の一つだ。
「…名前」
腰を落として素手で構えた旭にいつでも対応できる姿勢を維持したまま、日昏はふとした疑問を元旧友の彼に投げ掛ける。
「お前は、守羽に…息子の名には力を与えてやらなかったのだな。いつか来る日のことを知っておきながら」
陽向家の名は、基本的には世間一般と同じく親が付けるものである。そしてその名に込めた力を言霊として封じ込め、真名として与える。
守羽という名には陽向家の掟である『陽』にまつわる言葉はおろか、それに連なる単語すら見当たらない。
退魔と妖精の混血であり、いつか過酷な困難と直面することになることを確信していたにも関わらず、その困難に立ち向かうに必要な力すら息子に与えなかった父親に対して日昏は復讐としてだけではない軽蔑を向ける。
『神門守羽』には、何の力も伴わない。
「あまり馬鹿にしてくれるなよ、無様に死に損なった陽向の雑兵風情が」
「!!」
ゾッ、と全身に走った悪寒に引っ張られるように全力で後退。地面を抉り融かしながら五つの陽玉が暴れ回る。
飛び散った溶岩を風圧で薙ぎ払いながら鋭い眼差しで旭が飛び込んでくるのを両手に握った小振りのナイフで迎撃する。
ガンガン、ガギンッ!!
肉というより骨で叩くように、強化された拳骨が日昏のナイフを弾く。威力だけなら明らかに異能を重ねている旭に分がある。日昏は拳打に押され軽く上体を仰け反らせた。
「名に力が無いだと。冗談は笑えてこそ意味があるものだ日昏。挑発のつもりで放ったのであれば、その効果は絶大だったと称えてやってもいいが」
「っ……ふ、ふふ。はははっ」
その眼光、その口調、その尖った剣のような殺意。
懐かしみすら覚えるかつての陽向旭を思い出し、知らず日昏はこの状況下で笑みを浮かべていた。
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ドォッ!!!
「…んお?」
先程『鬼殺し』ごと倒壊した廃ビルの瓦礫が真上に噴き上がる光景を、大鬼酒呑童子は酒瓶を煽りながら眺めていた。
瓦礫の底から拳を突き上げた格好で一人の少年が現れる。
「うっしゃ、生きてたか。いいぞ『鬼殺し』、続きだァ」
それを見てニィと笑う酒呑が、一気に飲み干した酒瓶を横に放り投げる。
「…………」
どこか呆けた様子で鬼を視界に入れた少年が、疲労からか痛みからか、腰を僅かに落とし顔を俯かせる。
「あ?オイ『鬼殺し』、テメェ」
まともに闘える状態か怪しくなってきた少年に、鬼が怒気を孕んだ声音で指差した時、
どぽんっ、と。
大鬼の全身を莫大な水が包み込んだ。
「うォごぼっ!?なんじゃこりゃ!」
『 ○月☓日
今日、僕と彼女の子供が産まれた。
このめでたい日を祝し、僕はこの子の成長記録と共にこの日記を始めたいと思う。
やはり人より妖精の側に遺伝が傾いてしまったのか、この子は彼女と同じく薄い色素の髪。というよりは色が抜けたような…ああ、調べてみたら、生成色というのが近いか。きなりいろ。
何にも染まっていない素材本来の色のことだそうだ。つまりはほぼ純白。よかった、僕の遺伝と混じっておかしな色にならなくて。』
―――神門旭の日記。何十冊にも及ぶその最初の一冊目の一ページ目は他と比べて随分と書かれている量が多かった。
巨大な水球に囚われ手足をバタつかせる大鬼に、無言で少年は次の手を出す。両手で結んだ印の数は九。緩慢に顔を上げ、右手を居合抜きよろしく左側の腰へ当て勢いよく真横へ振り抜く。
それは魔を断つの光の太刀。
水中でもがく大鬼にそれを躱す手立ては無い。
だが、そもそも酒呑童子に避けねばならぬ理由も無かった。
「おォらッ!!」
水中で右手を構え、水の束縛ごと断魔の太刀を一撃で吹き飛ばす。
『
瞳は彼女と同じ琥珀色か。…ちょっと、顔立ちも似てるな。
あれ?この子僕との類似点少なくない?僕の子なのは間違いないだろうけど、これ何気にショックだな……まあ、元気に育ってくれればそれでいいけどさ。』
水球が吹き飛ばされる時には、もう少年は大鬼の眼前まで迫っていた。互いに無言で拳を打ち合い、やはり打ち負けるのは少年の方。浮き上がった両脚を地面に押し付けてどうにか十数メートル後退するに留める。
ただ、鬼もその威力には多少ながら目を瞠っていた。
(随分重い拳になったもんだ。ちっと手が痺れたぜ)
「…………」
『
名前は、この子が産まれてから決めた。陽向に由来する名は絶対に付けないと決めていたけど、名前はこの子を…この子に生えた小さな羽を見て自然と思いついた。
守羽だ。』
黒髪黒目の純粋な日本人にしか見えない少年は、本来の力と知識を取り戻すと共に封じていた自身のことも思い出していた。
本来の髪は白く、そしてその瞳は黄色がかった琥珀色。
そして彼には本来、その背にある特徴が継がれていた。
人外種の種族ごとに判別をする為の先天的な特徴。
彼の場合であれば、自らの半分を構成する妖精種の特徴が、確かに受け継がれていたのだ。
「…名乗るのが遅れたな、酒呑童子。いつまでも『鬼殺し』じゃ、俺も気分が悪い」
頭や口から流れる血を手の甲で拭い、彼は両目を閉じて深呼吸をする。
日記により取り戻した本来の自分。
人間として生きていくために封じた力と知識。自身の身体構造すら組み替えていった退魔師の改竄の封印術は、弱体化のみならずその外見すらも人間として変質させていた。
だから今、本当の意味で、彼は全てを取り戻す。
『
これから先、きっとこの子は沢山の苦難に見舞われる。憎んだり恨んだりもする。煙たがられたり蔑まれたりもするだろう。でも、この小さな身に宿る強大な力は、憎悪で振るってはいけない。それは僕の願いであると共に、この子自身の為でもある。
人外の存在を象徴するこの羽は、きっとこの子が本気で力を発揮する時に意図せずとも現出するものだ。近所の人達に見られると不味いから、近い内にこの子の中に押し込めて封じておく必要があるが、持ち得る能力を全開放した時にはその封印もこじ開けられてしまうかもしれない。
この羽が次にまた出現する時、それはこの子が何かの事情で妖精・退魔…そして神門の力を全て解き放つ時だ。
……その時、この子には負の感情を持っていてほしくない。
そういう意味も込めて、この名が御守りの代わりになってくれれば嬉しい限りだ。』
サァァ…と彼の髪の毛が、本来の色を思い出したかのように根元から変色していく。
それは生成色。憎しみにも恨みにも何にも染まらず、ただ彼本来の純白として毛先まで変わり切る。
静かに開いた両目は、黒から黄色がかった色へ。妖精の母と同じ澄んだ琥珀色。
「面白ェ変化をしやがるのな」
「変化じゃねえ、元に戻っただけだ」
「どっちでもいいっつの。で、それが本気か?」
纏う雰囲気ごと変わった彼を見ても大鬼はさして驚くこともせず、彼からの先手を待つ。
『
この羽は害する為に出してほしくない。どんな風に育っていっても、この子には何かを傷つけるのではなく、何かを守る為に力を使える子になってほしい。
これが、僕と彼女がこの子に願うただ一つのこと。』
これから大鬼を倒す、この気持ちは負じゃない。
鬼との因縁を断ち切り、自分とその周囲の大切なものを、
『 だから、なんだよ。だから君は守羽なんだ。君のその羽は…、』
(ああ、わかってる。思い出したよ父さん、全部。だから俺は)
少年の背中から、ゆっくりと半透明の形を成していく何かがあった。それは次第に大きく広がり、昼の陽光を受けて様々な色彩を反射させた。
天に突き出されるように現出したそれは『妖精の薄羽』、妖精種の持つ先天性の特徴。
「神門守羽。大鬼を倒す史上二人目の人間の名前だ」
「…クカカッ!」
そうして名乗りを上げた守羽の口上に、鬼は愉悦を滲ませて鋼の肉体を前面に押し出した。
生成色の髪、琥珀色の瞳、半透明の薄羽。
神門守羽としての全てを取り戻した彼は、ただ一つの願いと目的の為に闘う。
彼の背中で揺らめくそれは、憎悪や悪意によって振るわれるものではなく。
昔から守羽が望み続けていた穏やかな日々を迎える為に必要なもの。
だからきっと、その羽の使い道は初めから決まりきっていたのだ。
その羽は、
『第五十話 その羽はただ守るためだけに』
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