重力とは何か。いかなる事象が物体に重力を与えるのか。
重力の定義。
リンゴが落ちる事。そう言い換える事もできる。
私達は地球という星に縛り付けられている。
重力は、私達と地球を繋ぎとめておく役割を担っている。
この惑星の居住権を所有する限り、負荷を分担しなくてはならない。
果てしない大空へ夢を羽ばたかせる事、
成層圏を破り無酸素の空間へ身を漕ぎ出す事、
重力と等価な膨大なエネルギーが不可欠である。
我々は重力の在り処を知らない。
発端とは何かを知らない。
自然発生的な物と考える。自明の物だと考える。
ただ生まれた時から傍らにあるものだから、
その存在について深く思考を巡らせたりはしない。
しかし重力の仕組みが解明できれば。
どういった原理原則で重力が発生するのかを解明できれば。
私達は次なるステージへ進む事ができる気がする。
宇宙の秘密について1つを紐解き、新たな地平が見えてくると思える。
多角形で構成された宇宙の構造をばらばらにして、
複雑な数式が鮮やかに紐解かれ、
五次元にいる彼らの存在を目にする事ができるかもしれない。
次元のヴェールを脱ぎ、彼らを眼前にすることができるかもしれない。
重力とは愛であり、人と人を繋ぐ赤い糸である。
愛が質量を持つとすれば、それは重力だ。
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真っ暗な部屋に、ブラウン管のテレビが所狭しと並んでいる。
―いや、並べられているというより「敷き詰められている」と
言った方が的確か。
海に浮かぶテトラポッドのように敷き詰められ、
所々に鋭角な隙間を生んでいる。
画面にはノイズが走り、ヴァーチャルで造影された彼女の姿を捉える。
僕は彼女を思い出す度、このイメージを想起する。
「愛」で終わる名の彼女を思い出す時、付属するイメージはこれだ。
そう、始まりは全て「瀬川愛」だった。
重力も次元の話も「瀬川愛」が発端になった。
瀬川愛はイントロダクションの三文字だったのだ。
桜の季節。入学式の時、
僕は初めて彼女という存在を認識した。
白と桃色の花弁が視界を乱す中、異彩を放っていたのが彼女だった。
両腕に包帯を巻いていた。
手首から間接に向かって包帯が巻かれている。
まるで治療中の病院から抜け出してきたような感じ。
髪は無造作に伸びていたものの、各々に法則性を見出しており、
纏まっていないという訳ではなかった。
彼女が異彩を放っていたのは、その特徴的な外見もあるだろうが、
何よりひとことで言って「美人」だったのが原因であろう。
まるで一流の彫刻家が塑像したかの如く、彼女の目鼻立ちには
一分の瑕も見当たらず、遠目からでも、その美しさは窺えた。
彼女が廊下を歩けば、誰もがその美しさにハッとなり、
歩調を緩めたり、止めたり、コントロールを乱す事になった。
先ほど、重力の話をした。
そういう点で彼女は、重力を持つ女性だった。
彼女の投げかける動作すべてが、引力を放ち、周囲の人間の目を向けさせた。
瀬川愛という人間の周囲には、特殊な磁場のようなものが存在し、
空間を歪曲しているように感ぜられた。
彼女はふいに、妙な場所へ姿を現した。
「あの娘、いつも放課後、屋上にいるよね」と吹奏楽部の同級生は僕に話をした。
虚空の一点を見続けている。
同時に何かをしているという訳ではなく。
消極的な「見る」という行為ではなく、積極的に「見る」という行為を彼女は為していた。
屋上は出入り禁止の筈だ。
だがそれでも、彼女は屋上に足を踏み入れ、
禁じられた場所で、無造作な髪を風に揺らしていた。
一体何の為に?
空の色がグラデーションを変質させ、彼女の立ち姿が背景と融和しようとも、
いぜん、彼女は、見るという行為を停止しなかった。
時に、両腕を広げ、全身の肌で大気を吸い込むような格好になった。
何をしているのか。
意図は不明である。だがリフレインするのは次の言葉だ。
「重力」
口数の少ない彼女が唯一発するのが「重力」という単語だった。
それは脈略無く、ふいに発せられた。
謎に包まれた彼女の存在を解き明かす言葉、
それが「重力」に違いなかった。
彼女の生態の後ろ盾とも言うべきものが、
「重力」であることは容易に想像できた。
「重力を感じているの」
屋上で彼女が言った台詞だ。透徹な、曇りのない瞳で彼女は言った。
「瀬川さんって、屋上で何してるの?」と聞いた女生徒は
「そ、そうなんだ」と言って後ろずさりした。
全く予想だにしないアンサーだっただろう。
だから彼女の背中に「変人」というレッテルが貼られるまで、
それほどの時間は要さなかった。
先ほどの例に限らず、彼女の奇行には枚挙に暇がなかった。
水飲み場で、蛇口から落ちる水を長時間眺め、
水の粒をひとつひとつ観察してみたり、
階段で転げ落ち、傷を負って、駆け寄った女生徒に心配されても
「問題ないわ」と平静とした声で言ったり。
いつの間にか彼女の空間には人がいなくなっていた。
いかなる時でも彼女は超然としていて、まるでここではない、
別世界の住人のような振る舞いだった。
変人という垣根を越えて、たまに擦り寄ってくる人はいた。
しかし彼女の心は固く閉ざされていた。
扉には堅牢な錠がかけられており、開けるのは許されざる事だった。
鍵を持つ人はいたのだろうか。友達も見当たらなかった。
そんな風の彼女だったから、
不登校になってしまったのも自然な流れだった。
誰も座らない空いた席が、クラスには鎮座していた。
時折話題にする事もあったが、大方の生徒の記憶からは
彼女の存在は、消え去ろうとしていた。
そして、指でなぞると埃が付くくらいに
机に埃が積もった8月のある日、彼女は学校に姿を現した。
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