Neetel Inside ニートノベル
表紙

壁の中の賭博者
04.死者は還らず

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 月野が死んだ。
 月野が死んだ。
 月野が……
 ……僕のせいか?

 僕はすぐに家に帰った。
 布団をかぶって、電気を消した部屋、すっかり染みついた自分の匂いに包まれながら考える。
 僕のせいか?
 あれは僕が悪かったのか?
 灰色の手で壁の中に引きずり込まれていく月野の絶叫が耳から離れない。
 不思議と罪悪感は無かった。
 そんなものはない。
 僕は好きで負けたんじゃない。
 僕は精一杯頑張った。
 頑張ったのだ。
 あのアキトとかいう奴がたまたま運よく勝っただけで、僕は最善を尽くした。
 そもそも事情もよく知らない僕を代打ちにしたのは月野じゃないか。
 彼女にも責任はある。
 僕があのゼロというゲームで読み間違えたように、月野も僕という人間を見誤った。
(あなたは弱い)
「うるさいっ!」
 僕は壁に向かって怒鳴った。
「黙れ、僕は弱くない、弱くなんか……!」
『ええ、あなたは弱くありませんよ』
 今度は幻聴などではなかった。
 僕の部屋の壁に、人間の顔の浮彫が出来ていた。
 招天使ミザリル。天国への片道切符の発行者。
 奴はなぜか、僕の部屋に住み着いていた。
『いまの態度も実にいい。自分の敗北や責任を認めようとしない、それもまた強固な意志というものです』
「黙れ! 僕の部屋から出て行け!」
『そんな』
 ミザリルは悲しそうに顔を歪めた。
『美影もいなくなってしまいましたし、アキトも天国行きの切符を手に入れた。いまのところ私の玩具……おっと失礼、興味対象はもうあなたくらいしかいないのですよ、錬』
「喋るな動くな消えろ僕の目の前から今すぐに」
『ひどい……ではこんなのはどうです? 見て、見て、錬』
 僕は布団から顔を出した。壁の中の天使を見上げる。
 そこには月野の顔があった。
『どうです? これが、あなたの好きな顔なんでしょう? ねぇ』
 僕は、臓腑が転覆するほど絶叫した。
 布団を掴んで狂ったように壁の顔を殴る。しかし何も起こらなかった。ミザリルは月野の顔をしたまま、そこに居続けた。僕は叫び続けた。金切声を上げ続けた。
 家族は誰も僕の部屋へは来なかった。

 最悪だ。
 何もかもが最悪だった。
 壁の中の天使は学校にまでついてきた。
 足元や、廊下の壁や、いたるところにその顔を浮かばせてはニタニタ笑っている。
 ……ノイローゼになりそうだ。
 大丈夫か、なんて声をかけてくる友達がいないことがこれほど有難いと思ったことはない。
 もし誰かに何かを聞かれたら、土石流のようにあの日からあったことを洗いざらいに吐いてしまうだろう。
 それがないだけ、一人の方がマシだった。
 いつだって僕は誰にも相談を聞いてもらえない。ずっと一人で悩むだけだ。
 ミザリルは何が目的なのだろう。
 僕は月野にただ〈代行者〉として一度選ばれたことがあるだけで、どうせこの性格じゃ天国行きの資格なんてあるわけないし、無関係のはずだ。
 僕には天国なんて、なんの関係もないことのはずだ。
 それなのに……

「どうした、樹畑、何か言いたいことでもあるのか?」
 僕はビクッと身体を震わせた。
 一瞬、何が起こっているのか頭が真っ白になっていて分からなくなる。
 顔を上げると、現代国語の弐倉が教科書を楽譜のように指で挟んで、僕の前に立って胡乱な顔をしていた。
「言いたいことがあるならハッキリ言いなさい」
「いえ……」
「なら、ちゃんと授業を聞ききなさい。来年は受験だぞ。……はい、では154ページの七行目から、小泉」
「はい。……そこにあるのは無だった。僕はどこまでも続く空隙の中にいた。そして……」
 僕の後ろのクラスメイトが教科書の朗読を始める。どうやら僕は当てられたらしい。いらない恥をかいてしまった。
『おやおや』と僕の足元をスライムのようにミザリルが流れていた。
『授業はちゃんと聞かないといけませんねぇ』
 僕はカッとした。
 全身が沸騰したような気分になる。
 血が騒ぎ、視界が真っ黒になって、理性が飛んだ。
「お前のせいだろ!!」
 叫んだ。
 しぃ……ん、と静まり返る教室。
 現国の弐倉が顔をドス黒く染めていた。
「……何がお前のせい、なんだ? 樹畑」
「あ……」
「出て行け」
「え?」
「授業の邪魔だ。廊下に出て反省していろ」
「……くふっ?」
 僕の斜め前の席に座る藤谷がさも嬉しそうな顔をして、僕を笑っている。
 嫌な奴だ。
 いつも僕に何かあると絡んでくるのだ。
 僕は藤谷を殺してやりたかった。ずっとずっと殺してやりたかった。
 だが、握り締めた拳を開いて怒りを潰し、震える足で教室を出た。
 僕が戸を閉めると、教室の中からドッと笑い声がした。
 顔を手で拭うと、皮膚が熱を持っていた。
『おやおや、可哀想に』
「……このっ!!」
 僕は壁の顔を蹴りつけようとしたが、あっけなくかわされてしまった。
 コンクリの無骨な硬さが僕の足を痛めただけで終わった。
 痺れる。
「痛い……」
『あなたが蹴ったんでしょう?』
「お前のせいだっ! お前の……」
 僕は憤懣として歩き出した。ミザリルがついてくる気配。
『怒らないでください、錬。私も学校なんて久々で、浮かれているのです』
「月野と一緒に来ていただろ』
『いいえぇ。美影は私が学校に来るのを嫌がりましたので』
「僕だって嫌だ! だいたい、なんなんだ? なんでまだ僕に付きまとう? もう月野はいない! ……死んだだろ! 僕にはもう……なんの関係もない!』
 脳裏には、月野に吐きかけられた唾の不快感が充満していた。
 頑張った僕に月野が取った態度。

 僕は頑張ったのに。
 僕は頑張ったのに……

 ぬるり、とミザリルの顔が連絡掲示用のコルクボードの上を滑っていった。
 光学迷彩のように、その向こうの張り紙の文字が歪んで透けて見える。
『錬、私は言ったはずです。あなたは私が思ったよりも、弱くはない、と』
「だから?」
『見てみたくなったのです。あなたが我々天使の掌の上で、どんな生き方をするのか、を』
「どうも生きない」
『天国へ行きたくはありませんか?』
 僕は足を止めた。
 壁の顔を睨みつける。
「誘う気もないくせに」
『どうしてそう思うのです? あなたにも、天国へ行ける可能性はあります』
「そんなわけない。僕が天国へ行けるもんか」
『へぇぇ?』
 僕はミザリルを振り切ろうとして、とにかく階段を上り下りし、いくつも廊下を歩き抜いたが、壁の中の顔はどこまでもついてきた。
『面白いですね。あなたのような人間が、天国行きを拒むとは』
「僕のような人間? ……バカにするのはやめろ!」
『これは失礼』クスクス笑い、
『ですが、私はてっきり、天国の存在を知れば、あなたは私に願うと思っていました。……天国行きの資格をくれ、と』
「騙されるもんかよ。僕のような人間が天国へ行けたぐらいで救われるはずがない」
『……へえぇ』
 ミザリルは興味深そうにしている。
『面白いことを言いますね。我々天使が作り上げた楽園を、あなたは否定するのですか? 言っておきますが、あなたごとき、簡単に幸福にしてみせますよ』
「どうだか」
『じゃあ、あなたはどうなりたいのです?』
「あ?」
『天国へ行く気もない。かといってこのまま生きていたいわけでもないのでしょう?』
 僕は否定しなかった。
『どうしたいのです? あなたはどうなりたいと願う人間なのですか、錬』
「僕は死にたい」
 すらりとその言葉は出てきた。
「消えてなくなりたい」
『……なるほど。天国では、確かにあなたのその望みは叶いませんねぇ。もちろん、地獄でも』
「役立たず」
 僕は少し勝利の気分を味わった。
 天使にも出来ないことがあり、そして僕はそれを要求したのだ。
 ざまあみろ。
「どうしようもないな」
『あなたもね』
「……このっ!!」
 壁を蹴る。また空振り。
 天使の顔は流れ動く。
『コラコラ、美影の顔ですよ?』
「……うるさい、お前は月野じゃない」
 はああ、と僕は熱い息を吐いた。
 下駄箱へ向かう。
『どうしたのです? まだ次の授業があるでしょう』
「帰る」
『そんな。素行不良はよくありませんよ、錬』
「うるさい」
 どうせいつも置き勉していて、カバンなんて空っぽなのだ。
 このまま手ぶらで帰ってもなんの問題もない。
 僕の机にイタズラするなんてヒマな奴、いないだろうし。
 僕は校舎を出て、誰もいない校庭を横切った。
 振り返り、誰の影も映っていないいくつもの窓を見上げる。
 ……不愉快な場所、学校。
 楽しいことなんて一個もない。
 僕には楽しいことなんて一つもない。
 やりたいこともないし、出来ることもない。
 容姿も地味だし、才能もない。
 なんにもないのだ。
 僕はあいつらとは違う。
 帰り際、目についた垂れ幕。
 陸上部全国大会出場の文字。
 みんなそれで浮かれている。
 月野も死ぬ前までは浮かれていた。
 理解できない。
 所詮、他人事じゃないか。
 何もかも。

「ただいま」
 玄関を開けると、しぃ……んとした沈黙が僕を出迎えた。
 母さんはパート、父さんは仕事だ。
 僕に兄弟はいない。
 可愛い妹でもいれば、僕の人生も少しは変わったのかな。
 そんなどうしようもないことにもイラつきながら、靴を脱ぐ。
 妙な匂いを嗅いだのはその時だ
 。遠くに住んでいる親戚がいきなり訪ねてきた時の、あの異臭。
 普段の生活圏内には存在しないものが入り込んでいる気配。
 泥棒か、と僕は身構えた。
 眩暈がする。
 いっそほっかむりをした泥棒がダイニングにいてくれればいいと思う。
 突き飛ばして死なせたら正当防衛になるかな。
 だが、ダイニングにいたのは、見慣れた僕の両親だった。
「……あれ、帰ってたの? 仕事は?」
 電気を落とされたダイニングで、二人は魂を抜かれたようにじっとして、僕の言葉に返事をくれなかった。
 チッと舌打ちする。
 ……しろよ、反応くらい。
 足元を蠢く――他人には見えないらしい――ミザリルをかわしながら、僕は冷蔵庫を開けて麦茶を取り出し、自分のコップに注いだ。
「具合悪くなったから早退しちゃった。いいよね?」
 二人は答えない。
 なんなんだよ、と思いながら麦茶をあおると、父さんが言った。
「……錬。話がある」
「何?」
「父さんの会社が、潰れた」
 僕のコップを持つ手に力がこもった。
「……え?」
「潰れたんだ」
 よく見れば、父さんの髪には今朝まではなかった白髪が生えていた。
「若い者に任せたのが失敗だった。育てようなんてしなければよかった。おかげでこの有様だ……無理だったんだ、やっぱり。新入社員なんて十年経っても戦力になんかなりゃしない。やっぱりずっと父さんが頑張るべきだったんだ」
「何、を、言ってるの? 父さん」
「潰れたんだ。父さんの会社が」父さんは繰り返した。
「なんてことだ。ひどい。あんまりだ。もうおしまいだ。錬、すまない。もう我が家は終わりだ」
「何言ってるの?」
 僕は父さんが何を言っているのか、理解していたけれど、聞き返した。
 否定の言葉を求めて。
「会社が潰れた……って、え、なんで? どうして? は? いきなりそんな……母さんも何か言ってよ。何があったの?」
 母さんは俯いたまま、僕の言葉に答えようとしない。
「何? いきなり……なんなの?」
「錬、落ち着け」
 どこかで誰かのクスクス笑いがした。
 僕はカッとした。
「落ち着いてるよッ!!」
 麦茶のコップを床に叩きつけて割った僕は、どう見ても落ち着いてはいなかった。
「な、なに? え、何? 父さん、何が言いたいの? いったい――」
「我が家は終わりだ」
「……終わり?」
「そうだ」父さんは頷いた。
「もう終わりだ。解散。終了だ」
「は……?」
「錬、お前も高校生おしまいだ。やめて、働いてもらう」
「はあ……? え、どこで?」
「探すんだ」
「無理だよ」僕は考えずにいった。
「バイトもしたことないのに、働くなんて無理」
「お金がないんだ」
「そんなの、知らないよ! 貯金は?」
「ない」
「はあ?」
「そんなもの、必要になるなんて思わなかった……父さんは働いていたのだから」
「ほ、保険とか……いろいろ、だって、あるでしょ? え? ……え?」
 父さんはうっすらと笑っていた。
 絶望の微笑みだった。
 なんだよ。
 なんだよそれ。
 僕を巻き込むなよ。
 いきなり、だって、そんな。
 今日は別に、なんの変哲も無い一日だったはずなのに。
 なんで……
「嫌だ」
 僕は後ずさりした。
「働かない。僕は働けない」
「錬」
「嫌だッ!! な、なんで僕がそんなことしなきゃならない!」
 高校を出てからならともかく、まだ二年生で、十七歳にもなってないのに……みんな遊んでるのに、なんで僕だけ?
 嫌だ、嫌だ、嫌だ。
 ありえない、そんなの認めない。
 僕の脳裏にこれから起きる底辺暮らしが走馬灯のように駆け巡った。
 もう買えない漫画、ゲーム、ラノベ。
 もう手に入らない自由、権利、可能性。
 みんなが当たり前に持っているものを、僕が奪われる?
 僕にはなんにもないのに?
 この上、僕から奪うのか? 当たり前の暮らしまで。
 僕はフラフラした。
 とても受け入れられそうに無い。
「錬、働くんだ、錬」
「触るなっ!」
 僕は肩に触れた父さんの手を払いのけた。
「死ね! みんな死んでしまえ!」
「錬!」
「死ねぇっ!」
 僕は飛び出した。がむしゃらに街中を走り抜けた。
 世界が何回転もしている気がする。
 気がついた時には太陽まで回っていて、夕方になっていた。
「はあ……はあ……」
『凄い、ずいぶん走りましたね、錬! 実にタフです』
「……まだいたのか」
 僕は天使を蹴りつける元気も無かった。
「話しかけるな。今、気が立ってる……」
『でしょうね』
「……」
 僕はずるずるとその場に座りこんだ。
 吐く息が小刻みに震えた。
「なんで? なんでいきなり、僕がこんな目に遭わなきゃならない?」
『さあ、なぜでしょう。神の御心は風のまにまに……』
「冗談ばかり言ってるんじゃない。……ミザリル、お前か?」
『え?』
「お前がやったのか。僕を苦しめるために。そうなんだな?」
『なんて人聞きの悪いことを』天使は少し怒ったようだった。
『私があなたの父親の会社を潰したと? そんな魔法みたいなことが出来てたまりますか。私はあなたのお父上がどこにお勤めだったのかも知らないんですよ?』
「……天使なら、いくらでもやりようがあるだろ」
『そこまであなたに興味ないですもの』
「ははっ……」
『何がおかしいんです?』
「いや……お前から、やっと、納得のいく答えが返ってきたから」
 そうだよな。
 天使が僕なんかに気を回すわけがないよな。
 僕はなんの価値もない人間なんだ。
 何も出来ない、何も成し遂げられない。
 好きな女の子も守れなかった。
 現実は空想のようにはいかない。
 妄想としか思えないほど、唐突で理不尽なくせに。
「死にたい」
 僕は自分の膝の間に顔を突っ込んでいった。
「死にたい」
『地獄行きですねぇ、このままだと』
「天国行きを目指せって? 嫌なこった。僕は、生きている今をなんとかしたいんだ。死んだ後のことなんて知るか」
『不思議な性格をしてますねぇ』
「うるさい。死ね、屑天使」
『あなたは、何もかもに死んで欲しいのですね』
「そうだよ」
 否定はしない。真実かもしれない。
 月野もいなくなってしまった。
 僕の憧れだった月野。
 最後に僕を幻滅させて死んでいった月野。
 せめて綺麗に死んで欲しかった。
 あんな月野の顔は、見たくなかった。
「嫌なことばっかりだ、人生……」
 僕は呟く。
「悪いことばっかり、起きるんだ……」
『そうとも限りませんよ』
「嘘つくな」
『嘘ではありません。だって、あなたにはついてるじゃありませんか……』
「……何が?」
『天使が、ですよ』
 月野の顔が、壁の中で微笑んでいた。


 少し話は変わる。
 知野霧羽。
 彼女のことを僕の学校で知らないヤツはいないだろう。
 詳しい成績は知らないけれど、うちの名門陸上部きってのエースで、いわく、『二十年に一人の逸材』と言われていた女子だ。
 長距離専門だか、短距離専門だか、それとも走り幅跳びなんだか、陸上に興味がない僕は知野のことなど全然知らない。
 だからそんな風に持て囃される知野のことが好きではなかった。
 男子だったら嫌いにすらなっていただろう。
 それでも、知野は顔が整っている方だったし、見ている分には不愉快ではなかったので、僕は放課後たまに彼女の走る姿を校庭の端っこから眺めていた。
 それで一度、僕が知野に恋慕しているなどというデマを女子が流して、騒動になったことがある。
 女子からすれば僕のような冴えない男子が誰かを好きになるなどおこがましく、汚らわしいことなのだという。死にさらせ。
 それで、知野と僕は喋ったことなどないけれど、なんとなく出会う前から疎遠になってしまっていた。
 べつに本当に好きなんかじゃなかったから、僕は知野のことなどどうでもよかった。
 せいぜい陸上部を全国大会へ導くなり、オリンピックへ出てあの金色のガラクタでも欲しがっていればいい。
 そう思っていた。

 知野が怪我をして、大会に出れなくなったのは二週間ほど前、らしい。
 僕も教室の中で誰かが喋っているのを聞いただけだから、それほど詳しくは分からなかったが、夜遊びしている時に他校の不良に絡まれ、足を刺されたのだという。
 大会前に練習している仲間をほったらかしにして息抜きしていた知野霧羽に、世間は冷たかった。
 僕でさえ、知野の悪口を何度も耳にしていた。
 みんな本当は嫌いなのだ、才能がある人間が。
 だから、そういうヤツがヘマをしたらすぐに掌をひっくり返す。
 情状酌量の余地は殺人犯よりありはしない。
 知野霧羽はあっさりと不登校になった。
 それきり、学校へは顔を出していない。
 どうせ顔もいいし高校なんて出なくてもちょっと媚びれば男なんているだろ、なんて僕は思っていたのだけれど、まさか。
 ……知野霧羽が天国行きの『候補者』だったとは。

 僕は白い家を見上げる。
 感じのいい、なんの変哲もないけれど会社勤めの親を持っていなければ絶対に住めないような二階建てのその家が、知野の自宅だった。
 半地下になっているガレージはシャッターを下ろされている。
 なんとなく赤い車が入っているような気がした。
『錬、あなたはまだ天国行きの候補者ではありません。ですが、代行者には誰にでもなれます』
「さっきも聞いたよ」
『そして代行者には、勝利の際に天国行きの資格ではなく、人間世界の貨幣が支払われます。美影を勝たせていたら、あなたにも支払われていたでしょう』
「あっそ」
『知野霧羽は候補者です。ですが、ほかの候補者と激突することを恐れ、引き篭もっています』
「神様って、才能あるヤツ好きだよね。だったら全員に才能をつけてやればよかったのに」
『錬、神の悪口は許しませんよ』
「バカにバカって言って何が悪い? 僕のことも救ってくれないくせに……」
 僕は知野の家のインタフォンを鳴らした。
 返事はない。誰も出てこない。
『鍵を開けてあげましょう』
 天使が言うと、ガチャリと門が開いた。
「……最悪な天使だな」
『なぜです? 我々は、霧羽を助けに来たのですよ。ほら、時計を御覧なさい、錬。私が聞いた限りでは、あと十分でもう一人の候補者がやってきます』
 天使に促され、僕は知野霧羽の家に上がりこんだ。
 知らない人間の匂いがする。
 僕は律儀にスリッパに履き替え、二階へ上がった。
 掃除の行き届いた階段、壁際に置かれた鉢植え。
 僕の家とは違って、家庭的な感じ。
 きりは、と書かれたネームプレートが下がった部屋の前に、僕は立った。
「なあ、これを開けたら、知野が着替えてたりするんだろ?」
『ああ、それはありません』
 登山したら必ず遭難するんだろう、と言われたガイドのようにしっかりと天使は答えた。
『霧羽はもう二週間、着替えてもいなければ入浴もしていませんから』
「……面白くない人生」
 僕はぼやき、扉を勝手に開けた。
 ノックしたら逃げられるかもしれないし、ラッキーハプニングも起こらないことは天使の保証済み。
「…………」
「…………」
 そして、僕たちは向かい合った。
 ベッドにパジャマ姿で座り込んでいる知野は、幽鬼のようにやつれていた。
 汗で汚れた顔が青ざめて目元をクマが覆い隠している。
 なんの色気も魅力もない、それは朝起きたばかりの僕のような顔で、なぜか親近感が湧いてきた。
「やあ、知野。久しぶり」
「……誰?」
 これでも色恋沙汰になったことがあるんだけどな。まァいい。
「樹畑だよ。同じクラスの」
「……樹畑? ああ……」
 どうでもよさそうに知野は言った。
「何しに来たの? 最低だね、勝手に他人の家に上がりこむなんて」
「君を助けに来たんだ」
「死ねば?」
 知野は笑った。僕はカッとなった。
「死ね、はないだろう。僕は本当に君を助けに来たんだよ。……天国行きの候補者になったんだろ?」
「……ああ、あんたがあたしの相手?」
 知野は勘違いをした。クスクス笑う。
「いいよ、やろうよ。あんたが相手なら絶対勝てる。だって、どうせ雑魚に決まってるもんね、あんたなんか」
「殺すぞ」
「殺せば? いいよべつに。もう走れないし……こんな足じゃ」
 知野は抱えた足を擦った。
「もう生きてたって仕方ない……」
「けど、地獄にも落ちたくない。だから、ここに引き篭もって他の候補者に見つからないように隠れてるんだろ?」
「…………」
「もう来るってさ、候補者」
「え……?」
「そうだろ、ミザリル」
『はい、錬』
「ひっ……!」
 僕の背後からぬるりと飛び出し、天井近くまで壁を這い上がった天使の顔を見て、知野がガタッと飛びのいた。逆さまのヤモリになったかのように、壁際に張り付き、震える舌で喋った。
「て、天使……天使ぃっ!」
『やあ、霧羽。ご無沙汰しています。お元気そうで何より』
「来ないでっ!」
『ひどいなあ』
「そ、その顔は何っ!? な、なんで月野さんの顔に……」
『いろいろとドラマティックな経緯がありまして。ねぇ錬』
「もう時間がない」
 僕はイラついていた。
「知野。詳しい話は、しない。ただ、これから別の候補者がここへ来て君に対決を挑むことになってる」
 ヘタに隠れたりするから告げ口した天使が出たみたいなんですよ、と言うミザリルを目で制し、僕は続けた。
「君は〈ゲーム〉を避けられない。必ず、やる羽目になる」
「い、嫌だ……」
「だろうね。だから、僕が代わりにやってやる」
「……は?」
「怖いんだろ? だったら僕が代行者になってやるよ」
「……どういうこと?」
「代行者は勝てば天国行きのチケットの代わりに金がもらえる。僕には金がないんだ」
 僕は吐き捨てた。
「金、金、金! ……金がいるんだ、分かるかな? こんな立派な家に住んでて、たかが部活なんかが出来なくなったくらいでメソメソしてる君には分からないかな?」
「な、何を……!」
「聞け!」僕は怒鳴った。
「いいから、聞け。僕には金がいる。それも天使の保証がある金がいい。出所不明の金なんか欲しくない。即金でいるんだ。生活を守るために……僕の暮らしを守るために。そのために、君を利用したい」
「……」
「そして、君に僕を利用して欲しい。負ければ地獄の天使戦、はっきり言って怖くて出来ない、そうだろう? だからここに引き篭もってる。僕だって、負けたら地獄行きが確定するなら君と同じように逃げるだろう……でも、代行者なら問題ない」
 僕は月野のことは伏せていた。
 負けた経験があると知れれば、知野は僕を代行者にはしないだろう。
 それでは困る。
 僕は代行者にならなければならないのだ。
 金のために。
 無様に生き続けるために。
「知野、選べ。僕を代行者にすると言え」
「……いきなりそんなこと言われて、はいそうですか、って言うと思う?」
「バカなのか?」
「なんですって?」
「逆らう道があると思ってるのか。いつまでここにいるつもりだ? どうせここにはいつか誰かが来るんだぞ? 僕に任せろ。僕が相手の候補者を倒せば、それで君は天国行きが確定する。だが、僕に刃向かえば、君は候補者としてゲームに参加しなければならない」
 よく考えろ、と僕は動揺している知野に言った。
「出来るのか、君に? 出来ないだろ。もう君には『僕に任せる』、それ以外の選択肢はないんだ。余計な時間を取らせるな」
「あ、あんた何様……!!」
「いいから。言えって。僕に任せると。僕が……僕が必要だと」
 ドクン、と僕の心臓が少しだけ、跳ねた。
 なんだろう、この気持ちは。
 不快じゃない。
 全然ちっとも、不快じゃない……
 その時、チャイムが鳴った。びくっと知野が面白いくらいに怯えた。
「あっ……あっ……」
「鍵は開けっ放しにしてある。もうすぐ入ってくるぞ。さあ……言えよ、知野。僕が……僕が欲しいって言え! 僕の名前を呼べ!」
 知野はガタガタ震えていた。目をぎゅっと閉じ、耳を塞いでいた。
 それでも、喋ることは出来る。
 そして、
「樹畑……錬……に……任せます……」
「何を?」
「――すべてを」
「……わかった」
 そして僕は再び、代行者になった。
 くるりと背を向ける。
 もう知野に用は無い。
 部屋から出て、階段を下りる。

『やりましたね、錬。これで勝てば、保証しましょう、あなたの暮らしを十年間は続けられる額をお渡しします。どこかに全額投資したりしなければ、経済への影響も無いでしょう』
「黙ってろ」
 僕は玄関の前に立った。
 ドンドン、ドンドン、と扉を誰かが叩いている。
 もう一人の、天国行きの候補者だ。
 僕は扉を開けた。相手は驚くだろう、知野霧羽ではなく、この誰でもない、僕が出て行ったら。
 しかし、ガチャリと扉を開けて、驚いたのは僕だった。
 ノブを握ったまま、相手と見つめあい、凍りついた。
 ひりつく舌が勝手に動いた。
「先……生?」
「樹畑……」
 そこにいたのは、現国の弐倉だった。
 最後に会ってから、数時間しか経っていなかった。
「どうしてお前が……」
 弐倉が目ざとく、僕の足元でジグザグ機動で揺れている天使を見つけた。
「候補者? お前が?」
「違います」
「知野はどこだ? 知野を出せ」
 痩せた弐倉は、なんの感情も見出せない灰色の視線を僕に向けてきた。
 ここで怯んではいけない。
「来ません」
「……なんだと?」
「知野の代わりに、僕が〈ゲーム〉をします」
 弐倉はミザリルを見た。
「なるほど。代行者か。いいだろう、構わない」
 僕の隣をすり抜けて、弐倉は家の奥へと進んでいった。高校教諭程度の男だが、頭はそれなりに切れるらしい。事情なんて、おおよそ分かっているとばかりの態度。
 ……鼻につく!
「ガレージに下りよう。誰にも邪魔が入らないところでやりたい」
「……勝手に決めるな」
 僕に構わず、勝手に階段を下りていく弐倉。
「余裕綽々って感じ、だな、あいつ」
『実際、そうなのでしょう。子供相手ですから』
「くそ、教師なら子供に譲れよ、天国行きなんか」
『無理でしょうねぇ』
「……畜生」
 弐倉を追いかけ、僕はガレージに下りた。そこには車はなかった。
 ガランとしている中で、テーブルが一卓、置いてある。
 僕たちはそこに座った。
 壁の中の天使が、点された裸電球の周りを無意味に旋回していた。
『では、始めましょうか。弐倉、〈ゼロ〉について説明は受けたことがありますか?』
「ああ」
 天国行きが確定しておらず、地獄行きにもなっていないということは、弐倉はまだゼロで遊んだことがないのだろう。
 すでに一戦している僕に少し利がある。
『では、準備しましょう』
 ミザリルが言うと、ジャラジャラ、と虚空に開いた穴から、またあの牌が流れ落ちてきた。
 だが、それはアキトとやった時のそれとは若干異なっていた。
 黒い牌だが、書いてある数字が……
「……青と、赤?」
 それは抜けるような夏空の青と、ティッシュを染める鮮血のような赤に塗り分けられていた。
『基本的なルールは通常のゼロと同じですが、錬と弐倉には、七点先取の長期戦をやって頂きます』と顔が言った。
『アガれば一点。ただ、青と赤牌だけで作ったアガリなら、三点』
「ボーナスか」と弐倉が青数牌の9を弄びながら言った。
『そうです。一種四枚のうち二枚ずつ、赤と青の牌があります。赤の12377、などでアガれば、それは「カラード」、三点です』
「待てよ、普通のゼロ一発勝負でいいじゃないか、なにもこんなルールは必要ない!」
『そうですか?』とミザリルは不思議そうに僕を見た。
『これはゼロ経験者であるあなたに有利だと思って考案したのですが……』
「嘘つけ。絶対に何か裏があるんだろ?」
『ないですよぅ』と月野の顔が困ったように歪んだ。
『ただ、すぐに決まる勝負は若者同士では面白いですが、大人を交えてやる勝負はコクがあった方がいいと思って……』
「僕たちは、お前の玩具じゃないぞ、屑天使!」
「いいことを言うじゃないか、樹畑」
 弐倉が知ったような口をきいてきた。
「さすが、私の教え子だ」
「……もう僕はあなたの教え子じゃない。あなたは僕に負けて地獄に落ちるんだ」
 弐倉が黙った。
 その眼光が、僕を冷たく射抜く。
 僕はそれに耐えた。
 負けてたまるか。
 大人なんかに、
 勝手ばかりする大人なんかには、負けられない……!
「……一ついいか」と弐倉が、天使の方を向いた。
「さっきのカラードだが、アガリ形に字牌が混ざっていたらどうなる? たとえば赤の234闘闘、といったような。字牌には色分けはされていないようだが」
『字牌は迷いましたが、カラードとして認めません。でなければ字牌がマクラのアガリは全てカラードになってしまいますから』
「そうか……まァそれでも、このルールじゃ、二人とも色つき・カラードを狙うだけだな」
『うーん、やっぱりそうですかねぇ。じゃあ、変えましょう』
 あっさりと天使は節を曲げた。
『カラードはロンアガリ、相手が待ち牌を出した場合のみにしましょう。自分で引きアガった場合は、零点』
「ま、待てよ! 弐倉、ミザリル、僕抜きで勝手に話を進めるな!」
『はいはい、錬、大丈夫ですよ。なんですか?』
 呆れたような天使の態度にイラつきつつ、僕は言った。
「引きアガっても零点なんて……認められない! そんなの損じゃないか!」
『アガるのはあなただけではありませんよ、錬』
「…………」
 くそっ。
 確かにそう、なのか? いや、そうなのだ。
 僕はカッとしていた。落ち着かなければ。
 カラードの引きアガリで零点なのは、辛いが、相手からアガれば三点。
 それが嫌なら普通のアガリにすればいいんだ。
 僕の脳内では、すでに一方的な幸運にめぐまれて、カラードを二回、普通のアガリを一回で七点、弐倉に勝つイメージが出来上がっていた。
 カラードが相手からのロンアガリでしか認められないなら、待ちを考えなければならない。
 僕は考えたくなかった。
 テキトーにやってテキトーに勝つ、そんな道が欲しかった。
 だが……それを求めれば、弐倉にもそれを認めることになる。
「……くそっ」
 忘れるな、樹畑錬。
 僕には金がいる。
 金がいるんだぞ……!
 僕は唇を噛んで、頷いた。
「わかった、ルールはそれでいい。始めよう」
「やっとか」
 弐倉は苦笑した。
「相変わらず、物覚えの悪い劣等生だな。樹畑」
 僕は弐倉を殺そうと思った。

       

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