人々は世界を作った。
ある時人々は、世界を創った神を
だから神は、人間を壊すことにした。
■
透明な風が吹いている、と私が言うとヤトラは鼻で笑った。
「何を言っている。風に赤とか青とかの色が付いている筈がないだろう」
右手に提げているウイスキーを飲み下す。ヤトラは重度のアルコール中毒なのか、常にウイスキーの瓶を小脇に抱えている。そのくせ特別酔っ払っている様子は見せないので厄介なのだ。
「違うよ、そういう意味の透明じゃない。孕んでいるものの違いなんだ」
針が止まらないコンパスを眺めながら、私は言う。
「戦場から吹く風は、血の気を纏っている。海を渡った風は、潮の匂いを抱えている。風にだって多種多様の表情があるんだ。だけどここに吹いている風は何もない。本当に透明な風なんだよ」
「風は風だ。俺達が生きるために必要な道具であって、それ以上でも以下でもない。どこから吹こうと風は全部同じだ。それともあれか? 血の匂いがする風は全て戦場から吹いているのか? 違うだろ? 妄想癖もそれくらいにしときな」
「妄想なんかじゃない」
「だとしてもそれはお前の考え過ぎさ」
しゃがれた声で笑いながら、ヤトラは私の背中を叩く。
ヤトラはいつもこうだ。私が言うことにはことごとく反証を挙げる。私の主張を決して飲み込もうとしない。民の長である以上用心深くなるのは分かるのだが、同じ民である私の考えくらい聞き入れてくれてもいいじゃないか。ついこの間、そういうこともヤトラに言い募ったのだが、笑って流された。偉そうな口をきくのは一人前になってからだ、と。
ひゅごう、と窓から風が吹き付けている。透明な風だ。外を見やると、遠く離れた所で山が動いていた。比喩ではない。本当に山が動いているのだ。フジヤマのような巨大な山ではないが、人間から見ればやはり大きい三〇メートルほどの山が、地面を鳴らしながらのっそりと動いている。
「おう、ヤマカブリがもう動き始めたか。ここにも長居はできねえな」
ヤトラもそれに気付いたようで、ウイスキーの瓶から口を離して呟いた。ヤマカブリは山を背負って移動する生き物。彼らは危険察知能力が高いため、しばしば彼らの動向は行動の指針にされる。
「コロル、上の連中起こしてこい。五分後にはここを出る」
「その、コロルっていうの、やめてもらえない」
小さくて痩せぎすで、コロールの芋のようだから、縮めてコロル。皆、私のことをそう呼んでいた。当然私は気に入らなかった。半人前だと馬鹿にされているように思えたからだ。
「コロルはコロルだろうが。今更、昔の名前を掘り返すこともねえ。諦めて呼んできな」
「……分かった」
私は渋々承諾して、階段を上る。
地響きは、さらに大きくなっていた。
私たちの生活に風は欠かせない。狩猟の時も風を読み、遊ぶ時も風に乗り、眠る時も風を纏う。それは風使いの民が文字通り風神を信仰する民族だからだ。風使いの民は風神に供物を捧げることにより、風神の恩恵を受けて生きていく。風がなければこうして翼もなしに高地を渡ることもできはしない。風とは私たちにとって崇める神であり、生きるための手段であった。
「コロル、なにボケーッと突っ立ってんだ」
岩壁に刺したピックを抜きながら、ヤトラは馬鹿にした口調で言う。
「まさか、今更怖気づいたか? こんな所で震えても誰も助けちゃくれねえぞ」
「……あまりコケにしないで」
私は鉤爪を先端にした縄を放り投げ、対岸のピックに引っ掛ける。風向きは問題ない。上手く乗れなくてもみすみす落下することはないだろう。標高が高く足場も狭いが、普通の風使いの民なら逡巡も躊躇しない、取るに足りない距離の飛行だ。ヤトラもそれをわかった上であんなことを言っているのだろう。
だけど、私はそう簡単に飛べなかった。
風が、風の匂いが違うのだ。易易と飛べるものではない。どれだけ鈍い人間でも、冷蔵庫の隙間から腐乱臭がすれば疑いの一つも持つだろう。私が感じているのはまさにそれだ。
後ろで結わった長い黒髪を揺らす風は、素直な風ではない。誰にでも理解できるように言うと、この風はどこかから吹いているのではなく誰かが意図的に吹かせているようなのだ。
こういうことを言えばヤトラは「誰かがって、そりゃ風神様に決まってるだろう。違うか?」と笑うだろうから何も言わないが、私が言いたいのはそういうことではないのだ。
一族は誰も理解しようとしない。
だからもう、私は何も言わない。
ヤトラはしばらく私のことを不思議そうに眺めていたが、そのうち「遅れを取るなよ」と言い残して風に乗って行った。私は後発隊の最後尾で“しんがり”を務めていたので、後ろには誰も残っていない。常人なら吹き飛ばされる強風が吹きすさぶ中、私だけが風の異変を感じ取って佇んでいた。風使いの民は風の流れが読めるから飛ばされてしまうことはないが、その風だけは蘇った亡者のように私の足を掬い取ろうとしていた。
他の風は草木や山の匂いが混じっているというのに、その風だけは混じりけがなく、純粋な風だった。
普通、そんなものは存在し得ない。風が往く道に何も障害物がないならまだしも、そんなことはこの世界ではあり得ない。だとすればこの風の棲み家というのは必然的に決まってくる。
「風を操るものが、何かの理由があって風を起こしている」
風おこしの民、というのは聞いたこともないが、この世界が成り立っている以上はそんな種族がいてもおかしくない。
そんなものはあり得ない、と断定してしまうことがあり得ないのだ。
いつしか世界はそういう風に変わってしまった。
記憶には存在しないが、記録には残っている。
数十年前、今では<旧厄>と呼ばれる天変地異が世界中で起こった。その時に世界各地で様々な化学反応が起き、風使いの民のような特別な存在が生まれたとされているが、真実は定かではない。
星が落ちた、空が消えた、海が消えたなど夢物語としか思えない天災が降り注いだらしい。
それによって、今まで人間が築き上げてきた文明というものは脆くも崩れ落ち、インフラは朽ち果て、世界は再び
この新世界はまだ半分以上が未開拓地とされ、<旧厄>によってどのような変化が起こったのかも解明されずにいる。風使いの民はそういうものの調査をする種族のひとつで、昔の日本で言う飛脚のような役割を果たしていた。
だから、未知なるものが目の前に現れた時、風使いの民は命を懸けてもそれを調べなければならない。
私は向こう岸に引っ掛けていた縄を手放す。透明な風は霧で覆われた谷底から吹き付けている。覗きこんで目を凝らしても何も見えず、眼球が乾いて目を閉じる。そのまま私は意識を集中させ、風を読んだ。
そして静かに、しかし強く地面を蹴る。
浮遊感が強くなる。空中に飛び出したのだ。
底があれば即死は免れないので、上方向に吹き付ける風で減速しながら落下傘のように霧の中へ飛び込んでいく。
視界はすぐに白で満ちた。これは本当に霧なのか、と思うほど濃い霧の中を降りながら、次第にその霧が質量を持っていることに気付いた。
雫のように触れることが出来る。雨粒が空気中の塵を掻き集めるように、私の身体にはもはや霧とは呼べないレベルの露がまとわりつき、服が濡れて質量が増え、落下速度は全身的に速くなった。風も少しずつ弱くなっていた。
時間が、時間が、長く感じる。
このままどこかへ衝突して死ぬのだろうか、と冷静に考えていると、突然空気が重くなった。思うように身動きが取れず、手足が重い。息が苦しい。空気が吸い込めないのを感じて、私はようやく己の身体が水の中に落ち込んでいるのだと気付いた。
急いで水面まで駆け上り、顔を出す。その瞬間、私は少しの間言葉を失った。
酸素が欠乏していたからか。死の淵に立たされたからか。それとも喉をやられたからか。
どれも違う。
私が浮かぶ水面からは、無数の星が輝く空が見えたのだ。
まだ昼間だというのに――そもそもここは標高がかなり低い場所であるはずなのに、満天の星空が。
その光景が、私から感嘆の声さえも奪っていた。