ねむりひめがさめるまで
【三】若苗萌黄の行方
一
私は自分の事を、丁度いいポジションにいると思っている。
主役を引き立てながら、特に誰かと敵対もせず、人の好意を汲み取れる立ち位置。それは今後も一生続くだろう。
だって主役になんてなったら対立があるし、一つの選択で周囲との関係が悪くなる可能性だってある。そんなもの、背負って何になるというのだ。
高校に入ってから顕著になった格差、そして形成されてゆくヒエラルキーの面倒臭さから、いかに苦しまず、けれど楽な立ち位置に居座れるかを考えた末にたどり着いたのは雑草になることだった。
若苗萌黄(わかなえ もえぎ)なんていう綺麗な名前を受けて産まれてきたけど、そんな大層な存在にはなりたくない。大きくて名の知れた花の傍に咲いて、目立たないけれどそっと生き永らえる。それくらいでいい。
そんな残念な―自覚はしっかりと持っている。でなければただの馬鹿でしか無い―思想の下、高校生活をそれなりの位置から楽しんでいたわけだが、少しだけそんな思想に陰りが生まれた出来事があった。
数日前にあった教師の奥さんの葬式でのことだ。
真崎葵は雪浪高校で国語の教師として赴任し、幾つかのクラスを受け持っていた。姿勢はわりと良いし、教え方も上手い。服装はグレーとか深い緑とか、大人しい色を好む人だった。
ただ、極度に生徒と話したがらない、関係を縮めたがらない人で、授業や授業に対する質問を除けば、会話した事のある生徒はまるでいない。いたとしても天気がいいですねとかそのくらい。
だから葬式も私はただ授業を受けていたという理由での参加だった。他の生徒も同じようなものだろう。多分真崎先生もそういうのを好まないと思うし、別に出る必要は無いよと言ってみたのだけれど、変なところで生真面目な両親は仕度を始め、私を引きずるようなかたちで式場まで連れて行った。
行列は、会場からニ、三件ほど先を行ったところまであった。
この式の意味も理解しているかどうか分からない幼児から、時間をかけて刻み込まれた皺で顔を一杯にした老人まで、並んでいる者は多種多様だ。
母に肩を抱かれ、私は従うがままに最後尾に並ぶ。看板を持った男性は、確か真崎先生に頻繁に声をかけていた男子生徒だ。悔しそうな顔をして俯いたまま、それでも案内だけはしっかりとこなしていく。あれだけ慕っていた教師の奥さんが死んだんだから悲しむのは当たり前だろう。もしかしたら実際に会ったことがあるのかもしれない。しかし、あの真崎先生が奥さんを生徒に紹介なんてするだろうか。
簡単に数えただけで百前後。式場から出て行ったり、途中ですれ違った喪服姿の集団のことを考えると、もっと多くがこの式に訪れているようだ。
目立つのを嫌う人物だと思っていただけに、妻の葬式をここまでオープンにする選択をしたことには正直驚いた。彼は、少なくとも私と同じ「雑草側」にいたいと考えていると思っていたから。
彼は今、主役の場に立っている。妻と共に誰もが憧れる「悲劇のスター」なんて舞台に。その味はどうだろう。
多分私は今、とても最低な思考を抱いている。それは私も分かっている。けれど私は所詮雑草だ。この列の中の一人であり、ただ焼香を済ませたら帰るだけの女子生徒。私が何を考えようが何かのきっかけになることはない。
だから、周囲の空気を目一杯吸い込んで暗い顔を作る両親達を横目に、私はただぼうっと、自分達の番を待っていた。冥福を祈る気持ちも多少なりあるが、今の私が見たいのは表情を崩して泣く真崎先生の姿であって、それさえ見ることができれば十分とさえ思っていた。我ながら不謹慎で、性格の悪い女だと思う。
だが、私が並んでいる間に予想した彼の姿は、どれも崩れて散った。
会場内に入って数十分。漸く焼香の順番が回ってきた私は暫く正面をじっと見つめる。
大きな飾り付けの下に真崎碧さんの眠る棺があって、幾つもの色鮮やかな花が添えられ、大きな写真が飾られている。とても綺麗な人だったんだな、と写真に対して簡単な、けれど純粋な感想を抱いた。目元がしっかりして、鼻筋の通った色白の女性で、初めて見た私も思わず若い死を残念に思ったほどだ。
次にお辞儀も兼ねて親族側に目を向けた時、私はひどく驚いた。
真崎先生は、穏やかな顔をしていた。
悲しんでいるようにも、微笑んでいるようにも思える、しかし結局のところ無表情に近いリラックスした状態の結果なのかもしれない。
いずれにせよ、妻を亡くした式で見せるような夫の顔ではなかった。
私は暫く動揺していたが、後ろからの催促と、不思議そうに私を見る真崎先生の視線に、慌ててお辞儀と焼香を済ませ、逃げるように式場を出た。
焼香を終えると両親はこのまま食事でも取って帰宅しようと提案をし、周辺の飲食店を探し始めた。私はそんな二人に向けて見えないように溜息を吐いた後、遠くなった式場を眺めてみた。
あの場所で、真崎先生はまだあの表情を浮かべているのだろうか。
少なくとも、彼は悲劇のスターにはなっていなかった。主役の座を手に入れながら、しかし彼にそれに見向きもしない。
多分彼は先もずっとあのままな気がする。もしかしたら涙も流さなかったかもしれない。
私たちは適当なレストランに入り、何席かに上を脱いだ白シャツの団体を見つけて、ああ、こういうものなんだと思わず自嘲気味な笑いを漏らした。
「あの国語の教師さん、立派な人ね」
注文した後で母はそんなことを口にすると頬杖をつき、どこか羨望の色をした目をぱちぱちと瞬かせた。
「確かに、本来なら一番悲しみたいところで、あれだけ耐えて……」
父は頷いてから濡れタオルの包装を破り捨てた。
二人には、そう見えていたらしい。
多分人によって印象はまるで違うのだろう。全てを悟ったような笑みに見えた人もいれば、両親のように堪えているように、もしくは悲しみが今にも溢れそうだと考えた人もいたのかもしれない。
流石に二人の意見に賛同は出来なかったため、言葉を濁すようにドリンクバーから持ってきたオレンジ・ジュースをストローで啜りながら窓の外を眺める。
大通りを走り抜けていく車のヘッドライトに照らされて暗闇に潜む喪服の集団が幾つも見えた。
「聞いたけど、今回の式、奥さんの言伝らしいなあ」
どこからそんな話を聞いたのか、父は突然そう切り出した。
「面識は無くても、参列したいと思った人は全て通して欲しいと言われたらしい」
「それを、誰から聞いたの?」
「ああ、手洗いを借りた時に声を掛けてきた人がいてな。流石に面識も無いのに良いんでしょうかねえ、なんて聞いたらそう言っていたよ。親族から聞いた人がまたそれを周囲に話して……ってのを繰り返した結果、俺の下にもやってきたってだけさ」
「先生の奥さんは、なんでそんな式を望んだんだろう」
訪ねてみたが、父も母も肩を竦めただけだった。
そうこうしているうちに注文した料理が届いて、話題も打ち切られて私達は黙り込んだ。
カルボナーラをフォークで巻き取りながら、もう一度真崎先生の表情を思い出す。意図せずに舞台上に立ってしまった彼はあの時、何を思っていたのだろう。
もし似たような出来事に遭遇したとして、私はあんな顔ができるだろうか。突然主役の座に持ち上げられて、舞い上がらずにいられるだろうか。
そんな経験が無いからこそ出来る妄想だ。
私は巻きつけたカルボナーラをぱくり、と口にすると咀嚼して飲み込んだ。喉に絡みつくような甘いクリームがなんだか気持ち悪くてオレンジ・ジュースでその残った甘さを洗い流す。少しだけ、気分が楽になった気がした。
それから、私は少しだけ彼の存在に興味をもつように思えた。あの時の表情の真意が知りたかった。
でも真崎先生は長い休暇を取ってしまい、結果として真意を汲み取るチャンスに巡りあう事は無いまま時間だけが過ぎていった。父も母もきっとあの葬式の事はもう忘れている。真崎碧さんのことだって頭の片隅にあるかないかくらいだろう。
あんなに美しい顔でも死んでしまったらすぐに忘れられてしまう、存在を覚えていてもらえないと思うと、少し寂しくなった。
式以降も私は雑草という立ち位置に居座り続けた。何か変化に期待していたわけでも無かったし、私もなんだかんだで結局父や母のように忘れていつもどおりになると思っていた。私も二人と同じで真崎碧さんと面識が無いし、真崎先生と懇意にしているわけでは無いのだから。
たが真崎先生の事が忘れられず、もやもやしたまま日々は過ぎていった。あの表情の真意が知りたくて知りたくて堪らなかった。
そんな事を考えながら特に面白くもつまらなくもない高校生活を送っていると、突然一人の女子生徒に声をかけられた。
「ねえ、貴方、ちょっとだけ無理してそう」
彼女は、確かに私に向けてそう言った。それも周りの中で付き合いの一番あるグループに混ざっていた時に。
教室の隅で六つ席をくっつけて昼食を取りながら談笑する。それが私の学校での当たり前であり、そこそこな立ち位置を手に入れる点では抑えておくべきワンポイントだった。好きな異性の話や部活での出来事、試験内容からテレビの内容まで、きっと昼食が終わったら記憶から消し飛ぶ会話に紛れ込むだけで、寂しくもなくかといって鬱陶しくもない「丁度良さ」が手に入る。
突然の来訪者が入れたメスは、危うく私の丁度良さを、悪戯にも切り落とそうとしてきたのだ。幸い穏やかな面子の多いグループに属していた事で大した問題にもならなかった。が、私が不在の時に少なくともそれなりの疑問は生まれるだろう。波紋がたった瞬間に、彼女達の中で土埃が舞う。そうして根底から掘り起こされた不安は、濁った水のようになる。
迷惑な来訪者は変なこと言ってごめんなさい、と上品な口ぶりで言うと、長い黒髪を右手で撫で付け、私に一度笑いかけてから去っていった。
私はその時間一杯をこのグループに費やして表面上だけでも昼食前の空気に引き戻すことに成功すると、少し休みたくなって次の授業を抜けだした。
「あら、いつも元気な子が珍しい」
一階の保健室にたどり着くと、担当の茅野茜先生は目を丸くしながら私を迎えた。確かに病弱なイメージは私にないだろうけど、わりと元気というわけでもない。
「ちょっとだけ気分が悪くなっちゃって……。少しのあいだベッドを借りても良いですか?」
「ええ、今のところ利用者も居ないし、男連れ込んでイチャつきたいとか授業をサボりたいとかでなければね」
「そんなつもりないです。本当にちょっと気分が」
分かってる。茅野先生はよくできたウインクを私に投げるとお大事にと言ってカーテンを閉めてくれた。奥に彼女の存在を感じながら、それでも多少気が楽になったようで、身体中が一気に弛緩していく。全身から熱でも放出するみたいにすうっと疲れが抜け、ベッドに仰向けに倒れこむと更に疲れが溶けて心地良さに変わった。
あの子、どこのクラスの子だろう。今度会ったら文句の一つでも言ってやりたい。
それにしても無理をしてる、か。
否定をしたけれど、現にこうして一人ベッドに横になった私は随分とリラックスできている。
プリーツが乱れそうだな、とかブラウスがしわだらけ、髪なんて四方八方に飛ぶかもしれないと不安を抱きながらも、とにかく横になりたくて私は靴下を脱ぎ捨てて布団を被った。シーツの滑らかで冷たい感触がとても心地よい。私は暫く足を動かしてシーツの感触を楽しみ、やがて良い感じに眠気がやってくると枕に頭を預け、おやすみなさいと心の中で唱えてから瞼を閉じた。
「良い夢、見れているかしら?」
その声があまりにも近かったからだろうか、私はハッとして目を開くと上体を起こして声のした方に目を向けた。
傍の丸椅子に、あの時の女子が座っていた。上品に両足を揃え、手は膝に置いたまま動かさない。全てに於いてよくできた姿勢に無理は見られなくて、むしろそうしているのが自然であるように見えた。黒髪はすとんと下に流れていて、制服越しになだらかな曲線を描く胸に毛先が掛かっている。あの時は一瞬だったから分からなかったけれど、随分と長い髪だ。私があと一年くらいかけて伸ばさないと多分追いつけないくらい長い。
彼女は私の反応を見て笑みを浮かべる。よく見ると目元に泣き黒子があって、それが彼女の魅力を高めているように見えた。妖艶さを孕むその瞳は、思わず吸い込まれそうなほどくっきりとしていて、私は思わず視線を逸らしてしまう。
「今、何時ですか?」
「今は、四時ね」
彼女はブラウスの袖をずらすと手首に巻いたシルバーとピンクの可愛らしい腕時計を見て時刻を告げる。大分眠ってしまったようだけど、なんだか眠った気がしない。少し目を閉じただけのつもりだったのに。
「夢は、見られた?」
彼女は再びそう問いかけてきた。私が首を横に振ると、良かったと小さく呟いてふふ、笑みをこぼした。
「深い眠りに就いた時ってね、夢を見ないそうよ。やっぱりとても疲れていたのね。それだけ深く眠ってしまうってことは」
「……確かに、少しだるかったのは確かだけど、別に無理をしていたつもりは全くないし、疲れてるなんて勝手に決めないで」
そうはっきりと彼女に告げると、あら、と少し驚いた表情と共に彼女は右手で口を隠す。ぷっくりした血色の良い唇がちらり、と指の間から見えた。
「ごめんなさい」
「貴方の名前は?」
「藤紅淡音(ふじべに あわね)。貴方は若苗萌黄さん、であってる?」
彼女、淡音はそう告げると目を細める。
「あって、ます」
「良かった。じゃあよろしくね。若苗さん」
「よろしくって……」
「私、前から貴方の事気になってたの」
「私を?」
淡音は頷く。
「でも、なんで私を……?」
「若苗さん、周囲に合わせるのがとても上手いじゃない。どんな時でも好意的な返事で、敵を作らないよう、脇役に徹してる。一番美味しいポジションに居座る方法を知っている」
淡音の言葉に、私はぎゅっと唇を噛み締める。
「私、あんまり人付き合いが得意じゃないの。喋り方とか、目元の感じとかがあまり気に入られないらしくて、少し言葉を交わしても話しにくそうな顔されておしまい。私の一番の欠点」
その時なの、と彼女は言うと顔を上げた。血色の良い紅色の唇が光を食んで鮮やかに輝くのが見えた。
頬を赤く染める彼女に視線を投げかけながら、私はベッドの縁に足を投げ出すと自分の髪を軽く梳かす。
要するに、人付き合いの苦手な彼女が、ある一定の距離を保って生活する私に憧れてしまった、と……。
別に羨望の眼差しで見られるような生き方でも無いし、むしろ私の在り方を知られたら非難されると思い続けていただけに、彼女の憧れる私のある意味「卑怯」とも取れる人付き合いのやり方に賛同されるのは意外だった。
「私に興味を? 本当に?」
「ええ、本当に素敵だと思う」
淡音はそう言うとカーテンを引く。
窓から差し込む日差しをベッドのシーツが受け止め、跳ね返す。眩いその反射光に私は思わず目を細めた。
淡音は目を細める私の前に駆け出すと、ステップを踏むみたいにベッドから窓際まで向かい、留め具を外して窓を横に滑らせた。
――からから。
音を立てて開いた窓から途端に、冷たい風が室内に流れこんでいく。
カーテンのはためく音と共に、彼女の長い黒髪が風で躍った。
乱れた髪が宙に舞う。
その中で淡音は目を細めて笑った。逆光で暗く落ち込んだ姿の中で、明るく笑った。
淡音は窓の縁に飛び乗ると、風に舞う黒髪を手で抑え、項から胸元までその手をゆっくりと撫で下ろす。そのまま窓の外にふらりと落ちていってしまいそうだ。なんとなく、彼女なら本当にやってしまいそうな気がした。
「ねえ若苗さん、私とお友達になってもらえないかしら」
縁に座ったまま淡音はそう私に微笑みかける。
「友達……?」
ええ、と彼女は頷いた。
「貴方になら心を許せそうなの。私という人間を上手く覗きこんで、一番満たされたい部分に触れてくれる。そんな気がする」
「そんな、そこまでできた人間じゃないわ」
淡音は窓を飛び降りてベッドまでやってくると、座り込む私の顔を見上げるようかたちで下から覗き込む。長い睫毛と、澄んだ瞳。そして泣き黒子が煙草一本分もない距離にあった。
「貴方、きっととても綺麗な色をしてる」
彼女は耳元に顔を寄せるとそう囁いた。
藤紅淡音は、奇妙な人物だ。でも、何故だろう。こんなにもズケズケと私に入り込もうとしてくるのに、不思議と悪い気はしなかった。
「私で、いいの?」
私は悩んだ末に、絞るような小さな声で返事を返した。
たった一言が、酷く重かった。こんなに言葉は重いものだったろうか。今まで感じた事のない感覚に私は混乱していた。
「良かった」
そう言った淡音の笑顔は、今まで見たどんな顔よりも、輝いていて、綺麗に見えた。
これが、私と淡音の出会いだった。酷く唐突で、気味の悪い、けれど今までのどんな時よりも自分を必要とされた出来事だった。
ニ
彼女との付き合いが多くなったことで、私は「変な奴に引っかかってしまった不幸な女子」という印象が付いたらしい。早く切るべきだとか、貴方が心配だとクラスメイトから度々忠告されるのだが、私は曖昧な返答を返しながら、今の彼女との関係を続けていた。
藤紅淡音は良くも悪くもいるだけで周囲の注目を集めた。
どこか陰のある彼女に惹かれる者も少なくなかったが、歯に衣着せぬ物言いや高圧的な態度から、近寄る生徒はいなかった。
そのうちあまりにも校内での交友関係が無いことから「男がいる」と噂が立ち、その噂が一人歩きして「夜の街を歩いていた」とか「大人の男とホテルに入っていくのを見た」とくだらない噂にまで発展していた。
そんな彼女と付き合うようになった結果、気がつけば若苗萌黄という名前も広まり始めてしまった。それも「あの藤紅と交友関係を築ける稀有な生徒」という比較的好印象で、だ。
「ねえ萌黄、今朝のニュース見た?」
昇降口を入ってすぐに出会った淡音は、泣き黒子のある目を細めると口角を上げた。私が首を振ると、とても残念そうに後ろで手を組んで肩を竦める。
「咲村真皓って男子生徒が行方不明になったんですって。道端で突然消えて、それからもう一週間近く音沙汰が無いらしいわ」
「ああ、それなら見た」
道の真ん中で突然消えた男子生徒の容姿はよく覚えている。それなりに整った容姿をしていたからというのもあるかもしれない。短髪で鼻筋が通っていて、特につり目が印象的な顔。
ローファを上履きに履き替えて、玄関傍の階段で三階まで上っていく。その間も淡音は事件に対する詳細を嬉そうに語っていた。
「この高校にね、咲村って性の子がいるのよ。なんでもお姉さんみたいよ」
「その子のところにでも行くつもり?」
「まさか。私にも良心はあるのよ」
へえ、と適当に言葉を返すと、淡音は少し不機嫌そうな顔をした後私の背中を軽く叩く。彼女は時折子供みたいな反応を見せる。魅力的な物を見つけたらショーケースに張り付いて離れなかったり、順番を抜かされたりしただけでしばらく文句を口にし続けたり。
容姿や言葉遣いが大人っぽいからか、その言動はなんだか新鮮で、且つ彼女がまだ私と同じ少女であることを確認できる瞬間でもあった。
「しばらくは行かない」
淡音の言葉を聞く限り、いずれは咲村真皓の姉の前に立つつもりでいるのだろう。
「そう、もう一つニュースがあるの」
「何?」
「今日から真崎先生、出勤するって」
真崎葵。
私と淡音も、クラスは違うけれど彼の授業を受けている生徒だった。
「随分経ったしね」
本来の復帰日から更に休みを延長していたようだけれど、状況が状況であることを思うと仕方のないことなのかもしれない。
「やっと授業が退屈じゃなくなりそうね」
陽気なステップを踏んで私を追い抜いた淡音の背中を眺めながら、私はふと気になった事を口にした。
「淡音は、真崎先生のこと好き?」
立ち止まった淡音は、振り返ると不思議そうに首を傾げて、それから「好きよ」と答えた。
「だってあんな教えの良い先生そういないもの。それに……」
「それに?」
「少しだけ貴方にそっくりだから」
私に? 淡音にそう問いかけようとすると、彼女は目を細めて手を振り、足早に自分の教室へと入っていってしまった。私はその場に立ち尽くしたまま暫く彼女の入っていった教室を眺めていた。
この雪浪町で何か起こっているのかもしれない。
ホームルームが始まってふと思ったことだった。最近人の死を弔う機会に遭ったり、淡音と交友を築いたり、咲村真皓が失踪するなんて事が立て続けに起こっているからかもしれない。真崎碧の死と咲村真皓の失踪に結びつく点なんて無い事は分かっているのだけれど、なんとなく勘繰ってしまう。
「じゃあホームルームは終わる。今日は久しぶりに真崎先生が来るからな」
担任はそう告げると騒ぐ教室内を眺め嘆息を一つついて、そそくさと出て行ってしまった。
私はいつも通りの笑顔を顔に貼り付けると集まる女子の一人として紛れ込む。非生産的な会話に相打ちをして、その度に心が摩耗していくのを強く感じた。さっさと昼食時間になってくれないだろうか。淡音の顔を思い浮かべながらそんなことを考える。
「真崎先生も不幸よね。まだ新婚のようなものだったでしょう?」
「手術も成功しなかったなんてね」
「ほんと、人生って何があるか分からない。だからこそ今を精一杯楽しまなくちゃいけない……ってことで、今日カラオケに行かない?」
行くかどうかとか、財布の中身がどうだとか、彼氏と今日はとか会話に熱を上げる女子達の前で悩んだ振りをしていると、言い出した女子生徒が憐れみを込めた目で私を見る。
「なんか藤紅さんに引っ付かれてから萌黄と中々遊べなくなった気がする」
「そう、かな」
机を両手で思い切り叩くと、彼女はハーフアップの髪を小さく揺らした。
「そうよ! だって前まではもっとしょっちゅう一緒にいたじゃない」
そうだっただろうか、と記憶を引っ張りだしてみるのだけれど、彼女との思い出はあまり浮かばない。胸の内で謝りながら、私は微笑みを作って肯定の言葉を口にしておいた。
「今日は絶対参加ね。あんな気味悪い人と付き合って鬱憤も溜まってるだろうしさ。何か握られてるんじゃないの? うちらに話してよ。力になるから」
そうやって浮かべた彼女の笑みは、とても輝いていた。自分は友人を救おうとしていると信じて疑わない、達成感に満ち溢れた表情だった。
分かっている。多分これは彼女の本心だ。本当に私を救いたい気持ちで、それがまた私達の交流の絆とかなんとかを強いものにできると思っている。
私はありがとう、と言って笑った。
「じゃあ萌黄も放課後、ね」
彼女がそう言うと同時に、教室の扉が開いて、椅子を引く音が立て続けに鳴り始める。教卓に出席簿を置いた彼は、おはようございます、と言って教室中をぐるりと見回した。低音のゆったりとしたリズムの懐かしさに目を閉じ、それから教卓の先にいる彼に目を向ける。
「改めて、今日から授業をさせて頂きます。ここ数日間は本当にすみませんでした」
真崎先生は軽くお辞儀を続けて、それから何事も無かったかのように出席を取って授業を始めた。
それからの彼の授業は、本当に普通だった。生徒達の言葉に対して的確に答えを返し、重要な箇所では穏やかな表情で教鞭を黒板に指し示す。
恐らくそれは、「普通」という言葉で合っているのだろう。少なくとも常識という括りの中では。
約四十五分という短いような、長いような時間の中で彼は坦々と授業を進め、チャイムが鳴ると次回の単元を口にして教室を出て行った。
クラスメイト達は真崎先生の姿が消えるのを見届けると、思い思いに動き始める。背を伸ばす生徒。書き残した内容をノートに急いで写す生徒、窓を開けてベランダに飛び出る生徒、集団を作って真崎先生について話す生徒。
――真崎先生、なんだか思ったよりも元気そうね。
――もっと奥さんについて悲しんでいると思ってた。でもあの様子だと平気そう。
――前よりも笑うようになった気がする。空元気ってやつかな?
女子の塊を横目に見ながら、私は葬式での彼の表情を思い出す。
悲しげにも、喜んでいるようにも見える、あの穏やかな顔を。
あれは、紛れもなく彼の本当の顔だったと思う。ならば、今ここで幾つもの表情を浮かべる彼は……。
授業が終わり、雪浪駅から二つほど先を電車で行くと、私を含めたクラスメイト達は駅からすぐ傍にあるカラオケ店に入った。
雪浪高校の傍で遊んでいる生徒は、正直見たことが無かった。商店街くらいしか見どころもなく、少し電車で揺られればそれなりに遊び場の豊富な街に出ることができる。私も雪浪駅の周辺に関してあまり知らない。
「それにしても真崎先生、びっくりするくらい元気だったね」
マイクからビニールを取り外し、液晶モニタ付きのリモコンから、私を除く五人が順に曲を送信している。
しばらくして、ある程度決められたレパートリーの中でだけ歌う私は持ち歌を歌い尽くすと休憩を呟いて回ってきたリモコンを隣に回した。隣の女子生徒は歌いなよと私の肩を小突きながらも私からそれを受け取ると、視線を私から液晶へと移し、好みの歌を探し始めた。周囲の合いの手に混じりつつメロンソーダの入ったグラスを手にとる。
「真崎先生、相変わらず教え方うまかったね」
丁度一番奥の女子にマイクが渡った辺りで、次の曲を入れ終えた女子生徒はそう口にした。私は半分くらいまで減ったグラスを机に戻し、軽くスカートを払うとソファに背中を付ける。
「でも、なんかいつも通りに振舞ってます感、あったよね」
大音量の音の隙間で、笑い声が漏れる。
「そうそう、無理してますって感じ」
「葬式でも泣いてなかったしね。結局その程度だったんじゃない?」
「あーやだやだ、私はもっと泣いてくれる恋人作ろう」
「っていうかアンタ今の彼氏とどこまでいった?」
「えー、知りたい?」
「そういえば隣の――」
グラスの氷がカラン、と音を立てて動く。とても美しく、純粋で、透明で、何者にも汚されることのない澄んだ音だと思った。
一定の距離を保ち続けること。誰かの気持ちを汲むこと。
目立たずに日々を平穏に過ごす上でとても大切なことだ。
なのに、今私の中は酷く混乱している。ぐちゃぐちゃに、何もかもが上手く繋がらなくて、思考がまとまらない。
うまくやらなくちゃって思う度に、淡音の顔が浮かんだ。
平穏を求めようと思う度に、あの葬式の真崎先生の姿が浮かぶ。
酷く胸がざわつく。クラスメイト達のどうしようもない会話を耳にする度に、気分が悪くなっていく。粘液みたいに彼女たちの言葉がこびりついて反響する。
なんだこれは。
普段ならうまく溶け込めたって喜ぶところの筈なのに。
何故私はこんなにも苛立ちを覚えているのだろうか。
粗雑な作りのサウンドに、エコーでうまく誤魔化された歌声、適当な敵を作っては不快と感じた事に対して同意を求め、それを共感として受け取る周囲の笑顔。
なんだろう。
何が楽しいんだろう。
「萌黄、携帯鳴ってるよ」
隣の声掛けに私はうん、と柔らかい口調で答えるとテーブル上の携帯を手に取る。
着信は淡音からのものだった。
「誰?」
「……ごめん、人待たせてたの忘れてた!」
そう言って慌てて立ち上がる。
「誰?」
「……私にも、ちゃんと春は来てるってことよ」
私の撒いた餌は十分にうまく働いた。
彼女達は目を見開くと星でも入れたみたいに輝かせた。彼女達の興味の言葉を掻い潜り、今は会いに行くのが先だと告げると、個室を飛び出た。
明日になったらこの嘘を本当にする必要が出てくるけれど、正直どうでも良かった。とにかくここから出られるなら嘘だって構わない。
カラオケ店を出た所で再び着信が鳴り始める。なんだ、あの子はどこかから私の事でも見ているのだろうか。なんにせよいいタイミングで私に逃げ道を作ってくれた彼女には感謝しないといけない。
缶ジュース一本、では納得して貰えないかな。
しかし、肝心の淡音からの着信は、私が出ようとした瞬間に途切れてしまい、それから何度リダイヤルをしても繋がることは無かった。一体この二度の電話で彼女は何をしたかったのだろうか。本当に私を助け出すためだったとして、その後に顔を見せてくれないのもおかしい。
再びあのグループと鉢合わせるのもなんだか居心地が悪いので、私は駅に戻って改札を潜ると再び電車に飛び乗った。雪浪駅に比べて乗客の数は多い。実際駅前はごった返しているし誰かの肩にぶつかる事なんて日常茶飯事な場所だ。正直、あまり好きにはなれない。よくあんな密集地帯に好んで遊びに出かけられるものだと思う。
電車はがたん、ごとんと軽快な音を立てて進んでいく。壁に身を預けていると、その音と振動が響いて、それが心地良かった。
夕刻過ぎの車内は疲れた目をしたサラリーマンが多くて、皆触れたら溶けてしまいそうなぐったりとした姿で椅子に座り込んでいる。幾つか席が空いていたが、その疲れきって座り込むスーツ姿を見ていると、立っていろと言われている気がしてどうにも座る気になれなかった。
窓の先は幾つもの景色を映しては横に押し流していく。橙色に染められた町並みはどこか陰があって悪くない。むしろこれくらい褪せた風景の方が見ていて楽しい。
次々と流れていく景色はやがてトンネルに入って消えてしまった。がたん、ごとん。音と振動を立てながら滑るように電車は変わらず進む。
トンネルを抜けて校舎が見えた辺りで、私はふと雪浪駅で降りようと思った。
さっきの町よりも落ち着けるかもしれない。
少しだけ、深呼吸の出来る場所に行きたいと思ったのだ。
改札を抜けると、すっかり陽の落ちた薄暗い町が広がっていた。辛うじて残った橙色の陽光がビルを横から照らし、向かい側に濃い陰を落とす。
街灯には人工的な灯りが立ち始めている。私は歩道を渡って商店街に向かう。
「雪浪通り」と書かれた看板の下を潜る。夕刻を過ぎてピークを終えたからか、それとも気分が悪くなるような人混みを見てきたからなのか、帰宅途中の会社員がちらほらと見えるだけのこの場所は、私には随分と丁度いい環境に思えた。
そういえば、この商店街を通るのなんて何時ぶりだろう。高校からとても近いけど、あまり雪浪生は立ち寄ろうとしない。多分辛気臭いとかそんな見てくれを第一にした考えなのだろう。勿論私も商店街に居着く高校生というのもなんだかカッコが悪い気がしてしまって、あまり近寄ろうとは思わなかった。
両手を後ろで組んで、一歩、二歩、三歩と歩数を数えるみたいにして商店街の通りを歩いて行く。そういう時代なのか、シャッターが閉まって人の気配のしない場所も幾つかある。それでも魚屋は声を出して客を呼び込み、反物屋のショウウィンドウを覗くと着物姿の店主が老女と穏やかな表情で談話をしている。狭い店内にこれでもかと詰め込まれた玩具屋の前にはランドセルを背負った少年達が買ったばかりのカードゲームの封を開けてキラキラしたカードを見つけては盛り上がり、ドラッグストアの店員は暇そうに欠伸をしながら在庫補充をしている。
店頭に出てきた彼は制服姿の私を見て物珍しそうな顔を見せた。本当に雪浪生は寄り付かないのだろう。私は彼にはにかんで見せてから、足早にそこを離れた。
「はい、お嬢ちゃん」
丁度商店街の中頃だろうか。十字路になった通りに位置する精肉店の前で、オーバーオールを来た少女が店主から袋とレシートを受け取っていた。多分お使いだ。
あとこれはおまけだから、と少し強面の店主は微笑むとコロッケを一つ彼女に差し出した。オーバーオールの少女は暫くじっとそれを見つめた後、ぺこりと小さなお辞儀をしてコロッケを受け取り、十字路の奥に駆けて行ってしまった。
多分年長から小学生くらいの子だった。少し茶色がかった髪がさらさらしていて、小さな足でちょこちょこと頑張って走る姿は愛らしく思えた。
そういえば、あの頃ってお金を使うのが嬉しかったなあなんて私は思い出に耽る。
五百円握らされて近所の駄菓子屋にお菓子を買いに行って、持っている金額ギリギリまで頑張って計算して買っていた。丁度ぴったり使いきった時は父や母に胸を張って自慢していた覚えがある。
あの頃は、なんにも苦しくなかったんだけどなあ。
幼少期を懐かしみながら、私は精肉店に足を運ぶと少し強面の店主にコロッケを一つ、と伝えた。店主はその顔からは想像も付かないくらい柔和な笑みを浮かべると、揚げたてをあげよう、と言ってくれた。
「学校帰り?」
「あ、はい」
「下校の時ってなんであんなにお腹空くんだろうなあ。夕飯まで待てなくて俺もよく買って帰ったよ」
店主は歯を見せて笑う。その笑顔がとても魅力的で、私もつられて笑った。
「さっきの子、いつも来るんですか?」
「ああ、お使い頼まれたって商店街をよく駆け回っているよ。あんな小さいのにメモ帳に書かれたものちゃんと買っていくんだ。優秀な子だ」
店主は腕を組んで感心するように頷く。私は駆けて行くオーバーオールの少女の後ろ姿を見ながらコロッケを一口齧る。香ばしい衣の奥から出てきた熱々の餡に身体を強ばらせてしまう。そんな私のみっともない姿を見て店主は笑った。
「待ってな、水持ってきてやるから」
お礼を言う前に彼は店の奥へと消えてしまった。まだ舌先がじりじりと滲みるように痛い。下唇を噛みながら痛みに顔を歪ませ、精肉店傍にベンチを見つけるとそこに腰を降ろした。
痛み続ける舌先をどうにかしようと唾液が沢山出てくる。そんなことしてもどうにもできないのに馬鹿だなあと自嘲気味の笑みをこぼしてみると、なんだか少し気が楽になった気がした。
言葉で取り繕ってどうにか自分の丁度いいポジションを探し続けて、でも疲れて逃げ出して、そして舌を怪我するなんて、私が一番馬鹿なのだろう。
「ほら、飲みな」
裏の戸から出てきた店主は、油で汚れた白衣とサンダルという出で立ちで飛び出してくると、水で満たされたグラスを差し出す。私は小さくお辞儀をしてからグラスを受け取ると水を口に含む。よく冷えたミネラルウォーターが傷む私の舌先にそっと触れてくれる。
「すみません……」
「いいって、姉ちゃんがそんなに熱いの苦手だなんて思ってなかったから」
「別に猫舌では無いんですけど……」
「そうかい? さっきのお嬢ちゃんは嬉そうにさくさく食べていったんだけどなあ」
あの小さい女の子は、こんなに熱いものを全部平らげられたのかと思うと、なんだか負けた気がして少しだけ悔しくなった。こんな部分で勝敗を、しかも幼い子どもと争って何になるかという話ではあるが……。
「偉い子ですね。私にはとてもじゃないけどこんな熱いの無理ですよ」
「だよなあ、俺も正直少し冷まさないと辛くてねえ」
店主はそう言うと私に向けて悪戯な笑みを浮かべてみせた。私は少し不機嫌そうに頬を膨らましてから少し冷めたコロッケに齧り付き、あっという間に平らげてみせるとベンチから腰を上げた。
「またおいで」
その言葉に返事を返そうと口を開いてみたが、私は深くお辞儀をして踵を返すと、少女の駆けて行った先へと歩き出す。
空が紺色に塗り変わり始め、雪浪通りも先ほどよりも大分人が増えてきた。大抵は主婦と仕事帰りのサラリーマンで、制服姿なんて私くらいしか見当たらない。近くに学校があるのに、皆驚くくらい寄り付かないんだな、とこの人混みを眺めながら私は思う。
コロッケをもう一つくらい食べるのもいいかな、とも思ったけど、また戻るのは少し恥ずかしい気がして、結局迷った末に精肉店から数十メートル程先の個人経営の喫茶店に入ることにした。ガラス越しに見た店内がとても落ち着いていたのも理由の一つだった。少し歩き疲れたし、家族には友人と食べてくると言ってしまったからご飯も無いし、何よりさっさと帰宅しても退屈するだけだ。
砂糖とミルクの一杯入ったコーヒーを飲みながら、奥の方の席で私はぼんやりと店内を詮索していた。壁に掛かったビートルズとか古いロックバンドのレコードジャケットはどれも古い。カウンター前でコーヒー作りに没頭する白髪交じりのマスターの年齢からして、自前の物なのだろう。店内に掛かっている曲も洋楽で、時々歌ったことのある曲が流れては懐かしさを感じた。イエスタデイとかヘイ・ジュードとか。
椅子やテーブルやカップまで拘っているようで、棚に並んだ食器はどこか上品さすら感じられる。別にチェーン店が良くないわけでもないし、気楽に入れるとしたら断然あちらなのだけれど、不思議とこういう落ち着いた空気の中でコーヒーを飲むのも悪くないなと思えた。
淡音からの着信はあの一度きりで、結局それから待ってみたけれどかかってくる気配は無かった。折角抜け出せたのに、遊び友達がいないと退屈だ。
結局なんだかんだ言いながら、私は淡音と居る時が一番リラックスしているようだ。向こうは向こうで好きなことを口にしてくるし、私も時には反発的な意見を言った。時には喧嘩じみた会話もしたけど、不思議とあの感覚は嫌いじゃなかった。
化粧まみれの自分も必要な事は分かっているけれど、素顔を愛してくれる人はやっぱり必要だ。
「淡音に今度、何か奢ってあげようっと」
テーブルの上に放り出された携帯電話を指でつつきながら、私は微笑む。そうだ、今度この喫茶店に連れてくるのもいいかもしれない。彼女、こういう落ち着いた静かな場所が好きそうだし。
甘ったるいコーヒーを口にしながらそんなことを考えていると、入り口の扉が開くのが見えた。扉に括りつけられた鈴がりん、と音を鳴らす。
コーヒー作りに没頭していたマスターは顔を皺だらけにしながら笑った。
「おや、いらっしゃい、みどりちゃんにあおいくん」
入ってきた主は、マスターに挨拶をしてから部屋の隅のテーブルの座る私を見て顔を強ばらせる。その顔を見て、私の身体も緊張で固まった。
真崎先生だった。
隣で、あの時のオーバーオールを着た少女が彼の手を握っている。
「どうも、真崎先生」
私の挨拶に、彼は一瞬で作っていると分かるぎこちない笑みで応えてくれた。
三
私の隣に彼らはやってきた。真崎先生はマスターに声を掛けると「いつもの」と普段通りの落ち着き払った声で告げ、上着を傍のハンガーに掛けてから椅子に座る。彼がそうするのをじっと見つめた後、オーバーオールの少女も椅子に座った。小さな少女には少し辛い高さだったが、どうにか登ると短い足を椅子から投げ出すかたちで座っていた。テーブルからちょこんと顔が見える。その姿に愛らしさを感じながら、しかしそれではどうにも居心地が悪いだろうと思うのだが、少女は気にする様子もなく両足を交互に揺らしている。
コーヒーを持ってきたマスターは椅子に座るというか、乗っかっている少女を見ておやおやと穏やかな声で呟いてから奥へと再び戻り、幼児向けの椅子を持ってきて彼女をそこに座らせる。
ようやく丁度いい高さに座ることができたからか、少女はとても機嫌良さそうに真崎先生に笑みを投げかけた。彼はそれに笑みを返し、続いてやってきたハンバーグのプレートにナイフとフォークを置く。
「お子さん、ですか?」
二人の一連の光景を見届けた後、私は恐る恐る問いかける。
「姪なんだ。親戚が数日ほど預かって欲しいと言われてね」
そう言うと彼は手元のナプキンにペンで「みどり」と字を書いてみせた。
彼はブラックコーヒーを口にする。そんな苦いものをよく飲めるなあと思いながら見つめていると、彼は私の視線に気づいたのか苦笑しながらカップを置く。
「ちょっとでも気が紛れたら良いと思われてるみたいでね。そんなに悲しんでなさそうな姿を見て、我慢していると思われてしまったみたいなんだ」
真崎は頭を掻きなが言った。
「ねえ、あおい、それのみたい」
みどりという少女は突然そう口にすると彼の手にするコーヒーを指差す。私の手で包めそうなくらい可愛らしい手だ。
よく見ると、彼女の瞳はとても素敵に見えた。くりんとした丸い目に水晶みたいな瞳が輝いている。柔らかそうな肉のついた頬が真崎に声を駆ける度にふにふにと動く。指でつついてみたいなあと思いながら、しかしそんな事を出来るほど付き合いある教師でもないので、心の中に留めておくことにした。
「ハンバーグ食べたら頼んであげるよ」
「いまがいい」
みどりは首を精一杯左右に振ると両手を伸ばす。どうしても飲みたいらしい。真崎はやれやれといった風に持っていたカップを彼女に手渡し、それから手持ち無沙汰になった手をポケットに手を突っ込むとデジタルカメラを取り出し、カップに口を付ける彼女を一枚撮った。
「おいしい」
みどりの感想を聞いた真崎はそっと微笑むと、そうか、と一言。それから再びカメラでコーヒーを飲む彼女の姿を一枚撮った。
「ブラックが飲めるなんて、みどりちゃん、大人ですね」
みどりは私の方を見てから「飲めないの?」と聞いてくる。人見知りはしない子のようだ。私が頷くと、美味しいのに、と残念そうに言ってから再びコーヒーを飲み始める。
「ええと、すまない。あまり生徒の名前は覚えられなくてね。確か私の受け持ったクラスにいたのだけは覚えているんだが」
やっぱり。と私は思った。この人は生徒に関心がまるでない。
「若苗萌黄です」
「若苗さんか、覚えておこう」
彼はそう言うと悪びれもせずに一度だけ頷き、みどりからカップを返してもらうとコーヒーを口にする。
「すごいなあ」
「何がだい?」
「二人共ブラックで飲めるところが。私なんてミルクと砂糖入れないととても無理だから」
私がそう言うと、彼はああ、と笑った。
「ブラックは、私も苦手なんだ」
「じゃあ、何故?」
飲んでいるの、と言う前に彼は私の言葉を理解し、腕を組むと暫く唸る。コーヒーを飲む事についてこんなに悩む人なんてはじめて見た。
真崎は暫く考えた後、もう一度その『苦手な』ブラックコーヒーを飲むと、言った。
「はっきりするから、かな」
「はっきり、ですか?」
「そう、はっきり。自分がちゃんとここにいる感じがするんだ。とても苦くて、舌に残るけど、それのお陰で自分に自信が持てるというか……」
「先生って、わりと詩的なことを言う人なんですね」
うまく説明できないと腕組みをして悩む真崎先生にそう言うと、彼は少し恥ずかしそうに顔を赤らめて俯いてしまった。なんだ、彼にも人間らしいところがあるんだな、なんて思いながら、私は続ける。
「つまり、刺激が無いと生きてる気がしない、と?」
「ああ、そうだね。それが一番簡潔かもしれない。試験だったら模範解答にできるかもしれないな」
「なら次の試験で是非」
「もう答えを知っている生徒が一人、ここにいるからなあ」
私と真崎は顔を見合わせて笑った。
ミルクと砂糖たっぷりのコーヒーを飲んで、私は暖かくて甘い液体がじわりと身体中に広がっていくことに心地良さを感じる。
「それ、おいしい?」
みどりは椅子から身を乗り出して言った。私はどうぞ、とカップを差し出す。彼女は手を伸ばして受け取って飲んだが、顔を顰めてカップを私に突っ返した。どうやら好まなかったらしい。
「あおいのすきそうなあじがする」
だから嫌い、と彼女は言った。真崎先生は彼女の言葉を聞いて少し寂しそうな顔をした後、じゃあ私には好物だ、と言って微笑んだ。
「飲んで、みます?」
私がそう言って差し出すと、彼はそっと首を振った。
「甘い物は暫く我慢しようと思っていてね」
「どうしてです?」
「どうして、か……。気分じゃないって答えが簡潔なのかな。今は刺激が欲しいから」
彼の言葉を聞いて、私は差し出したカップをテーブルに戻す。
「それにしても雪浪生が珍しいね。古臭いって寄り付かない子がほとんどなのに」
真崎先生は不思議そうな顔をしてこちらを見つめてくる。この話題に対してどう答えようか、彼の言うように簡潔に答えるとしたならば、どんなものが適当なのだろう。
暫く考えてから、私は口にした。
「ちょっと逃げたくなって」
あまりにも抽象的な言葉だと我ながら思う。言ってからなんだか恥ずかしくなってきて、私は思わず俯いてしまった。どうしよう、顔が少し熱い。
だが、真崎先生は一度ふうん、と言ってから暫く黙りこみ、それから俯く私の頭に手を置いた。
「強がるって、辛いからね」
核心を突いた一言だった。
でもそれを認めると、簡単に言い当てられてしまったようで、それが少し悔しかった。
それで、つい感情的になって、頭を撫でる彼の手を振り払ってしまった。
真崎先生は、怒ることも驚くこともせず、穏やかな表情のまま私をじっと見つめ、それからブラックコーヒーを口にし、みどりの頭を撫で始める。少女はくすぐったそうに目を閉じながら、しかし拒むことはせず、むしろ嬉そうに微笑んだ。
「だからこそ、全てを曝け出せる相手が欲しくなる。このままじゃ自分が壊れてしまうのが理解できているから……。きっとその逃げ出した理由も、そうできる相手がいたから思いついたんだろう?」
その通りだと思った。
私の表情で察したらしい。彼はそっと微笑む。
「手放さないようにしなさい」
私は頷く。
「もえぎ」
みどりが声をかけてくる。名前を覚えてもらえた事が少しうれしくて、私は彼女に向かってはにかんでみせた。みどりは不思議そうに首を傾げている。
「なあに?」
「がんばって」
ありがとう。そう言うとみどりはどこか嬉そうにして、再び真崎先生からコーヒーを奪うと飲み始めたのだった。
一時間近くも喫茶店に居着いてしまった。
随分と長居したと思っていたけど、マスターからすれば「短い方」らしい。長い人はそれこそ開店から閉店まで帰らない人もいるそうだ。一体何をしているのかは知らないけれど。
「マスターはああ言っていたけど、随分と長居させてしまったね」
「いえ、本当に暇していたので」
そうか、と真崎先生は呟いてからみどりの手を握る。
みどりは顔を上げると何度か周囲を見回して、それから握った彼の手を二度引いた。
「じゃあ行こうか」
みどりの言葉に頷くと、先生は私に向き直る。
「じゃあ、また明日、学校で」
「はい、また明日」
微笑む真崎先生にお辞儀をして、私はその場を後にした。
閉店した店と、一日中営業しているドラッグストアやコンビニ、ファストフード店の光を横切りながら歩いていき、やがて通りから出ると雪浪駅の改札口前に辿り着いた。これ以上彼と顔を合わせるのもなんだか気恥ずかしいし、家の近くにある何かで夕飯は済ませてしまおうと思った。
ふと思い立って、私は振り返ると雪浪通りの方を見た。すっかり人通りも少なくなって閑散とした雰囲気を漂わせている。一時間前の盛況ぶりが嘘みたいに捌けてしまった。
改札口を抜け、上りのプラットフォームに出ると電車を待つ。待ちながら、私は再び携帯を手に取ると淡音に電話を掛ける。
だが、その電話は取られることは無かった。暫くして留守番電話に変わったのを確認すると私は通話を切って溜息を一つ、吐き出した。
――手放さないようにしなさい。
私の中で次第に淡音の存在が大きくなっている。彼女なら私の事を全て話せる。私の想いを理解してくれる。そうやって、思わず乗っかりたくなる何かが彼女にはあった。
できることなら今日だって、彼女に会いたかった。会って、どんな居心地の悪さを体験したか愚痴って、そして彼女の皮肉じみた言葉でその出来事を嘲笑って欲しかった。
携帯に映る名前を見つめていると、突然胸がぎゅうと強く締められるような感覚を覚えて、思わずその場にしゃがみ込んでしまう。
「電話くらい出てよ」
なんで出てくれないの、と苦しくなる胸に手を当てて私は弱々しく呟いた。
結局、藤紅淡音はその日一度も私からの着信を受け取らなかった。夜も、寝る前に電話しても彼女に繋がることは無かった。
そして同時に、カラオケボックスでの着信が、藤紅淡音がこの世にいたという最後の痕跡にもなってしまった。
藤紅淡音は消えてしまったのだ。
その言葉通り雪浪高校からも、私の下からも。