遠い記憶が曇天の向こう側にぼやぼやと漂う。
『わたし、こんなの、やだ。これ、いらないよ』
《私》がそう言うと、両親はひどく顔を歪めた。男は怒りに身を任せて激昂し、女はその場に膝をついて泣きじゃくった。
『でも、いらないもん。どうして? お金がいっぱいかかるんでしょ? いやだよ、いやだ』
《私》は頑として退き下がらない。よっぽど嫌なのだろう。その無垢な瞳を爛々と煌めかせ、二人に訴える。
『いやだよ。こんなことにお金をつかうのはやめて。お洋服が買えなくなるのはいやだ。ごはんのおかずが少なくなるのはいやだ。いやだよ、やめて。こんなのを育てるためにお金をつかわないで』
そう言って、《私》は足元に横たわる肉塊に目を落とした。
とても醜い形をしている。
首はあさっての方向に固定されてもう動かない。腕も、足も。まるで極寒の地で震えるかのように四肢をぎゅっと引き寄せて、一生そのままだ。
『いやだ、いやだ』
醜い肉塊を見下ろしながら罵倒する。すると次の瞬間、そいつはその淀んだ両目で《私》を見た。ぐろぐろと濁った瞳だ。その瞳に見つめられるとそのまま引きずり込まれてしまいそうな、そんな腐った黒だ。いや、比喩ではない。気が付けば《私》の体は本当に吸い寄せられていた。拘束されたように体は動かない。声も出ない。何の抵抗もできぬまま、その漆黒の瞳に引きずり込まれてゆく。実の弟の瞳が放つ、その濁った深淵に。
――目が覚めた。
大西佳那子は布団を蹴飛ばすようにして飛び起きた。呼吸は五十メートル走の後のように乱れている。背中は百メートル走の後のように濡れている。
はぁ、と深く息をついて目を閉じる。右手を額に当てると、か細い血管がびくんびくんと脈を打っているのが感じられた。少しずつ、落ち着く。額と右手の冷や汗がぬめりと混じり合ってその境界も解らなくなった頃、呼吸はいつもの調子を取り戻していた。
もう一度、深く息を吐いた。深く、深く。体の中の毒素を全て絞り出すように。
罪悪感に身を苛まれるのは、どうしてだろうか。今日見た夢は、過去への回帰ではない。掴み損ねた選択肢への羨望だった。大西佳那子は、言ってはいない。たとえどんな姿形であろうと自分達の息子だと、健気に身を尽くす両親を前にして、それを批判するようなことは言えなかった。だが、こいつさえ、いなければ。そう思わない日も一日たりともなかった。現に大西佳那子は
どうやら今日は特に気が滅入っているようだ。
血に塗れた下着もその一因だろうか。ティッシュで股を抑えて立ち上がる。