Neetel Inside ニートノベル
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力を持ってる彼の場合は
第五十一話 離別と、決別と

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 写し身の街が崩壊し、彼らは最初に相対した場所に戻っていた。
 たった二人しかいない公園。そこには荒い息を吐く音と、プスプスと焼け焦げた何かが立てる音だけが静寂を満たしている。
「ぁあ、はあっ……か、ふっ。……あ、きら…貴様……」
 仰向けに倒れたまま、苦悶の表情と声音で陽向日昏が途切れ途切れに声を発す。その全身は酷い火傷を負い、今なお炭と化した表皮から赤々と熱が色を保っていた。
「ああ、良かった。生きてた。……よか、った」
 倒れる日昏の眼前に、血溜まりを足元に広げていく神門旭の姿があった。こちらも体中に刻まれた裂傷が明らかな致命傷となって、どんどんと旭を失血死へ追い込んでいく。
 どちらも今すぐに処置をしなければ命が危うい状況。にも関わらず二人は痛みと吐血で途切れる言葉を掠れた声で紡いでいく。
「要らぬ手心を、加え、たな」
「心外、だね…あれでも…全力だった、さ。ただ、思ったより力が落ちてた。『陽向』からの絶縁、『神門』への、鞍替え……想像以上に、僕の体は負荷を受け、て…っ」
 言い終える前に、自重すらすら支えられなくなった両足が膝から崩れ落ちる。頭を垂れたまま、血の雫を落とす口に精一杯の笑みを見せる。
「決着は、ついたよ。君の負けで、僕の勝ちだ。だから君に頼みたい」
「なに、を…?」
 大火傷を負った体を起こそうとしてうまくいかない自分の肉体に苛立ちを覚えながら、なんとか顔だけを持ち上げて日昏は旭を視界に入れる。再度両足に力を入れてよろりと立ち上がった旭が、血色の悪い顔でやはり弱々しい笑みを湛えている。
 血反吐が喉に絡むのか、喋り辛そうにしながらも旭は倒れる日昏へと自らの願いを口にする。
 それを聞いて日昏は僅かに目を見開いた。怒りが痛みと疲労を凌駕して叫びを生み出す。
「ふっ…ざけるな!ゴホッ…そんな、もの!お前が…勝ったお前がやらなければ…!」
「いや…勝てたからこそ、君に頼むしかないんだ。もう僕に、自由は利かない」
 諦念しきった、何か覚悟を決めた様子の旭はゆっくりと頭を振るい、直後。
 傷だらけの旭の体を、背後から水の鞭が容赦なく拘束し縛り上げた。
「旭…ッ!?」
「ここが、僕の、年貢の納め時ってやつさ。……そうだろう?レイス」
「…………ああ、そうだな」
 背後の妖精が、冷酷な表情で冷水のように冷えた声音を返す。
 手加減なく圧迫する水の鞭が全身を束縛し、裂傷から血が噴き出る。
 激痛と疲労、多量の出血でもう意識の維持すら困難な旭は、諦めて潔く、思考ごと踏ん張って保っていた意識をあっさり手放す。
 最後の瞬間、彼の脳裏に浮かび上がったのは、
(……ああ。やっぱり。もう一緒にご飯は食べられなかったね。ごめん、二人共)



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「…ここまでだ。皆の衆、退くぞ」
 両勢力の攻防ですっかり荒れ果てた二つのオフィスビルの屋上。その片方で杖を突いて白髪の老妖精ファルスフィスが顔を上げて宣言する。
「あんにゃろ、逃がすかっての!」
「待った音々!」
 黒翼をはためかせて仕掛けようとした音々の腕を掴んたレンが全力で後方へ飛ぶ。次の瞬間、二人のいたビルの真上に屋上の面積を越える巨大な氷塊が出現した。
「爺様っ、こんなの避けられないって…!」
「あのクソジジイぃ!!」
 太陽を隠し一面影に包まれた屋上で逃げ場を探すが、当然そんなものは無く。せめてもの抵抗にとそれぞれが両手を構えて迎撃の体勢を取る。
 巨大な氷塊が屋上に着弾する、その間際。
 空から降ってきた数本の刀剣や槍が氷塊に豪速で突き刺さる。衝撃が内部へ潜り込み、内側から破砕する。
 ガガガッと氷塊を貫通して屋上に突き立った武器が一瞬間後に砂塵と化して崩壊していくのを見届け、レンと音々は即座に同盟仲間の援護を察しすぐさま敵の姿を探す。
 氷塊に気を取られている間に、『イルダーナ』の面々は対面のビル屋上から消え、もうそこには影も形も無い。
「チッ逃げられたわよレン!」
「わかってる」
 追撃の動きを見せる音々を片手で押さえ、レンは短い時間で考える。
(『イルダーナ』は旦那さんを狙ってここまで来た、その情報を得る為に俺達に接触してきた。そう思っていたが、だとするとこの撤退はあまりにも不自然だ。ならこれは…)
 思考が纏まったのと同じタイミングでポケットの携帯電話が震え、レンは相手も確認せずに通話状態にして耳に当てる。
 この状況で電話をしてくる相手なんて一人しかいない。
『足止めしてるつもりが、足止めされてる側だったってな』
「やっぱそういうことか」
 電話の向こうで風音の混じる音声にレンは眉を寄せながら返す。どうやらアルは移動しながら電話しているらしい。こちらへの援護射撃を終えてからすぐに動き出したのだろうか。
『連中の狙いは最初ハナっから旦那だけだ。その連中が退いたってことは目的を達したってことに他ならねえ』
「旦那さん、負けたのか?」
『さあな、勝っても負けても同じ結果には結び付きそうだが…ともかくある程度は旦那の予想通りになったってわけだ。お前らもさっさとそこから離れろ、野次馬が寄ってくんぞ』
 屋上での戦闘で崩れた瓦礫や氷塊は地上へ降り注ぎ、少し前から随分と大きな騒ぎになっていた。怪我人や死者も出たかもしれない。じきここへも人間の機関から派遣された人員が押し寄せてくるはずだ。確かに撤退は早々に終えなければならない。
「わかった。マンションに戻ってればいいか?」
『音々はマンションの俺らの部屋に戻らせろ、白埜が一人っきりで留守番してっから合流して面倒見といてくれ。お前は自前の能力使って姐さんに連絡取れ』
「なんで?」
『旦那のこと、たぶん一番敏感に感じ取ってるのは姐さんだ。結界で覆われた家から出られると厄介なんだよ。自分の嫁が妖精連中に狙われるのは旦那が最大に嫌がる展開だ』
「なるほど、了解」
 通話中もビュウビュウと聞こえる強風で、アルがかなりの速度で移動しているのが窺える。思わずあの重傷者が何をしているのか気になったレンが問う。
「で、お前さんはそんな体を引き摺ってどこへ向かってんだ?」
『決まってんだろ』
 僅かに切れた息遣いで、アルは自身の状態など鑑みることなく、至極当然のように、
『旦那がもっとも大事にしてんのは自分の家族だ。姐さんの安全は結界で確保出来るとして、なら次にヤバいのはもう一人の家族の方だろ』

     

「目には目を、ってのはよく言ったモンだぜ。…鬼神に打ち勝つには、同様に神と同等の力をぶつけりゃいいって話か。クカッ」
「………」
 右腕が消失し、全身から白煙を立ち昇らせる大鬼酒呑童子が、瓦礫に上体をもたれさせたまま愉快そうに短く笑う。
 断魔の太刀を『神門』の力で大幅に強化させた直撃を受け、もう大鬼に立ち上がるだけの余裕は無いようだった。本当なら欠片も残さず消し飛ばすつもりだったのだが、結果的に大鬼の体は両断することも出来ず五体満足で生き残った。
 だが流石に二重の大結界で押さえつけた状態からの退魔の術法直撃は鬼神にとっても痛手であったらしい。見た目も中々に弱っているようだし、それ以上に内側へダメージが浸透しているようだ。
 何度か立ち上がろうとして失敗した酒呑童子が、諦めたようにぶはぁーと息を吐き出して立派な一本角の生えた頭を持ち上げる。
「正直負けるとは思わなかったぜ。『鬼殺し』」
「…ああ、俺も……勝てる気が、しなかったぜ」
 一応用心しながらも、瓦礫にもたれた大鬼の正面に立って俺もそう返す。右腕は先の一撃を放った反動でズタズタに引き裂かれた。ぶらぶらと揺れる右腕は機能を完全に放棄しだくだくと血を流し続ける。
 やはり、正当後継者でもない俺が『神門』の力を使うのは負担が大き過ぎた。妖精種としての人外強度というアドバンテージを最大限利用し、“倍加”で強化を上乗せした身体能力ですら『神門』の力を扱い切ることは出来なかった。
 もしあれ以上拮抗が続いていたら、押し負けて破壊されていたのは俺の方だっただろう。
 本来の姿である背中の羽は、俺の体力の消耗が限界に達したのと同時に空気に溶けて消えた。目の上端に見えていた生成色の毛先も、今は黒くなっている。きっと瞳の色も黒になっていると思う。
 長いこと本来の姿を封じていたせいか、力の解放と収束に連動して姿が変化するようになってしまったらしい。まあ、今となってはこの純日本人カラーの方がしっくりくるからいいけど。
 指一本すら動かせないのか、大鬼は口だけを億劫そうに動かして、
「そら、とっとと首取れよ。それとも先に角からヘシ折るか?鬼神の角ってんなら家宝で祀っても文句ねェくらいレアだぜ」
 口調こそ軽いものの、それに反して身じろぎの一つもしない大鬼はなんだか妙に不気味だった。まるで闘う意志だけは衰えることなく燃えているのに体がついてこなかっただけなんだと言っているようで。
 コイツは苦痛や疲労を感じない体質なんだろうか。
 とはいえ他でもないこの大鬼が、嘘を誰より嫌う酒呑童子自身が負けを認めたのだ。もう抵抗を続ける気はないと見ていい。
 であれば、俺のするべきことは決まっていた。俺も満身創痍の体だったが、もう少しで全て終わると肉体に言い聞かせて足を一歩前に踏み出す。
 その時、俺と酒呑童子が対面している側方十数メートル先で二つの影が降り立った。
「頭目!」
「頭領!」
「……お前らは」
 それぞれが筋骨隆々の人身に牛と馬の頭部を持つ人外。酒呑童子の側近である牛頭と馬頭が俺と酒呑童子へ視線を固定していた。その動物の顔が赤みがかっていたり青ざめていたりするのは、大将が負けたことに対するショックと怒りが混在している故か。
「テメェら引っ込め!!出る幕じゃねェだろうが!」
 少なくとも身動きが出来ないほどのダメージを負っているはずの大鬼が、そんな状態から信じられないほどの大声量で自らの配下の動きを縛り付ける。
「で、すが、頭目!」
「我らにとっては頭領が全て!その命守る為ならば、たとえ頭領自身に殺されることになろうとも本望!!」
 どうやら大鬼が倒されたのを遠方から確認して、俺が止めを刺すより先に割り込んできたらしい。俺と酒呑童子の一騎打ちに邪魔立てしないことをきつく厳命されたが、それを破ってでも自分達の首領を逃がす為に動いたと。
 鬼の総大将は随分と配下に慕われているようだ。決闘の勝敗を無視して首領の逆鱗に触れることになっても、命を捨てる覚悟で姿を現す程度には。
 …これじゃあ、どっちが悪者だかわからないな。
「もう人間に手出しするな、危害を加えるな、騒ぎを起こすな。この三点を厳守すること」
「…あ?」
「それさえ誓えばもういい。山でもどこでも、勝手に帰れ」
 単純な口約束だ。決闘に負けた者が、勝った者の言うことに従うという、簡単に破れてしまう約束。
 だから普通はこんなの馬鹿正直に信じたりはしない。どうせ今この場でだけは誓ったとしても、傷を癒したらまた人を襲い大騒ぎを引き起こす。
 普通ならそう考えるところだけど、この相手にだけはそれが通じない。
「鬼の大将に嘘偽りは無し、なんだろ。決闘による、勝者おれから敗者おまえへの命令だ。ちゃんと守れよ」
 一方的に言って数歩下がる。顎でしゃくって促してやると、牛頭馬頭は警戒しながらも酒呑童子へと近付き、牛頭が肩を貸して起き上がらせた。馬頭は鉄製の棍棒を構えたまま俺へ敵意の眼差しを向ける。
「…そんなんでいいのか、テメェ」
 拍子抜けしたのか、大鬼は唖然とした表情で俺を見ていた。ただ、拍子抜けだったのはこっちも同じで、
「思ったより落ち着いてんな。てっきり『オレの負けだ、殺せ!このまま生き恥を晒すくらいなら舌でも噛んで自害してやらァ!!』とか言って喚き散らすのかと思ってた」
「ハッ、確かに決闘持ちかけておいて、負けた挙句に生かされんのは屈辱だな。だがまァ、結局生きてることが第一、意地だの矜持だのは大体二の次だ。殺さねェってんなら気兼ねなくその言葉に甘えるぜ」
「そうかい」
 鼻で笑って返してやると、若干力なくみえる微笑で大鬼が問い掛けて来る。
「二つ、答えろ。テメェ、心臓をぶっ刺されたはずの致命傷からどうやって復帰した?いくら妖精だろうが退魔師だろうが、傷を無効化させる術はねェはずだ」
「ああ……」
 頷いて、俺はポケットから手品のネタを取り出す。片手に収まる程度の小瓶には、半透明のジェルのようなものが半分ほど残っている。
「ちょっと前に妖怪と知り合う機会があってな、そんときに貰ったもんだ。塗ってよし、舐めてよし。体内外を問わずあらゆる怪我を癒す特効薬にして万能薬さ」
「……なァるほど、テメェ鎌鼬かまいたちと交友があったか」
 同じ日本産の人外だからか、酒呑童子はこれだけの説明で薬の持ち主を看破した。
 三兄姉弟きょうだいの鎌鼬、その『薬』を担当している少女から貰った傷薬には致命傷をすら癒し塞ぐ強力な治癒効果がある。
「あと一つ、『鬼殺し』…名前なんつった?」
「神門守羽だ」
「守羽か。…あァ、あとも一個」
「二つじゃなかったのかよ」
「固ェこと言うんじゃねェ」
 牛頭に肩を貸してもらいながら、大鬼は思い出したように質問を重ねる。
「あのアルって野郎はテメェの仲間か?決闘前にオレへ挑んできた妖精崩れの悪魔だ」
 アルという名前は知らないが、決闘前に大鬼へ勝負を吹っ掛けた者といえば心当たりは一つある。
「俺の仲間じゃねえが、俺の父親の昔馴染みみたいな話は聞いた。それがどうした?」
「…クカカッ、そうか。やっぱ…面白ェな」
 意味深に頷いて呟くと、酒呑童子は牛頭にアイコンタクトで合図する。牛頭は馬頭が俺へ警戒を注いでいるのを確認すると、肩で大鬼の体を支えながら背中を向けて歩き出す。その背から、忠告のような大鬼の声が響く。
「神門守羽、テメェはいくさの申し子だ。今この時を乗り切ろうが、おそらくテメェの存在は次なる戦乱を呼ぶ。……ああ、楽しみだ……クハッ、クッ…カカカカッ!」
 いつまでも耳に残る笑い声を残して、鬼達は一陣の風と共に姿を消した。
 鬼の気配が完全に消え去るまで待って、俺は左手と両膝を地面につけて大きく息を吐く。
 弱みを見せて付け込まれないようにと気丈を振る舞っていたが、実際は俺も満身創痍だ。右手は骨がバキバキに折れてるし、心身共に限界が来ている。全ての力を全開放した反動は思っていたより大きい。鎌鼬の秘薬も、この手の疲弊や反動には効かない。
 ―――…………だと、いうのに。
「…なん、だってんだ。お前らはッ」
 跪いた状態から首だけ捻って振り返る。そこには、死装束のように真っ白な着物の老人が杖をつき、その隣には背丈は低いが横幅は大きい樽のような図体の中年が立っていた。
 直感で理解する事柄は二つ。一つはこの二人が妖精種の人外だということ。もう一つは、
「神門旭の子よ、我らと同行してもらおう。その存在、看過できるものではない故な」
 白髪白鬚の老人の一言で、隣の樽のような中年が茶色の立派な顎鬚を片手でさすりながら前に出る。元々、俺が素直に従うことに期待していないようで、既に臨戦態勢に移行している。
「……く、そ」
 ガクガクと震える手足に精一杯力を込めて再度立ち上がる。反動が強く体に圧し掛かり、血管全てに鉛を流し込まれたように全身が重い。
「くそ、クソッ」
 悪態を吐き、力を引き上げる。
 “倍加”がうまく機能しない、妖精の力が安定しない、退魔の術が構築できない、…神へ至る門が、開けない。
 俺の中にある全ての力は大鬼戦でほとんど使い果たした。余力はもう残っていない。
「クッソがあああああああ!!」
 叫び、駆け出す。
 確定した敗北が、すぐ目の前で俺を嘲笑っていた。



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 神門という表札が付けられた家の居間で、一人の女性が顔を上げる。
「旭さん」
 呟き、立ち上がる。彼の気配が、命の光が急速に失われつつあるのを彼女は感じ取っていた。
 もうこれ以上は無理だ。じっとしているわけにはいかない。
 早足に玄関へ向かおうとした時、家の固定電話がシンプルて単調な音を鳴らす。取るつもりは無かったが、何故か固定電話はワンコールで鳴りやみ、代わりになんのボタンも押していないのに勝手に通話状態へ表示が移り変わる。さらに音量までひとりでに調整され、固定電話の受話器から部屋中に届く声が聞こえた。
『女王様、そこにいますか?いたら返事してください』
 彼女はその声に聞き覚えがあった。かつて妖精界に住んでいた同胞の一人。
「…レンだね。その呼び方はやめてほしいな、わたしは女王でもないし、もうその筆頭候補ですらない」
 彼女の声を拾って、『突貫同盟』所属のレンの声が返る。
『失礼しました。それじゃアルと同じく姐さんで通します。姐さん、最初に言っておきます。家から出ないでください。探知と気配を遮断する結界が張られたその家から外に出れば、たちまち妖精達に見つかります』
「でも…!」
 彼女は色素の薄い髪を揺らして固定電話へ向き直る。
「でもこのままじゃ旭さんが、それに守羽もっ」
『息子さんのとこには今、アルが向かってます。まあうまいことやると思うんで大丈夫かと。旦那さんは…覚悟の上でした』
 同盟の仲間達は、旭から同じ退魔師の同輩との戦いから戻ってこないかもしれない旨を伝えられていた。その時に頼まれた願いを受け取って、彼らはそれを了承したのだ。
『旦那さんから託されたのは家族のこと。息子と嫁をなんとしてでも守ってくれと頼まれました。姐さんも、旦那さんから何か言われたのでは?』
「……っ」
 その通りだった。旭は家を出る時彼女に言ったのだ、『全てを終えるまで絶対に家から一歩も出てはならない』と。その言葉を放った旭の雰囲気に、彼女は頷かざるを得なかった。
「じゃあ…じゃあ旭さんは」
『今のところは何とも。ですが俺達「突貫同盟」は大将である旦那さんの命令を、その意思を尊重して動いています。だから…』
 神門旭を助けに行く者は、誰もいない。
 彼の旧友であり仲間である同盟の者達も、彼の家族も、誰も彼を助けに行くことは出来ない。
 何かしらの『イレギュラー』でも発生しない限りは、絶対に。



      -----
「……ねえ、レイス?」
「なんだ」
 猫耳をぺたりと頭に倒したシェリアが落ち着きなくレイスの隣でそわそわしている。その視線はレイスへ、正確にはレイスに担がれた人間へ注がれている。
 瀕死の状態で意識を失っている神門旭が、うなされるようにきつく両目を閉じて荒い息を吐いていた。
「だいじょうぶにゃの?ミカド……ミカドアキラ。すっごい苦しそうだよ…」
「体の傷には最低限の止血を施した、コイツの生命力ならそうすぐに死んだりすることはない」
 肩に担がれている旭は、レイスの歩調に合わせて上体と両手をぶらぶら揺らしていた。とてもじゃないが、重傷者の搬送の仕方としては雑過ぎる。
「ほんとにつれてくの?」
「無論だ。大罪人を王の前に突き出さずしてなんとする」
 前だけ見てずんずんと進んでいくレイスの声音は冷たい。こと神門関連において彼はスイッチを切り替えるように冷酷になれることをシェリアは知っていた。いたが、
「でも…、アキラは……ミカドシュウのお父さんだよ…?」
「…、それがどうした」
 一瞬だけ言い淀んだレイスも、すぐに素っ気なくそう返した。続けて言う。
「それに神門守羽も連れて行くのだから問題ない」
「……え…?」
 シェリアの足が止まり、旭を担いだレイスが半身だけ振り返る。
「シュウ、も?にゃにそれ、あたし聞いてにゃいよ!」
「言ってなかったからな。本当ならば彼女も捜して連れ戻したかったのだが、どうやっても居所を突き止めることは出来なかった。守羽は今頃ファルスフィス殿が捕らえに向かってくださっている」
 自分の知らぬところで進んでいた話を知り、シェリアは垂れた猫耳を今度は僅かに震わせながらピンと立たせる。まるで彼女の感情をそのまま体現しているかのようだった。
「シュウは関係にゃいでしょ?ううん、それ言ったらアキラだって!」
 顔を上げて、血だらけで四肢を投げ出して担がれている神門旭を見て、もう一度顔を伏せる。
「やっぱり、やっぱりおかしいよ!ミカドって、そんにゃに悪い人たち?ぜったい違う!!」
「お前は何も知らないからだ。いやそれとも、この短い期間で情が移ってしまったか?お前は人が良いから無理もないが…」
 レイスの諭すような言葉に、ふるふると首を振るうシェリアが数歩後ろへ下がる。
「ちがう…違う違う!そうじゃにゃいよ…皆、みんにゃおかしい!ミカドは悪者だって決めつけて!お話もしにゃいで乱暴に捕まえて!……違うよ、これじゃあ、悪者なのは……」
「…シェリア、落ち着け。らしくもない」
 純粋にただ混乱する仲間を労わるレイスが、優しく声を掛ける。その背後から新たな人影が現れた。
「あら?どうしました、レイス。…シェリア?」
「ラナか」
 路地の向こうから歩いてきたのは金髪と豊満な肢体が目を引く絶世の美女。妖精組織『イルダーナ』において情報収集を主な役割とするラナだ。
「一体、何があったんですか?」
 耳をくすぐるような美しい声色で、ラナはこの状況に説明を求める。それに対しレイスが口を開きかけた時、
「…ね、レイス、ラナ。アキラを許してあげよう?もう、こんにゃのやめよ?」
 猫耳少女のことをよく知る彼らにとっても見たことがない、元気を無くしたか細い声で提案するシェリアに様子にレイスとラナは不安と動揺を覚えた。
「…本当に、どうしたのですか?」
「神門旭と神門守羽を捕らえることに反対らしい。解放してやれと言ってきかない」
 僅かな戸惑いの表情を見せて言うレイスに、ラナは困ったように小首を傾げた。
「それは……難しいのでは?」
「不可能だ。これは我らの総意であると共に妖精界の民達の総意でもある。罪人を晒し上げて粛正することは妖精界の今後を考えても必要な通過儀礼」
 ぽたりと、足元に水滴が落ちて真夏のアスファルトに黒い滲みを生む。俯き伏せた両目から、大粒の涙が二滴、三滴と続けて零れ落ちていく。
 なんでわかってくれないのか。どうして罰しなければならないのか。もう終わった事を、何故こうして人の世に来てまで蒸し返さなければいけないのか。
 まだ年端もいかない、幼いシェリアには何もかもがわからなかった。仲間達の言葉が、思いが、考えが。まるで自分とすれ違って一向に噛み合わない。それが悔しくて、悲しかった。
 でもシェリアはレイス達の言い分が正しいとは思わなかった。幼くても、年上達の考えが絶対的に正しいものなのだと妄信するようなことはしなかった。
 だから少女は自らの考えに則って、行動する。
「…レイス。アキラをおろしてあげて」
「いい加減にしろ、シェリア。我儘が過ぎるぞ」
「レイスっ!!」
 ボゥッ!!と、細い路地全体を強い風が吹き抜ける。叩きつけるようにラナとレイスを通過した風が、シェリアの周囲で留まり渦巻く。
「おねがい、レイス……もう、やめようよ?」
「シェリア!?」
「本気か、お前…!」
 ラナが叫びレイスが目を見開く。
 シェリアの背には、集った風が塵と埃を巻き込んで視認可能となった大気の羽が具現されていた。
 それは妖精種の先天的特徴である『妖精の薄羽』。普段押し込めているそれを解放したということは、シェリアが冗談抜きで実力行使を敢行する気概でいるということに他ならない。
 未だ目の端から頬を伝う涙が、風に優しく拭われるように散っていく。
 思いがけず発生した仲間割れの中で、さらに事態はこじれを見せる。

「シェリア……?」

 それは一人の少年の出現。
 少しだけ逆立った癖毛は肌に滲んだ汗に張り付いていて、少年が急いでここまで来たことがわかる。いつも快活な表情を見せるその少年は、今現在この状況を前にしてきょとんと目を丸くしていた。
 しかしそれも数秒の間。
「あ、…シノ」
 強風を身に纏うシェリアが振り返る。
「っ!オイ、テメエら…」
 見たところ、どうやら対面の二人とシェリアは何か対立しているようだった。その内の一人は知った顔だ。
 おそらく妖精同士、同じ組織の仲間なのだとは思うが、何があったのかは今来たばかりの少年・東雲由音には知る由も無い。
 だが問題はそこではない。
 由音は肩を怒らせながらずいと進み出て、湧き上がった感情を言葉に変換する。
「なんでシェリアが泣いてんだ。テメエら仲間じゃねえのか、なんでこの子を泣かせてんだテメエらはッ!!」
 風を纏うシェリアの隣に並び、その頭にとすんと片手を乗せる。猫耳ごと髪が押し潰されるが、嫌だとは思わなかった。その手の感触はとても優しく、そして心地よかったから。
 背の小さいシェリアは由音を見上げて、名を呼ぶ。
「シノ」
「おう、何があったシェリア!?アイツらがいじめたのか?」
 涙の痕が残る少女の弱々しい表情は、由音にとっては耐え難いものだった。たとえまだ短い付き合いでしかなかったとしても、命懸けの共闘をした相手のことを由音は特別視していた。
「シノぉ…」
 またしても瞳が潤み、どうしようもなくなってシェリアは由音の脇腹に顔を押し付ける。ぐしゅりと鼻をすするシェリアの頭を乱暴に撫でながら、由音は少しでも状況を掴もうと視線を巡らせた。
 そうして、レイスが抱えている一人の人間の姿を見つけた。酷い怪我なのが遠目からでもわかる。
「あきら、ミカドアキラだよ、シノ」
「誰だよ!…いや、ミカド?神門……あっ?じゃ、あの人って」
「シュウのお父さん」
「んっだと…!?」
 途端に由音の額に青筋が立つ。
「どういうことだレイス!シェリア泣かしたり守羽の親父さんにひでぇことしたり!何考えてんだ!!」
「フン。…ラナ、神門旭を頼む」
 肩から降ろした旭を背後のラナに託して、レイスは空いた両手を下げて一歩前に出る。
「どうするんです?…あら、少しお歳は召してますがいいお顔立ちですこと」
 抱えた旭の顔を近くで眺めながら頬を染める金髪美女に、レイスは顔だけ向けて返す。
「シェリアを説き伏せるにも、今はあの男が邪魔だ。おとなしくさせる。お前は神門旭を運んで合流地点へ向かえ、そこでティト殿が待っているはずだ」
「わかりました」
 頷き、即座に旭を抱えたラナが細路地の奥へ駆けていく。
「あっ、待てコラ!」
 泣き止んだシェリアを身から離して追いかけようとした由音を、水の鞭が地面を叩き妨害する。
「待つのは貴様だ、東雲由音」
「チッ、まずテメエからか!でっけえ気配がしたから、守羽の決着見届けて急いで来てみれば!一体全体なんだってんだこりゃ!!」
 由音の全身を邪気の奔流が覆い、その両目が黒く淀んだ色に満たされる。
「シノ!あの…あのねっ」
 風を四散させて解除したシェリアが、着ているワンピースの胸元を両手でぎゅっと掴んで由音を呼び止める。
「下がってろシェリア、仲間とドンパチやりたくねえんだろ!?よくわかんねえけど、どうせ悪いのはレイスだ、殺しはしねえから安心しろって!」
「う、うん!」
「余裕だな、人間」
 余所見をしていた由音の胴体に、太い水鞭すいべんが曲線軌道で鋭い一撃を打つ。普通の人間ならこれだけで肋骨が折れてしまいそうな威力だが、生憎と由音にこの程度のダメージはダメージとして通らない。
 裂けた皮膚と折れた骨を即座に“再生”で治し、片手の一振りで水鞭を打ち貫き霧散させる。
「まずテメエはシェリアに謝れ。そんで守羽の親父さん返せ!!」
 体を沈み込ませ、“憑依”によって常人を遥かに超えた瞬発力をもって由音はレイスの水の猛攻に素手で挑む。

     

「…ふむ、やはり中々」
「しぶといですな」
 声が、実際の距離以上に遠く聞こえる。
 俺はうつ伏せに倒れていた。
「ッ……ぜはっ、ひゅー…ッ…こふ…、…!」
 口と鼻だけでは酸素が足りない、それでも精一杯に呼吸を続ける。だが息苦しさは変わらず。もしかしたら肺をやられたかもしれない。
 いつだ?大鬼戦で?それともあの二人の妖精を相手にしてからか。
 酸素不足で脳がうまく働かない。
「しかし、これだけやれば問題ないのでは?ヤツはもう戦える体ではありませんぞ」
「……いや、油断は出来ぬ。あれは人でもなければ妖精でもない。だがそれ故にあらゆる要素を内包させたブラックボックスだ。気を抜けば喰われるのは我らの方よ」
 頬を地面に擦り付け、どうにか顔だけ上げて正面十数メートル先にいる妖精を見やる。
 ほとんど勝負にもならない一方的な暴虐だったが、その間に連中の正体は判った。
「ジャッ、ク…フロスト…。それ、と。……レプラ、コーンか」
 俺の呟きを拾った妖精は驚きの表情を浮かべていた。
「コイツは…!」
「だから言っただろう、ラバーよ。…大方、退魔師としての知識によって我らの攻撃挙動や外見特徴から真名を看破した、といったところか。『陽向』は子々孫々に渡り全ての知識を継承させる一族だと聞く。それを使ったか」
 氷の妖精ジャックフロスト。英国イギリスイングランド地方における民間伝承に端を発する、寒さを具現化された民話上の存在。日本で言うところの雪女と同等のポジション。古くから伝えられている氷精の実力は侮れない。
 その隣にいるのが『小さな体』のレプラコーン。靴職人であり、自らが創った靴には様々な能力や性能を付与できるという。その出自は妖精猫ケット・シー…シェリアと同じアイルランド伝承に登場する妖精。
「ぐ、ぅあああ!!」
 酸素の回らない頭で必死に状況打破の思考と相手の真名からなる次の手を予想しながら、俺はまだ無事な左手を地面に叩きつけ上体を起こす。
 全身を起き上がらせるより前に、真下の地面が盛り上がり俺の腹を凄まじい威力で叩き上げた。
「あがっ!」
 痛みに耐えながら跳ね上がった体を空中で立て直し着地する。見れば、ラバーと呼ばれていたレプラコーンが片膝を着いて片手に持っている小さな木槌を地面に当てていた。
(ちぃ、そういう…ことかっ)
 靴とは地を踏み締める物。それを創るレプラコーンもまた、それに準じた能力を得手としている。つまり靴職人ラバーの得意属性は五大の内の『土』だ。
「三百倍っ!」
 足元から突き出た地面を殴り砕くと、今度は頭上から氷塊が降って来る。続けて飛び出た地面の迎撃も間に合わず、俺は氷塊と地面とで上下から挟み込まれる。
「ああああああああ……!!五百っ……八百倍ィィああああああああ!!」
 左手で氷塊を、両足で地面を押さえ付けながら“倍加”を引き上げ続ける。酒呑童子との闘いでは数千倍までに高めていたが、今はそんな力すらもう出せない。そもそもあれだけの強化は能力を全開放させていたからこそ使えたものであって、今の状態で数千倍など使おうものなら数秒保たず全身が捻り潰れる。
(こんなところで終われるか!やっと、やっと元通りの日々に戻れるってのに!!)
 見開いた眼球が熱くなる。髪がチリチリと逆立つ。
 一瞬、一秒でいい。
 もう一度、使えれば。
 門をこじ開ける、そこから流出する力を束ね、全身に巡らせる。
 髪と瞳が変色する。体が焼けるような感覚を無視して、湧き上がった力の全てを左腕に集める。
「っなんだ!?」
「ラバー、下がれ」
「吹きっ飛べ!!!」
 氷塊を粉砕し、連中が何か仕掛けるよりも速く握った左手を突き出す。大鬼が散々やっていた、空気を圧し固めた大気の砲弾。肉体性能のみでそれを成していた鬼とは違うが、似た現象を発生させることには成功した。
 二人の妖精が立っていた辺りが諸共粉塵を巻き上げて爆発する。轟音が響き渡る中、再び黒髪黒目に戻った俺は立つことすらもう出来なかった。先程と同じようにうつ伏せに倒れ、指の一本すら動かせない。
 いよいよ酸欠が酷くなり、意識が遠ざかる。最後っ屁の結果を見届ける為に顔を向けることすら叶わない。
 だがそれは確認するまでもなかった。
「…、助かり申した、ファルスフィス殿」
「いやなに、儂もひやりとした。老い先短いというのに、さらに寿命が縮んだようだ」
 駄目だ。…倒せなかった。
 このまま連中に捕まり、その先どうなる?わからんが、ろくなことには、ならない。

「今度こそ尽き果てたようだが、念には念をだ。確実に意識を奪っておくに越したことはない」
「そのようで。では、俺が」

 何かが地面を小突く音に続いて、地響きが倒れた体全体を揺さぶる。何か攻撃が迫っている。
 だが、もう、動けない。回避も、防御も。何も出来ない。



 キン、と金属が鳴る音がして、誰かが地面に両足を着ける軽い音がした。
「ジジイが寄ってたかって若いの虐めて、恥ずかしくねえのかクソ共が」
 守羽へ迫る無数の岩石を斬り払ったその者は、倒れる守羽の眼前で二人の妖精に対し純粋な罵倒をぶつける。
「随分滑稽な姿になったなアル。話に聞けば鬼と闘い無様な惨敗を喫したらしいが?」
 同じように敵意を漲らせて、木槌を片手に構えるラバーが嘲り返す。
「ああ、楽しかったぜ?少なくとも、闘う力の無いガキ一人をボコボコにするよりかはよっぽどな」
 全身に包帯を巻き、右腕を丸ごとギブスで固めて吊り布にぶら下げたアルが、左手に一振りの刀を持って立つ。
 咥えていた鞘を口から離し、地面に落下する前に左手のみで器用に刀身をパチンと納めて肩に担ぐ。
「何故刀を収める?よもや割り込んでおいて降伏というわけでもあるまい」
「失せろ、オレの目的はこのガキだ。テメエらには渡さねえ。…それが、自分の身を捨ててでも家族の無事を優先させた俺ら『突貫同盟』、御大将最後の願いにして頼みだ」
「………―――…、と、う…さん……?」
 倒れる守羽が、虚ろな瞳で残り少ない酸素を溢すように漏らした呟きをアルは聞いていた。まだかろうじて意識が残っているらしい。
「大罪人を捕らえて連行する。その事実がありゃ息子ガキ一人なんざ些事の範疇だろ。旦那が何も考えず退魔師との決着をつけに行ったと思ってんのか?」
 神門旭は知っていた。陽向日昏との戦闘を終えて無事では済んでいない自分を狙い妖精が襲撃してくるであろうことは。
 だからこそ、先んじて旭は同盟仲間に指示を与えていた。たとえどんな状況になろうとも、『決して神門旭を助けに行かず、その家族の安全を最優先に動け』と。
「旦那の想いを少しくらいは汲んでやれ、テメエら老害にほんの少しでも人情ってヤツがあるんならな。無いってんなら、仕方ねえ」
 刀の柄を掴みいつ攻撃が来ても迎え撃てる体勢を維持する。その刀は、神門守羽と酒呑童子との激闘の中でいつの間にかどこぞへ吹き飛んでいた大業物、童子切安綱。ここへ辿り着くまでの道中でアルがちゃっかり回収していたものだ。
 さらに加えて一本、地面からアルが作成した贋作の剣が現れる。鞘は無く、刀身が鏡のように磨き上げられた一品。
「ぶっ殺してやる。来いよ」
「片腕の使えない状況で武器を二つも出してどうする、馬鹿め」
「ラバー」
 ファルスフィスが止めるより先にラバーが片手に持つ木槌を振り上げる。木槌が地面を叩くより速く、地面から現れた剣をアルは蹴飛ばす。回転しながら飛来するその剣を、鼻息一つでラバーが迎撃しようとする。
 アルの口元が凶悪に笑んだ。
「っ、ラバー待て!」
「おせえよ」
 アルが剣に込めた力を解放させると、回転する剣の刃へひとりでに亀裂が走り、内側から光が漏れ出る。

「“燐光輝剣クラウソラス”」

「ぬう!?」
「む…!」
 直後、破裂した剣から莫大な光量が全方位へ放射される。両手で杖を握っていたファルスフィス、木槌を振り被っていたラバーは突然の大発光に眼球を刺すような痛みに襲われ顔を覆う。
 痙攣する瞼を薄く開いた時には、もうアルも守羽もそこには居なかった。
「……逃げられたか」
 片手を顔に当てたまま痛みを和らげるように指で目元を揉むファルスフィスへ、ラバーが申し訳なさそうに無言で頭を下げる。
 対するファルスフィスは責めるでもなく、楽しげにホッホッと笑うだけだった。
(昔は猪突猛進で思考を捨てた獣のような奴だったが、駆け引きと計略程度は覚えたか)
 かつてのアルであれば間違いなく逃げより先に戦って倒すことを第一に考え動いただろう。だが、今は背後に庇っていた守羽のこと、負傷した自らの状態のことを加味した上で逃走を選んだ。それも、あえて煽り戦う姿勢を見せた上で油断を誘ってから。
 妖精界で面倒を見て来た馬鹿弟子の予期せぬ成長っぷりを見せられ、老齢の氷精ジャックフロストは静かに顔を上げ僅かに傾き始めた太陽を仰いだ。



      -----

『悪霊を魂魄に繋ぎ止める為の楔…これは守羽が君に施したものか?』

 守羽と大鬼との決闘前日。由音は日昏と接触していた。目的は自らの力に関しての相談及び強化の手段を求めて。
 神門守羽と同じ退魔師であれば、自らに宿る悪霊の力の使い方も熟知しているのではないかと思ったが故の人選だった。それに日昏は前に由音の深奥へ手を伸ばし悪霊を引き剥がそうとしたこともある。何か知っているかもしれないと予感したのもあった。
 由音の胸へ片手を当てて何かを探った日昏は、その奥にある封印を確認してから由音へそう問い掛けた。その問いに対し勢いよく首肯して、
『おう!ずっと前に“再生”と“憑依”が同時に暴走した時に、守羽が打ち込んだ!』
 数年前、東雲由音は悪霊に肉体を乗っ取られ、その際に制御を外れた“再生”の異能をも暴走を始めて極めて手に負えない怪物と化した過去がある。
 それを止めてくれたのが守羽であり、その時に由音の心臓(ひいてはその魂)へと悪霊を縫い止める楔の術式を打ち込んだ経緯があった。
『なるほど。だが不完全だな。当時の守羽がまだ覚醒していない半端な状態だったからか、術式の構成と構築が甘い。となれば、これを調整し直せば…』
『今より“憑依”を使えるようになんのかっ!?』
『可能性は高い』
『マジか!ちょ、その調整とかいうのやってくんね!?いややってくださいお願いします!』
 丁寧に言い直して、由音はその場で深く頭を下げる。日昏は火の灯っていない煙草を口に咥えたまま、
『調整自体は、まあ容易い。元々俺は「陰陽」を兼ね備えるべく与えられた「日昏」の真名保持者だ。負の塊だろうが弄くることは造作も無い。…だがな東雲の』
 あまり気乗りしない様子で、日昏は忠告する。
『この調整というものは君の魂魄へ無造作に手を加えるということだ。それは麻酔無しで胸部を切り開き心臓を鷲掴まれるレベルの激痛に等しい。…前に俺が君にやったことだ、忘れられるような痛みではなかったろう?』
 東雲由音は特異中の特異な人間だ。悪霊に胎児期から取り憑かれ、そして今なお内に宿したまま存命した極めて稀な特例。それ故に調整にも安全策ノーリスクが存在しない。さらに言えば確実や絶対という言葉からもほど遠い。
 調整自体は容易でも、その痛みに由音自身が耐えられる保証が無いのだ。最悪痛みでショック死、廃人化ということも充分有り得る。それほどの激痛を伴う。
『痛いのはしょうがねえ!それで今より強くなれんなら我慢する!!』
 前回も耐え切ったとはいえ、あんな思いは二度としたくないと思うはずだ。にも関わらず由音は即答する。
『……それも、守羽の為か』
『当然!アイツと肩を並べんのに、今のままじゃ足りねえからなっ』
『ふふ、はは…。そうか』
 躊躇せず断言した由音に、日昏はまるで自分のことのように誇らしく嬉しく思う。自然と笑いが込み上げていた。
『守羽は幸せ者だな。いい仲間に、恵まれた』
 言うと左手を由音の肩に、右手を胸へ強く押し当てる。
『ならばやるぞ。意識を強く保て、守羽の「右腕」として在りたいのならな』
『おお!かかって来い!!』
 そして夜の街に少年の絶叫が木霊した。



「く、なんだこの力は…」
「痛い思いした甲斐、…あったぜ!!」
 路地を大量の水と邪気とが削り抉り合いながら激突する。
 由音の全身は漆黒に包まれており、高速で移動する軌道をなぞって邪気が尾を引いていく。
 日昏戦で見せた、“憑依”と“再生”の同時解放。前回は負担が重すぎて短時間で切れてしまったが、その戦闘を行った日昏の手によって直々に調整を受けた由音はその負担を大きく軽減させた強化を可能としていた。
 地を蹴れば爆風が吹き荒れ、腕を振るえば指先から邪気が伸びて斬撃と化す。咆哮は大気を震動させ路地の壁を崩壊させる。
 その様は、まるで黒い獣。
(…いけるっ!このまま押し切ってあの女を追っかけ…、!)
 下がるレイスを追って伸ばした手を、直感で引っ込める。手を伸ばしていた位置に何かが通過し、地面ごと路地の建物を縦に両断した。
「シェリアの面倒を見てもらった人間だからと、思っていたが…。仕方ない」
 その正体はやはり水。超高圧縮された水圧の刃。
 水圧斬撃ウォーターカッターまで使い始めたレイスが、周囲に水を漂わせながら瞳を鋭くする。
「加減は、無しだ」
「こっちのセリフなんだよなーボケナスがよおっ!!」
 さらに邪気のオーラを立ち昇らせ、由音が前傾に体勢を取る。
 だが両者がそれ以上衝突することはなかった。
「レイス」
 コツンと音を立てて、杖を両手で握る白髪白鬚、着ている装束まて真っ白の老人が路地に降り立ったからだ。
「…ファルスフィス殿」
「これまでだ。神門守羽は捕らえ損なったが、第一の最大目標は達した。退くぞ」
「ですが…!」
 水圧斬撃を仕掛ける手前の水を散らせて、レイスは戦闘態勢を崩さぬままに視線で由音の後方に立っているシェリアを示す。
「む?シェリア…。いくら温厚な儂ら妖精といえど、裏切りには厳しいぞ?ただでさえアルとレンの妖精界での裏切りが記憶に新しいばかりだというのにのう」
「っ…あたし、は…」
「違います、ファルスフィス殿!シェリアは裏切ったわけでは…」
 裏切りではないと言い切りつつも説明に窮したレイスは、ファルスフィスへ向けていた顔を勢いよくシェリアへ戻し、
「早く来いシェリア!!今ならまだ戻れる!くだらない意固地を張るな、人の世で何を唆されたのかは知らんが惑わされるな!」
「レイス…」
 シェリアは困惑した表情で、ワンピースの裾を握る。彷徨う視線が助けを求めるように由音の背中へ流れ着く。
 前方を警戒しながらも半身振り返り、邪気を纏う由音は漆黒の向こうに柔らかい微笑みを浮かべて、
「…よくわかんねえけど、お前が正しいと思ったことを言え。向こうに戻るんならそれがいいし、そうじゃなくても、守羽や静音センパイ、オレがいる。どっち選んだってお前は独りになったりしねえから。それだけはオレでも保障できる。だから安心しろ!」
「……シノ。うん…、うんっ!」
 由音の言葉に強く頷いて、シェリアは対面の二人にキッと顔を向ける。
「シュウのお父さんを返して!もうこれ以上こんにゃことするの、よくない!」
「…なるほど。これは重症だの」
「シェリア…!」
 呆れたようにファルスフィスが溜息を吐き、切羽詰まった様子で叫びかけたレイスを杖から離した片手で制する。
「よい、レイス。あまり時間を掛けてはいられない。『突貫同盟』も動いている上、人の世で少々騒ぎ過ぎた。『イルダーナ』はこれより妖精界へ帰還する」
「!?…ですが!」
 その言葉の意味を知り、レイスが戸惑いと驚愕を織り交ぜた声で組織の長へ詰め寄る。
「それでいいんだな?シェリア!」
「うん!あたしは、これでいい。もう決めたから!!」
 由音の再度の確認に再度の頷きを返す。由音はニッと口の端を吊り上げて邪気をさらに膨れ上がらせる。
「わかった、ならお前はオレが全力で守る!連中には絶対渡さねえからよお!!」
「と、いうわけだ。アレを倒し抵抗するシェリアを連れ帰るのでは時間と手間が掛かり過ぎる」
「見捨てるのですか!?」
「そうではない」
 意気込む由音へ細めた両目を向けるファルスフィスが、杖をコォンと地に突く。路地を構成している両側の建物が、空から落下してきた氷塊に潰されて瓦礫の津波として押し寄せる。
「ファルスフィス殿!!」
「悪いようにはせんよ。向こう側におるあの少年然り、神門守羽然りな」
「…………くっ!」
 大質量の衝突で破壊されていく建物の破片や噴き上がるコンクリートなどからシェリアを庇いながら、由音は瓦礫のカーテンの奥で二つの影が背中を向け去っていくのを見た。



 オフィスビル二棟の半壊、街中の建築物数棟の全壊、廃ビル群とその周辺の大破壊(これは一般人には認知および認識されてはいない)。
 その他いくつかの箇所で破壊の爪痕を残したこの一件は、何も知らない人間達に強い困惑と戸惑いを警戒を刻み付けた。この事件の本当の原因は、きっと誰も掴むことが出来ないだろう。
 そうして人間が一人、この人の世から姿を消した。
 大鬼との決闘に勝った、退魔師との決着をつけた。
 それぞれにそれぞれの因縁を断ち切ったものの、彼らが本当に欲しがっていた安息の日々はむしろ遠ざかり。
 また、次なる騒乱への火種が撒かれるだけに終わるのだった。

       

表紙

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Neetsha