Sakiです、歌わせていただきました。
エピローグ
「それでは定刻となりましたので、ただいまより入社式を始めさせていただきます。
まず初めに、本日の入社式の進行についてご説明させていただきます。
前方のスクリーンをご覧ください。こちらに映し出されていますように、取締役による挨拶と祝辞、続いて第二開発部、部門長による入社辞令授与、新入社員一同の自己紹介と在籍社員代表による祝辞、本社よりお越しの役員の方々の紹介、最後に新入社員一同の記念撮影。以上が本日の予定となっています。
それではさっそく、取締役による挨拶と祝辞を行いたいと思います。皆さま、その場でご起立願います」
進行役の言葉に、舞台上の新入社員と客席の重役、在籍社員たちは立ち上がった。ゆっくりと壇上に向かう取締役を見ながら、咲子は今からちょうど一年前、新入社員としてこの場にいたことを思い出した。社会人としての自覚は少しも持っておらず、ただ自己紹介が憂鬱でしかたがなかった。そんな記憶は鮮明に残っていたが、遠い昔の出来事のように感じていた。
取締役の話を聞きながら、咲子は新入社員を横目で見ていた。皆が皆、若々しい。しかし学生とは違う、凛々しい顔立ちだ。きっと自分はそうではなかった、もっとだらしなくて頼りない顔をしていたに違いない。
そうしているうちに取締役の話が終わり、客席や新入社員から拍手が起きた。進行役は拍手が収まる頃合いを見計い、口を開いた。
「取締役、ありがとうございました。皆さま、ご着席願います。では続きまして、入社辞令授与に移ります。数多くある部署の代表としまして、第二開発部、部門長に授与をお願いしたいと思います。新入社員の皆さまは、名前を呼ばれたら起立、続いて壇上へ向かい、入社辞令をお受け取りください」
一人一人の名前を呼び上げる進行役。咲子は緊張している様子の新入社員たちを見て、まだ自分のほうが緊張していたものだと思った。入社辞令を受け取っているときに緊張で手と脚が震え、背中に刺さる多くの視線で滝のように嫌な汗をかいたことは今でも忘れていない。
思えば、この一年でいろいろなことがあった。初めてプロジェクトに参画し、迷惑をかけながらも一生懸命に取り組み、無事に終わらせた。大きな失敗をして一人トイレの個室で涙を流した、理不尽な叱責で会社を辞めようと考えた、会社に貢献して上席から褒めてもらえた。一年で多くの出来事が積み重なり今の自分がいるのだと、新入社員を見ながら改めて実感した。
咲子の周りにも変化はあった。同期が数人、辞めた。転職や家庭の事情、仕事内容に嫌気が差したという理由で去った者もいた。最初は続けていく自信がなかった咲子だったが、今のところは仕事を楽しむことができて、こうして続けられている。
そして最も大きな変化として、昨年の秋、地方に支部が作られることになり大規模な人事異動があった。そのとき咲子を歌の世界に引き込んだ社員が異動となり、壮行会の席で「給料の上がらない出世とは、つまり左遷じゃないのか?」と言って周囲を沈黙させ、不安と心配を残して去って行った。
「部門長、ありがとうございました。それでは続きまして――」
すべての新入社員の名前を呼び終えた進行役は、手元に置いていたペッドボトルに入った水を一口飲み、喉を潤して沈黙した。五秒、十秒と時間が経つにつれて、舞台上は新入社員の緊張と不安で空気が張り詰められていく。その一方で客席からは期待の眼差しを向けられていた。
「それではただ今より――」
視線を一身に受けたところで、進行役はマイクが音を拾うぐらいに息を吸い込んだ。
「新入社員たちの自己紹介を始めまーす! 皆さん、手拍子などをお願いします! まずは新入社員のみんな、前まで出て来てくださーい!」
先ほどまでの粛々とした雰囲気を吹き飛ばすように、甲高いが決して耳障りではない声を張り上げた。そんな進行役の変貌に新入社員は皆、唖然としていたが、客席からは楽しげな笑い声が上がり、嫌な顔を浮かべる者はいなかった。
「それでは、さっそく始めていきますねー。私が一人一人にマイクを向けますので、元気よく自己紹介をお願いします。少なくとも名前と趣味、抱負や目標は言うようにしましょうね。その他は何をしゃべってもいいんですが、一人三分以内にしておきましょうか、時間も押していますから。ではでは、まずは一人目!」
マイクを向けられた最初の新入社員は腰が引けつつも、進行役の勢いに負けじと自己紹介を始めた。
進行役は考えもなしに好き勝手にしているわけではない。堅苦しい雰囲気を和ませ、緊張から疲労を感じていた新入社員たちを解きほぐそうとした結果が、この変貌だったのだ。これが功を奏したのか比較的リラックスしているように見られたが、それでも緊張で硬くなっている新入社員には進行役がインタビューのように絡み、話を聞き出した。
自己紹介は順調に進み、横に並んだ新入社員たちの半分まで終わった。ここで進行役は誰にも気づかれないように周囲を確認した。舞台の横手にはスピーカーが一台ずつ設置され、次の新入社員がちょうど舞台の真ん中に位置している。
一年前とまったく同じである。ちょうどこの辺りである現象が発生したことを進行役は覚えていた。
「……んっ」
耳鳴りのような、細く鋭い金属音がホール中に響き渡る。それはどんどん増長されていき、いよいよ耳を塞がなければ不快感を耐えられない音量になった。
「あー、あー、あー!」
進行役は金属音が掻き消えるほどの声で叫んだ。だが耳障りなそれとは違い、進行役の声は大きくはあったが、不快とは感じない伸びのあるしなやかな声だった。
進行役はマイクの電源を切り、すぐに入れる。これで金属音は消えた。
「……えー、失礼しました。まずは今の金属音について説明します。スピーカーから出た音をマイクが拾い、それが何度も繰り返されることで音が増幅される、ハウリングと呼ばれる現象です。もしかしたら、覚えている方もいるかもしれません。去年の入社式でもハウリングが起きました。それがちょうどこの場所でしたので、起きやすいポイントなのかもしれませんね。いやー、去年の自己紹介、散々だったんですよねー……」
新入社員たちはこの進行役のことを知らない。けれど二年目以降の社員たちのほとんどがそのことを覚えていた。
「そう言えば、私の紹介をするのを忘れていましたね。新入社員の間でやってしまってもいいでしょうか? ……いい? あ、うん、ありがとう、すぐ終わるからね。次の新入社員から許可をもらいましたので、自己紹介をさせていただきます。私は、入社二年目の稲枝咲子です。このたびは入社式の司会進行をさせていただいています。よろしくお願いします」
これまでの入社式は舞台の下から進行をうながす程度の進行役がいるだけで、舞台に上がって司会を務めた者は咲子が初めてだった。特に企画や提案があったわけではないが、咲子は手を上げて買って出たのだ。
咲子はハウリングのことを今でも忘れていない。あのときのような失態を新入社員にさせたくない、あんなトラブルを防ぎ、フォローできたなら、と思ってのことだった。
入社式は無事に終わり、咲子は教育担当者ではなかったのですぐに自席へ戻り、昨日までの仕事を再開した。咲子は現在、小さなプロジェクトの取りまとめ役を担っている。プログラミングやテストを担当することもあったが、顧客との話し合いや内部のスケジュール調整などを主に行なっていた。
わずか一年でここまでのポジションに辿り着けることはめずらしく、咲子は周囲から一目置かれていたが、当の本人は少し不満ではあった。話を聞く限りでは、異動でこの場にはいないあの変わり者の社員のほうが優秀だったらしいからだ。
「稲枝さん、この申請書類、確認してもらってもいい?」
「はーい……て、これはまだ出さなくてもいいですよ。先に資料作成をやってしまいましょう」
「咲子ちゃーん……このテスト、どうしてもできないのー……」
「できないことをやれって言ってるわけじゃないんだよ? 私は無理難題をぶつけるようなことはしないよ。わからない。ならともかく、できないというのはダメ。考え方を教えるから、もう少し考えてみて」
先輩社員や同期、他にも他部署の人間や上席から頼りにされ、それを鼻にかけず誰にでも人当たり良く時には厳しく接する。これは咲子の人柄や取り巻く環境だけではなく、この一年の努力の賜物であった。
定時が近づき、初日の研修が終わった新入社員がフロアに入ってきた。一年前にもあった、自己紹介兼挨拶の時間だ。咲子はデスクに置いた書類の束を片づけ、作業の手を緩めて新入社員が話しかけやすい雰囲気を作り出した。
「社会人初日、どうだった? 緊張して疲れたんじゃない?」
「そうそう、司会していたのは私だよ。ハウリングは運が悪かったね」
「趣味は音楽鑑賞だったっけ? どんな音楽聞くの?」
代わる代わるやって来る新入社員と話している間に定時となった。新入社員たちが皆、フロアから出て帰っていく姿を確認した咲子は、まだ作業のキリが悪かったがさっさとパソコンの電源を落としてバッグを持った。
「あれ? 咲子ちゃん、今日はもう帰るの?」
残っているすべての社員に挨拶をしてフロアから出ようとしたとき、咲子は先ほど泣きついてきた、一年前に咲子がひそかに『茶髪さん』と呼んでいた同期に声をかけられた。
「うん、今日は用事があるの。さっきのテスト、最悪明日になってもいいよ」
「……私も、もう帰りたいなー」
「今日なら目標、明日になったらノルマになっちゃうよ。ほら、今日のうちにがんばろうよ」
「はーい……ところで、咲子ちゃんはどうして定時帰りなの?」
「……待ち合わせを、してるの」
「なになに? デート?」
同期の言葉に咲子は黙り込んでしまった。それを肯定と見なした同期は目を輝かせた。もう一年の付き合いになるが、この同期は色恋沙汰の話となると目の色を変えることを忘れていた。
「どうかなぁ……デートと、言えなくもないかなぁ」
「えー、ウソー。どこ行くの?」
咲子は照れ隠しをするように笑った。
「んー、カラオケ」
会社を出た咲子は帰り道を急いだ。街は行き交う人々で混雑していたが、パンプスで走ることと人混みを掻き分けることに慣れている咲子は、すいすいと先へ進んでいく。
待ち合わせ時間には余裕はあったが、一秒でも早く帰りたい理由があった。この日は入社式の進行役をするため、めずらしくスーツを着ていた。これから会う相手は咲子の服装にまったく無頓着であったが、咲子としては少しぐらい着飾りたいと思っているのだ。
この日のために、というわけではなかったが、休日にちょっとオシャレをするために奮発して購入した服が何着かあった。職場で着るにはやや飾りすぎているため、試着を除けば一度も袖を通していない。
(うーん、これは派手すぎるかなぁ……でも、これぐらいは普通かな……?)
今日着る服のことは何日も前から考えていたが、結局決まっていない。鏡を前に取っ替え引っ替え服を合わせては悩むが一向に決まらない。
ようやく決まったときには、メイクを直す暇もないほどに時間が切迫していた。脱いだスーツをハンガーにかけず椅子の背もたれにひっかけ、メイクは応急処置を施して支度を始めた。
部屋の隅に置いている、マイクとレコーダーが入った手提げバックを持ち、急いで外へ出た。駅までの最短ルートである大通りを進むと、ちらほらと同じ会社の知った顔を見かけた。駅のホームでもそれは同じで、同じフロアの、しかも上席がそこにいた。
咲子は上席に気づき、向こうは咲子に気づいていない。咲子は迷わず歩み寄って頭を下げた。
「おつかれさまです!」
「ああ稲枝さん、今日はお疲れ様。あいかわらず良い司会だったよ。とても好評で、近々行われる合同企業説明会の司会もお願いしたい、という提案が人事部から出ていたよ。良ければ、どうかな?」
「本当ですか! ぜひお願いします!」
「なら、そう伝えておくよ」
方向が違ったので先に着いた電車に咲子が乗り、そこで別れた。電車の中からも会釈をして、姿が見えなくなってから力を抜いた。勤務時間外ではあったが、気づいたからには無視できない。上席と話をするのは未だに緊張してしまうが、良い話をもらえたことは幸運だった。
目的の駅に到着し、待ち合わせ場所の時計台へ急いだ。待ち合わせ時間の五分前に着くことができたが、すでに相手はそこにいて、時計台にもたれかかって携帯ゲーム機で遊んでいた。
咲子はこっそりと近づき、その隣にもたれかかったが相手は気づいていない。じっと顔を見たり、画面を覗き込んでも反応がない。ひさしぶりに会えたのに肩透かしを受けた気分だった。そこで咲子は手で携帯ゲーム機の液晶画面を覆うと、その相手はびくりと身体を震わせ、ようやく咲子に顔を向けた。
「……何をするんだ?」
「ひどいです、気づいてくださいよ」
「気づいていたさ。キリが悪かったから止めなかっただけで」
「それ、最近発売されたロールプレイングゲームですよね? いつでもストップかけられるから、平気じゃないですか」
お互いを確かめ合うように言葉を交わすと、二人は周囲が注目するほどに笑い声を上げた。
「おひさしぶりです、河瀬さん」
笑いすぎてこぼれた涙を指で拭いながら、咲子は相手――彰人に言った。職場から直接来たのだろう、彰人は少しくたびれたスーツ姿だった。
「頻繁にネット電話をしているから、あまり新鮮味がないな」
「そんなこと言わないでくださいよ、顔を合わせるのは今年初めてなんですから」
「あー、そうだっけ?」
「何だか元気ないですね。最近、忙しいですか……?」
「新作のフィギュアを並べる余裕がないほどには、忙しいかな」
ネット電話では共有できなかった時間を埋めるように、二人は会話をしながら帰宅ラッシュで人の多い駅前を歩き、カラオケに向かう。少しぐらい服装について触れられるかもしれないと期待していた咲子だったが、やはり彰人のからの反応はなかった。
お互いの近況報告が終わると、話題は自然と動画のことになった。
「そう言えば最近投稿した曲、あいかわらず良い人気だね。ボイストレーニングの効果がようやく出てきたのか、コメントでも褒めてもらえているじゃないか」
「ふふ、そうですね、結構がんばりましたから。腹筋、固くなったんですよ? 触りますか?」
「触らせてくれるのか?」
「あはは、まさか。でも、私が歌った曲は河瀬さんの編集があってこそのものですよ。私一人じゃできません」
咲子の言葉に、彰人は視線を逸らした。咲子はそんな彰人の様子が気になったが、ちょうどカラオケに到着した。すでに予約はしていたので受付に向かい、すぐに空のグラスを二つ持って彰人の元へ戻った。
「平日でも、夜は意外に混んでいるんだねぇ」
「学生さんも多いですが、会社帰りに立ち寄る人もけっこういますからね。これでも少ないほうですよ? あ、これグラスです。今日は一時間だけなので、じゃんじゃん飲みましょうね」
咲子が予約していた部屋は039号室。初めて収録したときの部屋であり、咲子は必ずここを使うようにしていた。店員も咲子のことを覚えているようで、電話で名前を伝えるだけで話が通じるようになっていた。
部屋に入ると咲子は手提げバッグからマイク、レコーダーを取り出し、さらにそこからある物を出した。
「じゃーん、マスクです!」
それはどこにでもあるような、風邪予防のマスクだった。
「……何に使うの?」
「配線をするとき、いつもつけるようにしているんです。埃っぽいですからね」
「今日は僕がいるんだから、配線と掃除ぐらいするのに」
「ダメです、またスーツ汚れちゃいますよ? それにいつもやっていることなので、河瀬さんよりも手際がいいですよ」
そう言われてしまうと彰人も反論できない。それに何を言われようとも譲らない、という気概が咲子から感じられたが、彰人もそう簡単には折れず、配線は咲子、掃除は彰人が行うことになった。その間、二人に会話はなかったが、少なくとも咲子は充実した時間だと感じていた。初めてのときは彰人に追い出されて一人きりだった。けれど今は違う、こうしていっしょに作業をしている。そのことが嬉しかった。
配線が終わり、音量やエコーの調整をした咲子はリモコンを慣れた手つきで操作し、彰人はその画面を覗き込む。ジャンルの『ボーカルシンセサイザー』で作曲者のリストを開き、五十音順のリストを一ページずつ捲り探していた曲を見つけた。
作曲者:ショウジン
タイトル:あなたに「ありがとう」
一曲だけ配信されている彰人の曲。この曲こそが、咲子が作詞をして、彰人が作曲、編集をした曲だった。
「こうして載っているところを見ても、実感が湧きませんね」
「嘘みたいだなぁ……現実味がない」
二人の曲は夏の終わりに完成し、投稿された。これまでの彰人の曲とは雰囲気が異なりショックを受けたユーザーも多くいたが、彰人の『本当に作りたいと思ったもの』という気持ちが伝わったのか、順調に評価され、再生回数を伸ばしていった。冬が訪れるころには配信のリクエストが行われていて、二人はひどく驚いた。
「なんだかドキドキします。サイトでもいろんな人に歌ってもらいましたし、カラオケで歌う人もいるかもしれません。そう考えると嬉しいやら恥ずかしいやら……」
「もしかして、まだ歌ったことないの?」
「はい、今日が初めてになります。もちろん家では練習しましたけどね」
咲子は送信ボタンを押そうとして、手を止めた。ちらりと彰人を見ると、彰人は座ったまま動く気配がなかった。
二人の目が合った。
「稲枝さん、お願いがあるんだ」
「……それはたぶん、私と同じかもしれません」
彰人は照れくさそうに頭を掻き、咲子も視線を彰人から逸らす。
「河瀬さん。私、河瀬さんに聴いてほしいです」
恥ずかしいという気持ちは当然あった。声と手が震えていることは気づいていたし、気づかれているだろう。けれど二人で作ったこの曲は、どうしても彰人の前で歌い、聴いてほしかった。
「……僕も、ここにいて聴きたい」
それは彰人も同じだった。徹底してベストな環境を作り上げる彰人には、収録の際は自分が邪魔にしかならないことは知っている。それでもこの曲は、咲子が歌っている前で聴きたいと思っていた。
「じゃあ、始めます。私、最初に歌ったのが一番良いことが多いので、録音しちゃいますね」
「ん、わかった」
レコーダーの録音ボタン、リモコンの送信ボタンを押すと、もう何度も聴いた前奏が流れ始める。
歌詞はもちろん、曲も覚えている。世界観もこれ以上ないほどに構築できている。咲子は目を閉じて、外から入る情報を断ち切った。
これで、すべてを表現する状態が整った。
◆ ◇ ◆ ◇
これは一つのおもちゃと、一人の職人を描いた歌だ。
最初のパートはおもちゃの視点。それはおもちゃ屋に売れ残ったブリキの人形。古臭くて今の時代には合わず、誰からも見向きもされない、手にも取ってもらえない。周りのおもちゃはどれも魅力的ですぐに売れていく。そんな様子をすぐ近くで何年も見続けていたが、ブリキの人形はそれで満足していた。ショーウィンドウの中から他のおもちゃを見つめる子供を、他のおもちゃを手に取る子供の楽しそうな姿を見ているだけで良かった。
誰かに買ってほしい。自分も笑顔を与えたい。そんな気持ちはすでに消えていた。
ある日、若い男がやってきた。その男はぐるりとおもちゃを見回し、ブリキの人形を手に取った。ブリキの人形は驚いた、そして人の温もりに触れ、忘れかけていた気持ちが呼び起こされた。
自分は誰かのためのおもちゃなのだ。売れ残って他のおもちゃに向けられる子供の笑顔を見るために存在するわけじゃない。誰かを笑顔にしたい、楽しんでもらいたい。この男はそれを思い出させてくれた、救ってくれた。
男はぜんまいを巻いた。ブリキの人形はようやく動くことができた。ぎしぎしと軋む手足を動かし、一歩、また一歩と歩くたびに嬉しさが込み上げてくる。
きっとこの気持ちは伝わらない。相手に届くわけがない。けれどブリキの人形は言わずにはいられなかった。
ブリキの人形に意志があるかどうかは、わからない。しかしブリキの人形は心から言った。
「ありがとう」
ここで間奏に入り、曲調はがらりと変わる。これまでのブリキの人形のパートは機械的な音源が使われていたが、ここからはピアノや弦楽器が中心の柔らかなメロディとなる。
こんな曲調の変化は初期の彰人の曲に多く見られた。一つの曲の中で何回も、しかも劇的に変わり、他にも不協和音を好んで使い、テンポも一定しないことが多かった。咲子がコメントを見る限りでは、これらの理由で彰人の初期の曲はまったく受け入れられなかった。
彰人は自分を押し殺して、多く称賛を浴びることのできる曲を作るようになった。その結果、多くのユーザーが彰人を評価した。だが、自分が好きなものを作っていないことを彰人はわかっていた。
咲子はそんな彰人の曲の欠点に気づいたが、お互いの関係が壊れることを恐れ言い出すことができなかった。けれどあの日、感じていたことをすべて言い放ち、お互い傷つき合った。それを乗り越えてできたのがこの曲なのだ。
咲子は彰人の初期の曲が好きだった。それは単純に二人の感性が近かっただけかもしれないが、この曲はもちろん、初期の曲を称賛している人はいた。どんな曲でも認めてくれる人は必ず存在する。
次のパートは若い男の視点。彼はおもちゃの職人だった。幼少のころからおもちゃを作り続け、数年前に才能が開花し子供の笑顔のためにおもちゃを作り続けた。
けれど、あるとき彼は欲を持ち始めた。名声のため、お金のため、つまりは自分が満足するために、おもちゃを作るようになった。次第に子供は離れていったが、彼を認めてくれる大人が多くいた。彼はそのことに満足していたが、自分に疑問を感じながらおもちゃを作り続けた。
ある日、彼は何気なく入ったおもちゃ屋でブリキの人形を見つけた。数多くあるおもちゃの中で一つだけ古臭いブリキの人形を見て、子供のころ初めて買ってもらったおもちゃがブリキの人形だったことを思い出した。
ぜんまいを巻くと、ブリキの人形はぎこちなく動く。ただそれだけのことなのに、彼は高揚を抑えきれない。初めておもちゃを手にしたときのような、わくわくとした気持ちが溢れた。
そのとき、聞こえた。幻聴ではなく、たしかに彼の耳はブリキの人形の声を聞いた。
彼は思い出した。その昔、子供たちに言ってもらったその言葉。もうずっと聞いていなかった。
最初は、その言葉さえ聞ければ良かった。それがいつの間にか、他のものを欲するようになっていた。そのことをこのブリキの人形は思い出させてくれた。
この気持ちは伝わらないかもしれない。けれど、彼はブリキの人形の声を聞くことができた。だからこちらからも伝わるかもしれない。男はブリキの人形を抱きかかえ、心から言った。
「ありがとう」
伴奏は次第に音が小さくなっていく。ここから先の歌詞はない、つまりこの曲はこのまま終わる。多くの場合、ここで間奏が入り物語を終わらせるパートへと続くのだが、咲子はそうしなかった。
咲子自身、歌詞としては中途半端ということはわかっていた。コメントにも指摘されていたし、彰人にも同じことを言われたが、咲子はここで終わらせたかった。ここから先の物語は、この曲を聴いた一人一人に考えてほしい、想像してほしいと思ったからだ。
この曲の主役はブリキの人形なのか、それともおもちゃの職人なのか。おもちゃの職人は今後どんな気持ちでおもちゃを作るのか。そしてブリキの人形は何を思うのか。作詞者の咲子の手を離れ、どのようなエンディングを想像されるのか。自分だけの世界観を表現するのではなく、視聴者に世界観を構築してほしいという咲子の想いがあった。
伴奏は消えて、曲は終わった。
◆ ◇ ◆ ◇
「ありがとう」
まず彰人が気づき、その次に咲子が気づいた。最後に言った「ありがとう」は歌詞にはない、しかも伴奏が消えてから言った、咲子自身の言葉だった。
つまり、失敗。咲子はマイクの電源を切り、レコーダーの録音を止めた。
「……あはは、ごめんなさい。何とかなりますよね……?」
歌の出来自体は申し分なく、これをやり直すというのはもったいない。最後の部分だけカットしてもらえるよう、咲子は彰人の編集に頼ろうとした。だが、彰人は何も答えなかった。
「あ、あの……?」
完璧を追求する彰人のことだ、この失敗で機嫌を損ねたのかもしれない。俯いている彰人の顔を覗き込むと、咲子は驚きのあまりに言葉を失った。
彰人が涙ぐんでいたのだ。
「ど、どうしたんですか!」
「いや、嬉しくってさ……嬉しい、すごく嬉しいよ」
「そんな大げさな……」
「大げさじゃないさ。あの日、僕は稲枝さんと出会えて良かった。声をかけて良かった。歌ってもらえて本当に嬉しい。途中、喧嘩もしたけど……それで僕の目が覚めた。本当に良かった。ありがとう、いくら言っても足りないぐらいだ」
「私だって同じですよ……河瀬さんがいなければ、今の私はいなかったです」
一年前のあのころ、ここまで自分が変わっているだなんて思ってもいなかった。もちろんきっかけは彰人で、歌を通して変化したことには違いない。けれど変わろうと決意し、努力したのは咲子自身だ。咲子一人なら、きっと今までのように変わることができなかった。彰人がいたからこそ変わることができたと、咲子は思っていた。
「そう言えば、河瀬さんが私の声を好きになった理由、わかったかもしれません」
「え、理由?」
「はい。変なことを言うようですが、彰人さんの作った曲のボーカルシンセサイザーと私の声、似ているんです。イントネーションとか、間の取り方とか」
ボーカルシンセサイザーの曲を歌おうとしたとき、声の高低や息継ぎなど、どうしても無理をしなければならないところがある。しかし、二人で作ったこの曲を練習しているとき、咲子は少しの負担も感じなかった。他の曲を歌ったときよりも、遥かに歌いやすかったのだ。
「たしかに、声はぜんぜん違うけど……言われてみれば、似ている気がする」
「ほんとに、少し似ているってだけですけどね。でも、河瀬さんは私に気づいてくれました。さっきも言いました、これからも何度も言ってしまうかもしれません、河瀬さんが気づいてくれたから、今の私がいます」
咲子の目元にも涙が溜まっていた。あと少し、彰人が涙を見せれば咲子の涙も決壊してしまう。咲子はハンカチで涙を拭き取り、無理やり笑顔を作った。
「やっぱり、声フェチじゃないですか」
「ど、どうしてこのタイミングでそれを言う……」
「せっかくひさしぶりに会えたんですよ、しんみりしたくありません。でも、声フェチには違いないですよね?」
「そうだね……まだ認めたくはないけど、否定もできないな。僕は声フェチで、稲枝さんの声萌えだ。もっと聞かせておくれよ」
「どんなセリフを言えばいいですか?」
「君って、そんなに積極的だったっけ?」
咲子の反応は予想外だったのだろう、彰人は困った顔を見せ、ようやく笑みを見せた。咲子はそんな彰人の様子に、子供がいたずらを成功させたように笑った。
一時間はあっという間に過ぎ、二人がカラオケを出るころには陽は落ち、空が暗くなり始めていた。
「んー、一時間ぐらいなら疲労も良い感じです。河瀬さんも歌えば良かったのに」
「僕は音痴なんだ。それに聴いているほうが楽しい」
「そうですか。ちょっと聴いてみたかったんですけどね」
大きく伸びをして身体をほぐした咲子は、すたすたと駅に向かって歩き始める。そんな咲子の後ろで、彰人はそわそわとしていた。そんな挙動不審の彰人に気づき、咲子は振り返って不思議そうに見つめた。
「……どうしました?」
「い、稲枝さん?」
「はい?」
「そろそろ、十九時だね」
「ああ、そうですねぇ」
「遅くもなく、早くもない。ほどほどの時間帯だ」
「……何の話ですか?」
「えーと……稲枝さんは、お腹、空いていないかな?」
咲子は彰人のその言葉を察した。一年前、収録後はすぐに帰宅した彰人から夕食を誘われているではないか。
「もしかして、夕食のお誘いですか?」
「ま、まあそんなところだよ。一人で食べるのもなんだしね」
「そうですねー、私もこのあとの予定はありませんし……」
「い、行く? 行かない?」
「んー、なら、行きます。私、いい店知っているのでそこに行きましょう。あ、でも、その前に電話してもいいですか?」
「予約するの?」
「いえ、異性と食事に行くので、彼氏に一言連絡を入れておこうかなと思いまして」
「えっ!」
彰人は信じられない、と言った様子で目を丸くした。そんな彰人の様子があまりにおかしかったのか、咲子は声を上げて笑った。
「なんだよ、笑うなよ……」
「冗談ですよ、冗談」
「そ、そうか。なら安心だ……」
しばらく歩いたところで彰人はあることに気づき、咲子の前に回り込んだ。
「ちょっと待て。冗談というのは、彼氏がいる、という点か? それとも彼氏に連絡をする、という点か? どっちだ?」
「ふふ、どっちでしょうね」
「軽く流すな、これは大きな問題だぞ……そうだ、手だ、手を見せてくれ。主に指が、薬指が見たい」
「えー、セクハラですよ、それ。そんなことより、次の曲のことを考えましょうよ。そろそろ歌詞が完成しそうです。曲に合わせて作るって大変ですねー」
「それは楽しみだが、まずは指をだな」
「先にご飯! 次に曲ですよ! ほら、行きますよ!」
必死な様子の彰人に笑いながら、咲子は両手を隠して走り出した。もう少し、せめてお店の中に入るまで焦らしてみよう。そして手を見せたときの、彰人のほっとした顔を想像すると咲子は楽しくてしかたがなかった。