「
旨いヒレ肉に舌鼓を打ちながら、僕はオフレポをどう書くか頭の片隅で考えていた。
僕以外の五人は気鋭の新都社小説作家陣だ。この会で何があったのかを虚実織り交ぜ巧みに書くだろう。一方、僕はプログラムの方が書けるという具合な残念な文章力だ。彼らの嘘を暴き真実を書いたところで埋もれるのは明確だった。
思考を一度止め、僕はビールの残りを呷る。冷たい刺激が喉を揺する。ちらりと斜め前の東京ニトロさんのグラスを見やると空であった。確か短文投稿サービス上でワインが飲みたいと言っていた。はずだ。
読み間違えて灰皿を投げつけられるのではないかと怯える僕は恐る恐るワインを頼むことを提案した。
」
とりあえず、僕はそう書き出した。その辺りまでしか具体的な記憶が無いのだ。
時系列に並べたら何があったかは覚えている。しかし、内容となると疑問符が浮かぶ。
僕は記憶を最初から整理することにした。
「
日本有数の繁華街の喧騒から離れ、山手線と首都高に挟まれ別の意味で騒がしそうなところに店はあった。
その店の外に既に四人が集まっていた。
最寄り駅で降りたものの、観光がてら徒歩で新橋まで行ってしまった僕は、戻る途中のコンビニでサンデーとマガジンとチャンピオンとモーニングとヤングジャンプを立ち読みしており、ネットにその情報が書き込まれたことに気づくのは遅れた。
しかし、時間もスマホの電池も十分な余裕があった。それゆえ予定通り、むしろ僕の中では早いぐらいに現地に到着した。
」
少し遡りすぎたかな、と僕は首を傾げて手を止める。
最初書いた文章はやれフライターグだ、やれスウォッチだ、やれビクトリノックスだ、とやたらと固有名詞が多かった。一人の観光記録としては適当だが、それが目的ではないレポートとしては不適切だろう。書いては消しを繰り返してこの文面で落ち着いた。
と、書いた文章を読み直すとコンビニのくだりにこれでもかと言わんばかりに固有名詞が埋め込まれているのに気づく。
だけど、僕は消さずにひとまず続きを書こうとカーソルを移動させる手を止めた。
「
見渡す必要もなく、ほど近くにたむろしている四人組がいた。その一人と目が合った。
知り合いといった具合の振る舞いから、一度会ったことのあるニトロさんだと当たりをつけた。挨拶を交わして、その通りだったと安堵する。
残り三人も簡単にラベリングしていく。中国語が書かれた紙袋を持っているのは、いしまつさんだろう。旧軍風の帽子を携えているのはヤーゲンさん。旅行を思わせる大きなリュックサックを地面に置いているのは柴竹さん。その見立ては当たっていた。
それぞれ比較的特徴的な物を持っている。人を顔で区別するのが苦手な僕は少し安心した。
あとは顎男さんを待つばかりであった。が、彼は中々姿を現さなかった。振り返れば、そこで直ちに迎えに行くのが正解だった。だが、スマホを持っていても迷う人間がいることを僕らは知らなかった。
」
僕は一つ大きくため息を吐く。
集合してから十分ほど立ち話をしたはずなのに、どのような会話をしたのかまるっきり思い出せなかったのだ。
せいぜいヤーゲンさんの服装が軍服を混ぜたカジュアルな装いであることを確認したことと、ニトロさんがネット上に書き込んだ実況を再確認したことぐらいだ。
もう少し何か話したような、と僕は頭を抱える。
しかし、まだたかが会って十分だ。時間をラマに設定して進めていく。
「
牛肉にランクがあるのを知ったのは漫画でだ。その最高ランクの肉が生で置かれている光景を目前に、僕は震える指で短文投稿サービスに文字列を投げ込んだ。それは感動ではなく焦燥が込められていた。
結局、時間になっても顎男さんは来なかった。だが、近くには来ているようだった。行動力のある三人組が彼の居場所に当たりをつけて回収しに行き、僕とヤーゲンさんは店で遅刻を許容してもらう交渉に当てられた。
僕は想定外に弱い。どっしりと構えるヤーゲンさんがいる一方、僕は一人パニクっていた。
ヤーゲンさんはそんな僕に、顎男さんがツイッターで感じられたしっかりとした印象が吹き飛んでしまいましたね、という旨の話を振ってくれた。ただ、それに気の利いた返事はできなかったような覚えがある。
それもそのはずだ。テーブルに四人もの人が来ていないという状況に見舞われたことで、何を喋れば会話が成立するか、という事前準備の九割方が脳から吹き飛んでしまい、それどころではなかったのだ。
ネット上には顎男さんの現状を教えてほしいという僕のつぶやきが舞っていた。
」
僕は頭をかく。待っている時間は二十分はあったはずだ。だが、そんなに喋った記憶がない。
店員に「今ビックカメラに探しに行っているようです」「どうやらあと五分で着くようです」とネットから拾った現状を伝えるという、オウムでもできそうな言葉しか吐き出していなかった。
それに別のことに気づいてしまう。
テンションが高いというのは、ここでの慌てふためきぶりがきっかけで、後に好意的に転じたものに違いなかったからだ。入社のための面接で短所を長所に置き換えるが如くの不思議なエントリーシートを目撃した気分だ。きっと、この表現は他の人も使って、そういうイメージが植えつけられてしまうのだろう。僕はまたため息を吐いた。
とはいえ、ここで書くのをやめても仕方ない。ホームポジションに指を戻した。
「
結局、三十分遅れで顎男さんは連れて来られた。遅刻というトラブルが無ければ、彼が一番特徴が無かったように思える。都内の移動で荷物が少ないという理由もあるだろう。
何はともあれ、全員が揃ったことで無事乾杯と相成った。
時を巻き戻して、連行の数分前から、店員による本日の牛肉の解説が始まっていた。僕ら、いや厳密には僕は、それを聞くのに一生懸命になっていて、さらにどの部位を食べるかという交渉が始まると、肉に対して否応なく気分は高揚していった。
つまり、ろくに会話していない。少なくとも僕は。
和牛を一生懸命味わい、ワインを飲みたいと言っていたニトロさんにお供する形で葡萄酒で喉を潤す。
聞いた話と言えば、自己紹介の流れで彼らの生活背景ぐらいだ。例えば、ニトロさんがかなりの代休を貯めこんでいるだとか、柴竹さんはどのような学問を学んでいるかとか、だ。
」
僕はそこで手を止める。そういう込み入った話を書くことは暗黙的に避けるべきことだからだ。
だが、と僕は右手でおでこを押さえる。
肉が舌の上でとろける感覚。肉の繊維の隙間から放たれる旨味そのものの汁。それに整然とした感覚を整えるように鼻孔を通り抜けた酒の香り。
それは出てきても会話の内容が出てこない。それに書き連ねて思い出すということはもうできない。これの次のシーンは書き出しの段落だからだ。
僕は一体、何を話したんだろうか。
「それは君が覚えているんじゃないのかな」
キーボードはひとりでに動いて、その文字を画面に記した。
打鍵音に驚いて、僕が正面を向いた時、そのメッセージはバックスペースの連打で消えようとしているところだった。
僕が覚えている?と声には出さずに頭の中で呟いた。
「そう。だから」
そこまで入力したところで、キーボードは止まった。
少し待っても続きが表示されることはなかった。
だから、に続く言葉。それは思い出せではないに違いない。そんな概念的なものなら、こんな具体的な方法で示すことはない。
僕もそれに答えなければならない。指を動かし、事実の再確認だけでも行っていく。
「
高級な牛肉は有限であった。だから、じゃんけんで肉の配分を決めた。僕はそれから漏れた。美味しそうに肉を頬張る彼らを見て、この店はまた来ようと誓った。
その後も、続けざまにいくつかの肉が出てきた。そして、これで食事も終わり、次は会話に移ろうか、という頃合いで、ニトロさんが帰ることを伝えてきた。
僕は彼のネット上の発言を思い出す。ネットの住人の僕にできるのはそのくらいだからだ。彼は翌日も午前休を取ったと言っていた記憶があった。結論から言えば、この日は休みを取ることはできなかったようだ。僕らは新幹線に間に合わすべく去っていく彼の背中を見送った。
少ししてから僕らは店を出た。もう少し遅くまでやっている場所で飲み直そうと考えたからだ。とはいえ、店の選択も億劫でほとんど隣の店に僕らは流れ込んだ。
」
指を慰めながら叩いてみたものの、僕の記憶は既におぼろげであった。
アルコールの影響で記憶を失ったわけではない。次の店で、僕らがどう席に収まったのか、どう荷物を置いたのか、そういったことはまだ思い出せるし、誰が何を注文したのかというのも、漠然としていながらも思い出せる。
でも、やはり何を話したのかは出てこない。
そんな手を止めた僕をからかうように、向こう側の僕はアンダースコアとバックスペースを交互に押す。昔ながらのコンピュータみたく、テキスト入力のキャレットを点滅させるべくだ。
僕はムッとしてキーボードを引っ掴み入力を続けた。
「
僕らは入り口にほど近い席に案内された。
アルコールはもういっぱいと言わんばかりにいしまつさんがウーロン茶を注文した以外は、ビールやカクテルと自由にお酒を注文していた。
そこでは、対して特徴のない僕に、苦し紛れの事実の再確認といった具合の、肌につやがあるという返答に困る言葉が投げかけられる。空は青いに対してレイリー散乱と答えれるように、肌が綺麗というのに角質層と淡明層の屈折率で説明することが要求されていたが、会話の能力が低い僕はこれの説明がパッとは出てこなかった。
一方で僕がした話はそう多くはない。ネット上でも言っているけど、という前置きをして、いしまつさんのSFとヤーゲンさんのドン亀を褒め称えたぐらいである。
」
僕はこの続きを書けなかった。文章化できる内容が出てこないからだ。
だけど、ものすごく楽しかったという感覚だけはあった。
口の中にこの日最後に飲んだ冷たいビールの風味が思い出された。そうこう言うのは思い出せるのに、と僕は悪態をついた。
その瞬間、僕は気づいた。
牛肉の感覚。ワインの感覚。ビールの感覚。そして、楽しかったという会話の感覚。
そう僕は何を話したのかは思い出せない。ビールの泡の比率も、ワインの細かな色合いも、牛肉の焼き加減も映像としては出てこない。
「そういうこと」
キーボードがひとりでに動いてその文字を表示した。
それはシニフィエとシニフィアンの関係と同じだ。
事象があって、それを示す記号がある。そこに必然性はないが必然化されている。
感覚があって、それを示す事象がある。そこに必然性はないが必然化されている。
僕が美味しさを感じた。それはよく調理された料理を食べたからだと。
僕が楽しさを感じた。それはよい時間を過ごす会話ができたからだと。
前者の感じを僕は知っていた。また、向こうの僕は知っていた。
そして、後者の事実を僕は知り得なかった。
「ああそうか。僕がクオリアだったのか」
彼がそこまで打ち込んだところで、彼の体を構成している想像力にノイズが混ざった。
あっという間に脳を駆ける無数の電気信号の中に彼は溶けこんでいった。
* * *
僕は彼の感覚子が書き上げた文面と、僕の感覚子が拾った彼の心情をここに記した。
(完)