力を持ってる彼の場合は
第七話 吹き荒れる風達
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転止の怪我は、ざっと見たところではほとんど治っているようだった。夜刀が僅かながらにも与えた傷も、俺が叩き込んだ一撃も、行動に支障を及ぼさない程度には治したらしい。
つまりは、ほぼ全快の状態。
それに加えて全開解放の鎌鼬。
状況は昨夜とほとんど変わっちゃいない。
「くっ…!」
「ギッガガァァアアアアアアア!!」
ある程度の距離を保ちつつ、二人の鎌鼬は風を纏い『鎌』を叩きつけ合う。その合間に隙を見つけては、距離を詰め互いの爪で接近戦を仕掛ける。
やってること自体は昨夜と同じだが、違うこともある。
夜刀の動き方だ。
転止の『鎌』は爪の軌跡、軌道上の先から伸びる。それを知った上で、夜刀は転止の爪を無視して自分の両手を転止の胸に押し当てた。
「おォあっ!!」
「ガッ!?」
手の平から発生する夜刀の『鎌』が転止を吹き飛ばす。だがほとんど同時に振るわれた転止の爪によって、夜刀の体には斜めに五本の傷が刻まれた。右目を抉って一つ、胴体を裂いて三つ、脚を深く斬って一つの傷が。
一見して深さの程度が窺える明らかな致命傷。
「さ…やっ!」
「任せて!」
呻くような夜刀の言葉に即座に反応し、背後で控えていた紗薬が壺から薬を取り出し風を纏って高速で夜刀の傷に塗り込む。
深手は瞬時に癒えた。
「はあ、はぁっ……!」
「…夜刀」
「問題ねえ、大丈夫だ。…いけるぞ」
確実にダメージを与えつつ、こちらの傷は後衛の紗薬が堅実に治す。
ただし傷は癒えても痛みや疲労までは消えない。夜刀は死ぬほどの痛みをこのあと何度も味わいながら兄を止める算段だ。
この戦力で『殺す』のではなく『倒す』ことを考えれば、まあ妥当な判断だろうと思う。
「グルィ…」
問題は、鎌鼬同士の攻撃はほぼ軽減されてしまうことだ。後退した転止の傷は浅い、おそらく直撃の瞬間に纏っていた風を斬撃に変えて相殺させたのだろう。
それに、転止にはあれがある。防御不可能回避困難なあれが。
「アアアアア!!」
喉が裂けんばかりの奇声を張り上げ、転止の周囲から渦巻く風がいくつも出現する。そこから無数の斬撃が飛び交う。
それと同時に走り出す獣。構える爪。追随する突風。
鎌鼬の全てを併用させた攻撃。
その動きから予測される、振るわれる爪の先にあるのは夜刀はもちろんとして、紗薬。
そして俺。
(…結局こうなるか!)
内心で舌打ちし、一番後ろにいた俺も駆け出す。
「転止ォおおおおおお!!」
ガギギギギギギギギンッッ!!!
凄まじい体捌きで全方位から迫る斬撃を爪で叩き落とすが、それに手一杯で次に来る転止の『鎌』に備えられていない。このままでは直撃は確実だ。
「紗薬、『鎌』だ!少しでいいから注意を逸らせ!」
「え、…あっ!」
走ったまま紗薬の背中をぽんと叩き指示を出す。心なしか紗薬の声が弾んでいたように聞こえるのは、きっと聞き間違いじゃないだろう。期待に応えちまったみたいで俺は不快だが。
「ギャウラァ!!」
紗薬の放った『鎌』ごと右手の爪から伸びた転止の『鎌』が夜刀を薙ぎ払い掛けて、かろうじてのところで身を捻ってその一撃を夜刀は回避する。紗薬の『鎌』が邪魔で狙いが僅かにズレたか。
(脚力三十倍!)
次の左手の爪が振られる前にその手首を蹴り上げる。転止の左手はあらぬ方向へと空振った。
(……雲がっ)
見上げた夜空の雲が両断され、月が見える。
これがまさしく空を切るってヤツか。わかっちゃいたが笑えない威力だ。
「邪魔すんな、って言っただろが!」
怒鳴りつつ、爪を突き出して転止を牽制する。
「うるせえ!お前が俺を守り切れてねえからこうなったんだろ!害が及んだ以上もう黙って見てるわけにはいかねえんだよ!」
同じく怒鳴り声で返しながら爪に注意しつつ接近して攻撃を防ぐ。
「ガアァァアァアアアアアアアッ!!!」
「うぉ!」
「またかっ」
転止を中心に突風が吹き荒れ、俺と夜刀の足元を掬う。
『旋風』による転倒。的確に対象の脚を狙って転ばせに掛かってくる。
同じ鎌鼬である夜刀は風で身体を支え、俺も“倍加”で強化させた足腰でどうにか耐える。が、突風は斬撃に変化し俺と夜刀は迎撃しつつも後方に押し出されてしまった。
「面倒だな。転ばせたり斬り付けたり」
「それが鎌鼬だからな」
地面を擦りながら構える。隣には両方の爪を限界まで伸ばした夜刀が並び、少し離れた後ろでは紗薬が壺を抱えていつでも出れるように様子を見ている。
「…早くしろ」
「あ?」
横目で隣の鎌鼬を睨みつつ、
「死なない程度に付き合ってやる。お前の言葉が妄言じゃねえってこと、俺に証明してみせろ」
反転した人外を元に戻す。
そんなことが本当に出来るのかどうかわからない。正直ほとんど、どうでもいい。
とりあえずコイツらにはとっととここからいなくなってほしい。手っ取り早く済ませるのなら殺してしまうのが一番なんだろうが、この二人にその意思は無い。俺個人でコイツらをまとめて捻じ伏せるのも面倒臭い。
なら嫌々でも付き合ってやるのが、リスクも手間も少なめで済む。
そう判断した故の行動だ。
「ハッ、テメエが勝手にやることだ。礼なんざ言わねえぞ」
「当たり前だ。人外からの礼なんて、最初っから期待してねえんだから」
最悪だ。人外と組むだなんて、もうやりたくなかったのに。
ひとまず、愚痴るのは終わってからでも遅くはない。今やることは陰気に愚痴を溢すことではないからな。
「行くぞ夜刀。『薬』を使う暇を与えるな」
「ああわかってる。必ず止めてやる」
▲
▼
俺は左、夜刀は右からそれぞれ攻める。
ヤツには夜刀以上紗薬未満の『薬』がある。少しでも攻撃の手を緩めて余裕を与えてしまえばすぐさま手当てを行うだろう。
そうはさせない。
「はああああ!」
(全身体能力四十倍!)
爪と素手。それぞれの攻撃手段で転止を押さえる。
一対一なら勝ち目は薄くとも、これならある程度は注意を分割し攻撃を散らせる。
「ギガッ…アァァアアア!!」
予想通り、二人を相手に爪と斬撃を振るう転止の動きはぎこちない。風を纏う高速移動もうまいこと機能していないように見える。
だが、それでもこちらが無傷で圧倒できるわけではなく、
「ぐっ」
「…!」
『鎌』が掠り、あるいは斬撃を受けて少しずつ傷が増えていく。まだ致命傷に至る怪我はないが、それも疲労の蓄積による時間の問題だろう。
「オラァ!」
斬撃数発を受けて一撃加える。身に纏う風が障壁となっているのか、いまいち直撃とはいかないが、それでも数メートル吹っ飛ばすくらいには衝撃を与えられた。
同時に叫ぶ。
「紗薬!」
「はいっ!」
背後から突風が包み込む。風と同化するが如き速度で動く紗薬が、俺と夜刀の外傷に薬を塗って後退する。
疲労までは癒せないが、傷自体は治せる。
「やっぱ、ちょっとやそっとじゃ動きは止まらねえか!」
「どうすんだよ、どうやって戻すつもりだ」
傷が治り再度駆ける。転止も『薬』を出して治す暇もないと判断したのかそのまま爪を振るって迎撃に意識を注いでいた。
不可視の『鎌』を、圧縮された大気が切り裂く塵や埃、爪の軌跡を読むことで回避しながら隣の鎌鼬と話をする。
「とりあえず意識を一度ぶった切ってやりゃどうにか元の転止に戻るんじゃねえかと思ってたんだがな!」
「気絶させるってか。そんなんで止まるのかよ」
「転止は反転してから一睡もしてねえ、はずだっ。気絶させてから紗薬の『薬』でも口に突っ込んでやれば思い出す!オレらと一緒だった元の転止をな!」
「なんでそこで『薬』が出て、くんだよ!」
爪を斬撃を掻い潜り、目の前の獣の動きに注意しながら会話をするのは中々に疲れる。ただでさえ回避の為に無理矢理な動きを続けている上、鎌鼬はどうかわからないが俺は“倍加”を常時展開させているせいで疲れるのも早い。
俺の疑問に、夜刀は互いの爪を競り合わせている眼前の兄の暴れ狂う形相をなんとも言えない表情で見つめながら、
「…転止は、よく紗薬の『薬』を好んで食ってた。栄養があるわけじゃねえんだが、妙な甘みがあってな。転止はそれが好きで壺から度々掬い取って、紗薬に怒られてた」
「ああ…」
そういえば、甘かったな。あの『薬』は、確かにおやつにはちょうどいい。
「ギ、ヤァアアアアアアアアアア!!!」
「転、止っ!」
ビシリと嫌な音がした。
見れば転止と競り合う夜刀の爪が、右手の甲から突き出た三本の『鎌』にヒビが走っていた。
単純な力押しで負けている。反転し暴走した鎌鼬、誰よりも強い資質を持った鎌鼬。
あらゆる要素がこの段階で全て上回っている。『鎌』同士の衝突も、かろうじて相殺できているように見えてはいたが、しかし確実に限界は近づいていたらしい。
最初からわかっていたことではあるが、長くは保たない。
強く足を踏ん張り転止の左手を押さえている夜刀の意思を汲み取り、俺も右手を握り振りかぶる。
「アァッ!」
「ふっ!」
攻撃の気配を察知して転止が右手の爪を構えるが、既に間合いは充分に詰めた。爪を振るうだけの隙間は無い。
(四十五倍!)
密着した状態から渾身の右ストレートを打ち込む。その瞬間に合わせるように夜刀も『鎌』を当てて攻撃を重ねた。
反動に耐えられなかったのか夜刀の右の『鎌』を成すその爪はベギンと音を立てて折れた。だが俺はその事実を耳でのみ捉え、視線と顔は正面だけに向けていた。
飛んだ転止を追う。逃がさない。
ここを逃すのは不味い。
両足が地面に着く前に、転止の姿が風の一吹きと共にふっと消える。
(聴力触覚三十倍!)
鎌鼬には風を使った高速移動術がある。通常の人間では追い切れない速度だが、目だけに頼らなければまだどうとでもなる。
耳で捉え肌で感じる。
右斜め後方。
「そこかっ!」
振り向きざまに右の裏拳を振り回す。
握った拳に幾筋もの裂傷が走った。転止の姿はない。
上。
顔を向けるより先に前に跳び出してその場から離れる。ついさっきまで立っていた場所が切り刻まれ、下の階層まで続く大穴が空いた。
(二人掛かりで押さえないとこうなるかっ)
少しでも余裕を生ませるとすぐさま捉えきれなくなる。早すぎるんだ。
風による移動もやはり転止が一番優れている。
「守羽さん!手当てをっ」
「んなもんあとでいい!下がってろ!」
ズタズタになった右手をそのままに、粉々に切り裂いて粉塵を巻き上げた転止が、それらを風で吹き飛ばしながら俺へと迫る。
一歩を踏み出そうとした片足が、唐突に地面から離れる。見えない氷でも踏んで足を滑らせたかのように。
『旋風』による転倒。突風で足を払われた。
(またかよクソッ!)
予兆は感じ取れてもこればっかりは回避する術がない。
せめて尻餅はつくまいとたたらを踏んでどうにか踏ん張るが、結局は同じことだ。
大きな隙が生まれ、転止はその隙を見逃さない。
「紗薬、合わせろォ!」
「わかった!」
後ろから何事か聞こえたが、そっちに意識を向けている暇はなかった。腕を前で交差させて防御に徹する。『鎌』の直撃でも腕の耐久力を上げればギリギリで受け切れるはずだ。
転止の爪が長大な『鎌』を生み出し俺の腕へ喰らい付く、その直前。
いきなり『鎌』はおかしな方向へ曲がり、俺の真横へその軌道を変えた。
肩付近の皮膚と肉が少し削がれたが、直撃に比べれば大したことは無い。
何が起きた?
疑問を抱いたまま防御の腕を解いてみると、正面にいた転止が前方につんのめった不自然な恰好で爪を空振っていた。
背後で聞こえた声と、起きた現象。理解はすぐに追いついた。
(…二人分の『旋風』…足元を取ったか!)
不得手であるはずの『旋風』。足を掬い転ばせるそれを、夜刀と紗薬が同時に行ったのだろう。流石に完全に転ばせることは出来なかったようだが、それでも目の前の俺から攻撃を逸らせる程度の効果は引き出せた。
状況は逆転した。今度は転止が大きく隙を晒す。
(当たれよ!左腕五十倍!!)
ミシミシと音を立てて筋肉が隆起する左腕を、思い切り前に突き出す。
あらゆる体勢からでも放てる斬撃が襲うが、無視する。
無心に、心荒げず、ただ確実に、必中の一撃を、
鳩尾を貫かんばかりの勢いと威力をもって、叩き込んだ。
▲
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今回の一撃はしっかり入った手応えがあった。
普通の人間にやったら冗談抜きで風穴が開くんじゃないかってくらいの一発。貫通こそしなかったものの、内臓の状態が心配になる程度には拳がめり込み、転止はくの字に折れ曲がって宙に浮いた。
「ゴ……フゥッ……!!」
吐血しながらも、その意識は未だ繋がっているようだ。
気絶させるにはまだ足りない。
限界まで力を引き出した左腕は感覚が鈍い。同じだけの威力を出すべく右手に力を込める。
落下のタイミングに合わせてもう一撃。
そう思っていたのに、殴打の衝撃で中空に浮いた転止は、くの字の前傾姿勢のまま空中で静止していた。
風の力で浮いているのはわかった。まだそれだけの余力が残っていることも。
まだ終わってない。まだ止まらない。
「守羽さんっ」
それがわかっているのかいないのか、背後で紗薬が近づいてくる。
「ァーーーァァァァアアアアアアアアアアアア!!!」
まるで紗薬の声に反応したかのように、突然上体を跳ね上げて転止は全方位に斬撃を飛ばした。
「転止!」
「近寄るな!」
身に迫る斬撃を弾きながら、紗薬を片手で突き飛ばし吹き荒れる暴風圏域から遠ざける。それと入れ違いに傷を手当てした夜刀が風に乗って飛んできた。
「テメエ、人間!勝手に死ぬんじゃねえぞ!?」
「わけわかんねえこと言ってねえであの野郎をどうにかしろ!」
「血だらけじゃねえか!」
言われて、ようやく俺は全身切り傷だらけで服も肌も赤く染まっていることに気付いた。
「全部浅い!んなことよりアイツを止めろ!」
「チッ!」
とはいえ夜刀の右の『鎌』はもう使えないようだ。象徴である爪が破壊されると『鎌』自体も使用不可になるらしい、左手だけで戦っている。
さっきまでお互いの武器を最大限使って押さえられていた状況が、ここで崩れた。
転止の爪は夜刀の片手だけでは抑え切れない。
「紗薬!傷の手当てはいい、力は弱くてもいいから援護に回れ!」
それは夜刀自身もよくわかっていたのか、後方で治療に割り込めるタイミングを計っていた紗薬に指示を飛ばす。
ほんの僅かに逡巡を見せた紗薬だが、すぐさま五本の爪を伸ばして参戦した。
「夜刀、紗薬っ!コイツに呼び掛けろ!お前らの声に反応してる!」
戦っている間ずっと思っていたことだが、転止は夜刀の怒鳴り声や紗薬のか細い声に僅かながら反応している。聞き慣れた仲間の声に意識が傾いているのかもしれない。
少なくとも俺が何か言うよりは効果があるだろう。
「いい加減に戻れ転止!いつまでも迷惑かけてんじゃねえぞクソ兄貴!」
「転止っ、もう人を傷つけないで!鎌鼬の本能なんて、いままでだってどうにかしてこれたでしょ!?今回だって!」
「ウァアアアガアアアアアァァァァァアアァアァアアア!!」
やはり、二人の声に転止は反応している。それは拒絶の意思か、あるいは助けを乞うているのか。
後者であると思いたいが。
ただ、二人の呼び掛けのせいか攻撃の頻度が鎌鼬の方に向き始めたのは良くなかった。
夜刀はまだいいとして、紗薬。
「く、う…っ」
やはり戦闘は不向きなのか、攻撃も防御もぎこちなく、無駄が多い。その無駄をカバーするように夜刀も動くが劣勢は揺るがない。
二人に攻撃が向いているとはいえ、俺の方も攻めあぐねていた。
確かに攻撃の手はこちら側が緩んでいるのは確かなんだが、俺自体の動きが最初に比べて鈍くなっているせいで結局プラスマイナスで打ち消されてしまっている。
そもそも左腕がうまく動かない。人間としての耐久度ギリギリの五十倍を引き出してぶん殴ったから、反動が重く腕を引く。
そして、何度目になるかわからない突風と暴風の中で、それは起こった。
「きゃっ…!」
紗薬の転倒。
間違いなく転止による『旋風』の結果だ。三人もの鎌鼬がそれぞれ移動・攻撃・防御・回避の全てに風を用いているせいで、どの風が何を狙ったものなのか判別しづらい状況にあったのが要因に挙げられるだろう。
足元を掬われて転倒した紗薬に襲い掛かる無数の斬撃を自らを盾として受け切る夜刀。しかし片方のみになった爪では限度があり、いくらか食らって血が噴き出す。
さらに転止は両手で大上段に『鎌』を構える。
傷を負い動きが止まった夜刀へ向けられる全力の『鎌』が二つ。代わりとばかりに風の斬撃は全て俺へと飛んでくる。迎撃に手一杯で割り込む余地がない。
「グ………アッァァアァアアアアアアア!!」
「「転止っ!!」」
苦しそうな叫び声と兄を呼ぶ二人の声が重なる。
上から振り下ろされた『鎌』は廃ビルの1/3をケーキでも切り分けるように分断した。
「ぐっ」
濛々と粉塵が舞う中、相変わらず斬撃は止まず迎撃を続ける。煙の奥から悲痛な声音が響いた。
「夜刀、夜刀っ!」
「……あ、がふっ!!く、そ…っ」
かろうじて煙の奥に横たわる一人とそのとなりに膝をつく一人のシルエットが見えるが、それだけだ。
倒れているのは夜刀だろう。
様子がわからないが、重傷なのは間違いない。
でも生きてたか。両手撃ちの『鎌』なんて俺でも防げないだろうに。
身体能力を全強化、四十八倍。
「おい、仲間内ではしゃいでんじゃねえよ」
一時的にだいぶ軽くなった体で斬撃に対応しながら、ヤツの意識をこちらへ向けさせる。
「人間だけじゃ物足りなくなって、とうとう仲間まで喰うか殺すか?くだらねえことすんな、そいつらが誰の為に命張ってると思ってんだ!」
「夜刀、待ってて…すぐ、すぐ治すから…!」
「ガガ、ギッ…アッアアアォォアアアア……!!」
転止は俺の言葉に反応し、次いで涙声の紗薬の方を向いた。
再度、両の爪を掲げる。
「っ!」
斬撃を回避しつつ飛び出す。
間に合うかーーー?
「もうやめてっ、転止ぉ!」
ビクッと、一瞬だけ紗薬の声で動作不良を起こした機械のように転止の動きが止まった。
「ぜあぁああ!」
その一瞬に五十倍強化の右拳で転止の片手を思い切り砕く。爪ごとやったせいで俺の右手も無事ではないが、それどころじゃない。
殴打と共に体を転止と倒れた夜刀、寄り添う紗薬との間に捻じ込ませ、鉛のように重たい左腕を持ち上げて念じる。
(左腕耐久力四十倍!!)
肉は断たれるが、骨の段階で受け止めきれるのは実証済みだ。
落とされる残った右の『鎌』の一撃を左腕を犠牲にして受ける。
前は空中だったせいで地面に叩きつけられたが、今は地に足着けた状態。脚力も相応に“倍加”させてどうにか踏ん張る。
屋上の床に無数の亀裂が走るが崩落は免れた。
(左腕…骨もやばいな…でもまあ)
捕らえた。
「紗薬!くたばる前に夜刀の傷を治せ!」
背後の夜刀がどんな状態かはわからないが、死にそうならそっちを優先してくれた方がありがたい。
どの道、ここから先は割り込まれても困る。
何か策があるわけではない。特殊な細工をするわけでもない。
刃が中ほどまで食い込んだ左腕の筋力を、今できる最大限まで“倍加”させる。鉄のように硬質化した肉が、刃を逃がさぬようにがっちりと挟み込む。
左腕はこの有様、右手もボロボロ。
残ってるのは、
(脚力三十倍ッ)
『鎌』を左腕で封じたまま立ち上がる勢いそのままに膝蹴りを腹に入れる。
「ゲハッ!」
首の筋力を強化し、後ろから前へ振り子のように突き出す。
呻く転止の顔面に額が直撃し、鼻血を噴きながら仰け反る。当然、左腕がヤツの右の刃に食い込んで離さない以上、俺も連られて前に出る。
さながら不慣れで不恰好なダンスのよう。
自分のことながら情けない戦い方だと思うが、関係ない。
こんなことは何度もあった。
勝たなきゃ死ぬ。負けたら殺される。
そういう状況で、漫画やアニメのようにカッコいい戦闘なんてそうそうできるか。
情けなくても卑怯でも恰好悪くても、勝てれば万々歳だ。勝てばよかろうなのだの方の意見に俺は大賛成派なんだ。
膝蹴り、膝蹴り、頭突き。
立て続けに出せるものは全て出す。
左の爪は砕け、右の爪は俺の左腕と仲良くダンス。
『鎌』さえ封じれれば大した脅威は無い。繋がっている以上、風を纏う高速移動も俺を引き摺る形になるので使用不可。
斬撃はーーー無視。
今も背中を裂き、額を斬って斬撃が飛び交っているが、これは皮膚や肉は裂いても両断までする威力は持たない。頸動脈や眼球、その他斬られて困る部分さえしっかり防御できていればなんのことはない。
なにより俺は必死だった。ここで倒せなければ死ぬのだから、斬撃なんかに意識を割いている暇はない。
相当一方的に攻撃を食らわせて転止の動きがかなり鈍ってきたと踏んだ頃合いで、俺は左腕の“倍加”を解除。ずるりと爪が腕から離れ激痛が倍増する。
解除と同時、跳び上がって転止の顎に十何度目かになる膝蹴り。クリーンヒットして転止の体がまたも宙に浮く。
今度はしっかり最後まで叩く。
もう風を纏う力も残っていないように見えたが、ここで手を抜くわけにもいかず。
中空に身を投げ出している転止の少し上まで跳び上がり、全力全開。
(右脚力、六十倍!!)
念じ、半月を描くように振り落とす右足の踵が、正確に転止の腹部を捉えた。
ブチブチと、脚の筋組織が千切れる嫌な音が伝わる。これは腱までイったかもしれない。
「いっ……けえええぇぇええええええぇぇぁぁぁあああああ!!!」
それでも最後まで、勢いを殺さず力を込めて踵落としを押し通す。
振り抜いた衝撃は転止を貫き、凄まじい速度で垂直落下。屋上の床に衝突するだけに留まらず、階層を次々とぶち貫いて廃ビルの中を地上まで落ちていった。
「ぜぇっ!はあっ、…かっはぁ!はっ…!」
両腕は使い物にならず、六十倍強化の反動により右足も大破。左足一本で着地を行うにはあまりにも体はボロボロで。
どうしようもないまま、荒い息を吐く俺は落下した転止を追うように地上まで直通の大穴へ落ちていった。
▲