壁の中の賭博者
08.片端者
「アガった!」
第二局、双葉があっさりと引きアガった。ガシャリと崩された手牌を見て、ミカヤが悔しそうに歯噛みしている。スチルはしていないが、その態度から見てゾーンだったのは間違いない。
「早い……!」
「日頃の行いの良さよ!」と薄い胸を張る双葉。くすくすと凍理先輩が楽しげに笑っている。こんな土壇場で天真爛漫にしやがって。
「落ち着け、ミカヤ。放銃しなかっただけマシだよ」
「そうだけど……」ミカヤは凍理先輩をチラっと見、
「これでお互いに一点。……どっちも放銃すればそれで四点。後が無くなったね」
「ああ。そうだね……じゃあ、狙っていこうか」
僕は凍理先輩を睨んだ。
「相手からの直撃放銃を」
「こちらのセリフだね」凍理先輩は小指を唇に当て、妖艶にしなを作った。
「錬、恐ろしいだろう? 勝負というものはあっという間に優位が消し飛びデスマッチの幕が開く……セーフティリードなどありえない」
「先輩のツキはここが打ち止めですよ」僕は手牌を崩した。
「順番からいけば交互にアガっていく形……次にアガるのは僕たちだ」
「流れでいけば、私たちに潮が来ていると思わないか?」
「そう思うならそうなんでしょう。あなたの中ではね」
『よろしいですか?』天使が口を挟んできた。
『それでは第三局を始めましょう。アガった双葉からの手番です。……双葉』
「わかってるわよ」
毒づきながら手牌を取る双葉。僕たち三人もそれに続く。
僕は自分に流れてきた手牌を開けた。
3355悪悪闘
ここに持ってきたのは、二枚目の闘牌。場に闘牌は捨てられていない。
さて……どうするか。
それほど悪い手じゃない。
3と5は軸になる牌だし、字牌は他のプレイヤーから出た時にサッと奪える。
そういう意味で、この手……第一打で全てが決まると思ってもいいかもしれない。
僕は凍理先輩を見た。
完璧なまでの冷ややかな微笑を浮かべたまま、凍理先輩は手牌に視線を落としている。
直撃、直撃だ。
双葉か凍理先輩からアガリ牌をもぎ取れれば、それで決着。
ならば……ここはあえてアガり目は薄くなるが、待ちになれば意外性のある字牌を暖めて3か5切りか?
後半になれば数牌は打ち難くなる。捨てるなら第一打からか……僕は長考した。
凍理先輩の視線を感じる。
僕は決断した。
「……闘!」
第一打、字牌。僕は字牌を崩していくことにした。
数牌優先。
ミカヤがじっと僕を見ている。僕は視線を返さなかった。
間違ってはいないはずだ。判断としては悪くない。数牌は後々切り難くなるが、柔軟性がある。それに比べて字牌は抱えられてしまえばおしまいだ。変化なし。
このペアゼロでは最後に八牌を残して流局する取り決めになっている。その八枚の中に含まれていなくとも、牌山の後半に字牌があれば数牌の速度には勝てない。放銃による決着は字牌でなら狙いやすいが、べつに数牌でも不可能ではない。
そんな僕の気持ちが呼んだのか、字牌整理をしていくうちにチャッと数牌が集まってきた。
ツイてるかもしれない。ここで闘牌を切ってさらに同じ牌を引いてくる、なんていうミスでもすればゾーン競争で大きく遅れを取る。数牌が引けただけ、やはり僕の字牌整理戦法は間違ってはいなかった……凍理先輩から三順目に悪が一枚出てきていたが、それだって僕が切らなきゃ出てきたかは分からない。
選ばなかった未来のことは、誰にも分からない。
七順目。
僕はゾーンに入った。
3334555 7
「…………」
誰でもいい、一つ聞きたい。
笑わずにいられるか、この手?
最高、すぎる。
僕は震えそうになる口元を意思の力で抑え込み、7切り。
待ちは複雑だが、並べ替えてみると分かる。
2―3―4―5―6の五面張だ。アキトとゼロをやった後、少し自分でもゼロをテストプレイして待ちなどを考えてみたことがある。その時にこのゼロで最もいい待ちがこの形であることが判明した。これ以上はない。
待ちの計算はヘッド(二枚の同じ牌の重なりの組)を分けて考えればいい。
33がヘッドなら余り牌は34555。5を一つのセットで考えて抜き取ると残りは34。
55がヘッドなら余り牌は33345。3を一つのセットで考えて残りは45。
333と555をそのまま両方セットで考えれば、4単騎待ち。
これで待ちは五つ。
ほぼアガリ確定の超好形だ。しくじる道は存在しない。
さあ、どうする、凍理先輩?
僕は敵を見つめた。僕はゾーンだ。それも最高形。ほぼこの順でアガることは決まっている。
壊滅は避けられない。
「……」
双葉が僕の捨て牌を窺っている。もうゾーンに入っているか、どうか、考えているのだろう。せいぜい考えればいい。数牌を打てばまず当たる。捨て牌を見れば、双葉の字牌整理はすでに終わっている。ひょっとしたらゾーンか、それに近い形なのかもしれない。いいぞ、振ってくれ。それで終わりだ。大好きなお姉さまの首をあんた自身の手で絞めてやれよ、可愛い先輩。
僕は迷わない。
何があっても手を倒す。
そう決めた。
そして、双葉が「うう……」と半分涙目になりながら、その牌を切った。
4。
4!
「ロン!」
僕は席を蹴って立ち上がった。手牌をガシャンと倒す。双葉が「ひっ」と短く悲鳴を上げた。僕は笑った。笑いが止まらない。
なのに目に涙が滲む。
なぜだろう。
息を呑んだミカヤの気配、そして『おお!』と感嘆の声をあげる天使。そして、凍理先輩が言った。
「こういう場合はどうなる?」
『え?』
「私もアガリなんだ」
そう言って、凍理先輩が手を倒した。
1113599
穴4待ち。
僕が縫いとめられたように倒された彼女の手牌を見ていた。言った。
「無効だ」
引くわけにはいかなかった。
「発声優先。僕のアガリの方が早かった。後からのアガリ宣告はイカサマの可能性がある」
『それはありえません。私の目を誤魔化すことは出来ない。そして発声優先などというルールはありません』
「ならダブルでアガリだ。僕のアガリと凍理先輩のアガリを同時にカウント。僕に三点、先輩に一点。ゲーム終了」
「樹畑くん……」
気遣わしげなミカヤの視線にイラつく。そんな目で僕を見るな。味方なら少しは後押ししろ。分かってるのか、勝負所だぞ!
だが、天使は僕には微笑まなかった。
『いろいろ喋って頑張ってくれた錬には気の毒ですが、これにはすでにルールがこちらで定めてあります。同時にアガリがあった場合は、放銃者から反時計回りの順で近い方のアガリ……切り番の流れと同じですね、このケースでは凍理のアガリです。いわゆる「頭ハネ」というやつで』
「……そうか」
僕は席に座った。凍理先輩が微笑む。
「ありがとう、双葉。振込みご苦労」
「い、いえ! 当然ですから!」顔を桃色に上気させて胸に手を当てる双葉。腹立つ。
「私はお姉さまの手足、奉仕することは当然の義務です!」
「そうか、ありがとう」
再度、礼を述べてから、凍理先輩は僕を見た。
「意外と悔しがらないのだな」
僕は力なく笑ってみせた。
「慣れていますから」
手牌を崩す。僕に舞い降りた最高の手を。
知ってた。
いつだって神様は僕に甘い蜜を差し出して見せ、それを自分で舐めてみせるのだ。さも得意そうに、自分の手柄のように。油断させ、感謝させ、最後に裏切る。それが天上の存在の常套手段。いいさ、慣れてる。
いるもんか、こんな人生。
自分の手牌を取りながら、けれど僕の脳裏によぎったのは数字なんかじゃなかった。並んだ牌の腹に転写されていたのは、過去の僕。記憶の中の世界だった。そこは今よりずっと鮮やかで、輝いている。子供だった愚かな僕が、そこでは不思議そうな顔をして群集に紛れている。見つめる先には表彰台。名前も思い出せない校長先生が、賞状を掲げ持って、誰かを呼ぶ。
子供の頃、僕は一等賞になりたかった。
笑ってくれてもいい。
僕は一番になりたかった。
ある日突然呼び出されて、「君が一番だ!」と胴上げされたかった。
みんなに祝福されて、嘘偽りのない笑顔と感謝に包まれて、喝采を上げたかった。
僕は自尊心があまりに強すぎた。同時に、どうしようもない自分への劣等感も。
どれだけ待ったって僕の名前が呼ばれるはずはない。
僕は何もしなかったのだから。
絵が描けるわけでもない、文章が作れるわけでもない。歌が上手いわけでもない、野球が出来るわけでもない。何も出来ない。出来ることと言えば底の浅いテレビゲームをピコピコピコピコ何十時間もかけて完璧なデータを、自分だけの『最強の武器』を作って自己満足に浸る。それぐらいだ。そうやって子供時代を過ごした。誰にも見てもらえずに僕の幼少期は終わった。
別に、何かすればよかった、なんて後悔しているわけじゃない。どうせ何をやっても駄目なのだ、僕みたいな人間は。希望や情熱を持ったら取り返しのつかない傷を心に受けたかもしれない。挫折や絶望は人間を成長させたりはしない。とんだお門違いだ。あれはそんなものじゃなく、ただただ嫌な味がするだけだ。なんの意味もないものだ。だが、今こうして死に掛けてみると、ひたすら逃げ続けても挫折も絶望も味わう羽目になる。僕は凍理先輩を見た。誰からも好かれる彼女。自分を偽り本性を隠せる人狼。僕には出来ない、あんな生き方は。
間違っていたからなんだというのだろう。
彼女はそれで上手くやっている。このゲームが終わればなんの呵責もなく日常へと戻っていくだろう。
僕とミカヤの首代わりの天国行きチケットを二枚持って。
世間は彼女に気づくことなく、僕とミカヤの死を忘れていくだろう。
つまりこの世界は人狼を許容しているのだ。
いてもいいんだ、と本質的に考えている。
だから天使も天国行きの候補者が人格破産者でも構わないのだ。
善と悪を決める戦いだとかなんとか言っているが、僕には分かる、
奴らは面倒なのだ。そんなものを判定することが。
そんなものは誰にも、神の目でも判定できない曖昧なものでしかないと無言で認定している。
適者生存。
善悪は問わない。
なんでもいいから勝て、とこの世界は雑に僕らに囁く。
その真実が僕には深いところで分かっていなかった。
だから、一等賞になれなかったのだろう。
だとしたら、一番になる、というのはなんて遠い出来事なのだろう?
凍理先輩の冷たい微笑を僕は見つめて思う。
あんな風になれる人間しか一番になれないとしたら、なんてこの世界は冷え切っているのだろう?
あれが『勝つ』ということならば、僕には出来ない。
綺麗事を言いたいわけじゃない、ただ、精神がきっと持たない。
そこまでして勝ちたい、どうあっても生きたい、僕にはそう思うことが出来ない。
だから僕は負けるだろう。
点差は一点。どちらも放銃アガリで決着がつく。
けれども凍理先輩と双葉は通常の引きアガリやお互いの差し込みでジワジワと詰め寄っていくことも出来る。僕とミカヤにそれに追いつく時間があるのかどうか、疑問だ。
このゼロ、負ける時はコロリと負ける。僕らの存在と同じくらいの軽さで、勝敗はあっさりとどちらかに転ぶ。
僕は自分の手牌を見下ろした。なんでもない手、あっさりした手だ。サッとアガれるかもしれない。案外にモタつくかもしれない。何を切れば正しいのか、それすらも完全には明確にはならない。その手を見ながら、僕は思った。
人生というギャンブルで、僕はついに正しい選択肢を選ぶことが出来なかった。
いつも、いつも、僕は裏目を引き続けた。出口はどこにも見当たらなかった。
どうすれば、一等賞になれたのだろう。
僕が僕である限り、それは無理だったのかな。
「――2」
ミカヤがパシン、と牌を打った。
それがなんなのかさえロクに見もせず、僕は牌山に手を伸ばして牌を引いた。新しい牌を切り飛ばしてから、いまさらになって自分のミスに気づき、自分自身に苦笑する。
ああ、そうだ。僕はこういう奴だった。
肝心要の土壇場で手がすくみ、ケアレスミスを連発する。
誰にとっても頼りにならない屑。
せっかくめぐってきたヒーローになれるチャンスも雲散霧消に終わらせて、月野美影を死なせた。
そういえば、と思う。
僕は月野を殺したアキトの敵と闘っているんだな。
不思議な気持ちだった。今まで考えもしなかった。ミ
ザリルがずっと月野の顔で僕に付きまとい、その大切な思い出を悪夢で汚してしまったせいかもしれない。恋すらまともに終わらせられないんだ、僕は。
双葉が5を打った。凍理先輩が手牌を一部、倒した。
「それを貰おう」
35の形で晒して双葉の捨て牌・5を強奪する。僕はそれを遠い気持ちで眺めていた。凍理先輩はゾーンに入っただろう。そして僕は彼女の捨て牌から、その待ちを読み切るなんて器用な真似は出来ない。所詮は素人、僕はゲームマスターじゃない。
もし人生が続くなら――凍理先輩が捨てようとしている牌の背を見ながら、僕は思った。
今度はもっと、普通の恋がしたい。
誰かにきちんと、ぶつかってみたい。
もし、僕の人生が続くなら――
――普通に、なりたい。
祈るように手牌を支える僕に、無情な声が降り注ぐ。
「私はゾーンに入ったよ、錬」
「……そうですか」
僕は凍理先輩が切った牌を見ていた。それは2で、ミカヤが最後に切った牌と同じだった。
「君とはもっと、違う出会い方をしていたら、こんな風にはならなかったのかな?」
凍理先輩が寂しそうに言った。
「もし、そうなら……君はやっぱり、可哀想だ。ごめんね、裏切ってしまって」
「いえ、いいんです」
「……やはり慣れている、というわけかい?」
「それは訂正しますよ――やっぱり何度味わっても嫌な気分がしますね、人とすれ違うというのは」
「ただぶつかるだけでいいなら、こんなにも苦しくはないのかな」
「いや、たぶん、苦しむんでしょうね。どう足掻こうとも……生きてる限り」
牌を引こうとしたミカヤを、僕は片手で制した。
自分の手を静かに見下ろす。
そう、僕はミスをした。
アガリ逃しをやったのあ。
さっきミカヤの2でアガっていたのに、気づかずに見逃した。悪戯に相手にチャンスを与え、ゾーンにまで至らせた。僕のゲームはとんでもない茶番だった。アキトに文句など言えない、僕は最低の腕を持つ勝負師だった。
だが、おかげで引きずり出せた。
凍理先輩は246の形から双葉の5を強奪。
余るのは――2。
ミカヤが最後に切り、僕の順を超えているからアンタッチャブルではないけれど、まず放銃にはならない牌。さぞ安心して凍理先輩は切ったろう。僕を哀れみながら。よくわかる。
「アタリだ、先輩」
闘いたくなかった敵を、睨む。
「ロ――」
僕は手牌を倒そうとした。
が、凍理先輩の白い手が僕の手首を掴んだ。いつかの弐倉のように。
凍理先輩は、微笑んでいる。
「――見逃してくれ」
「なっ……!」
ミカヤが声を上げて席を立ちかけた。僕はそれも制した。
先輩に言う。
「先輩、それは無理です」
「なぜだい?」
先輩は不思議そうにしている。ひきつけを起こしたように戦慄している(そう、なぜなら勝負は決まったから。――ほぼ)相棒の双葉を視線でなだめ、言う。
「このゲーム、私が勝って終わっても、君たち二人を地獄行きにはしないと誓おう。なぜなら受け取った天国行きのチケットをその場で君たち二人に与えるからだ。チケット所有者は地獄送りにはならない、つまり、死なない。そうだろ? 招天使ミザリルよ」
『その通り』天使はくすくす笑っている。
『で、どうするんです? 錬。その手を見逃し、凍理たちに手を貸しますか? それとも』
「僕はこの手をアガる」
「なるほど」先輩は頷いた。
「どうあがいてもアキトくんのカタキを討つ、と?」
「そうです」
「それはそんなに重要かい?」
もう僕の手を掴みもせずに、余裕綽々、凍理先輩は座席に腰を下ろした。信じられないものを見るような目で、そして期待と希望を胸に抱えているらしい双葉がそんな凍理先輩を見ている。
「いいかい、錬。アキトは死んだ。もういない。だが私は生きている。私を見逃してくれれば――君は友を得る。ひょっとしたら、伴侶かもしれないな」
「面白いこと言い出すね、いますぐ殺してあげようか?」
切羽詰った微笑を浮かべたミカヤが、今にも凍理先輩をくびり殺しそうだった。指先が憎い相手の絶息を求めて戦慄いている。
僕はミカヤの肩を掴んで、座席に押し戻した。ミカヤが唇を噛む気配がした。
「アキトを殺したくせに……!」
「そうだよ」と凍理先輩は悪びれずに言った。
「それはもう私にはどうにも出来ない。地獄から死者を呼び戻すことは誰にも出来ない。だからこそ、錬、君に問おう。……君にとっての真実はなんだ? 薄っぺらな他人への同情から来る義理人情か? 違うんじゃないのか? 君は今まで、そんな風に他人によくしてもらったことがあるのか? もしないのであれば、……なぜ君だけがそんな責務を履行する必要がある?」
凍理先輩は優しく言った。
「君には誰をも裏切る資格がある、錬」
「……なんで、そんなこと、先輩に分かるんです」
「目を見れば分かるさ」
凍理先輩が顔を伏せた。
「君は、傷ついた獣の目をしているから」
「…………」
「私は君をこれ以上、傷つけたくない。私を殺せば、君は傷つくだろう。君は、優しいから」
「…………」
「ちょっと……冗談でしょ、樹畑くん。ここまで来て……」
「ミカヤ、黙ってて」
「だって!」
「黙ってろ」
ミカヤが沈黙した。その目に涙が浮かんでいるのを見ても、僕の心は少しも動じなかった。
もうだいぶ、僕は泣いていない。
泣き方を忘れてしまった気がする。
ただ、吐き気ばかりが続いて。
そして、僕は言った。
「先輩」
「なんだい?」
「先輩は、助かろうとしてますよね」
「……そうだね」
「それはつまり、僕のことをどれほど講釈していようが、自分のことしか考えていないってことだ。この状況がひっくり返れば、先輩はその掌も返す。そうでしょう」
「そうかも、しれないね。……アキトとは、仲が良かったのかい?」
「全然。大嫌いです、あんな奴。なめた口も利かれたし」
「……なら」
「でも奴は」と僕は言った。
「奴は最後に僕の名前を呼んだ。死ぬ間際で、僕を信じると言った。そうでしょ? ねぇ先輩、僕はね、名前を呼んで欲しかった。誰かに信じて欲しかった。それだけを願って生きてきたようなものなんです。誰かに分かってもらいたかった。アキトが屑でも偽善者でも殺人鬼でも、僕の真実には関係ない……」
先輩、と僕は呼ぶ。
「お別れです」
「……そうか」
「えっ、えっ、嘘でしょ? お姉さま、ちょっと」
脂汗を流して首を振る双葉など無視して、凍理先輩は背筋を伸ばした。
凛とした、その居住まいに。
僕は最後まで美しさを感じていた。
「最後に、聞かせて欲しい、錬」
「……なんです?」
「私は、可哀想かい?」
「とても」
嘘はいつも優しい。
僕は手牌を倒した。
「ロン」
13678戦戦
直撃放銃、三点取得。
――ゲーム・セット。
天使の哄笑が夜の校舎に響き渡った。
『いいね!』天使は気さくに言った。
『実に面白い勝負でした! いやあ、錬、あなたを選んで正解でした。善と悪、美醜と我執の分かれ道――たっぷりと堪能させてもらいましたよ。偽善者ではこうはいかない。あなたのような獣でなければ、こうはならない!』
「それはよかった」僕は顎をしゃくった。
「早く負けを取り立てろ。……僕はもう、誰の顔も見たくない」
『当然ですとも』
じゅぽっ、と音がして。
悲鳴をあげたのは双葉だった。
「いやああああああああああああああっ!! 何っ!? なんなのっ!? い、椅子が……」
天使が用意した椅子は、木材の隙間から芽を吹いて蔦を伸ばし、双葉と凍理先輩をがんじがらめに縛っていた。凍理先輩は静かに目を閉じ緑の蹂躙に身を任せ、双葉はめちゃくちゃに暴れようとしているが、ギシギシと蔦を軋ませるだけに終わった。
「アキト……」
ミカヤが呟くのが聞こえた。
じゅぼっ、とまたあの水音がして、そして僕らはその音の正体を知った。
敗者を縛った椅子が沈んでいく。
僕とミカヤはとっさに立ち上がった。僕らの椅子は無事だったけれど、同じように、床が融解して椅子を飲み込んでいくような気がしたからだ。そう、凍理先輩たちの椅子は沈んでいっていた。まるでそこが底なし沼のように。いや、本当に底なし沼になったのだ、そこは。
僕らは底なし沼の上でゲームをしていたのだ。
「いやだっ! 死にたくない、死にたくないよぅ! 助けてっ、いやだっ、おねえ……さ……ま……」
ずぶずぶと水泡を巻き上げながら、双葉の椅子が沈んでいった。床には数本の髪の毛だけが残された。それが彼女がそこにいた証明の全てだった。僕は凍理先輩を見た。
ゆっくりと、沈んでいっている。椅子の後ろ足から沈んでいっているために、凍理先輩はどこか安楽椅子に座っているようにラクな姿勢を維持していた。遠い目で天井を見上げている。
僕は顔を背けた。
見たくなかった。
再び顔を向けた時、もうそこには誰もいなかった。
ミカヤだけが全てを、怒りの眼差しを湛えたまま見守っていた。
「これで終わったんだ」
ミカヤが言った。
「全てが」
僕は頷いた。
どうやらこれが、勝利と呼ばれるものらしい。
それからしばらくして、僕とミカヤはつばめ園へと訪れた。
あの長い坂道を登って、僕らがそこにいくと、門は閉まっていた。
もう秋は終わって、冷たく厳しい冬が始まる。
木枯らしに吹かれながら、僕らは閉ざされた門を乗り越えた。
庭には死体がいくつも転がっていた。
僕は近づいて、その一つを足で小突く。それは子供の死体で、まだ死んだばかりのようだった。
綺麗な顔をしている。
建物の中を覗く気にはなれなかった。ここまで這って来れなかった死体は、もっと酷い状態になっているはずだ。
この国では子供が簡単に死ぬ。
誰かに助けてもらえなかった人たちが、誰かを助けるわけがないからだ。
「…………」
コートを羽織ったミカヤが、倒れている子供たちの開かれた目を閉じて回っていた。
無駄なことを、と僕は思う。
死者の目を閉じるのは、それを生きている人間が見て恐怖するからだ。そこにはただ闇があるばかりだから。
僕にはもう、闇が自然なものにしか思えない……
「何人救えた?」
僕はつばめ園を見上げながら言った。死体のそばにしゃがみこんだまま、ミカヤが答えた。
「九人」
「そうか」
転がっているうちの九人は、今頃天国にいるのだろう。
アキトとミカヤは助かる子供とそうでない子供をどうやって選んだのだろう。
聞いてみる気にはなれなかった。
死体の数は、九よりもずっと多い。
「結局、ほとんど助けられなかったわけだ」
「……そうだね」
「無駄だったなあ、アキト」
僕は空に向かって呟いた。
「何もかもが」
「無駄じゃないよ」
ミカヤが言った。
「きっと、無駄じゃない」
「全員助けられなければ、意味なんかないんだ」
「賭博師みたいなこと、言うようになったね」
「…………」
「あたしはやってよかったと思う」
ミカヤは僕ら以外には誰もいなくなったつばめ園の庭を見渡した。
「アキトが死ななければ、だけどね……」
「死んだらそこで終わりだからね、結局」
もう月野も、弐倉も、双葉も、アキトも、そして凍理先輩もいない。
みんないなくなってしまった。
僕らだけを残して。
「……行こうか」
「ん?」
「ここにいても、もう意味がない」
「……そうだね」
僕とミカヤは、つばめ園を後にした。
人通りの少ない街路を通って、歩いていく。
そして、一つの十字路で、示し合わせたわけでもなく僕らは足を止めた。
「帰るね」
「うん。……ミカヤは、これからどうするの?」
僕が尋ねると、ミカヤはふっと吐息をついた。ツノつき帽子を指先で被り直す。
「さあ、どうしようかな。あたしが教えて欲しいくらい。……あなたは?」
「僕?」
僕には返す言葉がなかった。
それを察したように、ミカヤが首を振り、小さな背中を向ける。
「それじゃ、元気でね、樹畑くん。……もう会うこともないかもしれないけど」
「……そうだね」
「ばいばい」
立ち去ろうとするミカヤの腕を、僕は咄嗟に掴んでいた。
「あ――」
「……何?」
怪訝そうな顔をするミカヤ。僕は彼女から、そっと手を離した。
誤魔化すように笑う。
「なんでもない」
「……ふうん」
なんとなく気にかかる風だったが、ミカヤは腕時計をチラっと一瞥してから、冬空の下、どこかへと消えていった。
僕は取り残された。
たった一人で、行くアテもなく。
『ふふっ』
足元を天使の顔が横切った。それはもう、誰の貌もしてはいなかった。
『つれないですねぇ』
「いいさ」
僕は歩き出す。コートのポケットに手を突っ込んで、俯きがちに、冷たい風を浴びながら。視界を流れていく汚れたアスファルトの先にはきっと誰も待ってはいない。あの最後の夜、盗んできた牌をいつまでも指で弄びながら、僕はミカヤの顔を思い浮かべていた。
アキトは負けて死んだ。優しさなんて無意味だ。結局、ロクに誰も救えてない。でも、僕だって負けたのと変わらない気がした。
澄み切った空を、吸い込まれそうな青い天を見上げる。
ああ、僕は、
どこまで、
どこまでいけば、『ありがとう』に出会える?