Neetel Inside 文芸新都
表紙

ねむりひめがさめるまで
【一】真崎葵の日常

見開き   最大化      

   一

「私が居なくなったら、まず新しい相手を見つけてくださいね」

 遺された言葉は、それだけだった。
 ベッドの上で微笑む彼女の真っ白い肌が、窓越しの光を受けてとても輝いて見えた。
 いくつもの薬物が投与され、副作用で洗面器にげえげえと吐き散らし、痛みによる睡眠不足で隈のできた目元に、肉の削げ落ちた頬。寝間着から覗く肉体は骨張り、果物すら喉を通らず点滴生活となった結果が、腕に痕となって残る体なのに、私には彼女がとても美しく見えて仕方がなかった。
 そんな、心身ともに病に侵されきった女性が口に残した言葉が、それだった。
 彼女は確かに私にそう言って、骨と皮だけの枯れ木みたいな細い腕を私に伸ばすと、微笑んだのだった。
 彼女の手を取って、深く頷く私の姿を見て、彼女はよかったと笑った。
 もっと、もっと何か無かったのだろうか。
 忘れないでいて欲しいとか、いつまでも一緒にいてほしかったとか。ずっと愛しているだとか。そういった現世に残るような言葉を、どうして口にしようとしないのか。
 頷きながら、そう叫びたくて堪らない自分がいた。
 彼女は手を私の胸に押し当てると、掌に力を込め、思い切り私を押した。
 その力強さに驚いて私は一歩だけ退いてしまった。
 退いてしまった足に目をやり、それから再び彼女の方に視線を戻すと、私はああ、と吐息のように呻き声を漏らした。
 ベッドの片隅でうつ伏せに倒れ、私を押した手が、だらりと外に放り出されているのを見て、私は彼女がどうなったのか悟った。
 彼女は、まるでこの部屋の一部になってしまったようだった。そう、まるで絵画のように、その光景は、完成されていた。
 布団に埋まる彼女の顔はとても安らかで、投げ出された細い腕と、艶のある黒髪が四方に乱れ流れている。
 余りにも、穏やか過ぎはしないだろうか。
 二度と覚ますことのない眠りに彼女がついたにもかかわらず、私はその最期の姿に、しばらく見とれていた。
 少しして、病室の扉が乱暴に開いた。次々と白衣の男女が雪崩れ込んでくる。
 彼らは懸命に彼女に声をかけるが反応はない。
 彼らがどうにかして彼女の目を覚まさせようとしているのは、理解していた。手を尽くしてくれることに何にも得難いほどの感動と、感謝も感じている。ここまで彼女が永らえてきたのも、彼らのお陰だということも忘れてはいない。
 でも、もういいんだ。
 もう、眠らせてやって欲しい。
 止めてやってくれないか。
 身体の奥底からふつふつと熱が湧いてくる。真っ白で、絵のように見えていた景色がだんだんはっきりとしてきて、それまで遠くの方で鳴っていた彼らの言葉が私に歩み寄り、いたずらに微笑むのだ。
――緊急――
 その幾つかの言葉が白衣の口から出てきた瞬間、私は弾かれたように動き出し彼に飛びかかっていた。それまで呆けていた男が突然の状況に周囲は騒然とし、混乱した。
 ここから先はよく覚えていない。
 興奮状態に陥った私は、何かを打たれ昏倒するまで一人の医師にしがみついて、そして――
 ただ、ひたすらに彼女の死を願っていたらしい。
 眠らせてやろう。
 綺麗なままで逝かせてやってくれ。
 どうしてそんな行動に走ったのか、私にもよく分からない。
 だが、私は無意識に出たその言葉を否定するつもりはなかった。
 妻は、真崎碧はもう、眠りたがっていたのだから。

   ・

 目が覚めると、妻の病室と同じ真っ白な天井が目の前に広がっていた。正面の壁に窓が一つ。照明は落とされていて、窓から差し込む月の光だけが部屋を照らしていた。ベッドの脇には棚があって、中央のくり抜かれた部分にプリペイド式の小さなテレビがはめ込まれてあった。
 病室だということは、すぐに理解できた。
 私はベッドから起き上がって、揃えられたスリッパを履いて立ち上がると、窓の外を覗き込むように見た。下に広がる駐車場はもぬけの殻だった。向かいの病棟の灯りもほとんど消え、月光と、非常灯と防災ランプの光だけが暗い廊下を不気味に照らしている。
 幼い頃恐怖心を覚えた夜の光景も、今となってはただの薄暗い空間だ。服や荷物はそのままであることを確認すると、私は何度か身体を捻り、部屋を出た。
 長く続く廊下の奥にはナースステーションが見えた。私はそこで一人帳簿に向かう女性にそっと声をかけてみる。
 女性は私の顔を見てすぐに状況を察したようで、道の案内を口頭で私に伝えてくれた後、深々とお辞儀をした。随分とそのお辞儀は手馴れていて、彼女がどれだけその不幸を目の当たりにしてきたのかを理解することができた。
 不思議と、何の感情も沸かなかった。
 あるのは、何かが欠けている気持ち。満たされない感覚。真崎葵という存在を構成していた一部だけがそっくり削り落とされてしまったような、虚無感だけだった。
 等間隔に取り付けられた足元の非常灯がリノリウムの床に反射して、時折緑と赤の照明が姿を見せる。
まるで異世界にでも誘われているような感覚を覚えながら、私は伝えられた通りの道順を歩いて行く。果たしてこのような時間に院内を歩きまわっても良いのだろうかと疑問を覚えたが、私の姿を見て、引き止めるよりも見せたほうがスムーズに事が進むだろう考えたのだろう。
 突き当りを何度か曲がって、階段を下りて、照明の降りた病室を幾つも通り過ぎていった先に、その部屋はあった。扉越しに漏れる蛍光灯の明かりが不気味に広がっている。霊安室と書かれたその扉のノブに手を掛けると、私は深く呼吸を一つして、そっと開けた。
 線香の匂いに満ちた部屋の中央に、彼女は横たわっていた。
 無機質なベッドの上に寝かされ、顔と身体にそれぞれ布を被せられ、頭上には焼香が置かれただけで、他には何も無い部屋だ。
 足音も立てずにそっと彼女に歩み寄ると、私は顔に掛かっていた布を両手で持ち上げる。生気の無い、青と白の混った妻の寝顔があった。まるで眠っているようで、少し肩を揺さぶれば目を覚ましそうな程自然な寝顔だった。
私はその頬を撫でる。冷たくて硬い感触が、なんだか私を拒絶しているように感じられ、あの時私を拒絶した彼女の手の感触を思い出した。私はあの手の力に耐え切れずに後退してしまった。
 彼女なりの別れ方だったのだろう。
 闘病生活の中で、自分の時間を止めたいと願い、それは果たされた。
 私は、妻を諦めるべきだ。
 愛しているからこそ、彼女の意図を汲み取らなくてはいけない。
 だからこそ延命治療を続ける医師にしがみついたのだろう?
 頭では着実に彼女の死に馴染み始めている。なのに、胸の奥のほうでどうしてもそれを認めようとできない。目の前の彼女の姿を見ても、だ。
 私は髪を梳いて、そこには彼女がまだ生きていた頃の残り香が確かにあって、顔を近づけて嗅いでみると、酷く安心した。
 背後で扉の開く音がして、彼女に触れていた手をそっと離すと後ろを向く。あの時私が襲いかかった医師だった。疲労の積もった重たい瞼を必死に堪え、光を映さないその瞳に私を映している。今にも倒れそうな様子の彼は、無言のまま横たわる妻の傍まで歩み寄ると、私が外した布を再び彼女の顔に掛け、乱れた長髪をそっと枕元に戻した。
「少し、お話しませんか?」
 私が頷くと、白衣の彼は安堵したようで、疲れた顔に笑みを浮かべてみせた。

   ・

 院内は何もかもが静止しているようだった。
窓越しに覗く下弦月に厚い雲が覆い被さって中庭に影を落とす。赤と緑と、足元に灯る光源に照らされながら、私は医師の白く大きな背中を追いかける。
 耳に掛からないくらい黒い短髪、疲労で血色は悪く、無精髭の残った眠たそうな顔はどこか不機嫌そうな印象を抱いてしまう。だがそれを差し引いても十分に整った顔立ちをしていた。恐らく三十そこらだろう。少なくとも私より三つ四つは歳を喰っていると思う。
 暫く歩き続けると視界が一気に開けた。深緑のソファが幾つも並んだそこはラウンジだった。
私は彼に勧められるまま手前のソファに腰を下ろす。医師は大人しく座る私を見てから、ラウンジの奥へと消えていってしまった。
三人用の、少し深く沈むソファを何度か手で押してみる。ぎゅっぎゅっと革の軋む音が暗がりに小さく響いた。何度かここに妻と座ったことがある。あの頃は、彼女も血色が良かった。そんな心配することでもないのにと微笑んでいた姿を、今でもはっきりと思い出せる。
 暫くすると白衣は両手に缶コーヒーを持って戻ってきた。彼は隣に座り、手にしていたコーヒーを私に差し出す。ブラックと、微糖。私は微糖の方を手に取り軽く頭を下げ、コーヒーを口にした。ここ数日あまり物を食べた覚えが無かったからか、久々に感じる味覚は、とても苦くて、香ばしかった。
「もしかして珈琲は苦手でしたか」
 隣の彼は私の顔を覗きこんでそう尋ねる。どうやら表情に出ていたらしい。
「どうにも苦いのは得意ではなくて……」
「成程、コーヒーを選ぶべきではなかったですね」
「いや、でも頂きますよ」
 彼は私を見て微笑むとごくん、と喉を大きく鳴らす。たった二人だけのラウンジに大きく響いたそれは、何故か私の胸にも波紋を生んだ。
「失礼ですが、奥様とはどのくらい?」
 彼の問いかけに、私は遠くを見つめながら、思い出すように一つ一つを辿っていく。
「……もう、十五、六年は経っていたでしょうね。中学か、高校か、その辺りに気付いたら私の後ろをちょこちょことついて来ていましたから」
「それだけ長くお付き合いしていたのですね。素敵な事だと思います」
 彼の表情を横目に盗み見て、その素直な笑顔に、少しだけ救われた気がした。
「本当に申し訳ありませんでした」
 何か言おうと考えていると、彼はそんなことを口にした。彼の言葉がどうにも呑み込めずにいると、彼は続ける。
「貴方にしがみつかれた時、一瞬ホッとした自分がいたんです。ああ、私はこの患者の命を守り切れなかった口実が出来た、と。可能性の薄い、綱渡りみたいに細い道を選ばずに済むのだと、そう思ってしまった」
「口実?」
「延命することで、彼女は確かに診断よりも二週間は長く生きることができました。でも、現状手を尽くしきっていた。あの時呼ばれた時点で、もう僕達には術はなかったのです。だから、貴方に押し倒された時、開放された気がしてしまった」
 缶を両手で握りしめ、彼は上体を屈めると、呻くように言う。不思議と、その告白を素直に飲み込めた。
 私は俯く彼の背にそっと手を置く。あれほど穏やかな表情で接してくれていたその背は、小刻みに震えていて、私以上に彼女の死に涙を流してくれているのがよく分かった。触れることでその白衣がとても汚れていることを知り、私はそれをなぞるように眺める。
白衣はすっかりよれてしわくちゃになっていて、もう数ヶ月近くアイロンも掛けていないようだ。
 彼は、この場所で必死なのだろう。救えるものと救えないものの責任を背負い、命を繋いでほしいと願う人々の感情を一身に受けて……。
 だからだろうか、私の言葉は、彼の何かを壊してしまったのかもしれない。辞めてほしいという言葉は、彼にとって一番聞きたくなかった言葉であり、選択したくない逃げ道だったのだろう。
 震え続ける彼の背中を擦りながら、私は妻の遺言を思い出す。
「妻にね、新しい相手を作れ、と言われたんですよ」
「新しい相手、ですか?」
「ええ、もう私は長くないからとね。でも、そんな簡単に気持ちを切り替えることができるんでしょうか」
 この問いは、隣の彼に向けられたものではない。私から私への問いかけだ。自分以外に解決できる人間なんていないことは分かっていた。
 彼は暫く手元の空になった缶を弄びながら口を開いたり閉じたりしていた。そんな彼の仕草を眺めながら、返答を黙って待ち続ける。
「……割り切るしか、ないんですよ」
 漸く出てきた彼の言葉には、躊躇いが含まれていた。
「いつか、失った人との記憶は風化していくものです。日常の中で奥さんを思い出す機会も少なくなっていくでしょう。そんな自分に嫌悪感を抱くこともあるかもしれません。でもこれが現実で、失った人は戻ってこないことをはっきりと理解しなくてはいけない」
 暫くして彼は口を噤むと、深々とお辞儀をした。しゃべりすぎたと思ったのだろう。少なくとも、妻を亡くしたばかりの男にするものではないと。
 私は珈琲に口を付ける。黒くて熱い。胸の奥底にまで届きそうな苦味が喉元を通っていくと、一瞬だけ香りが鼻を擽って消え、最後は渋くてべったりとこびりつくような感覚だけが残った。後味の悪さに顔を顰め、私は彼に軽く礼をすると立ち上がり自販機横のごみ箱に缶を放り込んだ。
口直しに水でも飲もうと思い、給水器はないかと周囲を見てみるが、それらしきものは見つからない。頂いた手前別の飲み物を買って戻るのもなんだか悪い。渋味の残る口内で舌を動かしてみるが、結局べったりとこびりついたそれは落ちず、漸く諦めがついた私は再びラウンジへと足を向けた。
 人気の無いラウンジは、奇妙な空間そのものだ。普段人で溢れ返るベンチも、忙しそうに応対している看護師達の姿も、駆け回る児童達の姿もどこにもない。たった一人、蹲る白衣の男だけが座っている。
 彼は、溢れ出る涙と共に小さく嗚咽を漏らしていた。最も辛い筈の私の前では泣かないようにしていたのだろうか。次から次へと出てくるその涙は頬を伝って、拭おうとする両手をすっかり濡らしていた。
 それは、誰の為の涙なのだろうか。
 あれだけ泣きじゃくる彼の姿を見ても、私の胸の内は冷め切ったままだった。あれだけ愛していた筈の妻を亡くしたにも関わらずだ。
 どうしてだろう、何故私は泣けないのだろう。彼があれだけ涙を流せて、どうして私にはできないのだろう。
 次々と生まれる「どうして」を抱えて、私はそこに立ち尽くす。暫く黙って彼の姿を眺めた後、私は踵を返し寝かされていた病室へ戻ろう、と思った。
 夜のラウンジは、普段泣けない人の為にあるのかもしれない。
そう思うと、少しだけ彼が羨ましくなった。
 霊安室に寄ろうかどうかも悩んだのだが、とうとう私は横たわる彼女を見る気になれなかった。
 彼女はもうここに居ない。窮屈なものを脱ぎ捨ててどこかへ去って行ってしまった。
 彼女は今、どこにいるのだろう。どんなところを巡って、何を考えているのだろう。
 偶然でもいいから、会えたら良いのに。自由になれた感想はどうだいなんて事を、少しだけ聞いてみたかった。

     

   ニ

 一息つくと、私は居間の奥に置かれた仏壇をぼんやりと眺める。
戒名やら仏像やらのごちゃっとした飾りの中で、彼女は笑っていた。もう二度と表情が変わることの無い顔が焼き付けられている。私の記憶の中にもはっきりと残っている表情だ。挙式後の旅先で撮ったもので、もう数十年もの付き合いだというのに彼女は恥ずかしそうに肩をすくめ、頬を朱色に染めていた。
 あの旅行からもう随分と年月が経った。そう思うと不思議な気分だ。一体私達は何時から好意を覚えていたのだろう。友情だけでは満足がいかなくなってしまったのは何時からだったのだろう。
 葬式の間は準備から親族との挨拶回りまで全て一人でこなしていた。そんな忙しさのせいで物思いに耽る時間も無く、やっと現実味を噛み締められるようになったのもつい最近だ。
 朝起きても、トーストの匂いもフライパンの上で卵の踊る音もしない。食事中の会話も私一人ではできないし、夜寝る時、朝起きる時隣にあった温もりも今はもうどこにも無い。
 嘗て二人であったという空気だけを残して、彼女は去っていってしまった。
重たい荷物は持ちたくなかったのだろう。なにせ彼女はやっと窮屈さを脱ぎ捨てられたのだから。けれど、ここに残されたって困るのだ。向かいに椅子が在ることが、下駄箱に残された女性物の靴が、押入れにこっそりと隠されていた封筒に、これまでに行った遊園地や映画館、旅館のチケットの束を入れられていても、反応に困る。
妻の温もりが残っているものが見つかると、奴らは途端に私の隙間に、一番触れてほしくないところに入り込んでくるのだ。
私は仏壇の置かれたリビングを出ると、洗面所でべたつく顔を洗い流した。白シャツにネクタイ、黒いズボンとさして特徴の無い服装に着替えると、冷蔵庫に入っていた有り合わせで作った朝食を軽く口にしてから家を出る。
教員はとても楽だと思う。自分の事をあまり考え過ぎないでいられる。生徒と、その日の授業の事と、その他校内の問題について頭を一杯にしているだけで気がついたら夕方になっている。もう何年もこの生活を続けているが、私には中々合った職業だ。
 家を出ると雨が降り注いでいて、私は慌てて玄関まで戻って傘を一本手にすると再び外に出た。階段傍のエレベーターのボタンを押すと、面倒臭そうにゆっくりと動き始めた。
よくある住宅地の小さなマンションだ。エレベーターも古ぼけたものが一つで、私のいる五階まで大分時間が掛かる。腕時計で時間を確認して、階段を降りることに決めた。
コンクリートが剥き出しになった階段は妙に冷たい感触がして、雨のせいだろうか、少し身体が震える。
 足音の反響する階段を出ると、しんしんと小粒の雨が路上に降り注いでいて、傘を差した人々が窮屈そうな表情のまま歩いていた。私もあの中の一人になるかと思うと少し気が滅入ったが、仕方がない。仕事なのだからと独りごちて、傘を広げた。

 丁度、傘を広げた時だろうか。ちらりと見た向かいのマンションの陰に見えた姿に、私は目を疑った。
 そこに妻が立っていた。
 初めは見間違えかと思ったが、しかしそれは消える気配無くそこに立っており、こちらを見て静かに微笑んでいた。そんな、在るわけがないと思いながら、心の片隅がじわりと滲んでいくのを感じ、私は勢い良く駈け出した。片時も妻の姿を視界から外さず、広げた傘で雨を凌ぎながら向かいのエントランスに転がり込むと、目の前の妻をもう一度、見つめる。
 見間違えではない。確かに彼女はそこにいた。ウェーブの掛かった茶髪と、少しチークの塗り過ぎた真っ赤な頬。化粧下手だった彼女はいつもそうやって顔を朱色に染め過ぎていた。
 まさか、あり得ない出来事だ。
 つい最近彼女は私に向けて別れを告げた。そのあっという間だった葬式の内容も、曖昧ではあるが記憶はある。灰になっていく彼女を見た。骨だって拾ったのだ。
 なのに、何故君がいるんだ。そう言おうとしたのに、言えなかった。まるで時間が止まってしまったように、私はそこから一歩も動くことが出来なかった。
 暫くその場に立ち尽くしていると、妻は口角を上げて笑みを作った。その時何故か、彼女の口元から小さな気泡が三つ四つ漏れるのを見た。
泡? と私は湧き上がったそれに目が行く。気泡は小刻みに揺れながら浮かんでいくと、やがて天井まで届いて、消えていった。
 あっと声を上げて私は妻の方に視線を戻す。
だが、そこに彼女の姿は無かった。
 幻、とは考えられない。いや、亡くなった人物を見たのにそれを現実と認識するのもおかしいかもしれないが、よく出来過ぎていた。目の前に存在していた彼女は、驚くほどそこに馴染んでいたのだ。
 だが、ならば彼女はどこへ行ったというのだろう。
 私は恐る恐るエントランスを見回してみるが、住民のポストが集まった区画にも、階段にも、エレベーターの前にも彼女の姿は無い。灰色の壁で造られた仕切りは狭くて、とてもではないが隠れることができそうにない。何よりも現れた妻が再び隠れる必要性が、私には理解できなかった。
 腕時計に目を落として時刻を確認する。流石にそろそろ出ないと間に合いそうにない。確か、今日は職員会議が朝にあった筈だ。
 名残惜しさを胸に残しながら踵を返すと、私は再び傘を開き、エントランスから一歩足を踏み出した。

――とぶん。

 背後で水の跳ねる音がした。
 雨が降っているというのに、その音ははっきりと私の耳に届いた。波紋がじわりと広がっていくような音に、思わず私は振り返る。
 果たしてそれは、いつからそこにあったのだろうか。先ほどの妻の姿といい、今目の前に転がる『これ』といい、今日は何かがおかしい。狐にでも化かされているのだろうか。
 暫くそれを見つめた後、私は小さく嘆息してから携帯を取り出し、勤務先に欠勤することを伝えた。普段からの勤務態度と、あとは葬式からまだ間もないこともあるのだろう。私を気遣うようなぎこちない言葉を受けながら、私は礼と共に携帯を閉じた。
 ズル休みなんて、いつぶりだろうか。
 だが、どうにも目の前のそれが気になってならない。妻の姿といい、水の跳ねる音といい、まるで『これ』がその存在に気づけと言われているようだった。
 私は『これ』の前まで歩み寄ると、しゃがみこんでじっと見つめる。

――それは、掌に収まる程の小さな魚だった。

 目も醒めるような青い身体に、半透明の鱗が幾重にも折り重なっている。尾ひれがその身体の倍は伸びていて、先端は紅色に滲み、同じような色が魚の目元にもあった。まるで化粧でもしたみたいだ。綺麗な丸を描くその瞳が私の姿を映していた。
 あとは、そう……。いたって普通の魚だ。少し不思議な色合いなだけ。それが乾いた路上に横たわっていて、じっとしていた。初めは死んでいるのかとも思ったが、私が歩み寄るとその身体を撓らせて跳ねた。すっかり乾ききっているが、どうやら瀕死というわけでもないらしい。
 どうしたものか、と私は暫くその横たわる魚を見つめていたが、やがてそいつをそっと掬い取ってやると、再び自宅のある向かいのマンションへ連れて行った。
 雨水に触れてもその魚は身動きすらとらない。私に身を委ねているようだった。
ただ、その瞳はじっと私の姿を捉えて離さなかった。なんだか気味が悪いと感じながらも、何故だかその魚を捨てる気にはなれなかった。

 自宅に戻ると浴室に向かい、水を張った洗面器の中に魚を入れる。とぷん、と小さな音と共に着水すると、魚は暫く奥底に沈んだままじっとしていたが、やがてヒレを動かし、目をぎょろりと動かすと、洗面器の中を泳ぎ始めた。紅色をした尾ひれが水中でゆらゆらと揺れている。窮屈そうだが、流石に浴槽に放流するわけにもいかない。
 洗面器の中をゆらり泳ぎまわる青い魚を眺めながら、私は今日を休みにしてしまった事を少し後悔していた。どうせあんな外に放り出されていた魚だ。ニ、三日……いや、下手をすれば今日の夜にも死んでしまうかもしれない。弱っている魚はどんなに世話をしてもあっけないものだ。幼少時代の金魚掬いでそれは十分に学んでいた。
 浴室を出た私はネクタイを緩め、ベルトを外し、ズボンとシャツをベッドに放り投げ、部屋着に着替えるとソファにどっかりと座り込んでため息を一つ吐き出した。
「……何か買ってくるか」
 妻の姿、不思議な赤い尾ヒレの魚と、今日はなんだか不思議な出来事が多い。たった数十分家の外を出ただけなのに随分と疲労を感じた。
私は部屋着に簡単な上着を来て、財布を片手に玄関に向かう。
途中、あの魚は元気だろうかと気になって浴室の方に目を向けたが、流石にほんの数分目を話した隙に死にはしないだろうと首を振り、玄関でスニーカーを履くと自宅を出た。
 降っていた雨は、嘘みたいに消えていた。
ただのお天気雨だったのだろうか。予報外れのものにしては随分と大粒の雨だったのだが……。首を傾げながら、マンションを後にした。

 散歩をしている内に、道端で主婦を見かけるようになってきた。不思議とこの辺りに雨で濡れた跡は無く。待ちゆく人達も傘を持っていない。あの雨雲は何処へ行っただろうか、暫く考えてみるがどうにも答えは出なかった。
通りがかった公園で子供達が駆け回り、遊具に登ってはそれぞれ思い思いの遊びをしている。相手にちょっかいを出す事を好んでいたり、そんな乱暴者から友人を守ろうとしていたり、斜に構えて遠くで公園を眺めていたり、すぐ側のベンチでカードゲームに熱中していたり、十人十色だ。
あれくらいの子供が一人でもいたら好かったかもしれないなんて考えてみる。実際の所彼女も子供はとても欲しがっていた。死に際にふと子供を産めなかった事を謝られた事もあったから、相当悔しかっただろう。多分、彼女に未練があるとすれば、恐らくそのことだろう。
 そういえば、何時か子供の為にと貯金していた金があったなと思い出す。あれはどうしよう。葬式で幾分か手をつけてしまったが、それでも十分残っていた筈だ。
 そうやって歩いている内に、近くの商店街にやってきた。奥向かいには私の務める雪浪高等学校の姿も見える。だが不思議と生徒達は近寄らないらしく、今ではシャッターの多い、地元付き合いだけで完結した通りになっている。
 だが、腐っても商店街だ。それなりの物品を取り扱ってはいるだろう。この際、大きな買い物でもしてしまおうか。しかし大きな買い物とカッコつけて言ってみたものの、肝心の「大きな物」が思いつかない。
 そうやって困りながらふと横を見ると、通りを入ってすぐのペットショップに目がいった。
古びた看板には「桃村アクアショップ」と丸っこいプリントがなされており、周囲を彩るように幾つかの魚のイラストが上から書き足されている。どれもこれも少し時代を感じるデザインで、ペンキも剥れかけている。
ショウウィンドウは水槽が嵌めこまれていて、その中を魚が遊泳している。彩色豊かなものから白や黒、大小まばらな魚達は気持ちよさそうに見えた。
この街に引っ越して来てから何度も目にしている場所で、しかし入ったことはない場所だ。
妻が特に気に入っていたみたいで散歩途中に立ち止まってはショウウィンドウに張り付いて興味津々に眺めていた。黄色い魚が特に好きだったみたいで、お目当てが目の前を泳いでいくと指を指してはしゃいでいたのをよく覚えている。
 あの時彼女と同じように間近で水の中を覗き込んでいるうちに、朝方拾ったあの魚のことを思い出す。あの魚は、一体どんな餌を食べるのだろう。
 私は戸を開けて、店内に足を踏み入れた。
中は小さな水槽で埋め尽くされていた。幾つものエアーポンプの駆動音が部屋中に音となって流れこむ。ぶくぶくと、不思議な気泡のリズムに溺れそうになりながら奥へと進むと、黄色と黒の縞模様、蛍光的な青色、小さくて真赤なものと、まるで絵画のような魚達の泳ぎまわる水槽に私は見惚れた。大きくて広い水族館とはまた違った―妻はどちらもガラスに顔を押し付けて夢中になって見ていたが―趣が感じられる。
 何を見ても思い浮かぶ妻の姿に、ああ、と小さく溜息を吐く。
忘れることなんて、できない。彼女は私の心に住み着いて、一部となってしまっている。
――遺された側は、寂しいよ。
 赤い魚の泳ぐ水槽にそっと手をやりながら、私は妻の言葉を思い出す。
『ねえ、これ見たことあるわ。多分映画だったと思うんだけど――』
「おや、お客さんかい?」
 突然聴こえた声に私は慌てて振り向いた。
 奥の方から出てきた店主と思しき老人はそう言って微笑むと、小さくお辞儀をする。黒いニット帽を深く被り、緑縁の分厚いレンズの眼鏡を掛けて、赤い作務衣に身を包んでいる初老の、奇抜な服装をした男性だった。じっと見ているとなんだか目が疲れてくる組み合わせだ。
 どこかチカチカする服装をした男は隣までやってくると、屈んで先ほどの赤い魚を覗き込み、愛おしそうに硝子を撫でている。
「こいつは映画に出てから随分と人気でね、売れ行きは良いんだ」
「……あの、店主さん、ですか?」
 彼は頷く。
「そう、私は桃村継彦(とうむらつぐひこ)だ。君、時々覗いていただろう?」
 桃村継彦、と名乗るその店主はショウウィンドウを指出し、にかっと歯を見せて笑った。
「真崎葵と申します。まさか顔を覚えていただいていたとは思いませんでした」
「この商店街もすっかり閑散として、立ち寄ってくれるお客さんも知り合いばかりだ。通りがかる度に覗きこんでくれる君達は珍しくてね」
 桃村はそう言って周囲を見回すと、首を傾げる。
「彼女は一緒じゃないのかい? そこのショウウィンドウに張り付いていた子だ。このペットショップに最初に入ってくるとしたら、彼女の方だと思っていたんだが」
 ああ、と僕は言いにくそうに俯く。
「妻は、先日……」
 それだけで彼は察してくれたようだった。いや、単純に別れただけと思われたのかもしれないが、彼は腕を組んで何も言わず頷くと、無言のまま奥へ戻ってしまった。
 取り残された私は途端に居心地が悪くなって、店を出るべきだと出口に向かおうと決めて踵を返す。
「お兄さん、こっちおいで。少し茶でも飲もうじゃないか」
 そんな気まずそうにする私を彼は手招きして引き止めたのだった。

   ・

奥の居間に通されると、桃村は座布団を用意して、私を座らせた。座らされてから辺りを見回すが、店内に比べて色の少ない部屋だという印象を受けた。
二人ぐらいで十分に感じられる狭い畳の部屋の傍には台所が取り付けられていて、ステンレス製の水場と、底の焼けた薬缶が一つ置かれている。
彼は薬缶に水を入れて火に掛けると、傍の棚から急須を引っ張りだす。
「つまらんものしか無いが許してくれ」
「はあ……」
 同情、なのだろうか。
桃村は皺の多い顔をくしゃりと歪めて微笑むと、戸棚から大福を二つ、皿に乗せて目の前の丸テーブルに置く。
真っ白い餅餡は大きくて、随分ぎっしりと餡が入っているようだった。手に取るとやはり随分な重さだ。
「まだ若いのにその歳で伴侶を亡くされるのは、辛いだろうに」
 彼はちゃんと受け取ってくれたらしい。
「そうですね、まさかこんなにとは思いませんでした」
「お子さんは?」
「いえ」
「それはまた」
「いたら良かったとは思うんですがね。ないものねだりは出来ませんよ」
 桃村は深く頷くと、腕を組むと口を閉じて目を閉じた。
 それきりまるで口を開かなくなってしまった彼を暫く見つめるが、反応を示す気配はない。
 声をかけようとしたが、どうにも受けてもらえるように思えず、結局私もじっと座っていた。
 居心地の悪い無言の空間の中に暫く座っていると、やがて薬缶が笛を鳴らす。
桃村はようやく目を開けるとその重たい腰を上げて、火を止めた。悲鳴を上げ続ける口笛を取り外し、急須を水で軽く洗ってから茶葉を入れ、薬缶の湯を落としていく。
 その一連の行為をじっと眺めていると、彼は私の視線に気づき、皺だらけの顔をくしゃりとさせる。
「お茶をどうぞ」
 私の前に湯のみを一つ置くと、彼は急須を軽く一度、二度揺すり、傾けた。鮮やかな緑色がこぷこぷと音を立てながら湯のみへと注がれ、白い湯気がじわりじわりと立ち上る。薬缶から溢れ出ていた蒸気達とは違って、たおやかに揺らめいて宙を舞う姿に、緊張少しづつ解けていくのを感じた。
 彼の薦めを受けて、私は手渡された湯のみに口を付ける。
 ふわりと、身体の内側を熱いものが通って行く。食道から胃までの形が分かるくらい。何度も湯のみを傾ける満足したのか、桃村は微笑んだ。
「下に感情が向いている時は、暖かいものに限る。冷えて凍りついたままだとどうしても思考が回らなくなってしまうからね」
「そういう、ものですかね」
「まあ少しでも足しになったらと思ってね。余計なお世話だと分かってはいるんだが」
「いえ、そんな事はありませんよ」
 彼なりの饗し方を味わいながら、ふと自然と笑みを浮かべることができた。そういえば、ちゃんと笑ったのは何時ぶりだろう。
「私もね、妻に残されてしまった人間だから、君の気持ちは分からなくもないのさ」
 彼の言葉に、私は顔を上げる。
「いや、まあ歳を取ってからの話だがね」
 でも、と呟くと彼は遠くを見るように目を細めた。
「時々、あいつはどういう時に喜ぶか、何をすると悲しむか、怒るか考えてみるんだ。すると、生きている間随分と悲しませてたように思えてしまう」
 そう語る彼の目は遠くを見つめていた。私はじっと黙り込んでいた。
 すると彼は、目を細めて私の事を指さす。
「奥さん、死に際笑ってただろう」
 私は答えず目を伏せた。だが彼はそれを肯定を取ったらしく、湯のみを傾けてから再び話し出す。
「卑怯だよなあ。未練とかあるだろうに、全部洗い流して清いまま旅立とうとするみたいでさ。あの顔が遺された側にとって一番辛いのかだって分かっている筈なのに」
 桃村の漏らす言葉を茶と共に飲み込む。喉元を通りすぎて、胸の奥へと染みていく。
私は湯のみを置いた。
「妻がいなくなる直前、言われたんです」
「なにをだい?」
「新しい人を作れ、と」
「それは無理難題だ」
 腕組みをして唸る彼を見て、私は頷いた。
「彼女の為ならなんでもするって、確かに言ったつもりでした。痛みや苦しみは代われない。でもせめて彼女を最後まで幸せにしてやりたかった。でも、彼女が最後に言ったのは、ありがとう、でも幸せだったでもなく、次の人を探せという言葉でした」
 そう言いつつ、私の中で小さな疑問がぐるりと巡る。本当に幸せになりたかったのは、誰なのだろう。いや、答えはもう分かっているけれど、それをどうしても認めたくなかった。
 苦しむ妻を見て、何も出来ないという焦燥感をどうにかしたくて、妻の為に行動することで、こんな自分でも役に立てていると、自分は幸せだったと思いたかった。
 最後の彼女の笑顔が、私を押した手の感触を思い出す。
「きっとそれは、彼女なりの呪いの掛け方なのかもしれない」
 考えに耽る私に、彼はそう言った。
「呪い?」
「そう、呪い。忘れ去られないように、相手の心のどこかに自分を残す為に、彼女たちは俺たちを満たす言葉を残さない。爪痕を残していくんだ。身体じゃなく、もっと深いところに」
 桃村は爪を私の胸に立て、それから縦になぞる。
「……忘れないでって、言えないものなんですかね」
「言えないものなんだろうさ。例え死ぬ間際だとしても」
 湯のみを手にする。少し冷めたのか、火傷しそうなほど熱かったそれは、どこか柔らかなものに変わっていた。
「いや、君からしたら初対面のこんな爺に言われて気分の良いようなものではないだろうな。申し訳ない」
 そう言って深々と頭を下げる彼に私は首を振る。
「いえいえ、そんな、とても参考になる話でした」
――それに。
私は少しだけ躊躇し、それから一呼吸置くと、再び口を開いた。
「腑に落ちたっていうのか、なんだか今までごちゃごちゃしていた気持ちに少し整理がついた気がします。全部ではないですけど、こういう事を打ち明ける機会が無かったから、むしろ良かった」
 桃村は笑みを浮かべると大福に齧り付き、咀嚼すると口の端の餡を指で掬って一舐めし、お茶を飲み干すと満足そうに息を吐いた。
 なんだか自分も甘いものが食べたくなって同じように大福を手に取ると、口にする。少し硬くなってしまっていたが、それでも十分柔らかくて、中に詰まった餡のさらさらとした舌触りと広がる甘さを堪能し、全て平らげた。
雪が溶けるような餡の丁度いい甘さに満足し、お茶を飲むと桃村と同じように感嘆の息を漏らす。
「この餅、旨いだろう」
「とても美味しかったです」
「しょっちゅう買いに行ってる和菓子屋の大福なんだがね、何時食べても美味しくてね、また食べに来るといい」
 是非、と頷いた後、ふと時間が気になって私は腕時計を覗いた。もう二時間近くもここにお邪魔していたらしい。流石に居座りすぎだろうと思い、それから家に残してきた魚の事が急に気になりだした。
 あんな小さな場所じゃあどうにも窮屈だろう。折角だから少し奮発した買い物をしてもいいかもしれない。
なんだか気分が良くなった私は、自分の懐状況を確認してから桃村を見る。
「桃村さん、飼育用品、一纏め買わせて貰えませんか」
 彼は私の言葉を聞いて重たそうな腰をゆっくりと上げ、店内に歩いて行く。
「気分転換に魚を見るのは良い物だ。どんなものが欲しい?」
「いや、実は魚はもう居るんです。今朝一匹拾いまして。餌も水槽も無いから、折角なら見繕ってもらおうかと」
「魚を拾った? 犬や猫なら珍しいが、魚を拾うなんてまた不思議な話だね。まあおかげでこうして君と話が出来た事を考えると、運が良いのかもしれないな」
「色や形で、どんなものか判別できます?」
「もう随分店をやってるから大丈夫だろう」
 湯のみや皿をシンク台へ片付け、私も彼に続いて店内へと向かう。
 居間から出ようとした辺りで不意に上から音がした。ぎし、と床を誰かが踏むような音だ。
 居間の奥にある階段を覗きこむが、桃村から声があって私は気になりながら、しかしそれきり音が止んでしまったので、私は首を傾げながら店内へと戻った。
 桃村は既に幾つかの備品を揃えていた。彼はそれぞれを手に取りながら早口に説明をしていく。
「取り敢えずはこの辺りが集まっていればどうにかなるだろう。何か困る事があればうちに来てくれ。サービスもするし、この歳になると独りは寂しくてなあ、話し相手が欲しくなってね」
「ここには桃村さん一人で?」
「あー……いや、あとは孫が一人、通学の関係でうちに住んでいる」
「近くと言うと、雪浪高校ですか?」
「よく分かったね。そこに通っているよ」
「実は、あの場所で教師をやっているんですよ」
「ほう、それはまた驚いた」
「私も驚きました。雪浪生はほぼ電車通学だそうで周りに生徒が居ないものだと思っていましたから」
「なるほど、いい機会っていうのは意外と重なるね」
「でも、お孫さん、今日学校は?」
「ああ、行っている筈だ」
 じゃあ、物音は何か聞き間違いだろうか。居間の方をちらりと見てから、まあ気にすることでもないか、と視線を彼の方に戻す。
「それで、君の言っていた魚、形は分かるかな?」
「掌くらいの大きさで、真っ青でしたね。後は、半透明な鱗に覆われていました。ああ、後は尾が赤いです」
 魚のデティールを聞いて、桃村は暫くじっとこちらを見つめていた。腕も組まず、表情も変えず、ただ、じっとこちらを。その反応に私は戸惑う。
「桃村さん?」
「……そいつは、尾が長くないかい?」
「その通りです。長くて、その先端だけ赤いんです」
 彼の中で該当する魚が居たようだ。
「……そうか、それならこの一式で足りるな。餌も問題ない」
 笑みの戻った桃村に安堵し、私は頷いた。
彼の言い値は私にも分かるくらい利益の少ない値段だった。申し訳なくて断りを入れたが、頑として値段を変えない彼に結局最後は折れてしまった。
「何か飼育で気になる事があったら、すぐに聞きにおいで」
 桃村はそう言って私に荷物を持たせると、出口まで見送ってくれた。店を出ると外は昼過ぎで、商店街を歩く主婦の姿が多くなった。閉まっていたシャッターもそこそこ開き、魚、肉、八百屋や傍のスーパー、パチンコ屋。こじんまりとしたおもちゃ屋。反物屋と多種多様な店が顔を出している。ただ、それでもシャッターの方が目立つわけであるが。
「じゃあ、何かあったらまたおいで」
「本当に色々とありがとうございました」
 微笑む桃村に軽く礼をすると、私は商店街を出た。流石に抱えるほどの荷物を持って散歩というわけにもいかないし、これから飼育の準備をしたら、それだけで随分な時間を食ってしまうだろう。夕食は何か出前でも考えることにして、まずは帰宅だ。
 しかし、と私は振り返って商店街を眺めながら思う。
 桃村のあの間は、一体何だったのだろうか。
 私の拾った魚は、それほどに珍しい魚だったのだろうか。
 疑問を抱きつつ、しかし自己解決も出来そうにないので、ひとまずは保留にしておこうと思う。良い拾い物ならそれでいいじゃないか。
 何かを飼うことで、少しでも寂しさが紛れれば良い。
ふと私は、以前から桃村の店に張り付いていた妻の姿を思い出し、興味を抱きつつあまり気乗りしていない私を見て我慢していたのかもしれないと思うと、少し申し訳ない気持ちになった。

     


   三

 水槽に件の魚を入れるまでの作業は随分と時間が掛かった。
 桃村に教わった通りに作業を終わらせてから、まだ環境づくりを終えただけの水槽を覗きこむ。
 藻や水草の揺れる中で白色光が揺れている。少し濁っているが、それも何れは取り除かれるそうだ。
 実際は水作りなんて作業もあるそうだが、私の拾った魚には必要がないというので、環境づくりが終わったらすぐにでも入れてやれと言っていた。海水魚から熱帯魚までそれぞれで違いがあるそうなのだが、私に然程の知識は無いので、言われたとおりする以外何もできない。
 桃村が言うには熱帯魚用の環境づくりになっているらしく、もし何れ魚が欲しくなったら何か紹介しようと言っていた。
 世話になりっぱなしだと水槽の前で冗談っぽく呟いた後、浴室へと向かい、洗面器ごと持ってくると、手で掬ってそいつを水槽に入れてやった。
 照明に照らされた体が反射して、蛍光色じみた青色になる。少し見る角度を変えただけでホログラムみたいに輝き方が変わり、半透明な鱗が、内包した光でその青を更に際立たせていた。
 水槽の中で泳ぐその魚の姿は、どこか油彩画で描かれたように色濃くて、どこを泳ぎ、どこに隠れたとしてもその存在感は薄れることが無い。
 拾ったにしては随分と高価そうで、もしかして何かの手違いで流されてしまったものではないかと不安になってくる。もし飼い主が見つかってしまったら桃村の言葉通りもう一匹飼おう。少なくとも、今はこの魚で十分満足だ。
 もし他の熱帯魚を入れたとして、こいつはきっとその魚の鮮やかさでさえも取り込んでしまうような気がするのだ。何もかもを自分の美しさの為にしてしまえるような、そんな美への貪欲さが感じられる。
 少し尾ひれが長くて、見惚れてしまう色彩をその身に宿しただけのただの魚の筈だ。
なのに、私はこの魚にそんな印象を抱いた。
 そして、朝の妻の姿を思い出す。
 雨の中、向かいのマンションに立っていた妻は、病に倒れる前の血色の良い顔をしていて、肉付きも良かった。
 あの時着ていた服は、そう、確か私が恋人として彼女にプレゼントをした服だ。もう随分と昔になる。紺色で、月の小さなプリントが散りばめられたワンピース。彼女はそのデザインを気に入ってくれて、私と出かける時はよく着てくれていた。それ以降も服のプレゼントを贈った事があったが、多分いちばん身に着けていたのはあの服だ。
 死後の霊を信じたつもりはないし、私はまずあれを「生きている」と感じた。一瞬で消えたとしても、あの妻は現実味があった。
 だが、もしもだ。あれが所謂霊というものであったとして、彼女は死後になってもプレゼントした服を愛し、着続けているのだとしたら……。
 少しだけ、救われた気がした。


 携帯の着信音が鳴り響く。
 魚をぼんやりと眺めていた私は意識を取り戻し、テーブルの上で震える携帯を手にするとディスプレイを確認する。見覚えのない番号だ。暫く鳴り続ける携帯を前に出るかどうか悩んだが、一向に鳴り止む気配が無い様子を見て、私は漸くその着信を取った。
「もしもし」
 女性の高い声が聞こえてきた。やけに一語のはっきりとしたよく伸びる声だ。聞き取りやすく痛くない。だが、私の記憶の中にこのような声をした知人は居ない。ならば、今こうして繋がるスピーカー越しの彼女は、一体何者だろうか。
「君は誰?」
 落ち着いた口調でそう問いかけると、受話器の向こうでああ、と声が聞こえた。
『突然すみません。私、雪浪高校二年生の咲村朱色(さきむら しゅいろ)と申します』
 全く聞いたことの無い名前だった。
二年ならば私も幾つかのクラスの教鞭を取っているし、「朱色」なんて名前なら記憶にも残りそうなものだ。恐らく私の担当外の子だろう。だが一体そんな繋がりのない女子生徒が何の用だろうか。
「どうしたのかな」
『いえ、今日はお休みと聞きまして』
 先ほどとは打って変わって、もごもごとした曖昧な口調だ。
「直接聞きたいことでもあったのかい?」
『はい、その……』
 躊躇いがちな彼女の声を聞いて、私は額に手をやる。妻の死と大分長い休みに心配になって電話を掛けて来たのだろうか。しかし担当外の子が掛けて来た事が引っかかる。
『あの、先生にお聞きしたい事があって、連絡させて頂いたんです』
 そうだろう、と私は心の中で返答する。だが聞きたいことはなんだろうか。
「……私に答えられることならいいんだが」
『先生でないと、多分答えられないです』
「そうか、なら言ってごらんなさい」
 咲村の言葉は硬く、決して冗談や陽気な言葉を口にするような風では無かったからか、変な事を口にする事は無いだろうと妙な信頼を抱いていた。
 受話器の向こうで咲村は呼吸を繰り返している。言葉を口にするタイミングと、自身の心の準備が整うのを待っているのだろう。私はじっと、口を閉じたまま言葉を待ち続ける。
 思えば、生徒とまともに言葉を交わすのも久しぶりだ。つい先日まで式の忙しさに追われていたのだから当たり前ではあるのだが、あの日の生徒達の言葉でさえもまともに入っては来なかった。妻たっての希望で「来るもの拒まず」としていた為もあるのだが、それでも面識のある数名くらいのことは覚えていて良いものだが、まるで誰が来ていたのか記憶が無い。
 本当に一杯一杯だった。
 妻も妻だ。何故面識も無い人物の参加まで許したのかが分からない。いや、死ぬ直前にこの疑問に対して彼女は確かに答えていたが、どうにも理解ができない。
――私は、とても臆病者で寂しがりだから。
 夫の記憶に呪いをかけたように、周囲にも彼女は自分のいた証拠を残したかったのだろうか。
 そう思うと、酷く自分が彼女の中では小さかったように思えて、少し悔しさを覚えてしまう。いや、ただの嫉妬だということは分かっているのだが。
「……いつまで、黙っているんだい?」
 痺れを切らして私は言った。
 嫉妬で苛立つ程彼女に未練を抱いているのに、一度も泣くことのできていない自分にまた苛立つ。私は本当は悲しんで居ないのだろうか。妻の死は、自分の感情を揺さぶられるほどの出来事では無かったというのだろうか。
 苛立ちが、ぐつぐつと腹の奥底で煮え立ち、ふつふつと迫り上がる熱量に押されて、早くしてくれないかと更に口にしてしまう。
 受話器越しに彼女の呼吸が更に緊張したのが分かった。張り詰めた糸みたいな吐息に耳を澄ました。
『先生は、つい最近奥さんを亡くされました……よね?』
 咲村は、漸く口を開いた。
「ああ」
『……泣くこと、できましたか?』
 彼女の遠慮がちな問いに、私は固まった。彼女の緊張がスッと私に移り、容易だった筈の呼吸が途端に重くなったのを感じる。
「何故、そんなことを?」
『いえ、単純な興味、でしょうか。いや、言葉は合ってないのかも知れません。でも、気になって仕方が無くて……。葬儀にも出席させて頂いたのですが、その時も真崎先生、ずっと無表情になってただお辞儀を繰り返していただけだったから、ちゃんと泣けたのかなと思って』
 それは――。
 言葉を口にしかけて、私はぐっとそれを飲み込んだ。彼女はそれを聞いて何を理解し、納得しようとしているのか、まるで分からない。
 確かに私は涙を流すことが未だにできていない。妻が死ぬ前も、死んだ時も、そして今も、葬儀を終えてからも空っぽのまま、何に対しても空虚なこの心をどうすればいいのかも分からない。
 ふと横目に水槽に目を向ける。青い魚は小さい目をぎょろりと動かしてこちらを見た後、特に気にする風もなくそっぽを向いて木の裏に身を揺らして消えていった。異様に長い尾だけがそこに残っている。ゆらり先端の赤が絵の具を溶いたみたいに淡く揺れている。
「――すまないが、来客だ。切らせてもらう」
 私は咲村の返答も待たず電話を切って、携帯を適当に放り投げると目を閉じた。
 口の中が乾いている。舌で口内を舐め回すが、それではどうにもならない。やがて唇にも違和感が生まれ、喉が酷く粘ついた。水が欲しい。どうにかこの渇きを潤したい。しかしどうにも動く気にはなれなかった。
 このままソファの柔らかな感触に溺れていたい。何も考えず、じわりとやってくる眠気に侵されながら意識を失ってしまいたい。
 咲村朱色は、果たして私が泣けなかったと告げた時、なんて答えるつもりだったのだろうか。非情だと嘆くだろうか。妻を失って間もない男にそんな非難を浴びせはしないだろうが、少なくとも動揺と、言葉の端々にそれらを匂わせるものがきっと含まれたに違いない。

――私は未だに泣くことができない。

 それは確かで、ぽっかりと空いた感情の穴は未だに埋まることも、癒えることもせず私の中に存在している。
「愛していたんだ」
 誰も居ない、私一人の部屋でそう呟いてみた。
――知ってる。
 そう返してくれた人はもうどこにも居ない。
 リビングに寂しく響き、受け取られることもなく消えていった言葉を想うと、どこか遣り切れない気持で一杯になって、私はぐっと下唇を噛み締めてしまう。
 そう、もう居ないのだ。
 分かっている。
 例え泣いたとしても、誰かにこの想いを口にしたとして、妻は決して戻ってくる事は無い。生命活動を終えた肉体は燃え尽きて灰になって、人一人が入っているなんてとても思えない位小さな骨壷の中に収められ、真崎家と彫られた大理石の塊の中に仕舞われてしまった。
 ぶくりと、水槽の方から音がして、私はそちらに目を向ける。
 整備したばかりでまだ濁りの目立つ水槽から、あの青い魚がこちらをじっと見つめていた。いや、多分そのように見えるだけで実際はただ外の景色を眺めているだけなのだろう。
だが、なんだか私のこの隙間だらけの心に気付いてもらえている気がした。ただの魚なのに、だ。
 ソファから重たい腰を上げると水槽の前にしゃがみ込み、外をじっと見つめる魚の目の前を人差し指でとん、とんと叩いた。魚は口をぱくぱくと開閉しながら、その指に構わず外を見つめている。近くで見ると半透明の鱗による光の反射が一層鮮やかになって、目も覚めるような青に見えた。本当に不思議な魚だ。地面に打ち捨てられていた時からここまで弱っている様子もない。
「君は何処からやってきたんだ」
 問いかけに、返答は無い。
 ゆらりゆらり。異様に長い尾ひれが、縦横無尽に水槽を動き回っていた。
「あの妻の正体を、もしかして君は知ってるんじゃないのか」
 返答は無い。
 それもそうか、魚と私が言葉を交わせる訳がない。
「君がもしも喋れたら、あの時の彼女が何だったのかわかるのになあ……」
 魚の反応が無いのを確認して立ち上がり、ベランダに出てみた。
 夕闇が住宅街を飲み込み、仕事帰りのサラリーマンや遊び疲れた子供達がマンション前の道路を歩いて行く。時折走るトラックのエンジンの音とか、自転車のからからとタイヤの回る音が淋しげに響く。
 小さい頃はラッパの音もしていた。それを聞く度に親に財布を渡されて豆腐を買いに行っていた。もうそんなラッパの音色も、そこまで聞かなくなってしまった。
 少なくとも教師の道を歩み始めて、この場所に越してからは聞いたことが無い。何にせよマンションから豆腐屋を呼び止めることは出来そうにないが……。
 ラッパの音について考えていたら、そういえば今日は大福餅くらいしか口にしていない事に気付いて、途端に空腹感が湧き上がってくる。腹の虫が低い声で鳴くのを聞いて、夕食をどうしようか考えなくてはと腕を組んだ。
 折角だから豆腐でも買って来よう。妻程の料理の腕は無いけれど、少しづつ覚えて行かないといけないし、いつまでも外食やデリバリーで繋ぐわけにもいかない。
 私はベランダから戻ると財布を手に取って、それから水槽に餌をやっていなかったと、棚から餌を取り出すと小匙程度の量を水槽に落とす。小さな粒が水面に散らばった。青い魚はしかし、餌に見向きもせず、じっと、頑なに水槽の外を見つめている。
「外に出たいのか」
 やはり返答は無かった。
「あそこに転がっていたのは、外に出たかったからなのか」
 私は微笑むと財布をポケットに押しこみ、放り投げられていた携帯電話を拾い上げて玄関へ向かった。

     


  四

 適当な材料と共に帰宅し、キッチンで簡単に料理を拵える。いつも妻のいた場所に立つと、彼女の名残に触れることができた気がして、少し嬉しくなった。
 水槽に入れた餌には手がつけられていなかった。
 流石に外をじっと見つめることにも疲れたのか、物陰に戻ったようで、水槽に姿は見られない。長いあの尾ヒレも上手にしまったようだ。まあ、餌が欲しくなれば食べに来るだろう。
 適当に毟った野菜を小皿に詰め、サイコロ大の大きさに切った豆腐、そしてドレッシングをかける。
 インスタントのトマトソースを湯煎し、茹でたパスタの上に掛けて出来上がりだ。手の込んだ事が出来るほど料理の腕は無いし、買ってきたレシピ本を活用する気力も無かったので結局雑な料理になってしまった。
 椅子に座って、暫く待ってみるが、向かいの椅子は動かない。いつも私がまず座って、次に彼女が座る。それが習慣だったから、ついそれに従って待ってしまう。
 私は嘆息すると両手を合わせて目を閉じた。
「頂きます」
 いつもの返事は、何時まで待ってもやっては来ない。私はフォークを手に取るとパスタを巻いて口に運ぶ。少しすれば食事のレパートリーも増えていくことだろう。それまではこれで我慢するしかない。
 パスタを咀嚼しながらテレビを付ける。
 夕刻過ぎのニュースが流れている。政治家の不正や殺人、盗難、芸能人のゴシップ。大小様々なニュースを坦々とした口ぶりでキャスターは話していく。痛ましい事件に顔を顰めて「非情に悲しい出来事です」と告げつつ、次にはめでたいニュースでころりと笑みを浮かべる。喜怒哀楽の忙しい世界だ。
『さて、次のニュースです――』
 キャスターの言葉と共に一人の少年の顔が映し出される。短髪できりりとした顔立ちの好青年で、つり目が特徴的だ。
 特に彼の顔に覚えは無いのだが、その背景に映し出された場所が自宅からそう遠くない場所で私は興味を持った。
 今日散歩で出向いた商店街を更に歩いていくと在る河川敷。お昼時に撮ったのかまだ明るいその場所の風景をバックにキャスターは事件の詳細を語っていく。
『――河川敷での目撃証言を最後に男子高校生咲村真皓(さきむら ましろ)君の行方が分からなくなっている――』
――咲村真皓。
 その名前を聞いた時、私はそういえば、電話の女子高生の名前も咲村出会ったことを思い出した。
 この付近で咲村という名前もそう無さそうだし、姉弟かもしれない。

――泣くこと、できましたか?

 あの言葉は、そういうことだったのだろうか。
 行方を晦ませた兄弟の動向が不明であり、そしておそらくは何かに巻き込まれてしまった、イコール死を連想させる言葉を受けてしまったのかもしれない。
 しかし彼女は泣けなかった。両親が涙を流す中で自分だけはっきりとした反応が取れなくて、混乱していたのかもしれない。
 憶測の域は出ないが、私に電話をした理由としては、十分かもしれない。
 それにしても、こんな開けた河川敷で姿を消すなんてことがありえるのだろうか。平日とは言え子供の遊び場にもなっている場所だ。川も膝までの浅いものだし、溺れて流されるなんて、少なくとも体のできつつある男子高校生ではあり得ない。
 ならば、誘拐? だとして彼はここをよく通っていたのだろうか。連れ去るとしたならそれなりの準備と計画が必要にはならないだろうか。いや、これだけ大胆な場所だからこそ誘拐は成功したという見方もあるかもしれない。しかし何故少女や子供でなく男子高校生を選んだのか。
 なんにせよ奇妙な事件だ。その奇妙さ故にテレビで取り上げられたのだろう。ニュースとしては中々上質なものであるように思えるし、マンネリ化する不祥事の中で一際新鮮に映る。
 ともかく、出勤した際に咲村に声をかけてみるのもいいかもしれない。少しでも私の言葉で彼女が救われた気持になるならば……。
 食事を終え、シンクに食器を移すと蛇口を捻った。スポンジを二、三度握り締めてみると洗剤がぶくぶくと白い泡を吹く。トマトソースで汚れた皿を洗ってシンク横に布巾を広げて皿を置く。泡立った手を水につけてみると、思った以上にその水が冷たくて驚いた。骨に滲みる様な痛い冷たさだが、心地良くも感じられた。
 痛みに対して気持ちいいという感覚を覚えるのは、どうにも良い物には思えない。本来痛みや苦しみは身の危険を知らせる為のものだ。間違って命に関わる傷を負わないように、自身の身体が傷つくことを恐れるようにプログラムされた結果生まれたものであり、進んでそれを好むなんてことはおかしい。
 そう頭の中では思っているのに、この凍みる感触にこのまま浸っていたくなる。自分の感覚が麻痺していない証拠のような気がして安心する。自傷行為からこんなものを得ることになろうとは、私は自嘲気味に笑みを浮かべると、蛇口を絞めた。濡れた手から雫が落ちて、排水口に消えていった。
 再びテーブルに戻ると、ニュースは終わっていた。タレント達がひな壇に座って騒ぐバラエティ番組が始まる。他のチャンネルも同じで、私は溜息をつくとテレビを消した。
 ソファに座ってもどうにも落ち着かない。特に眠気も無いし何をするにも微妙な時間だ。
 水槽に目を向けてみるが、魚は未だに陰に隠れてしまっているようで姿は見えない。餌にも手はつけられていない。桃村は確かに「特に餌に関しては問題無い」といったが、これだけ見向きもされないと実は好みがあるのではと不安に思ってしまう。
 水槽から部屋に視線を移す。あれから、部屋が広く感じるのは、勘違いでも無いのだろう。
 引越しも考えた方がいいかもしれないなあ、とぽつりと漏らしながら水槽に背を預けてみる。ケース越しの水の冷たさと、エアーポンプの振動が丁度いい。ブルブルと振動が頭に伝わる。
「子供、やっぱり欲しかったかな」
 何も考えられなくなる程の忙しさが欲しい。そう思うと途端に葬儀の前後の慌ただしさが恋しくなった。時間が有り余ると頭に意識がいって、瞼に妻が映る。
 こんな私の為に妻はこの魚を残したのだろうか。しかし――
「こんな魚じゃ全然満たされないよ」
 そう、結局何があっても私は満たされない。気を紛らわすことが出来たとしても、結局それは事実から目を背けているようなもので、やがて凶暴な現実は牙を私に牙をむく。逃亡する姿を今、奴は笑いながら見ているのだろう。
 目を閉じた。瞼の裏に妻の姿が浮かぶ。
 彼女は私に顔を寄せると、そっと頬に触れた。冷たくて柔らかな感触が心地良い。手を握り締めると、妻は嬉そうに顔を綻ばせて、それから額にキスをしてきた。恥ずかしさと快楽の入り混じった感情の扱い方が上手く分からなくて、私は思わず唇を噛み締めてしまう。
 ほら、今だってこんなにはっきりと感じ取ることができる。私にとっての幸福は、これであって、他に在るわけなんてない。
「どうして、君が死ななくちゃいけなかったんだ」
 感情が、ほろりと溶けたのを感じた。

『×××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××』

 私の呟きの刹那の出来事だった。
 ノイズが走ったような耳障りな音が鳴り出した。エラーを起こしたコンピューター、バグに遭遇して乱れたまま止まったゲーム。それらが起こす、『不具合が起こった』事を警告するような音だ。
 慌てて両手で耳を塞ぐが、それでも音は構わず大音量で私の中を駆け巡っていく。何処かから鳴っているわけではない。原因はともかく、このエラー音は私の『中』から鳴り響いているようだ。

 脳が揺さぶられる。

 呼吸が上手くできない。

 上下左右の感覚が全部吹っ飛んだ。

 硬く瞑った瞼の裏に映る妻の姿が、砂嵐に掻き消されていく。

 やめろ、やめてくれ。呻くように、助けを乞うように吐き出した言葉と共に床を転げまわる。頭の中で何かが蠢いて、そいつが思うままに私の事を貪り、蹂躙している。エラー音は鳴り止まず、私を嘲るようにして響き続けている。
 何の冗談だ。これまで何一つ身体に異常が発見されたことは無い。脳に何か爆弾でも抱えていた? だとしたら何かしらの異変で見つけることができたのではないか。いや、しかしここ暫くの忙しさにかまけて自己管理ができていなかったのも確かだ。だからといって、ここまで激しい、そう、それこそ死をイメージさせるような激痛と耳鳴りに遭遇することはあるのだろうか。
 激しい痛みの中でそこまで考えてみて、私はふと自分がこの状況に「死」を連想していることに気づく。この苦しみの果てにあるのが死なら、無様な終わり方ではあるが、しかし……。

――少なくとも、死ぬことで妻とまた出会えるかもしれない。

 ふと思いついたそれは、耳鳴りと頭痛の中でやけにハッキリと残った。
 やがて転げまわっている内に壁に強く身体を打ち付けてしまった。激しい痛みの後、傍の物がぐらりと揺れて、こちらに倒れてくるのが見えた。

――水槽。

 それが落ちてくる時間はコマ送りのように見えた。
 薄く開かれた目から、揺れる液体が見える。敷き詰められた砂利が傾いた方へと移動していく。何もかもが私に向けて傾いてくる。
 その中で、あの魚だけが留まっていた。ヒレは穏やかに動き、先端の赤い尾ヒレもまたのんびりとした風に漂っている。走馬灯の様に時間の経過が麻痺した中で、その青い魚だけがまともに動いていた。
 その中で、私は妻の名をそっと呟く。もしかしたら、早い再会になるかもしれないな、と自嘲してみると、どこか安堵感を抱くことができた。

 私の意識は、そこで途絶えた。


       

表紙

硬質アルマイト 先生に励ましのお便りを送ろう!!

〒みんなの感想を読む

Tweet

Neetsha