猫のミーコの鈴の音を追って、居間を出て、我が家の庭にたどり着くと、ツツジが咲きはじめていた。深緑の葉たちに縁取られて、薄桃色の花が、四〇か五〇輪ほど、よく晴れた太陽に照らされている。庭と言ってもいまやツツジしか咲いておらず、他はぜんぶ雑草だ。率直に言って、荒れ果てている庭だと言ってもいい。それでも泰造はしばし飼猫のミーコを探す事を休憩して、色あせた縁側にあぐらをかきツツジを眺めることにした。
郊外に構えてある我が家であるが、平日の昼間は特に静寂である。ミーコの首輪に取り付いている鈴の音は、今も幽かに聴こえる。この音を想像で追いかけてみると、おそらくミーコは今、仏壇の間に居るのではないか。泰造はそう見当をつけたが、縁側から立ち上がろうとはしない。あれだけ元気なら、まだ昼の餌はやらなくてもいいだろう。それに猫というのは、腹が空けば向こうから媚び擦り寄ってくる生き物だ。それならば、今まさに開花したばかりの、瑞々しい薄桃色の花々を見逃さず眺め鑑賞するほうが、ものごとの順序として先のはずだ。
我が家の庭にはもうツツジ一本しか植わっていない。五年前まではスズランとかチューリップとかが百花繚乱の様相を見せていたのが、もう全部枯れてしまった。娘の美登利はちゃんと世話をしないからだと怒っていたが、俺なりに頑張って維持しようとは思っていたのだ。と、泰造は二年か三年前の正月に娘が帰省したときのことを思い出して憤慨した。しかしそんな憤慨も薄桃色のツツジが溢れているのを見ていると、すぐ霧散してしまう。次に美登利が帰省してくるのは盆か。それまでにまた何か庭で育ててみようか。と考えたときに、泰造は右脚に温かい温度を感じた。いつの間にか側に寄ってきていたミーコが、その小柄な黒い身体を、泰造の脚にこすりつけてきたのだ。温かい身体をこするたびに鈴の音が鳴って、ぐっと顔を押し当てたあとミーコは猫なで声を鳴いた。餌をよこせと催促しているのだ。毎日元気に家じゅうの障子と柱に引っ掻き傷をつけてきてから、飯を寄越せと寄ってくる。もちろん散々に破られた障子を直すのも飯を持ってきてやるのも俺の役目なのだ。まったく手のかかる生き物だ。美登利はほんとうに手のかからないよくできた子供だったというのに。泰造は白髪の増えた頭をかいて立ち上がり、猫の餌を置いてある食卓へ向かった。定年退職後の泰造の一人きりの隠居生活は、五年前に他界した妻が亡くなる一年前に買ってきた猫に引っかき回されつづけている。
スーパーで出来合いの晩飯を買った後、切らした猫の餌をペットショップで手に入れた。ペットショップの若い女の店員は愛想がよく、いつも俺のことを「おとうさん」と呼んでくる。若い女が老人をそう呼ぶことは知っているが、いつから俺はおまえの父親になったのだと毎度思う。言いはしないが。そこからしばらく車を走らせている間に、やはり庭で何か育ててみようという気分になって、俺はガーデニングの店に向かった。盆に美登利が帰ってくる前に、なにかもうすこし庭をにぎやかにして迎えてやろうという気になったのだ。妻に連れられて一度だけ行ったことのある店だ。妻の行きつけのガーデニング店だったらしい。駐車場に車を止めて、店の正面に回ると、店は昔寄ったときのままの姿に見えた。焦茶色な木目調の落ち着いた店の外装に、まとわりついたなにかの蔦から黄色い花がいくつか咲いている。風通しのためか、店の戸は広く開け放たれてたくさんの花の鉢植えが軒を並べている。
「ごめんください」
泰造は店の中に足を踏み入れ、そう呼びかけるが、しんとして反応がない。高い上空のほうからセスナ機がよく晴れた空を横切る音が、遠く聞こえた。
「ごめんください」
もう一度呼びかけると、
「はい、はい」
としゃがれた声が聞こえて、いくつもの鉢植えの向こうからエプロンをつけてバンダナを巻いた小柄な老婆が現れた。腰が曲がっているので、机の上に鉢植えを置いたようなところでは、背の高い花に紛れて姿を隠れてしまう。
「ごめんなさいね、耳が遠いものだからね」
「あの、なにか今から育てやすい花がないものかと思いまして」
「はい、はい、育てやすい花、ね。おうちの中で育てるの？」
「いえ、庭で。なにか植えようかと」
はい、はい、庭でね、と老婆は復唱して、一度よたよたと何かを探しに行ったと思ったが、しばらくしてメガネをかけてまた泰造の前に戻ってきた。じっと目をこらして泰造を見つめてくる。
「あの、なんでしょうか」
「あなたもしかして美智子ちゃんの旦那さんかい？」
美智子というのは、妻の名前だ。しかしこんなところで尋ねられるとは思わなかった。
「えっ」
「そうに違いないよ、あたしゃ一度見た人の顔は忘れない性分でね。もっとも最近は呆けてきちまって、昼ご飯を食べたかどうかも覚えていないのだけど」
と言って老婆はけらけら笑って、笑いすぎてむせた。それを見て泰造も苦笑してしまう。
「ええ、たしかに俺は美智子の夫です」
「だろう？美智子ちゃんは元気かい？」
「いえ、五年前に。病気で」
老婆はあらぁ、と言って、なまんだぶなまんだぶと手を合わせた。
「まだ若かったでしょう、残念ねぇ」
それから老婆に育てやすいというペチュニアという花の苗を貰って、泰造は帰宅の途についたときには、もう夕方だ。途中で公園の横の赤信号につかまった。ふと視線をやると、公園には、星の数ほどあるのではないかと思われるほどたくさんの赤と白のツツジが咲き乱れている。壮観である。また、ツツジを観光しようとたくさんの人々が公園を訪れているようだ。もう夕方だというのに、まるでお祭りのようににぎやかだ。ここの赤信号は一度捕まるとかなり長い。ぼんやりとツツジと人々の流れを眺めていると、見知ったような姿が公園に入っていった。いつも俺を「おとうさん」と呼んでくるペットショップの女の子だった。いつも見慣れたペットショップの制服とはうって変わって、とても女らしく飾り立てている。隣に寄り添っているのは彼氏だろうか、若い男と連れ添って、たくさんの咲き乱れる紅白のツツジの中へ入っていった。ほんとうにたくさんの赤と白の輝きの中へ。
いつの間にか信号は青になっていた。猫のミーコも腹をすかしているに違いない。
帰ろう。赤と白の混じった、薄桃色のツツジが咲く我が家へ。妻との思い出の店で購入した花の苗も育てて、そして、美登利が帰ってくるころには以前のような美しい庭になっているといい。
